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精神分析

見えないもの

河口湖のフジヤマクッキーチーズケーキガーデンのお土産、嬉しい。太宰治ゆかりの地でもありますね。大人になってからいった河口湖はとても楽しかった。何度かいったけどまたいきたい。とてもきれいな和菓子をおいているお店もあるの。名前を忘れてしまったけれどはじめてその和菓子を見たときは釘つけになってしまった。すごい技術だ。

私はきれいとか汚いとかいろんなふうにいわれる心とそれこそそんな風にしか表現できない言葉を使用して関わっている。そんな風にしか、というのは私の限界の話でもあるけれど。

群像』2022年10月号(講談社)で連載されている山本貴光「文学のエコロジー」はすでに第8回。第6回が芭蕉の句をひいた回だったか。第7回はいつの間にか過ぎていた。この連載が始まったとき満を持してという感じがしてとても楽しみにしていたのに早々に挫折した。山本さんの文章は情報量が多くて、それについていきたいという欲望を持ってしまうとあっという間にそうなる。多分相当の読書好きでない人でなければみんなそう。でも大丈夫。そのうち本になるだろうから。私は第2回で早くも一度挫折。バルザックの『ゴリオ爺さん』を取りあげると知り読んでから読みたいという欲望をもってしまったのがいけなかった。「哲学の劇場」主宰の山本貴光さんと吉川浩満さんが紹介してくれる本は全部読みたくなってしまうから困る。

そして『ゴリオ爺さん』を読み終える頃には連載は数ヶ月先へと進んでいた。で、芭蕉回で復帰したけどいつの間にかまた1ヶ月あいていた。でもまあ『ゴリオ爺さん』は山本さんのどこへ行ってしまうのだろうという宇宙へ向かう際限のなさと違って、人間社会というちっこい世界での飽くなき欲望(多くは金金金)の話で欲望に負けやすい私には面白かった。バルザックも相当変な人(大雑把すぎ)だったらしいけどさすが生み出される登場人物たちの豊かなこと。ゴリオ爺さんは本当になんていうかめっちゃかわいそうで今の言葉でいえばやばい(これも古いかも?)。私、もしゴリオ爺さんがカウンセリングを受けにきたら相当やばいなあと思いつつとっても愛しく感じると思う。でもどんなアドバイスしてもどうしてもやってしまうものはやってしまうだろうから「あらあ、また」「それは若者言葉だと“やばい”ってやつかもです」とかいって時々一緒に静かに笑ったり娘に対する想いをやば愛しく感じつつ彼に近づく死を想いながら聞き続けると思う。

「自分、やばいですよね」<そうかも>

「めんどくさくて」<自分が?>「そう(笑)」

よくあるやりとりだ。

さて今回、山本さんが取り上げたのはニャンと(こういいたくなる気持ちわかると思う)ホメロスの叙事詩『イリアス』。でもかえってよかった。自分で読めるとは思えないから原作にいかず素直に連載を読みました。今回のテーマは「「心」という見えないものの描き方」。ほんと、これどうしたらいいのかしら。これというのは「心」。どうやって言葉にしたらいいのでしょう。毎日の苦悩。哲劇のお二人の共著『脳がわかれば心がわかるか 脳科学リテラシー養成講座』(太田出版)はこれもこれだけの文献をよくこの分量でしかもこんなに読める形でというすごいマップ&ガイド。その204ページに斎藤環を援用して「なにか大きな事件や犯罪が起こったときに新聞やメディアなどに駆り出されてくるコメンテーターは、昔は多くは小説家でした。小説家こそが人間を描くスペシャリストだと考えられていたからです」とある。1980年代以降はそれが心理学者や精神科医、社会学者が重宝されることになり、その後そこに脳科学者が仲間入りしたそうだ。

今月号の「文学のエコロジー」は言葉のみを使う治療である精神分析を実践する私にとって「ここに戻ってきてくれてよかった!」というものだった。自分では遡れないが考えたい部分。脳科学の分野のみならずどの分野でもその専門家と対話できる知識や考えを持つ山本さんが漱石を読み解く緻密さで、「心」という言葉の意味を一旦できるだけ空っぽな状態にして、そこからそれを再び立ち上げてみようとしているような感じがした。「心」に抱いている「意図」というものをどう考えるかが最初の課題になるような印象を受けたがこのテーマは次の号にも続く。ゆっくり時間をかけてほしいな、私のために(無理)。たった数ページの連載でも自分の課題と結びつけばその質量というのかなんというのかわからないけど私が感じる重みは増す。今日もこの見えないものと一緒にやっていくのか。うむ…。とりあえず寝不足をどこかで解消したい。夢で少しどうにかしたい。