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精神分析

パラドックス

なんか蒸し暑いな。除湿つけたり消したりしてる。梨がとっても瑞々しくておいしかった。夜の間に失われたものは色々あるだろうけどとりあえず少し取り戻した。

精神分析家のウィニコットはパラドックスをどうにかしようと思うな、とは書いてないけど

The paradox must be tolerated.

ってよくいう。母と子の間に存在する様々なパラドックスというかその空間をウィニコットは”potential space”とよんだ。正確な引用は時間がないのでしないけど私の言葉で一気に書いてみると、そこは存在しないのだけど存在する仮想領域で(すでになに言ってんだよという感じかしら。二次元とかVRを思い浮かべるのも悪くないと思う)potentialityという言葉がすでにフロイトの『夢解釈』から精神分析に登場しているように自由連想という方法はその潜在性を前提とすることで機能するのだと思う。つまりこの領域はコミュニケーションの領域であって主体は夢の中のあれって誰?というくらい曖昧で無主体といってもいいくらいかも。なのでそこで生じるのは単なる二者関係でもなく、単なる「今ここ」でもなくぼんやりした三者関係あるいは三角空間なんだと思う。

オグデンが2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊として出した

Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibilityのことをここで書いたときに触れたけど(なにを書いたか探すぞ。見つけた。こちら↓)

オグデンはウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直した。

この現在進行形がとても重要で、ウィニコットは特にこれを意識して書いた人だった。これはパラドックスを解消するというすっきりした方向を目指すのではなく、その曖昧さと混沌に混乱し病的になりつつもそこに居続けることで見出される希望みたいなもの、というか居続けること自体に見出されるその人自身の潜在性というものに光を当てているからだと私は理解している。

ということを書こうと思っていたわけでもないけどウィニコットのパラドックスに関する論文

The grammar of paradox: Deciphering Winnicott’s language theory

Ronnie Carmeli

を読んでいるからメモがわりということで。この論文はウィトゲンシュタインの言語ゲームとウィニコットの言葉の使用を絡めて書いているのでウィトゲンシュタインを勉強しながら読まなくてはで私には大変なのだけど言葉の使用についてはもっとも興味のあるところだからがんばれたらいいな。「がんばる!」と言葉だけでも言っておけばいいのにいえない自分なのがもどかしいですね。自分で言った言葉に縛られるなんていやだけどこうやって逃れられないものから逃れつつ。

ちなみにウィトゲンシュタイン『哲学探究』から引用がなされているので鬼界彰夫訳のこちらも参考にしている。あとは古田徹也さんの本とか。

それぞれの週末がご無事でありますように。台風にも気をつけて過ごしましょう。