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精神分析

間違い探しではなく

英国のエリザベス女王が8日、96歳で亡くなったとのこと。20歳の頃ロンドンへ行った。「女王の部屋はここ」と矢印が書いてあるバッキンガム宮殿のポストカードなどが売られていて日本だったらこういうのはタブーなんだろうなぁと思った。Netflixの『ザ・クラウン』にははまった。20代からこんなに長い間、動乱の英国を定位置から見続けた女王はチャーミングな人に見えた。精神分析もナチスから逃れ移住した英国で大きな発展を遂げた。フロイトの孫のルシアン・フロイトは女王の肖像画を描いている。受け入れてくれてありがとう、となんとなく思う。まず居場所を得ないことには精神分析自体が過酷な迫害と喪失を生き残ることができなかっただろう。ひとつの文化としての経験を受け継ぐのも私たちの役割のひとつと思う。私だったら精神分析を実践する立場として。若い頃はタヴィストッククリニックに憧れそこでの訓練を考えたがそうしなかった。私が英国を最も身近に感じるのは英国対象関係論を通じてだ。特にウィニコットに惹かれてこれまでやってきた。今年は学会でウィニコットサイドからビオンとウィニコットの理論のオリジナリティを検討する役割もいただいている。ウィニコットはエリザベス女王からナイトの称号をもらっていると思うがそれって何に対してなのかな。よくわからない。なんにしても受け継がれてきた文化、そして戦争を知る世代の眼差しを丁寧に追うことが大切だな、と改めて思った。そう思うと私はまだ何にも馴染んでいないというか知らないことばかりだな。人間であることには馴染むも知るもなにもそう分類されてるしそれでやってるとしかいいようがないけど。毎日異質なものと出会っては驚いたり戸惑ったりどう付き合ったらいいかわからなくなったりしながらやっているけど間違い探しではない仕事につけたのはよかったんだろうな、多分。

牟田都子『文にあたる』(亜紀書房)は校正のプロである著者がその仕事を通じて出会い、経験してきたことをそれこそ細やかで丁寧な筆致で共有してくれるエッセイ集だ。たくさんの短いエッセイが織り重ねられたこの本はどこからめくってもいい、と著者が書いている。「本を読むことは本来自由な行為です」と。

お言葉に甘えて、というわけではないが一気に最後のエッセイ、「おわりに」の前のエッセイに飛びたい。「天職を探す」と名付けられたこのエッセイは著者が現在この仕事に感じているであろう喜びとそこに至るまでの数えきれない逡巡を想像させるおはなしでじんわりきた。多分、この本を読んだ読者は少しだけ誰かに優しくなっていると思う。丁寧に時間をかけることに価値をおけること、そこで生まれ育まれるこころのこと、それを想像力というような気がした。著者は「いまでもこの仕事が天職だとは思っていません」と書く。このエッセイの冒頭では影山知明の文章が引かれ、天職は英語ではcalling、つまり「呼ばれる」ものなんだということが書かれている。「誰からも必要とされなくなるかもしれない」という可能性も胸に現在進行形で続ける仕事、それが「天職」であるかどうかはこちらが決めることではなさそうだ。これから先のことなんて誰にもわからない。受身的に紡がれる今を織り重ねていく。エリザベス女王の人生もそれに近いものであっただろうか。歴史における「正しさ」は揺らぎやすい。間違い探しではないあり方で間違いや失敗と出会っていけるだろうか。わからない。できたら、と思う。