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精神分析

その前に今日を

虫が透き通るような声で鳴いている。月はもう見えなかった。

「随分、子どもっぽいやりとりしてるんだなぁ」と思ったけど言わなかった。親密な関係だからこそ生じる退行というのが難しく、ちょうどよく受け止めてくれる相手でちょうどよく出せる自分を確認して安心している場合もあるだろう。依存は「私は知っている」という形をとりやすくでもそれを承認するのは常に他者なのでその「自分」はとても脆い。私はこれに関しては受け手の態度の方に関心が向く。思い切り依存の形をとらなくても「私とあなたは同じことを感じているはず」という前提のもとに関わってくる相手に「あなたは私の誰ですか?」とか嫌味をいって遠ざけたくなる場合もあれば、同じようなことをいわれて多少めんどうでもちょっと気持ちよかったり「嫌われたくない」が優先される場合もある。自分なんて曖昧で勝手なものだ。

昨年だったと思うが、なぜだったか読み始めた『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)がたいそう面白く、日記というのは興味深いな、と思っていろんな人の日記を読んだ。そして最近「交換日記」という文字を見てたいそう懐かしく、夕暮れどき、下北沢の屋外で秋田の地ビールを一杯呑んだあと本屋へ寄った。コロナ禍で始めた店だそうで「大変でしたね」と本当にそう思っていったもののなんとなく後悔した。あった、交換日記。奥の暗がりに。いざ手にとってみたらなんとなく魅力が消え失せてしまいそばの俳句や短歌の棚をぼんやり眺めたり読みたいと思っていた『群像』2022年10月号(講談社)をパラパラしたり何を見るでもなく本棚に沿って歩いたりした。「あ」と知り合いの本を見つけた。少し意識がはっきりした。パラパラした。これは内容はともかく(内容もいいけど)装丁が本当にいいよな、と改めて思った。するとそのそばの本たちがさっきより鮮やかに目に入ってきた。「ああ、対話」と思う本が数冊あった。「交換日記」だって「対話」だろうになぜこちらに惹かれたのだろう、と後から思った。

イ・ラン/いがらしみきお『何卒よろしくお願いいたします』(訳 甘栗舎、タバブックス)を読みはじめた。数冊目に目がとまった本だった。

2019年11月、まだ震災の痕跡も残るいがらしみきおのオフィスに彼を敬愛するイ・ランが訪れたことをきっかけに「コラボ」という「対話」がはじまった。韓国と日本それぞれで刊行された本書は往復書簡の翻訳であり、2020年春から夏、秋、2021年冬、春、2021年7月30日にいがらしがだした手紙で終わった。あとからの刊行となった日本版には今年2022年2月に二人が交わした手紙も収められている。出会った時はそうでなかったのに二人のやりとりはコロナ禍と重なった。

最初のイ・ランの手紙からすごいインパクト。採用面接の話、と書けば思い浮かぶような内容では全くない。各手紙に見出しのような形でその日の手紙の一文が引用されているのだがこの手紙の見出しは「神はなぜ金銀財宝が好きなのでしょうか」である。いがらしからの最初の返事の見出しは「たぶんAIを作るのは神になりたいということでしょう」。どんなやりとりなんだ、と思わないだろうか。

二人は手紙の間にもLINEの翻訳機能を使いながらやりとりをしていたという。言葉の違いもある。昨日取り上げた鶴見済のものの見方もそうだが、彼らは今ここ自体を変化させることに希望など持っていないようにみえる。ただ、別の場所、「今とはちがう世界」があることを願うとかいうレベルではなくそれがあると普通に思っている。死ぬまで生きるだけの場所である現実に対してドライであると同時に怒り、失望、諦めにもじっと身を浸し、相手のそれらにも心を揺らすことができるのはその存在のおかげかもしれない。

様々な話題はどれも興味深く強い印象を残すが後半にデヴィッド・グレーバーの本が軸となっているのも意外な感じがして面白かった。

途中を飛ばして2022年に久しぶりに交わされた手紙を読んでしまったのだが思わず嗚咽した。

自分って何?どうして生きなければならないの?私たちが子どもの頃、あるいは今も問い続けていることかもしれない。答えなどないからいずれ死ぬことだけを見据えて日々に身を委ねざるをえないのかもしれない。でもそれはあまりにも苦しいから誰かを使うのかもしれない。愛するのかもしれない。憎むのかもしれない。ひとりではいられないというどうにもできない現実があるから人との関係に支えられたり死にたくなったりする。それは仕方のないことだ。だからさらに何かを求める。終わりなき渇望と必要性の区別は難しい。

あとでまだ読んでいない途中の季節に戻ろう。その前に今日をいつも通りはじめよう。彼らのやりとりによって動かされた部分をとりあえず淡々と胸におさめつつ。