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精神分析

友と食事

外が静か。夜中、強い雨の音もしていたけど。今日もその繰り返しだろうか。九州のみなさん、どうかお気をつけて。

誰かとごはんを食べることって特別だと思う。その特別さを示す場面を書き並べることはたやすいけどいちいち書くほどのことでもない。それがさまざまな事情でかなわない人のことを思えば書くまでもない。もしかしたらそこに自分もいるかもしれない。誰かと食事をすることは経済的な事情はもちろん関係性の象徴でもある。

好きな人が別の誰かと食事をしていた。息をのみ涙を堪え引き返す。

NetflixでみていたNYガールズ・ダイアリーでもそんなシーンがあった。おおむね関係性がわかってからは流しているだけみたいな感じだが同性の友達はいい。身体のことから共有できる。恋人に言えないことをぶちまけられる。すでにガールズではなくてもここに描かれる様々な痛みはいまだに経験する。

10代後半、20代の頃からの友達とのLINE。一年に一度会うか会わないかのような、コロナ禍では一度も会っていない彼らと二、三往復のやりとりをして仕事に戻る。「元気?〇〇いく?」「いくの?様子教えて。」「(OKスタンプ)」みたいな感じで。

台風や地震のときも数日後に「この前大丈夫だった?うちの職場停電したよ」「大変だったね。こっちは大丈夫だった。」「よかった。無事に過ごそうね」「うん、お互いに。(ありがとうスタンプ)」とか。

赤ちゃんの頃から知っている子供たちもすでに写真を送るような年齢でもない。お互いの日々のことなんて全く知らない。でもいつも心の中にいる。彼らとも何度一緒にごはんを食べただろう。大学でお互いの家で旅先でお互いの中間地点で。

はあ。友達のことを考えていたら元気が出てきた。彼らにも元気でいてほしい。誰にも言えない。でも彼らになら。一緒にごはんを食べられるのはまだ先だろう。会ったばかりの相手に感じる孤独も彼らがいれば少し別の形になる。違う色に変わる。

誰かと食事をすることについてその特別さとそれゆえに感じる孤独について悲しく苦しく思うところがあったから書き始めたような気がするけど友達のこと考えたら必要なくなったみたい。それだけでいいことって色々あるね。ありがとう、友よ(スタンプ送る気持ち)。

今日もみんなが無事でありますように。色々あっても回復できますように。どうぞご安全にお過ごしください。