玄関を出ると金木犀の香りに包まれる。駅に着くまでにも何度も。行く先々でふわっとかぶさってくるその香りを見上げ小さなオレンジを探す。不思議とそばにはいない。あちこちを見上げながらふらりふらりと歩く。いない。かと思えば太陽の光にオレンジが薄くなっただけですぐそばにいたりする。毎年「金木犀」とつぶやく友人がいるのだけど今年はすごく早かった。同じ都内に住んでいるはずなのに、と私もその香りを探した。でも出会えたのはここ数日。待ち望んでいる人の感覚は鋭い。
昨日、元陸上自衛隊員の五ノ井里奈さんの訴えが認められたというニュースを見て一気に涙が出た。まだ20代前半の女性がここまでしなければならないこと(ならなかった、とは書けない)、そして今後も彼女に投げかけられるであろう言葉の数々をたやすく想像できてしまうことがとても悔しく悲しかった。
女性の性が蔑ろにされる事件は彼らが声をあげない限り事件とはならない。目撃者が多数いたとしてもだ。いじめもそうだろう。弱い立場がなぜ弱いか、なぜ弱いままか、といえば声をあげても聞いてもらえないからというのがひとつだろう、というか実際は弱い立場と言われる人たちが全ての面において弱いわけであるはずはなく、ただ、それ以外を考える力をどんどん弱められていった結果、分別できるほどの差異が生じ、それを二分法で言葉にしたい人にとってはこう、ということかもしれない。私もそうしたい人かもしれない。本当はそうしたくないのに。
AさんとBさんというように個人対個人であったとしてもそこにはたくさんのスティグマの芽がすでに撒かれている。たとえば女性と男性、貧しい人と裕福な人、子供がいる人といない人、知識のある人とない人、声をあげやすく、かつ声を聞いてもらえやすいのはどちらだろうか。
どちらだろうか、と聞かれたらパッと答えてしまうだろう。やはり私たちはとても二分法的な世界でその差異を自明のものとして過ごしているように思うがそうでもないだろうか。私はやっぱりそうみたいだ。自分で自分をどちらかの立場にたやすく振り分けてしまうことにも自覚的でありたいのだけどそれもいつも難しい。
五ノ井里奈さんのニュースの続報をみるたび胸が痛む。これは「解決」などではない。最低限これだけはしてもらわねば個人の尊厳が守られないという水準の行為だと思う。その背景に様々な事情が透けてみえたとしても「弱い立場」の人の言葉がそうではないと見なされている人の行動を導いたという事実は大きい。五ノ井さんが実際に何を感じ何を思っておられるかは全くわからないが、彼女がここまでして守ろうとしたものが本来なら当然守られるべきものであったと考えるとまた涙が止まらなくなってしまう。
私も個別に彼らと会う仕事を続けながらずっと思っていつつなんの寄与もしていないのでいつも口だけと言われても仕方ないが書く。
今回に限らずだが、女性の性が蔑ろにされる事件のときに、当事者がTwitterアカウントなどを用いて個人として戦うのではなく「これは女の問題であり男の問題でもある」と当事者を矢面に立たせないための男女関係ないし集団を作り戦うことはできないだろうか。もちろん支援団体や支援者はすでにいるし私もそのひとりだがそれより早くこういうときに素早く集結して当事者をどうにか弱体化させようと躍起になる何をいってもいいと思っている人たちからの注意を分散させることはできないだろうか。そのときに女性だけではやはり難しいと思う。「弱い立場」として勝手にまとめあげられ弱体化を狙われるだろう。経験的にそうだがどうなのだろう。
私はこういう考えなので五ノ井さんご自身のツイートや関連のニュースをRTする気になれない。彼女に何かを任せてしまう感じがするからだ。そこに注意を集めてしまうことに加担したくないからだ。孤独ではなく、でもひとりでゆっくり考えたり何もしないでいられる時間と場所、それこそ金木犀の香りに気づき、ぼんやりその姿を探せるような余裕を大切に思うから当事者がそれを得られる方法を考えていきたい。
それぞれの戦い方があり良い悪いの話ではない。私だったら、ということだけ書いている。私は反射的に動くと失敗するので時間をかけて動きたいのだ。だからまずはこんな感じで考えている。でも誤ったパラフレーズはよくないので日々会う人たちと話し合ってみる。今後も彼女に力をもらい語る人が出てくるだろう。この戦いは終わらない。間違いなく終わらない。だから助けてくれる人がたくさん出てくるといいと思う。異なるパースペクティブから状況を照らしいくつかの形に解体し時間との兼ね合いで効果的に動ける部分を同定していく。そのためには様々な人が必要ではないだろうか。いつも考えてしゃべって心揺さぶられるときだけ思い出すだけみたいになっているのは現状維持に加担しているだけのような気がしたので書いてみた。