読書会が終わるともう深夜。オンラインなのでそのまま寝ることもできる。ということでなにもせずスマホをいじりながらゴロゴロしてそのまま寝たり起きたりした。
毎日定期的にやってくる人たちの話を聞きながらいろんな気持ちになる。
精神分析には「癒し」とか「相手を信頼して」という言葉はフィットしないという話をした。彼らは世界に対する猛烈な怒りや不信感を症状に出したり世間とのズレでみせたりしながらどうにかこうにかやってきた人たちだ。治療にきて自分のうまくいかなさの理由でもあるこれらに気づくと治療は緊迫感を増す。治療者は投影先となり追体験をさせられ巻き込まれていく。そうなるようにある程度意識的なコントロールを手放して彼らから発せられる言葉とそこに潜む情緒に自ら侵されにいく。「患者はカウンセラーを信頼しているから話せる」という意味での「信頼」は精神分析とは馴染まないと読書会でいったが、カウチによる頻回な自由連想という設定に対する信頼ならある。そして患者がこの設定を信頼し時間を守りお金を払ってくれることを治療者は信頼している。すべきことは多くない。非論理的で理不尽で曖昧で耐え難い世界を言葉で再現し転移状況として治療者を相手に出来事を反復するために精神分析のシンプルで強固な設定はある。そこに何か「癒し」のような「良い」ものを与えるという発想は生まれにくい。それはある程度距離を保てる関係だから生じるものだろう。手も出さない。ものも渡さない。使うのは言葉のみだ。相手に合わせる言葉ではなくてその人の言葉。といっても言葉はどうしても正しさや人目を気にしてとても不自由。言葉を自由自在に使用しているかのように見える人でも自分のことを語る言葉となればいつもの言葉はなんだったのだろうと自分で思うほど不自由。誰かに奪われたという体験になることだってある。精神分析の場では「治療者に」となり、自分が今の言葉を使う人にならざるをえなかったプロセスが反復される。ほとんど沈黙の中にいることもある。
言葉を奪われる。「気持ちをわかってもらえない」というのはその人の言葉が奪われている状態、少なくとも本人はそう感じているということの表現だと思う。本人がそう感じている。それがどんなに辿々しくても怒りに打ち震えながらでもほとんど叫ぶようにでも表現されるときやっと治療は動き出す。言葉をその人の乗り物として、あるいは言葉がその人を乗り物として治療が動き出しても辛いことばかりだ。でもこのときすでに私たちはこの「動いた」という感覚を信頼できるようになっている。ものすごく時間はかかったとしてもどこか別の場所へいけるかもしれない、それはまるで「癒し」にはならないが希望ではある。
今日も言葉が奪われている状態からはじまる。これから先もきっとずっとそうだ。でもなんとかやっていく。それはきっと変わることはない。どこまでも落ち込んでいくときに思い出される言葉が「ずっと忘れていたけどこんなこともあったな」と少し別の視点を回復させてくれますように、と自分にも願う。奪われては取り戻す。それは意識的に頑張ればできるようなことではないけれど相手とともにいようとするプロセスで何度も生じるはず。それを感じることができますように。辛いけどじっと身を浸すように今日も過ごそう。