カテゴリー
精神分析

ポテンシャル

南側の大きな窓を開けて洗濯物を干した。レースのカーテン、さらに洗濯物の向こう、向かい側のマンションのドアが開いて人が出てきた。お互い早うございますね。おはようございます。

重たい障害や疾患のある子どもといるとその限界を頭では分かりつつそのポテンシャルに驚くことが多い。進行性のものであってもそうだ。先日、朝比奈秋の「植物少女」を読んだと書いたが著者は医者だと聞いてなんとなく納得した。日々、病に触れていると注意を向けるところも優先的に使われる言葉も変わってくる。著者は小説を書き始めてから医者の仕事と一旦かなりの距離をとった時期があるらしい。「普通の」人が使う言葉の世界に戻ってくる時間だったのだろうか。「普通」と折り合いをつけた通じる言葉で語られたとしてもその原型が変化することは少ないだろう。精神分析でいえば原光景みたいなものだ。そこは善も悪も幸も不幸もないぐちゃぐちゃとしたどちらかというと暴力的かつ甘美な場だ。つまり性的な場だ。今は「性」と言葉はそういうものとして使われることは少ないように思う。文学作品を読めばそんな性は溢れているというのに。私が進行性の、あるいは回復や治癒の見込みはないといわれる障害や疾患を持つ人に感じるポテンシャルの源泉もそういった意味での性にあると思う。アンドレ・グリーンがラカン、フロイトに回帰しつつウィニコットを中心とするイギリスの精神分析家の理論を踏まえた情動を中心に据える議論を展開しているがそういうものを読むときも性をそのような性として「普通に」捉えることができないと議論はすれ違うばかりのように思う。対象関係論は対人関係のことを扱っていないということもできるがその実感は自分を脅かしつつも生かし続ける性の力を生々しく実感していないと意味を取り違えるかもしれない。その取り違いにさえ無意識という言葉で何かをいうことは可能なわけだが無意識という言葉をゴミ箱的に使うのも違うのでそういうものだとそのままにしておく必要があるのかもしれない。多くの具体的な出来事を思い浮かべながら曖昧なことを書いているがなかったことにしないための行為のひとつだ。今日もなんとかはじめよう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生