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精神分析

『ガラスの器と静物画』@東京オペラシティアートギャラリー、古田徹也『謝罪論』

今朝は箱根町強羅「ことほぎの木」の「箱根の坂 抹茶ショコラ」。すごく平らなお菓子なんだけど。美味しいわん。オレンジアールグレイと一緒に。この前、東京オペラシティアートギャラリーでやっている『ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家』を見にいってからガラスの器が気になっている。我が家にもあるし、しょっちゅう使っているけど。スウェーデン在住のガラス作家山野さんが画家とテキストでやり取りをし、そのイメージからガラス食器を作り、それを画家が静物画にするという興味深い企画。少し先延ばしにしてしまっていたが今回の展示もこのギャラリーの空間と光を効果的に使っていたもののような気がする。様々なガラスの器の小さな歪みや影がとても美しく私も写真を撮りながらゆっくりまわった。寺田コレクションもいつも面白いし行ってよかった。いろんな動きを少なめにしていると再読が捗る。私は政治のことはよくわからないけど戦後まもなくのことについて書いている文章に土居健郎がよく登場することに驚く。テレビはドラマや映画以外見ないがいろんな情報の読み方について本はとても勉強になるな。読んでいる本はTwitterにとりあえずあげている。本当はもっと乱読だけど一応全部読んだものだけあげている。再読でも全然覚えていなかったりするけどスピードは上がるから文章の構造とかには馴染んでいるのだろう。古田徹也の『謝罪論』を読み直したけど改めて読むとなんだかさらに重たいなと感じた。人の言葉の軽さにずっとずっと打ちのめされたままなんとか生活を続けている場合、謝罪の言葉は意味がないだろう。行為と言葉が自然にしっくりきている関係になければそこにある差異はすぐに嘘っぽさとして見抜かれる。傷ついた心でなければその差異も許容できたものの傷つきが積み重ねればそんな余裕はなくなっていく。言葉のひとつひとつが重みを増してしまう前に軽薄さを抑え誠実であることの大切さよ。古田徹也さんの本には戦後という言葉はあまり使われていないように思うが、言葉の問題を扱っている以上、そこに時代と国の状況が絡んでいないはずもなく、それらについて考慮したうえである言葉の使用について詳細に検討されていることがわかる。私たちは「戦後」という言葉も吟味し直す必要があるのだろう。自分の言いたいことのために軽々しく使ってはいけない言葉というものがあるのだろうから。今日は朝はゆっくりだけどゆっくりしすぎた。花粉も辛いけどなんとかがんばりまっか。