書評の仕事は謝礼がでるものだとしても(でないものもある)、書評のために使う時間や参考文献にかかる費用などを考えるとものすごい赤字である。それでも自分が読んで勉強したことをシェアすることには、それ以上の意義があると思っている。予算の問題でその本は買えない、という人にも少しでもその本のことを伝えたいし、精神分析に関していえば私は幸運なことに実践の場をもっている。なので精神分析実践の実感を伴う本であればそれを損なわずに捉えることはできると思う。だから、たいして得意なわけでもないのに依頼をいただいたらお引き受けするようにしている。
そもそも私は、どのような書評が読者を引き寄せたり、役に立ったりするのかよくわからない。身近な人に読んでもらったりはするが、彼らはだいたい臨床家であり、私が書いたものを読む前に私がいいたいことを大体つかめてしまったりする。
何年か前、『インターセクショナリティ』(パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲ著、小原理乃訳、人文書院)で、インターセクショナリティはポリグロット(多言語的な存在)であるため、私たちは複数の言語や言葉遣いで話す必要性が出てきた。」というのを読んだ。生きる社会によって使う言葉は異なる。そこの言葉を使わないとわからないことがたくさんある。まずそこから。同時に今の持ち物でできることをやる。言葉はすぐには習得できない。
今のところ、私は狭い世界に向けた書評しか書いたことがない。もちろんその外側にいる人たちのことを意識はしているが、私が使用している言葉はものすごく狭い社会でしか通じないものだろう。
土居健郎は『精神療法と精神分析』の「第3章 治療の方針と目的」で精神療法を一つの劇と見立て「劇としての精神療法」「筋書きとしての治療方針と目的」と書いた。土居は第一章でキェルケゴールを引用し、精神療法を演劇にたとえる発想はすでにしていた。土居はここまで「普通の人間関係」「精神療法以外の一般の医学的治療」と「精神療法」の区別をしたり、精神療法のなかでも精神分析と森田療法の区別をしたりしてきた。この章で、土居は、通常の劇と精神療法の似ている点、異なる点を検討する。土居は、精神療法の場合は、筋書きを心得ているのは治療者だけである、と述べる。通常の劇でも脚本家の頭のなかには筋書きがあるが台本があがってこないとかはあるかもしれないが。
しかし、治療者が筋書きをあらかじめ持っているとしても、相手が筋書きを知らない以上、具体的にどのようなやりとりが両者の間に展開されるか、初めから完全にわかっているわけではない、と土居は続ける。だから、治療者も患者も通常の劇における観客のごとき興奮を味わうことができる、という。
土居はここでもありふれた比較対象を選んだのに、そこに見出す差異に読者としてちょっと驚くし、発見した差異を吟味してみると別の形で差異が類似点に変わってしまったりする。この運動が非常にうまい。これはたぶんフロイトよりうまい。土居の文章は読みやすいときと読みにくいときがあるが、土居の書き方になじめば楽しく読める。
フロイトも類似から差異へ進むのはものすごううまいし、その語り口も面白い。でもフロイトの場合、それがすむと自説の展開へぐいぐいと進んでいくので「ちょっと待ってー」という気持ちになる。土居にはそんな気持ちにならない。土居は、比較対象のあいだを何度も往復して、境界線そのものをいつのまにかずらしてしまうのである。
私はこれを「言葉通じるとはどういうことか」という問いを持ちながら書いているが、それはまた時間をかけて。
東京はかなり曇っている。夜には雨も降るらしい。みなさん、無事に過ごされますように。今日もよろしくお願いします。

