朝は本当に目が見えにくい。鳥たちは今日も元気そう。大阪で買ってきた抹茶のお菓子と熱い緑茶。抹茶色は緑茶色と全然違う。この場合の「茶色」は緑だよね。ややこしや?
最近、なんとなく手元の村上春樹の本や対談をパラパラしたりしながら思った。春樹が書くSEXは、象徴的な、あるいは神話的な世界への入り口なんだろうな、と。河合隼雄との対談が思い出されただけかもしれないが、春樹の書くSEXを他者との愛憎のような、情動にまみれたものとして読むと、奇妙だったり気持ち悪かったりするのかもしれない。
私は、生々しさよりもむしろ、その無機質さに注目してみたい。身体的な関係が、そこで起きている出来事を何ら説明していないように思えるから。でも今は全くそんな時間ないので、思い出したときに少しずつ考えよう。
昨日、引用した、日本精神分析協会のジャーナルの「甘え」特集における北山修の論文の初出は、北山修(2010)「フロイト精神分析学との土居健郎の格闘あるいは抵抗について」『精神分析研究』54(4), 337–344である。英語版だと全文読めるのでそちらを提示した。
北山修は、自身の編著『「内なる外国人」 A病院症例記録』(みすず書房、東京、二〇一七)でこう書いた。
>無意識を理解するとは、内なる外国語に出会うようなものです。
「フロイトが言うようにこの「抑圧されたもの」は、まさに「自我にとっての外国、内なる外国に他ならない」のであり、自我による分割が起こっているのです(『続精神分析入門』)。
「内なる外国人」はうまく喋れないので、その拙い言葉はそのままではよく分からないので、「内なる外国語」を私がこの国の言葉で理解する際に通訳や翻訳が必要になります。
私の分割されやすい二重言語意識は、もちろん生来の日本語の「本音/建前」や、「話し言葉/書き言葉」「平仮名/漢字」に始まっていましたが、その臨床実践における気づきはこの外国における臨床から始まるのです。この問題の重要性は、海外で精神分析のことを学び、その実践を日本で行いながら、またそれを海外で発表したり、を繰り返すなら自然と生まれてくるものでしょう。内外の境界に立った先達として、フロイトに理解されなかったという「阿闍世コンプレックス」や、訓練分析に挫折した土居健郎の「甘え」の議論が、ここでいう「言葉の壁」に出会った例だと思うのです」
精神分析における外国語は単なる外国語ではない。精神分析における翻訳も単なる翻訳ではない。というか、「単なる」なにかであることなんてなにもないのかもしれない。
この論文は、結構読みごたえがあると思う。勢いがある。北山の土居に対する感情や欲望の分析から始まった思索は、エディプス的な父との上下関係、受動性と能動性の同時性、愛のヒエラルキーへと視点を増やしていく。村上春樹とは逆の方向だ。村上春樹は精神分析よりユングの心理学に親和性があったようだが、それもなんとなく納得できる。
北山の身体言語論において、比喩は、身体の体験と心理的な意味を橋渡ししながら分ける働きをする。身体の体験をあからさまに再現することなく、そこに別の意味を織り込む。北山は、言語交流による理解や誤解、境界や曖昧さを身体の言葉で語るプロだ。ただ、ここで土居の「甘え」もそうだよね、というのは短絡的すぎる、と自制。北山は、味覚、授乳、母親への依存、依存を受容してほしいという欲求などを、ひとつの発生論として結びつけている。これらは土居との議論の接続として挙げているが、北山が取り上げる心身両義的な言葉はもっと具体的で生々しい。比喩の背景に身体体験を仮定する北山の言葉遣いこそ身体に根付いている。また、北山の議論は、その身体体験を母親との授乳関係に限定する(精神分析の悪いところだと思う)ことには尽きない。父親の不在を強調しなくてすむ時代なんてくるのだろうか。北山は、土居との関係において、子どもの立場から、下から上へと自分の依存を受け入れるよう求める一方で、自らはすでに父の位置にある。北山は、日本の精神分析においても、日本の歌謡曲においても父的存在になった。多重の役割を担い、様々な場所に登場する父親は近いはずなのに遠い、ということもあるかもしれない。いるはずなのにいない、精神分析が扱う不在はこのようなものが多いように思う。北山ほど有名でなくても、男性が抱えざるをえない矛盾を女性がせわしなく世話することでワークスルーの機会をうばったり、先延ばししたりすることはたやすく想像できるだろう。このような世話のあり方もまた、北山自身のいう「自虐的世話役」と重なるものと思う。
ここまで書いてなんだか疲れてしまった。父の不在、なんて、今でもそこら中に発生している事態に気が重くなったのかもしれない。なので今朝はここまで。いくらでも書けそうなことは早めに区切りをつけるのが吉。文献だけあげておくので関心のある方はそちらを参考になさってください。
今日も頑張りましょう。
村上春樹・河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』1996年、岩波書店。1998年、新潮文庫
北山修(1982)『悲劇の発生論―』金剛出版 ※増補版は1988年、増補新装版は1997年
北山修(1988)『心の消化と排出――文字通りの体験が比喩になる過程』創元社。※新版は2018年、作品社
北山修(1993)『自分と居場所』(日本語臨床の深層:北山修著作集 第3巻)岩崎学術出版社
北山修(2010)「フロイト精神分析学との土居健郎の『格闘』,あるいは『抵抗』について」『精神分析研究』54(4),337–344
北山修編著(2017)『「内なる外国人」――A病院症例記録』みすず書房

