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精神分析

フランス語版フロイト全集の翻訳についてなど。

日曜以外毎日寝不足。そして朝は目が見えにくい。この年になると身体の様々な変化や不調に慣れてきて、同年代の友達とのそういう会話も減ってくる。一時はそんな話ばかりして情報交換をしていた。経験も、経験していないということも、すべて経験であるという実感をもって思考できるのも年の功。どうしたって「経験」は増えるばかり。

本を読むスピードがとても遅くなっている。書く仕事がある場合は困るが、もともとじっくり読むのが好きだからちょうどいい。最近、俳人の小津夜景さんの初の小説『風のつぎにくるもの』(アノニマ・スタジオ)を読んでいた。やっぱりとても素敵だった。

私主催の「Reading Freud」では精読を続けてきた。その準備で、フロイトの『メタサイコロジー論』を読みながら、その読み方、読まれ方について考えていた。今年は、「翻訳」という言葉をよく使っている。『精神療法』第52巻第5号「大人の自閉スペクトラム症(ASD)の精神療法」の[Review of Books Abroad]の欄で紹介したAnat Tzur Mahalel著Reading Freud’s Patients : Memoir, narrative and the analysandでも翻訳が中心的な作業となることを説明した。

精神分析において言葉を紡ぐことは翻訳作業を含むものなので、それについて考えないことはない。特に、フランス精神分析に多く触れていると、というかそれ以前から、フランス精神分析が共有しているラカンが掲げた『フロイトへの回帰』という姿勢に強く同意するのでこんな読書会もつづけてきたわけだ。今年度で終わりにするつもりだけれど。これからはもっとマニアックに臨床とともに議論できる場を作っていきたい。そのようなわけで、フランス精神分析におけるフロイトの読解は、ストレイチーのStandard Editionとともに参照していきたい。ドイツ語が読めたらいいが、死ぬまでの目標とする。

ストレイチーは、フロイトの著作をフロイトに確認しつつ英語に翻訳しただけでなく、各論文の成立事情、関連書簡、概念の変遷などを解説としてつけた。『フロイト全著作解説』(人文書院)として日本語にも翻訳されている。

これに対してフランス語版フロイト全集(Œuvres complètes de Freud / Psychanalyse, OCF.P)はラプランシュを中心としたチームによる編成である。

APF(Association Psychanalytique de France:フランス精神分析協会) のウェブサイトにフロイト全集紹介ページがある。そこからフロイト全集の翻訳・編集チーム(Jean Laplanche, Pierre Cotet, François Robert, Janine Altounian, Alain Rauzy)へのインタビューにもとべる。

OCF.Pチームの目標は、フロイトの著作を全巻にわたって統一された翻訳方針で刊行することだった。ドイツ語をフランス語にしただけでは翻訳とはいえない。彼らは、さらに、年代ごとに位置づけが変わる概念を同じフランス語に訳すべきなのかも検討している。たとえば『夢解釈』は20年にわたって改訂されつづけたが、ラプランシュはその初版の重要性を強調し、追加部分とははっきりと区別している。それがどれほど訳語に反映されているかわからないが、フロイトの精読をしないことにはこういうことはできない。また、翻訳チームのフランソワ・ロベール(François Robert)は、フロイトが精神分析を創出するなかでドイツ語を作り変えていった、その微妙な違いをフランス語でも聞き取れるようにすることが重要だと説明している。ストレイチーにも共通する問題意識があっただろう。しかし、OCF.Pは訳語の統一について、さらに明示的な原則、方針を設けた。これは、Traduire Freud(1989)André Bourguignon, Pierre Cotet, Jean Laplanche, François Robert(PUF)という一冊にまとめられている。APFによる説明によると、この本は、単なる新しい精神分析用語集ではなく、フロイトを読むための導入、つまり propédeutique de lecture freudienne を目指したものとされる。https://www.lutecium.org/mirror/associationpsychanalytiquedefrance.org/librairie/les-ouvrages/traduire-freud/

フロイトに限らずだと思うが、翻訳をめぐっては論争はたえず起きる。この翻訳チームによる翻訳もフランスでかなりの論争を引き起こしたという。たとえば、歴史家で精神分析家のエリザベート・ルディネスコは、2010年の『ル・モンド』紙で、この翻訳方針を厳しく批判している。ルディネスコは、フロイトの著作が、広く思想的・文化的な遺産となっていくことを歓迎する。しかし同時に、フロイトが臨床や精神分析の歴史から切り離されてしまうことにも批判的である。この両面は精神分析家ならだれもが共有するものではないだろうか。https://www.lemonde.fr/livres/article/2010/01/07/freud-une-passion-publique_1288464_3260.html

『Traduire Freud』の一部は、英語の論集Translating Freudでも読めるらしい。

また、フロイトの翻訳における概念的な問題に関してはジャン=ラプランシュとJ.-B.ポンタリスによる『精神分析用語辞典』(Vocabulaire de la psychanalyse, 1967)と読み比べることも重要だろう。

フランスには、いくつかの精神分析に関する組織があるが、IPAに属しているのは、APF(Association Psychanalytique de France)、SPP(Société Psychanalytique de Paris)、SPRF(Société Psychanalytique de Recherche et de Formation)だと思う。それぞれ独自の歴史や訓練に対する考え方がある。ラプランシュはAPFの成立に深く関わっている。

翻訳に関しては批判も巻き起こったが、ミラン・クンデラはこの試みに対して、賛辞を贈っているという。

フロイトが「メタサイコロジー」という言葉をどのように使用し、どのような理論的企図として考えていたのかを追っていたが、というよりキノドスやラプランシュを追っていたら、フランス語版フロイト全集(OCF.P)の注釈とストレイチー版の注釈を自然に比較することになった。両者が単に同じ原文をどう翻訳したかよりも、フロイトの理論形成の歴史をどのように整理し、私たち読者に提示しているかという違いを感じた。そもそもラプランシュ自身がフロイトのメタサイコロジーを独自に読み直した分析家である。OCF.Pの編集方針とラプランシュ自身の理論的立場を区別しながら両方読んでみたいと思った。

それとは別に、今年1月に行われた「フロイトをフランス語に翻訳する」という研究会(?)の講演「マリー・ボナパルトの編集者・翻訳者としての仕事」という動画を見つけた。動画の説明の一部を機械翻訳した。

>フロイトの著作の翻訳には、フランス特有の特徴があるのだろうか。この研究会では、フロイトの存命中に行われた最初期の翻訳から、21世紀の最初の四半世紀に至るまでの変遷をたどりながら、この問いを検討する。
原文を前にした翻訳者には、まず二つの選択肢があると考えられる。一つは原語を優先することであり、もう一つは著者を読者のもとへと近づけること、すなわち翻訳先の言語を優先することである。
フランスでは、これに加えて、早くから別の問題が浮上した。それは、ドイツ語という言語の背後に、翻訳によって取り戻すべき「フロイト特有の言語」が存在するのではないか、という問題である。
実際、フロイトは特別な立場に置かれていた。というのも、彼は、すでに確立された概念体系や専門用語を提供してくれるような伝統のなかに身を置いていたわけではなかったからである。精神分析は、それ自体が成立するために、独自の語彙を創り出さなければならなかったのである。(引用ここまで)

これは、ラプランシュらの考えとあまり変わらないように推測する。精神分析的思考を可能にする言語の形成、という問題は、臨床上の要請である。

私は研究者ではないが、私的研究対象は、精神分析におけるナルシシズムである。なぜなら・・・なぜならというほどはっきりした理由があるわけではないが、それが人間の心を複雑にしたり空虚にしたりするから。これについてはきちんとした文章にしないと。

良い一日にしましょう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家