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俳句

珈琲分布地図

早朝からせっせと仕事。どうして今やっておけばいいのに、という時間はダラダラ過ごしちゃうのかしらね、とあんまり気にしていない感じで書けるのは締切を一日過ぎた作業を終えられたから。ダメですね。

とても高い声で鋭く鳴く鳥がいるのだけど毎朝聞いてるのにその鳥の名前を知らない。鳥の名といっても個別の関係ではないから呼ぶ機会もないのだけど「あの子は一体誰かしら」とは思う。

毎朝、スーパーでお得大容量みたいな感じで売ってるドリップパックのコーヒーを淹れるのだけど今日も失敗してしまいました・・。安物のせいかお湯を注ぐと肩というか腕みたいにカップに引っ掛ける部分が片方ちゃぽんと落ちちゃって粉がブワーっとカップ内に広がるという惨事、惨事というほどではないけどコーヒーの粉って細かいからちょっと面倒。ということで毎回両側を注意深く押さえながらそっと淹れることを心がけてる。不器用さがこういう失敗に拍車をかけてるから注意深く。もう子供の頃からなんだから大丈夫。ならどうしてさっき失敗したのー。どうしてかしら。そっと両側を押さえてゆっくりお湯を注いで「よし、できたー」と思って手を離したときに指に引っ掛かってしまったのかもしれない。なんか余計なことを考えた気もする。トポン、プワーッ。見慣れた景色。もはや「あ」とか「あー」とか声を上げることもせず「またやってしまったけど大丈夫」と心で呟きながら棚から茶漉しをだし、別のカップにコーヒーの液体(って書くのもなんか変だけど)のみを移しかえる。よし。茶漉しと最初のカップに残ったコーヒーの粉はやっぱり細かすぎるのでしっかり乾くのを待ってから捨てましょうね。乾くと匂い消しにもなりますしね、ということでサク山チョコ次郎(お菓子)と一緒にいただいております。

新涼の壁に珈琲分布地図 岩崎照子

1980年、牧羊社から出版された句集『二つのドイツ』から。

確かに珈琲専門店に行くと地図が貼ってある。私はそんなに味にこだわりがないので「酸味が強くないのがいいです」くらいをお伝えしてお店の人に教えてもらっておすすめを買うときもある。でもコロンビアがちょうどいい感じというのは覚えたからそれを買う時もある。

あぁ、コーヒーの生産国のこと。大学時代の友人がホンジュラスで働いていた。ホンジュラスの教え子たちの労働のことも聞いた気がする。今こうして思い出したのだからきっと大変な状況を聞いたのだろうと思う。水を出すとかそういうところから一緒にやっていたように思う。彼女の明るくのんびりした口調とかわいい笑顔と子供たちとの楽しいエピソードしか思い出せないせいかその深刻さは教科書的知識で後付けするように思い出さねば、という感じになっている。

珈琲分布地図は労働の場所の地図でもある。爽やかな夏の朝に鳥の声を聞き分けようとしコーヒーを失敗しながらも入れ直す。今ちょうど月刊「母の友」2022年7月号の特集「涼しく楽しく!夏をのりきる」の表紙を見た。とても素敵。みんなでスイカを食べている。平和にも幸せにも色々あるだろう。「〜だから不幸」と決めつけることはできないように思うし、戦火の中、心で守る小さな平和は紛れもなくそうなのだろう。でも季節をいちいち楽しみながら他愛もないことを他愛なく繰り返せることは決して当たり前ではないんだな。すぐに忘れてしまう考えるべき問題を少し思い出せてよかった。

Tちゃん、元気かな。帰国しておうちに遊びにいっていろんなおしゃべりをして以来会っていないかもしれない。どこかで小学校の先生をしていると思うのだけどまた外国で似たような仕事をすると聞いた気もする。

みんなそれぞれの場所でどうか元気で。

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俳句

菜の花と雛

二度寝して少し汗ばんで起きる。すでに起き出していた身体とすでに暖まっていた部屋が少し春を行き過ぎた。暖房を消してあれこれして机に戻ると足元が寒い。外はすっかり明るい。少し前に「日脚伸ぶ」とキャプションをつけて夕日の写真を投稿した。もはやわざわざ日が長くなったと言わずとも朝も夕もそれが当たり前になってきた。過ぎていく季節を感じながらまだ済ませていない確定申告が頭をよぎる。毎日空をみあげ、花を愛で、鳥を追いかけながら暮らしたい、とかいっていられない。世知辛し。

辛子ってさ、と辞書を引いてみた。やっぱり形容詞「から(辛)し」の終止形からきてるんだ。「カラシナの種子を粉にした香辛料。黄色で辛く、水で練って用いる。またカラシナの別名。」とある。辛子は最初から練ってあるチューブのを使っている。おでんの時期ももう終わり。この冬はおでんもお鍋も数えるほどしか食べなかった。この後辛子の出番は?ああ、ひな祭りか。菜の花の辛子あえ。スーパーできっちり切り揃えられた菜の花が白い薄い紙でくるんとまとめ置かれているのはなかなかの存在感で、その緑を茹でてさらに鮮やかに、そして黄色いお花の代わりに辛子を置く、というか菜の花のおひたしに辛子を使うのってそこからのアイディア?など連想が浮かぶが、兎にも角にも春はこれから濃くなっていくはじまりの色を楽しむ季節。

目を入るるとき痛からん雛の顔

長谷川櫂 『天球』1992

When the eyes are put in

how it must hurtー

the doll’s face

こちらは英訳。「澤」主宰、小澤實さんの『名句の所以』の英訳版で読むことができた。

Well-Versed

Exploring Modern Japanese Haiku

Ozawa Minoru
Translated by Janine Beichman
Photography by Maeda Shinzō & Akira

今日も海の向こうでは色を失うばかりの戦いが続いているところがある。雛に痛みを見出すようなこころが「贅沢」なんかにならないことを願う。

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俳句 精神分析

写生

朝、窓を開けると秋の風が入ってくるようになりました。でもあと数時間もすればまた夏の熱気に覆われるのですね、この街も。すっきりと去ることはできない夏の気持ちを熱気というのかもですね。

ところで、俳句のお話ですが、俳句は素材を写生することで感動が生まれるので、擬人法は「月並み」としてあまり歓迎されません。

友死すと掲示してあり休暇明 上村占魚

どきっとしますね。休暇明けの掲示板を写生しただけなのに。これが俳句が持つ力です。たった17音なのに知らないはずのその風景がパッと浮かび、こころ打たれてしまう・・・。それでは月並みといわれる擬人法はどうでしょう。

五月雨を集めてはやし最上川

えっ、擬人法なの?と思うくらい自然。これは月並みではありません。松尾芭蕉ぐらいになると自然も人もこころの中で十分に融けあってしまうのでしょうか。月並みではない擬人法も実はたくさんあるのですが、私なんかが作ると月並みというかやや陳腐な句になりがちですねえ、やはり。

素材を時間をかけて観察してその感動を伝えること、事例研究みたいです、私たちの世界でいったら。相手のことをよく観察して、そこで生じているやりとりや二人の間の現象を細やかに言葉にしていくこと、精神分析でいえば、クライン派や対象関係論と呼ばれる学派の人たちがそうですね。事例を読むだけでその方の様子が浮かび、こころの世界まで伝わってくる。後からならいくらでもなんとでもいえる、みたいな書き方とは全く違います。私はそういう事例研究が好きだし、そう書けたらいいな、と思っています。その人の姿を勝手に変えてしまわないように。

今日はどんな風景と出会うでしょうか。目にとまったものがあったらいつもより少し長く立ち止まってみようかな、日曜日ですし。

さえざえと水蜜桃の夜明けかな 加藤楸邨

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俳句

虫の息

アブラゼミも虫の息か、と少しトーンダウンした声をききながら帰ってきました。アブラゼミに「虫の息」とかいうものかしら。虫が虫の息なのは当たり前か、など考えられるのは平和なことかもしれません。

今日は俳句の日だそうです。バイクの日でもあるそうです。ハイクの日、と山へ向かう人もおられるようです。819. 他にも何かあるかもしれません。

今年の夏はお祭りの音をほとんど聞きませんでした。「あ、お祭り!」と思って音のする方へ向かったらお寺のなにかだったことはありましたけど。駅や電車が色とりどりの浴衣でいっぱい、という光景も見ませんでした。来年はどんな夏になるのでしょう。と思う前に秋ですね。木々は今年も変わらず色づいてくれることでしょう。

現れて消えて祭の何やかや 岸本尚毅