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読書

春の嵐、土地

昨晩から風が強い。今日は春の嵐とのこと。暖かいだけいいが雨も降るかもなのかな。レインコートを持っていこうかな。でもどこにあるんだっけ。

先日、代官山蔦屋書店で行われた「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ/『スティーブ&ボニー』刊行記念 安東量子×竹内公太×山本貴光」というイベントの中で安東量子さんがハンフォードは最初から荒地だったわけではない。先住民などかつては人が住む土地だったのだ、というようなことを話していた。私が高橋ゆきさんのノンフィクションを好きなのも扱われる事件がその土地と大きく関係しているからだが、その土地の歴史を知ることはそこで生じた出来事の見方を変えるように思う。昨日のブログでも土地の名前を並べ立てた。

ウィキペディアでは「ハンフォード・サイト」はこう説明されている。

‘‘ハンフォード・サイト(the Hanford Site)はアメリカ合衆国ワシントン州東南部にある核施設群で、原子爆弾を開発するマンハッタン計画においてプルトニウムの精製が行われた場所である。その後の冷戦期間にも精製作業は続けられた。現在は稼働していないが、一部の原子力専門家から「アメリカで最も有毒な場所」「(事故が)起きるのを待っている、地下のチェルノブイリ」と言われるほど、米国で最大級の放射性廃棄物問題を抱えており、除染作業が続けられている 。””

また「これまでの歴史」として

““ここはコロンビア川、スネーク川、ヤキマ川の合流点に当たり、伝統的にインディアンの諸種族が出会う地点であった。1860年代に、ヨーロッパ人・アメリカ人が入植を始め、リッチランドなどの町が作られた。””

と書かれている。そうなんだね。ここで作られた「ファットマン」がもたらした被害は数字にできる範囲では「死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7 km2、全焼全壊計約1万2,900棟」だという。これもウィキペディアから。

色々なことが思い浮かび繋がっていき暗澹たる気持ちになる。想像するとはそういうことなのだろうと思うし、この暗澹たる気持ちがどこからきているのか自分に問うことでせめてそれに持ち堪えるということが大切なように思う。

昨日読んでいた『RiCE』という雑誌でイタリアンのシェフが引用していたネイティブアメリカンが大事にしているという言葉を思い出す。

““土地のことは七世代先のことを考えよ””

その土地やそこで生きた人々や起きた出来事に対してどのくらいの過去や未来を想像できるだろうか。そうするなかで問い直される現在を自分はどう過ごしていくべきか、べきというのはないとしてしてもどうしていきたいか。すぐに忘れたり忘れられたりすることに「まただ」と感じながら想起される事柄を今度こそ大切にできるだろうか。自分のことも疑わしいが意識的に疑ったところで起きることは起きるだろう。疑うよりも立ち止まること。情報ばかりスピードが速い世界で自分なりに立ち止まること。今日も一日。春の嵐に足元とか傘とか取られてしまわないように気をつけて過ごしましょうね。

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読書

八戸、福島、神保町、渋谷など

今朝は「八戸港のお茶時間」を。日比谷OKUROJIにある青森県八戸圏域のアンテナショップ8base(エイトベース)で素敵なイカの絵に惹かれて書いました。オンラインショップで見ると黒っぽいイカの絵だけど今のパッケージの方が薄茶色で良い気がする。最近はお菓子はみんなバラで買えるから色々試すことができていいですよね。中身はイカの形をしたパイ。「イカスミ入りのクレームダマンドをパイ生地で包んで焼き上げました」とのこと。クレームダマンドってアーモンドクリーム。うん、たしかに。イカスミの味はよくわからなかったけど、そもそもイカスミの味って「黒い、しょっぱい」とか拙い説明しかできない気がする。そんなことないですね。わたくしの語彙力の問題でござるな、きっと。

「わたくし」と書いて今、東京都現代美術館で行われている志賀理江子×竹内公太「さばかれえぬ私(わたくし)へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023受賞記念展」に行かないとなと思いました。竹内さんの作品はこれまでもどこかでみているのですが、先日、代官山蔦屋書店で行われた安東量子さんのご著書『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)刊行記念イベントでお名前を目にして改めてチェックしてみました。ちなみにその日のイベントのテーマは「原爆、原発、風船爆弾――ハンフォードから福島へ」、ゲストは安東さんと同じ福島県いわき市に住む(移住されたそうです)アーティスト竹内公太さん、司会進行は『スティーブ&ボニー』に帯文を寄せられた山本貴光さんでした。短い感想はツイートした通り。たくさん思うことがあったけど安東さんがご著書に書かれた体験や竹内さんが実際の大きさで再現しようと試みた「風船爆弾」のことを立体的にイメージすることができました。竹内さんの作品は風船爆弾と実寸大のインスタレーションということなので体感もできそう。「地面のためいき」という作品だそうです。

昨晩はクラウドファンディングに参加していた堀切克洋さん編集の『神保町に銀漢亭があったころ』(北辰社)も届きました。俳人の伊藤伊那男さん(銀漢俳句会主宰)が脱サラして開店した神保町の居酒屋「銀漢亭」、私も一度だけ行ったことがあります。穏やかで楽しい時間を過ごすことができました。吉田類とも鉢合わせたかったな。コロナ禍で休業したまま閉店したこの店で出会い、語らい、句会をするなどしてきたみなさん130名による寄稿を銀漢同人の堀切克洋さんが編みあげ、味のあるカバーイラストも素敵な一冊となりました。とても早いお仕事でこの本自体がまだあったかい(だけではないかもしれないけど)思い出の数々を語らうきっかけとなりそうな賑やかな一冊です。

渋谷センター街入口の大盛堂書店にも寄ることができました。『つけびの村』『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』(どちらも小学館新書)どちらもとても面白かった高橋ユキさんのノンフィクション本選書フェアに行きたいなと思っていたのです。選書リストをみたら桶川ストーカー殺人事件とか佐世保小六女児同級生殺害事件の本は読んだことがあったけどどれもこれも読みたくなるものばかり。時間がないから慌ててパラパラしたけど迷ってしまって結局、小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』(幻冬舎アウトロー文庫)、永瀬隼介『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)を購入。まずは『冷酷』の方を読んでいますがこういう取材って本当にエネルギーがいるというかすり減るというか大変そうです。著者の小野一光さんと高橋ユキさんの対談も載っていてこういう取材はこういうところに留意するのかなど勉強にもなりました。人間って、私って、私たちって、とぼんやりしてきてしまいますね、こういう事件のノンフィクション本を読むと。うーん。

今日は木曜日。なんとかやっていきましょう。

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俳句 読書

『スティーブ&ボニー』、3月11日、春の雨

寝不足。眠い。色々思い出したり考えたりしていると陰鬱な気分になってくる。さっき安東量子『スティーブ&ボニー』(晶文社)から引用したツイートをした。私はつながるための言葉を戦いの言葉に変換され言葉を交わすことに絶望したことがある。やっぱり、とどこかでわかっていたはずなのに希望を持ってしまったことにも重ねて絶望した。安東さんは絶望しながらも動き続ける。それをたやすく希望の証左とはいえないだろう。ただ福島で生きてきた人、福島を生きる人にとって絶望したからといって切り離すなんて何を?という感じではないだろうか。そんなことできないから絶望しながらでもこうやって生きてるんだよということではないのか。この本はアメリカで開かれた原子力に関する会議に招待された安東さんの孤軍奮闘日記でもあり様々な交流の物語でもある。そこでの講演内容を知れるのも貴重だし、それに対する聴衆の反応と安東さんの想いを知れるのはもっと貴重だ。あと1ヶ月でまた3月11日がやってくる。何度も何度も記憶を戻し、あれはなんだったんだろうと問い続ける。せめて誤解に基づく非難を回避する努力なら続けていけるのではないだろうか、こういう研究と現場を行き来する実践家の本を読むことで、と改めて思った。

空が明るくなってきた。今日の東京は「冷たい雨。今日との気温差に注意。」なの?昨晩、電車の液晶テレビ(っていうの?)でそんな予報を見た。まだ天気予報は変わっていないだろうか。「春の雨」という季語みたいに明るく暖かなイメージの雨ならいいけれどきっと違う。だって寒い。

ちとやすめ張子の虎も春の雨 夏目漱石

そうそう。今週も「ちとやすめ」と言い合いながら過ごしましょうか。リラックスするのはとても難しいことだけど力の抜けた柔らかな言葉をかけあうこと自体がそんな一瞬をくれると思うからまず言葉だけでもかな。どうぞ今日もご安全に。

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読書

BB弾、「お前はもう死んでいる」、安東量子『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)

自分を規定しない場所から発せられる言葉はその人の公的な活動しか知らない人にはとても自由で魅力的に聞こえるけどその人の愚痴とか色々聞かされて知っている人には「またそのパターンかよ、つまらねーな」となったりもする。実際、本人もつまらないことには自覚的で相当な後ろめたさを抱えていたりするが(裏話は誰にでもある)優れた編集力だか嘘つき力で面白くないおもしろ黒歴史としてそれを披露することでとんとんにしている。

安全な場所から遊んでもらいたい相手の方へ当たらないようにBB弾を放つみたいなことも年を重ねるごとに上手になる。実際に当ててしまった相手のことは「お前はもう死んでいる」と心の中で葬り去る。俺だって傷つけたくなどない!だから殺しちゃう?思うだけなら自由だ。そうだそうだ。これだっていずれ俺だけのプチブラ歴史として披露されるのだろう。なんの立場でもない俺俺立場は責任取らなくていいから地獄は相手が担うのだ。

BB弾は私が小6か中1のときにすごく流行った気がする。単にその年代が使いたくなる代物だったのかもしれないが。バカをしがちな友人が実際に人に当てて指導されたりしていたがそいつの環境を考えればやりたくもなるよなと思わずにはいられなかった。私もバカでダメな厄介者だったから共感しただけかもしれない。「お前はもう死んでいる」も流行った。いまだにケンシロウの言葉だ以外のことを知らない。友人は父親の後継にはなれなかった。なりたかったのかなりたくなかったのかは知らない。本人にそんなことを考える余裕があったかどうかも知らない。BB弾は世界に対するなんらかの抵抗だったとは思う。

思春期をとっくに過ぎても規定されることを嫌い何者でもない俺でいるという選択もしやすい時代になった、という言い方は嘘っぽいがとりあえずそうだとして真面目でも不真面目でもいられるなんにでもなれる俺で生きていくのも自由。ただどんなあり方も誰かに地獄を味あわせる免罪符にはならない。どこかで私たちは変更を迫られる。

黒歴史か、都合のいい言葉だ。トラウマのせいで進まない時間を過ごす人を葬り去り自分だけ時を進めてそんなことはおきなかったといいたい人にとっては。

友人は「まじめにふまじめ」だった。これはゾロリのこと。以前勤めていた小児発達クリニックの子どもたちにも大人気だった。高校生になって偶然再会したときすっかり背が伸びて誰だかわからなかった。何かを話したが内容は覚えていない。今は何者かになったのだろうか。リアリティを持って語るために自分をある立場に定める。私もいまだその途中だが今日も地獄側から考える。写真は地獄というより鬼。歌舞伎町の鬼王神社の狛犬。すごくいいと思った。節分のときも「福はうち、鬼はうち」っていうんだって。

あ、あとリアリティといえば『海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて』(電子あり、みすず書房)の著者、安東量子が昨年末に出した新刊『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)がとても良かった。アメリカを異文化と書きたくなったがフクシマはどうだろう。広島は?長崎は?著者は広島出身で福島で被災した。

「原発事故がおきて社会は大混乱に陥った。なかでも困ったのは、あらゆる関係のなかで意見が対立したことだった。生活の隅々にまで入り込んだ放射線のリスクをめぐって、家族でも、ご近所でも、職場でも、人と人とのコミュニケーションが存在する場面という場面で、意思疎通が難しくなり、しばしば修復不可能なほどにいがみ合うことになった。地元の野菜を食べるか食べないか、子供を外で遊ばせるか遊ばせないか、洗濯物を外に干すか干さないか、そんなあたりまえのことについて言い争う羽目になる日常の暮らしにくさは、経験してみないとわからないかもしれない。」ー3章より引用

著者は2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故のあと、地元で住民のみなさんと地道に放射線量を測定し、福島県内でダイアログ・対話活動をしてきた。事故後の大混乱の中、人間関係の修復という最も重要で困難、しかし不可欠な目的にとってその実践の積み重ねは大きな役割を果たしてきたのだろうと想像する。

その著者がいう。

「意見が違うことはしかたない。まずそれを受け入れた上で、なにかひとつでもいいから共有できるものを探すこと」

「内容はなんだっていい。その人が大切に思っているものをなにかひとつ、些細なものでもかまわないから、ひとつだけでも分かち合うことができれば、意見は対立したままであったとしても、関係をつなぐことはできる。」

この本は、核開発拠点のひとつだったアメリカのハンフォード・サイトで行われた原子力会議に招かれた著者の冒険譚のような一冊だ。著者のコミュニケーション哲学の実践を知れば知るほどその困難な現実に胸が苦しくなるが残るのは絶望だけではない。私は泣き笑いしながら読んだ。そして私たちが大きな組織に向けて細々と続けている運動のことも思い浮かべた。励まされた。あとがきに山本貴光さんに大変お世話になったと書かれていたが、推薦文はその山本さん。

「原子力を語ると、どうして話が通じなくなるのか。それでも分かりあえるとき、何が起きているのか。これは、そんな絶望と奇跡をめぐる旅の記録である」

まさに。読めば実感されるこの文章。多くの人にお勧めしたい。