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読書

『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』のことなど

乾燥がすごいですね。今朝の散歩道は雨にしっとり濡れたすごく濃い色の落ち葉が敷き詰められていてきれいでしたけど。加湿器を出さないと、と毎日思うのにまだ出していません。喉がやられてしまう前に今日こそださねば。すぐに出せる場所にあるのにどうして小さい怠惰を積み重ねてしまうのかしら、人間って。じゃないか、私ですね。

先日、山本文緒『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』を読みました。「闘病記ではなくて逃病記だなあ」と著者は書いておられるけどこちらが「どうか逃げ切って」と願うような同一化を生じさせる記述はなかったように思います。

「逃げても逃げても、やがて追いつかれることを知ってはいるけれど、自分から病の中に入っていこうとは決して思わない。 」

本当にそうでした。自分の感触を観察し続けるだけでなくそれをこんなに感情の振れ幅の少ない文章におさめられることに作家の凄みを感じます。

同年代の友だちも読んだといっていました。私たちも自分の死に際してやっておくべきことを意識する年齢になりました。コロナはそれに拍車をかけました。私の場合はシンプルで持ち物もいらない仕事ですしプライベートもシンプルなのでそんなにすべきことがあるわけではなく出会いを大切にすることくらいですけどそれすら難しく打ちのめされたりしますね、生きてると。

「私も頭が割れそうなくらい悲しいのにアマゾンの領収書を印刷した。それが生きるということ。

人間って…。どうしてこんなになっちゃうのか、どうしてこんなことができちゃうのか、悲しくて切なくて苦しくて死にたい時には死ねないのに願ってもないのに死んでしまったりする。自分ではわからない自分ばかり。

この日記の最後の日の文章はとくにこのご夫妻をご存知の方にはものすごいいたわりなのだろうなあと感じながら泣きました。

人間って、と思いながら自分を人体実験の被験者のように観察を続けていると複数の自分を感じます。「いずれ死ぬのだから」だから?身体が動かなくなったら地道にしてきた準備も形にできないでしょう。では急ぐか。それも躊躇します。「今日死んだらどうするの?」それだったら苦しみもそこまでともう何もしなくてよくて楽かもしれません。が、死については誰も何もしりえません。

山本文緒さんは宣告された余命よりも長く生きました。日々を書きつけることが彼女の生をどのくらい膨らましたかわかりません。でもそのいたわりの深さは身近な人や読者を守るのでしょう。眠っては起きる。眠っても起きる。その繰り返しを今日も、たぶん明日も私たちが続けられるように。