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駄菓子屋とか。

あら。今日もくもり空。昨晩はとっても明るくて形の良い月(つまり満月)が水墨画のように雲から現れたり隠れたりしていてカッコよかった。写真を撮るにも新宿の方は空が明るいし、信号は多いし、自分の目だとこんなきれいに見えるのにね、と思えるのは素敵なことかもしれない。まだ遠くのものはよく見える。

今朝はサッカーで寝不足の方も多いのかしら。私は途中少し見たけどいつのまにか終わってた。普通に寝るのが遅かったから眠いは眠い。ねるねるねるねはお菓子だっけ。私が育った田舎の小さな駄菓子屋さんにはなかったと思う。スーパーのお菓子かな。今でもこういうお菓子の棲み分け?売り分け?ってあるのかしら。「駄菓子コーナー」みたいのがコンビニにもあるくらいだから駄菓子屋そのものがもうなくなってきているのかもしれないね。ねるねるねは練っているうちに寝てしまったみたいな豆本付きで売りたいですね。

子供の頃、通っていた駄菓子屋さんのおばあさんは童話に登場するおばあさんみたいに怖かった。お店の脇に咲いていたかわいいお花がほしくてつもうとしたら根っこが横に這っていてびっくりして手を引っ込めた。それが松葉牡丹だと知ってつんではいけないお花として愛でるようになった。白い小さなお花もほしくて少しつんでしまったときがあった。こちらはつめたがおばあさんにびっくりして落としてしまった。なんだかとても悪いことをした気持ちになったけど、というか実際悪いことだったのだろうけどおばあさんはただいつもの場所に立っていただけだった。そのあたりには紫陽花だったかなんだったかもあって友達とカタツムリをよく探した。駄菓子屋の前を学校の行き帰りで通るだけでなくて、反対側の道から眺めて店の小ささを意識したのはもう少し大きくなってからだろう。そばの家が建て替えられるなか、そこは長い間そのままだった。駄菓子屋さんが閉まってからもそのままだった。童話みたいだったのはその小さなおうちであって、いつも不機嫌そうにみえたおばあさんが実際に不機嫌だったり怒っていたわけでもなんでもない。だから私たちはしょっちゅう10円20円のお菓子を買いに行き、いつもワクワクしてみんなで色の変わったベロを見せ合ってゲラゲラ笑ったりしていた。店に入ってすぐ左側にはゲーム台があって、小学生の私たちからしたらずいぶん大人に見える多分高校生がいたりした。あの白いお花はなんていう花だったのだろう。小さな細い花びら、細い茎、落としてしまったお花を怖くて振り返ることもできなかったけどおばあさんはきっと大切に拾ってくれたのだろうと思う。ありがとうとかごめんなさいとかきちんと伝えたのかな、私は。本当にろくなことをしない小学生だったけどいろんなこと感じながら考えながら過ごしていた日々の記憶におばあさんがずっといる。私の中ではすっかり「赤毛のアン」に出てくるマリラの姿なんだけどそう伝えたとしてもにっこりはしないだろうけど嫌がりもしないと思う。いつもいてくれてありがとうございました。

子どもたちも大人たちも今日も安全に過ごせたらいいですね。良い一日になりますように。

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夢とかルーティンとか。

久しぶりによく寝た。奇妙で面白い夢をみた。ぼんやり思い返しているとぼんやりつながってくる景色や出来事があった。やっぱり睡眠は大切。

外は雨。昨晩からずっと静かな雨。途中強まったりした時間もあったのかしら。夢の中では雨は降っていなかった気がする。

身体が動かなくなることについてよく考える。それは徐々にかもしれないし突然にかもしれない。身近な人たちのことを思い浮かべる。同じ病気でも進行の速度が全然違ったり、ちょっとしたつまずきが長く動けなくなるきっかけとなったり、時が過ぎるだけで以前できたことができなくなったりやりづらくなったりする。先が読めないのはなんであってもそうなのだが、いろんな状態がありうるものなんだなと実際に見て知って考えることは自分の生活を考えることにもつながる。私は最近、より細かなルーティンを作ることを試みている。料理だったら似たようなものでまわしていけるように常備しておく食材をそろえておくとか余ってもそのまま食べられるものを使うとか、それ基本じゃないの?みたいなことばかりだけどおいしく食べきることを意識してそれをするようにしている。まあ、料理の場合はあれが足りないこれを買い忘れたとかあっても一個の食材でなんとかすることは可能なので別にいいのだけどなにがなくともこれがあればとおいしいものがちゃちゃっとできてしまう人は別の工夫を持っている人だと思うので、私みたいな人は平日は堅実に定番メニューを繰り返し、時間があるときに手間をかけるのがなんだかんだ一番無難においしいし、気持ち的にもストレスがかからない気がする。

今月は自分の臨床を細かく振り返る機会が多かったのでとても濃かった。学術大会で私の発表を聞きにきてくれたスーパーヴァイジーや友達からも細やかにフィードバックをもらえて土居健郎の『「甘え」の構造』をきちんと読もうと思ったと意外と多くの人からいってもらえたのが嬉しかった。私は臨床素材で説得力をもたせたいほうなのだけど、そもそもの基盤が共有されていないとそれも難しいということは実感した。それでも臨床素材によって抽象度をあげた議論に興味をもってもらえたのであればやはり方法としてはなしではないとも思った。実感のない引用は軽くなりがちだったり、単なる知的な食べ物として消費されがちだから、実感をもって書いている人の文章を実感をもって引用することも続けていきたい。

これだけ寝てもまだ眠気が残っているが今週もはじめよう。東京の空は今日もぱっとしないみたい。のんびり過ごせるといいですね。どうぞよい一日をお過ごしください。

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台風、Reading Freud

昨日は台風に備えて早朝から色々連絡をいれながらオフィスへ向かった。オフィスまでの道のりは静かな雨が降っているだけで嵐の前の静けさなのかなんなのかよくわからないままこのくらいの雨だったらいいかな、と少し遠回りした。なのに犬を散歩中の人に信号無視をするなだの前を見て歩けなど怒鳴られてびっくり。出会い頭にぶつかりそうになっただけで前見てたし信号無視してないし悲しかった。朝っぱらからなんなのさと思いながら早くからあいているはずのパン屋さんまでさらに遠回りしたが開いておらず!こっちのほうがショック!色々備えて一週間最後の日だからなにかおいしいパンないかな、と寄り道したのに。朝っぱらというのは朝の腹、つまり空腹、つまり早朝のことをいうのだよ。だから夜っぱらとはいわないんだよ、夜もおなかすくけどそういう問題ではないんだよ。あさごはんはとっても特別だったのに。たまにしか通らない商店街はどこも開店前でまだ昨日を引きずっている感じだった。そういえば台風が過ぎたらしき昨晩の空には明るい月がでていて、時折黒い雲に隠れる様子も素敵だった。

毎日定点観測している木槿も雨のせいか時間のせいかしぼんでいた。木槿は一日でしぼんでしまうお花。でも蕾が続々と控えているので毎日咲いているように錯覚する。ムクゲって漢字だとゲシュタルト崩壊しないのにカタカナだとなんだか間違っているような気がしてくる。ふわっふわの花びらのなかには小さな蟻が集まる。あれってムクゲの香りというよりアブラムシが出す蜜を求めてくるんだってね。ありんこは本当に糖分に目ざとい。目ではないか。触覚か。いくつかのハーブを嫌うとかいうけどあまり効果がないともきく。私は香水とかずっと苦手だけど蟻はだんだん大丈夫になってくるのかしらね。好きなものはずっと好き。嫌いなものもわりと大丈夫、みたいな感じで。こういう感覚だとしたらわからなくはないけどね。私だって毎日同じ香水を嗅いでいたら数か月後には自分が使うようになってたりするかもしれないってこと。慣れとは違うけどレシピ動画とかいっぱいみてても茄子大嫌いな子供がおかわり!みたいなのもよく流れてくるし、好き嫌いの感覚なんて意外と、って部分もあるのかもしれない。絶対音感とか絶対の感覚を持っている人はまた別だろうけど。

思うだけなら自由というのは見るだけならただと似てるけど境界を意識する必要は常にある。思うだけ、というのはおそらくありえない。それを話すだけ、というのも行為なので。どこで誰に話すかもとても大事。精神分析はお互いの境界に敏感にならざるをえない学問。なぜなら心がどれだけたやすくお互いを侵食するかを実感させられる実践を続けてきたから。だからこそメタで考える力が必要になる。心がどれだけ複雑で多様な動きをみせるかを知っておく必要がある。昨晩のReading Freudは十川幸司訳の「メタサイコロジー論」(講談社学術文庫)の「抑圧」論文を読んだが、「欲動と欲動の運命」で定義された「欲動」に基づいた「抑圧」の記述、表象と情動量の区別、短い論文に詰め込まれた緻密な思考の痕跡を追った。情動の議論はフロイトの臨床観察から導かれており、その素材が狼男、ドーラ、鼠男であることは症例を読んだことがある人ならすぐにわかる。私たちも何度も読んでいる症例論だがフロイトの思考にできるだけ近づいてこれらの論文を読み直す必要を感じた回でもあった。自分の物語をフロイトに押し付けるのではなくフロイトを読み続けることがこの回の目的なのでそう感じられてよかったと思う。

今日は長い移動がある。がんばろう。台風の被害があった地域にも適切な支援が早く入りますように。

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味わいとか。

東京は雨が降っていない。これからひどくなるのか?台風は本当に読めないので身の安全第一に行動してほしい。

毎日、台風にも地震にも悩まされている。が、相変わらず花の写真を撮り、コンビニスイーツを食べている。私「最近、甘いものにあまり目が向かないかも」知人「そういうこと言ってみたい」というやりとりをしたばかりなのにさては嘘つきだな、自分。この前、セブンイレブンの「たっぷりホイップWシュー」を食べた。甘いけどおいしい。でも超おなかいっぱい。ひとりひとつはもう無理かも、と思った翌日には神田近江屋洋菓子店のシュークリームを見て「うわー♡」となった。ついでに新入社員採用の募集要項を読んだらとてもきちんとしていた。お菓子作りを仕事にできる人の待遇が守られていることは消費者である私たちにとっても非常に重要なことなのでありがたいことだと思った。コンビニスイーツだってすごいのは今にはじまったことではない。最近だと平野紗季子さんの「ふあふあサンド」がお目当てだった。これ、オフィスのそばに新宿区のセブンイレブンには売っておらず世田谷と品川の、しかも一部の店舗のみの発売ということでがーんとなったが平野紗季子さんのおやつへのこだわりがとても好きなのできちんとゲットした。コンビニスイーツははんぶんこして食べるのがちょうどいいと思うのだけどこれはひとりひとつでもちょうどいいサイズだった。でも2種類をわけあっていただいた。おやつってやつはおいしさに楽しみが加わるとなおよし。ひとりで楽しみたいときもあればそうじゃないときもあるし形態はなんでもよし。

この前、小さな本屋さんで詩の棚をみていたら「詩、お好きなんですか」といわれた。「はい、俳句も好きです」ときかれてもいないことを答えつつすこしおしゃべり。詩の棚が充実していたお店が輸入お菓子のお店になってしまった話をきいた。輸入お菓子もきっとかわいくて楽しいけど、詩はとってもいいよ。必要な食べ物だと思う。味わうという意味で。この詩集も好き、このシリーズはすごく高い値段がつくようになっちゃった、など話したあと、つい「(詩を)よろしくお願いします」と本を抱えて小声でお辞儀をすると店員さんも同じようにしてくれた。詩の棚を作ってくださってありがとうございます。

この前の学術大会で土居健郎の「甘え」を論じるときにも触れたけど「味わい」って大事。味そのものより大事な気がする。自炊料理家の山口祐加さんも「味わい」について書いていた気がする。今年初めにでた『自炊の風景』という本はとってもいい本で、山口さんがお料理を教えながら聞き取るひとりひとり違う語りもお裾分けしてもらえる。私は冒頭の著者自身のエピソードからすでに涙が出てしまった。誰かの語りを聞くと別の人の語りも蘇ってきてしまって、特に食事にまつわる語りって本当にたくさんのものやことを含んでいるから味わうには少し情報量というより情動量が多いのかもしれない。私も最近、なんで得意でもないし、時間もないの料理にこんなに関心を持っているのだろうと考えていてふと気づいたことがあった。人には歴史がある。それをどういう風に大切にするか、そういうことを精神分析のみならず料理に対しても考えていたらしい。それがいいものであれ悪いものであれ育ちの過程は誰にでもある。それをどう味わうかはそれぞれの自由だけど聞き手ってやっぱり大切だなと思う。

この時期の紫の花にギボウシとかアガパンサスがある。ギボウシの英名はHosta。ホスタ。なんかかわいい。いかにも梅雨らしく涼やかにうつむき加減のつぼみが下から順にひらいていく。アバパンサスの開花を追うのも楽しい。駒テラス西参道にも大きな青紫の花が咲いていた。調べたらジャカランダというノウゼンカズラ科のお花だった。一つ一つのお花は裾がふんわりした細身のスカートみたいなお花なのだけどたくさん連なるからゴージャスなの。そばにはオレンジ色のノウゼンカズラもあったから、あの通りの日照時間とかはノウゼンカズラ科と相性がいいのかもしれないね。

台風でいろんな花が横倒しになってしまいそう。少しずつ回復しますように。そうこうしているうちに今度は暑さか。元気に過ごせたらいいですね。

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6月26日金曜朝

西のほうは雨が大変そう。明日には関東にも台風がくるのかもしれないけどニュースをみていてもサッカーの話題はでてきても台風の話題はあまりでてこない。

最近、ちっちゃくてかわいいがじゅまるの木があるカフェでおいしいスコーンをみつけた。スコーンも小さめでかわいいの。そこに行きたくて時間を作り出そうとしているが失敗続き。自分で作るか、と簡単なレシピないかな、と探し始めるといつのまにか今晩とか明日とか週末とかの献立を考えはじめちゃってこの時間をあわせたら余裕でいけるじゃんと思うが、時間の使い方というのはそんな簡単ではないのだな。なになにしている暇があったらこれこれできたでしょ!と他人にも自分にもいいたくなるかもだけどそれはなかなかそうもいえないものなのだよ。むずかし。

生活をもっと整えたくてほんとこまごましたことを調べたりしているのだけど、私の年代は人生の整理というには少し早い、というか、親世代ができるだけよい終わりを迎えられるようにあれこれ手伝ったりする時期なんだと思う。だからそういうこまごまとしたことに関する情報もそれぞれ蓄積されてきていて特に相談したわけでもないのに雑談でそういう話になるから面白い。少し前までは身体の不調とそれに対するケアの共有が自然にされてきたけど不調にはもうだいぶ慣れてきてるんだろうね。私はかかりつけの医者が若返って(世代交代という意味)私より若い世代の女医さんもいるのだけど症状の説明は論理的だし、一般的な対処を過不足なく教えてくれるし、それでどうしようもない場合でもとりあえず一生懸命耳を傾けてあれこれ学ぼうとしてくれるのがいい。医者だから全部わかってるなんてことはないので患者側も主体的に協力しないとね。とか主体的という言葉を使った時点でまたあれこれ難しいことを考え出してしまうわけだけどまあ私の仕事には必要なことなのでそれはそれでがんばりましょう。

信頼も期待もちょうどよくもちつつ今日もよい一日にいたしませう。

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雨の朝

木曜日。小雨。小さい傘で平気そう。

今週もあっという間に過ぎていく。幸せなことだとは思う、が、とあれこれ考える。そのなかで、隙間時間という言葉は私の仕事には正しくないなと思った。セッションと次のセッションの間の10分も隙間というよりつなぎだ。関連してプロセスという言葉ももっと限定的に精神分析的プロセスとして使わないとなと思った。たとえばスキマ時間にいれるアルバイトもだいぶ当たり前になっているようだけどどんな労働形態をなんのために選ぶかは目の前よりはもう少し先を見据えたうえで、現在の行動可能性を正確にアセスメントして選択しないと安易に搾取されたりイデオロギーの歯車になったりするのではないのかな。そこでの契約ってなんだろう。課せられる責任ってなんだろう。

精神分析には「抵抗」という概念があって、それは自分の心の作業で、自分の部分対部分の話でもある。分析家との間に生じることは心の中の歴史ですでに生じたことでもある、と一応考えるのが精神分析における転移の考え方だろう。抵抗は異物に対する受け入れがたさでもあるが、自分の歴史認識を改めなくてはいけないという予感に呼応する身振りかもしれない。だったらみない、とりあえず今がよければ、と思考停止するあり方もできるが、かかわりはどうするか。それは自由とよべるのか。

いろんなことを考える。だって毎日ニュースにうんざり。それでも目を閉じず、耳をふさがず、できるだろうか。ひとりではなく。がんばろう。

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スペインの精神分析家のポッドキャストをきいたり。

涼しい。鳩が同じリズムでないて、とまって、を繰り返している。

2026年5月4日に配信されたIPA Podcast Talks On Psychoanalysisを聞いた。このポッドキャストは補足用のテキストがあってご本人がそれを読み上げてくれるのがいい。声が持つ情報って多い。

この回はスペインのマドリードで開業しているマドリード精神分析協会(APM)の訓練分析家、Dr.アリエル・リベルマン(Ariel Liberman)のお話。題はPsychic change and enactment:some reflections。

リベルマンはAPMでさまざまな要職を歴任。複数の論文を執筆しているほか、2冊の著書、“An Introduction to the Work of D.W. Winnicott”(2011)および “Conversations on Psychoanalysis with Stephen A. Mitchell”(2022)を出版とのこと。

この論文はWinnicott (1954)とWilly Baranger(1979)と、なんとBill Evans(大好き)の引用から始まっていてOgdenの引用も多いというだけでもいい。フリーで読めるし聴けるからぜひ。

後半のビル・エヴァンスの引用に戻るところから少し訳しておく。

“「クラシック音楽において、ミスはミスである。しかしジャズにおいて、ミスは、その後に続くもの(事後的/a posteriori)によって正当化され得るし、実際に正当化されなければならない」

ビル・エヴァンスは、私が伝えようとしたことの精神を要約しています。つまり、「技術的ミス」がいかに文脈と理解に依存し、それが単なるclosureではなくopeningになりうるかということです。スコア(楽譜)への参照がほぼ絶対的でありミスが絶対的なものであるクラシックの世界とは対照的に、ジャズのメタファーを借りれば、演奏されているハーモニーとその変容の可能性を絶えず理解し続けることが、一見ミスとされるものの中に潜在的な意味を回復させ、あるいはエヴァンスが言うように強制し、それを許容するのです。ミスが音楽テーマの継続の中でreharmonizeされ、回復され、前例のない可能性を切り拓く——つまり音楽表現の糧となるならば、それはもはやミスとして固定されることはありません。”

論文と関係ないがフロイトの著作が全集として最初に訳されたのがスペインだそう。翻訳者はスペインのドイツ文学研究者のLuis López-Ballesteros。フロイトからの手紙はFreud, S. (1923) Letter to Señtor Luis Lopez-Ballesteros Y De Torres. The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 19:289/RSE 19, Page 295

フロイトはこのルイス・ロペス=バジェステロス・イ・デ・トーレス氏への手紙で、『ドン・キホーテ』を原文で読みたいという願いから、独学で美しいカスティーリャ語(スペイン語)を学んだと書いている。フロイトの文学に対する情熱もすごい。

そしてルイス・ロペス=バジェステロスが「医師でも精神科医でもないにもかかわらず、これほど複雑で、ときには難解ですらある主題について、これほど完全かつ正確な理解」をしたことに驚きを見せている。

精神分析はのちにスペイン、そしてアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカ世界へ深く根を下ろしていったわけだけど、ルイス・ロペス=バジェステロスによる翻訳はその出発点となったのだろう。

まだ鳩が同じ距離で同じリズムでないている。よい一日になりますように。

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言葉以前。

深夜、窓を開けていたら近所から大きな話し声や笑い声が聞こえた。夜に窓をあける季節。風はあまり入ってこなかったけど閉める気にもならなかった。扇風機の音を近くにききながらコピペしたままの文章を眺めている間に深夜はもっと深夜になっていた。

現代の精神分析は主体を前提とできない症例が多い。カウチから言葉ではなく、身体を、声を聴く仕事。そもそもフロイトはそれをやってきたわけだが、フロイトが大きな役割を与えた自我がこんな形で空洞化した審級になると誰が想像しただろうか。

先日、アントニオ・R・ダマシオのDescartes’Errorをなんとなくめくっていた。この本はのちに新版『デカルトの誤り』としてちくまから文庫版がでているが、私が読んでいたのは『生存する脳』(講談社)のほう。

「私が考えている真に身体に統合された心は、そのもっとも洗練された作用レベル、すなわち精神(soul)と魂(spirit)からなるレベルを放棄していない。私の考えでは、精神と魂も、その気高さにもかかわらず、一個の有機体の複雑かつユニークな状態ということになる。
たぶん、日常われわれが人間としてできるもっとも重要なことは、われわれ自身が複雑で、脆弱で、有限で、ユニークであることを思い起こすことだろう。」

ソマティック・マーカー仮説で有名なダマシオだが、ダマシオが心を身体に戻すことを考えたように、ように、ではないが、精神分析は身体をよりsoul & spiritから記述していく必要がある時代だと思う。ただ話されているだけの言葉に安易に意味を与えず、その言葉の出どころを精神と魂と身体のハイブリッドで考える。その現れは言葉というより声であり、トーンであり、リズムだったりするだろう。精神分析で参照するとしたらやはりオグデンか。

今日はくもっている。日差しもあるがまだ強くはない。なんとか地道にがんばろう。

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散歩とかグループとか。

今朝はまだそこまで暑くないかな、と思ったけど熱い紅茶を飲んだら一気に暑い。昨日は曇っていたのに日射しを感じた。でもいろんなお花の写真がきれいにとれる空色ではあった。八重のクチナシもアガパンサスもアンティーク化したいろんな種類の紫陽花も薄暗い空に映えた。薄い花びらが雨に透ける姿も強い日差しに輝く様子も好きだが昨日くらいがしっとりしてて好きかな。年に数回行く街というか通りを歩くついでにはじめてのカフェにいった。ちょっと高いけどごまのパンがチーズとあっていてすごくおいしかった。一時期、いろんなパン屋さんをめぐったけど次から次に新しいお店ができているのね、こうやってカフェつきで。昔ながらのパン屋さんのたべやすくて素朴な味も好き。いまどきの工夫が多いパンも好き。コーヒーは特別好きなわけじゃないけどカフェは好き。オフィスのある初台にも小さな珈琲屋さんがいくつかあるのだけどオフィスと反対側でなかなか行く機会がない。この前、はじめて寄ってみたお店はこじんまりだけど噂どおりとてもおいしかった。私が知っている時代のコーヒーの値段という感じでお手頃だったのも嬉しかった。今は輸入とか少し大変かしら、コーヒー業界も。地道に働く私たちはこうして小さな交換をしながら生き延びているのだからそういうささやかな仕事を脅かさないでね、と思う。

夕方からのクリニカルグループもすごく面白かった。自分がやっていることを細やかに追うことはひとりではとても無理で、情緒を抱え、思考を止めないための他者が必要、というか思考停止になる厳しい状況を共有できる人がそうなっているけどどうしてだろうね、と一緒に考えてくれることはとても助かる。自分とは異なる考えにたくさん触れながら、影響を受けつつも、実際の場に立つのは自分なのでその責任を普通に引き受けていくこと。これは分析家になる訓練として精神分析をうけるなかで育まれるものではあるけど、精神分析が分析家と被分析者のペアにひきおこす情緒はたやすく「抱える」ことはできないので精神分析をいろんな人と体験していくことを続けていく以外にない。

医療現場において心理療法を提供する場合、生物学的、心理学的マネージメントを引き受けてくれる管理医は別の医師に引き受けてもらう必要があるが、それだって心理療法においてからめとられる自分ではたしかなマネージメントができなくなる局面があるからかもしれないからである。いわゆるA-Tスプリットのことだが、最近はどのくらい話題にされているのだろう。臨床はチーム意識が本当に大切。この場合、あくまで心理療法がクライアント、あるいは患者にとって必要な場合、というのが前提で、オーダーがでたらアセスメント済みとみなして即導入というのは倫理的ではないだろう。現実的に考えて、求めてもないものを押し付けることはすべきでないだろうし、心理療法以外にできること、すべきことを模索することを優先すべき事態はたくさんある。相手はこれを求めているけど、今の状況でそこに触れることはかえって状態を悪化させるかもしれないし、現実的に安全な設定をお互いに準備できてない、みたいな状況では心理療法ははじめられない。それぞれがそれぞれの役割を十分に認識し、協力しあっていくこと。そのプロセスでは意見の食い違いもたくさん生じる。話し合いは負担だろう。それでもそれも仕事、とうかそれが仕事。集団力動を読むことはその組織内の話だけではない。いろんな人と、いろんなグループと協力を模索するときにはいつも必要なこと。がんばっていこう。

6月ももう後半。今日はオンライン句会の選句〆切。いろんな形で季節に移り変わりを大切にしよう。

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羽抜鶏とか。

くもり。時々少し雨が降っているらしい。キッチンの小さな窓の網戸に少し水滴がついていた。風が強いときの水滴みたいだったけど窓を開けても風はふきこんでこない。なので扇風機をつけた。エアコンを入れるほどまだ暑くはない。

NHK俳句で「羽抜鶏」という季語について話し合われていた。なんとなくイメージはできるのだが実景としての羽抜鶏が思い浮かばない。小学校にあった鳥小屋、近所の美容院のにわとりたち、いまにいたるまで本当にいろんなところでみているはずなのに全然思い浮かばない。最近、オフィスのまわりを歩いているとカラスの羽をよくみかけるなとは思っていた。初台駅に向かうまでの道にたむろする鳩たちの羽も抜けるのだろうか。羽抜鶏は晩夏の季語らしい。気づけるといいな。

今朝は予定が変わったからお散歩にでもいこうかしら。なにかアイデアが降りてこないかなあ。インプットも足りないなと思うけど、時間がないなかでなにか降りてくるのを期待する場合、専門的な本は読まないほうがいい、私の場合。付け焼刃の知識では漠然と考えていることをふくらますこともできないし、お散歩しながらなにかを待つほうがいい。実践の積み重ねからぽわっと形になるものをうまくつかめたらいいな。

今日は「いいな」ばかりの日だな。まあ小さい希望をもって良い日曜日にしませう。

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6月20日土曜日

まだ雨は降っていないのかな。昨日より気温は低いとはいえすでに蒸し暑い。

今週はいつも以上にあっという間に終わった。先週末、学術大会でいろんな人と話したのが去年の学会くらい遠い。新潟の学会ついでにいった弥彦神社そばの弥彦ブリューイングもがんばっているらしい。Instagramでチェックしている。あそこは東京農業大学の弥彦桜5号酵母を使っていたりしてなじみ深いのだ。農大とか農大がある経堂とかは地ビールがすごいのだよ。素敵な呑み屋も多いし。農大は色々楽しいことやっていて出身の方のお話とかきくのすごく楽しい。弥彦でもきいた。あの日も雨が強くて寒くてでも紅葉がきれいでもりだくさんだったな。依頼されたお仕事をやっただけで自分の演題はださなかったけどおいしいものたくさん食べてよく遊んだ。新潟もいいところだよねえ。今年も学会のほうは演題はだしていないけど仕事はあるから福岡でおいしいもの食べたい。自分の発表は協会とIPA関係のほうしか余裕がないな。来年のIPA大会にもだせたらいいけどかなり難しいかも。今月末〆切は厳しいなあ。

昨日は隙間時間に海外の文献を紹介する原稿をバーッと書いた。読んだことがあるからといって引用しようとか思って読んでいなかったからちょこちょことしかメモもとっていなかったし、字数がそれほど多くないとはいえ結構難しかった。こういうお仕事をたくさんしている人はそれに対する準備も上手なんだろうなあ。私の頭は全然そうなっていない。でもラプランシュやリクールがまとまっていた箇所があって勉強になったのはよかったし楽しかった。土居健郎が読んだリクールを私もきちんと読みたいし。いろんな本読みたいし、いろんな料理したいけどいつになることやら以前に、安心して暮らせる政治が営まれていれば心にも時間にも余裕ができると思うんだけどね。現状、いつも怒っていなければならないじゃないか。もう。

今日は土曜日。良い一日になりますように。雨の降る時間は足元きをつけてまいりましょう。

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Early Women Psychoanalystsのことなど。

今日は6月19日、金曜日。いいお天気どころか真夏日になるって。それきくだけで辛くなってくるわ。今日は桜桃忌か、と禅林寺での光景を思い出したり、もう阿波踊りの話題か、と年末年始に行ったばかりの徳島に思いをはせたりしているうちに朝の時間はどんどんなくなっていく。

先日、Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance(Klara Naszkowska編、2024、Routledge)のことを少し書いた。精神分析のパイオニアであるにもかかわらずその貢献が語られてこなかった女性たちに関する本である。海外文献紹介の依頼をうけているのでこの本だったらすぐに書けたかもとあとから思った。それはともかく、精神分析家にいくら女性が増えていようと女性の地位が向上したわけではないのは日々のニュースから明らかなので、自分が生きる道を切り開いてきてくれた先人たちのことを知り、語り継ぐことは大事だと思う。

特に第4部のBeyond the Holocaustが印象深いと書いたが、そこには若くして自殺したふたりの女性精神分析家が登場する。ひとりはワルシャワの裕福で愛国的な家庭に生まれたポーランド系ユダヤ人のEugenia Sokolnicka。彼女の母は女性による愛国運動の著名な活動家であり、逮捕をされたこともあるが、ポーランド独立後には国葬に準ずる盛大な葬儀をもって追悼された人だという(Geissmann & Geissmann, 1998)。一方、ソコルニツカは当時のロシア帝国支配下のポーランドにおける女性への制限のため、大学への進学を許されなかった。

しかし、ソコルニツカは Sigmund Freud や Sándor Ferencziの分析を受け、lay analystとして活躍の場を広げていく。彼女に関する彼らのやりとりも興味深いというかなんなんだ、という感じはするが、フランスの精神分析に貢献したソコルニツカの名が Marie Bonaparteの登場によって、フロイトと同僚たちとの往復書簡から徐々に姿を消していったという記述は切ない。これだけみても女性分析家としての立場の弱さを感じるが、マリー・ボナパルトの登場は象徴的な例であり、男性中心社会における女の使用、権力構造のありようはどこでもなにも変わっていないのだろう。それに加えてヨーロッパの社会政治的状況、具体的にはユダヤ人に迫りくるヒトラーの脅威、様々な歴史的文脈があるにせよなんにせよ、彼女は1934年5月19日、58歳でソコルニツカはガス中毒によって自ら命を絶った。

ソコルニツカの死に際して、彼女の元被分析者であり生涯の友人であった小児科医・精神分析家の Édouard Pichon は、フランスへのフロイト理論の導入と精神分析家養成におけるソコルニツカの功績を公に認め「彼女は医学の学位を持ってはいなかったが、未来の精神分析家を養成できる唯一の人物であった。」と述べている。

ソコルニツカとこの後の章に書かれるSophie Morgensternに関して重要なことは、彼女たちに関する記述が単なる精神分析史ではなく、言語の歴史として読めるところである。これは私が紹介しようとしているアナト・ツール=マハレルの議論と重なっていくのだが、ソコルニツカもモルゲンシュテルンも母語はポーランド語であり、ドイツ語で分析を受け、フランス語圏で活動するという3つの言語空間を生きた精神分析家である。しかも彼女たちは患者とはポーランド語で話しながら、論文はドイツ語やフランス語で書いている。このようなことをどう受け取るかは読者によって異なるかもしれないが、と私の意見を書きたいがもう時間がないので今日はここまで。またいずれ。

良い一日になりますように。

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感触

昨晩、静かに降り始めた雨の音が強くなっていた。今はまた少し静か。昨日の昼間は陽射しがあった。少ししか浴びていないはずなのに肌が赤黒くなった。痒いような痛いような。薬を投与&塗布。アントニオ・R・ダマシオは皮膚を単なるタッチセンサーではなく身体最大の内蔵だとした。火傷で人が死ぬのも皮膚が不可欠な内臓だからだという。皮膚が原初的なインターフェイスであることはそれこそ感覚的に理解できる気がする。内と外が繊細につながる場所は自己も心も表れやすい。アトピー性皮膚炎の子どもの親がなぜか育て方を叱られたり、指しゃぶりが睡眠への導入となったり、感覚過敏によって同じ素材しか着られなかったり、人は繊細な部分にも容赦ない。

月曜日に大きめの地震があった。オフィスは高層階なので気持ち悪い感じで揺れた。防災用の多機能ラジオやミニランタンを充電したり懐中電灯の電池を確認したりした。防災グッズの準備に終わりはないが、いざとなったときにささっと使えるかな。シミュレーションはしているが不器用すぎるし不注意すぎるので不安ではある。

つくおきにも終わりがない。つくおかなくても帰ってきて10分とかでできるものはあるしInstagramでレシピを見続ける時間も減らないが洗い物も少なくしておきたいし、なんとなくつくおきは楽だ、ということで最近は好きな料理家のお弁当本を参考にしてメインを作っている。印度カリー子とか飯島奈美とか。一時はお昼もお弁当にしていたけど最近はあまりしない。電子レンジをおけばやる気になるかもだけど食べる時間も定まってないしまあいいかとなる。でも食材いじってる時間は楽しいよね。最近なんでも高くて困るけど。

毎日精神分析をしているといろんな体験を表す概念の奥深さを感じる。この前、週一回の精神分析的心理療法の事例を素材に「甘え」について発表したが、精神分析の場合、それはもっと別の形で現れるように思い、私はまだそれと出会えていない気がする、と話した。「甘え」と言葉にした途端消えるそれは私にとって消失点で立ち現れる感触だが、精神分析の感触でいうと、それはもっといつのまにか豊かな草原に立つような感覚と共に現れそうなジブリ的静けさをイメージする。なんだそりゃという感じだと思うが隔たりがなくなることでできる空間ということ。それでもなんじゃそりゃか。少しずつ言葉にしていこう。

それでは今日も気をつけて出かけましょう。良い一日になりますように。

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Beyond

今日もいいお天気。まだ暑くもないし、ずっとこのくらいならいいのに。


昨日私は精神分析家になる(becoming)の文脈で考えていると書いたが、精神分析家によってそのプロセスは全く異なる。それはごく当たり前のことなので語られなかった言葉、忘れ去られつつある言葉に対する感受性は意識して磨いていくしかない。単に歴史は大切というのではなく、歴史に残らなかった歴史も大切である。


2年ほど前にここでも書いたがKlara Naszkowska編集のEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevanceはその観点からみてもいい本だと思う。


各章はBeyond Wife, Lover, Muse、Beyond Psychoanalyst、Beyond the Homeland、Beyond the Holocaustと「Beyond〜」のどれかに収められており、それぞれの章の著者は、精神分析家だけではなく、歴史家、ジェンダー研究者、文学研究者、ユダヤ研究者もいる。


出版社のウェブサイトの概要をみるとそれぞれは以下のように説明されている。

本書の第1部では、Sabina Spielrein、Lou Andreas-Salomé、Beata Rank といった比較的よく知られた分析家たちを取り上げる。彼女たちはしばしば誰かの妻、恋人、あるいはミューズとして記憶されてきた人物である。
第2部では、Margarethe Hilferding、Tatiana Rosenthal、Erzsébet Farkas など、明確な政治的立場をとった女性分析家たちに光を当てる。
第3部では、Ludwika Karpińska-Woyczyńska、Nic Waal、Barbara Low、Vilma Kovács といった、あまり知られていない分析家たちの伝記を、初期フロイト運動における彼女たちの重要性という文脈から論じる。
そして最終部では、Eugenia Sokolnicka、Sophie Morgenstern、Alberta Szalita、Olga Wermer の人生を、移住と亡命、トラウマ、喪失、そして記憶というテーマとの関連において検討する。(引用の訳はここまで)

この本は、特定の観点からしか語られてこなかった、あるいは語ることさえされなくなった女性たちを、既存の物語を超え、アイデンティティを超え、その枠組みの向こう側から読み直すものといえるだろう。なかでも第4部のBeyond the Holocaustの各章は印象深い。これらの章は女性分析家の語られなかった側面を語るだけでなく、精神分析を記憶、亡命、思考の歴史として読み直す視点を提供してくれる。彼女たちの体験とそれを語ろうとする言葉たちは胸に迫るものがあり、思考を促さあれる。Taking CureとかけたThinking Cureというタイトルも彼女たちの歴史の延長上で私も精神分析家になったことを思うとより集団的な態度として有効であるように感じた。


だからなにというわけではないが、土居健郎の「甘え」が人の心を表す概念として有効であることがもはや共有されていないらしい、という事実(多分)に私はそこそこ危機感を抱いているということだろう、こういう本のことを書きたくなったりするということは。

毎日眠いががんばろー。

代々木
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「甘え」とか。

東京はいいお天気。梅雨の晴間。この時期の花々は水も太陽も供給されているせいか朝日に輝く姿もみずみずしい。早朝から夜ごはんの準備をして朝ごはんを食べた。生活習慣は時間感覚を整える。ある程度の見通しがもてることは安心感につながる。
5月はソウルで精神分析の伝達、継承について、先日は市ヶ谷で「甘え」について発表したが、発表は少し過去の思考プロセスの断片となる。外からみると異なるテーマに見えてもひとりで考えられることなんてたいしたことないので、いつもいいたいことは大体同じなわけで、それらは日々考え続けられている事柄でもある。
今年の日本精神分析協会のジャーナルでも対象の不在を知覚するプロセスにおける精神分析カップルの心の揺れやそこから立ち現れる気づきについて書いた。「甘え」もそうだが、精神分析が相互作用を重視することは現代では普通のことだ。私はそれを分析家になる(becoming)という文脈で考え続けているから継承の話になるし、治療者が先に甘えにまつわる情緒を体験することの重視になる。土居はもちろん甘えの相互性を強調したし、子供も大人も甘えると述べた。そして甘えを転移と同様のものとして位置づけたが、私たちが甘えや転移という言葉を使うとき、そこに治療者側、母子関係モデルでいえば、母親側をどこまで患者と対等に位置づけて思考できているだろうか。訓練を受けることの重要性はまさにここにあるわけで土居でいえば治療者が「甘え」を自覚することにむけて自分のこころが他者との間でいかにいろんなふり幅で、いかに繊細に動くかに怯えたり、防衛したり、一時的に病的になったりする体験をするなかで自分を知る長き苦闘だろう。

私が土居健郎の「甘え」について考えるとき、同時にアンドレ・グリーンのネガティブ、そしてウィニコットの鏡役割についても考えている。たとえばContemporary Psychoanalytic Practice(2025, French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts series)のThe enigma of guilt and the mystery of shameの以下の部分は「甘え」の説明になりうる。訳はいつも通り間違いがあるかもしれないので参照する場合は必ず原著を。

>>ここに残される問題は、「欲動満足の欠如だけが攻撃性の引き金となる唯一の要因なのか」という点である。この疑問に答えるためには、まず欲動満足を構成する要素を同定する必要がある。母子関係の中で、破壊的側面が存在しているように見える場合、そこでは欠如による苦痛が攻撃性へと変形する背後に、持続的な融合、あるいは分離の欠如non-separationの徴候がうかがえることがある。子どもはこの状況から逃れようとして、母親を執拗に引き留め、ほとんど絶え間なく母親を自分のそばに置いておこうとし、母親に安らぎの時間を与えず、心配させる。まるで、母子関係だけでは得られない何かを、必死に求めているかのように。しかし、このような葛藤の反復は悪循環を延長させ、サディスティック=マゾヒスティックな関係を強化するにすぎない。私の見解では、ここで起きているのは、子どもが、自らの欲望の関係性を母親が理解していない(母親自身の葛藤のために盲目になっている)ように感じるがゆえに、その関係の中の欲望の性質を認めてもらうために行う必死の試みである。したがって、この要求に満足に応じるための前提条件は、主体がこう感じられることである。自分の欲求は欲望の表現として理解されている、そしてその欲望は、他者のうちに、自分自身を映す、自分と相補的な欲望する姿勢を見いだしたときにのみ表現可能である。
私の考えでは、攻撃性は対象を攻撃しようとする意志そのものではなく、むしろ他者からの応答の拒否への反応である。すなわち、主体が期待していた自らの欲望を映し返す応答がそこに見いだせないときに現れるのである。これこそ、ウィニコットがきわめて深く理解した点である。(引用ここまで)

土居は甘えを相手に自分の気持ち、欲求を察してほしい、理解してほしいという受動的、依存的な面を強調した。
一方、ここでのグリーンは、子どもは、自分の欲望の関係性を母親が理解していないように感じるがゆえに、その欲望の性質を認めてもらうために必死の試みを行うとう文脈で述べている。グリーンはウィニコットを引き合いにだすが、土居がウィニコットを引き合いに出すとしたらウィニコットの鏡役割ではなく、攻撃性の理解のしかたに自分の理論との類似性を見出したのではないだろうか。土居は切実さを情緒的に描写したが、それを即痛みとして、つまりわかりやすい攻撃性の文脈におくことはしなかったようにみえる。北山修のいう儚さもそうだが、日本の精神分析はどこかずっと見続けられる夢として親密さを捉えているのではいか。

とかこういうことをあれこれ毎日考えているわけである。今月末〆切の仕事もできていないのに同じく今月末〆切の演題募集に応募したいと欲張っている。どうせだめだろうとワンチャンあるかものはざまにいつもいるな。まあ、その時々の状況でどうにかしましょう。


今日は火曜日。良い一日になりますように。

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学術大会とか2

サッカーワールドカップ、ちょっとゴミ捨てに行ったら引き分けになっていた。外は雨が少し降っていた。

昨日も朝から夕方まで日本精神分析協会学術大会だった。市ヶ谷は昔、精神科クリニックの受付アルバイトで通っていた。昔すぎるが変わらない景色もある。釣り堀とか。一日がんばるためにと理由づけをして朝からケーキを食べてしまった。このカフェは私が通っていた頃はなかった気がする。午前のプログラムを聞き、すでに疲れきった頭で富士そばへ。知り合いが店内にいてなんとなくお話をしながらそばを待った。同じメニューを頼んでいたが彼は温かい蕎麦だった。私はすぐに食べられるように冷たい蕎麦にした。発表中に眠くなってしまうと困るのでさっさと食べたらそのあたりを早足で散策。お堀沿いを歩いていたらカワウがいた。また信号を渡って会場にはまだ戻らず急な坂道へ。登って降りてきた。この坂も昔セミナーで通っていた坂。腹ごなしにもちょうどよい傾斜。それでも全然歩数少ないまま会場へ。

今回は事例検討のグループとパネルで司会をしたが司会は負担が少なそうでそうでもない。一般演題で「甘え」について発表したが発表も原稿読めばいいだけといえば簡単そうだがそうでもない。そんなことは知っていたがいつもと違う頭と心を使った。事例とテーマにコミットしたコメントをいただけたりしたのは嬉しかった。せっかくオープンにしているのだからなおさら精神分析の外に開かれた、かつ精神分析概念としても重要な言葉を使いたい。「甘え」はうってつけなわけだけど、日常語としては使われていてももはや精神分析療法を説明する主要概念としては捉えられていないという感じがした。それならなおさら取り上げていかないとなあと思った。私は日々臨床の生活なので、臨床素材から議論していく形式は自分の中でぶれることはない。「AMAE」を取り巻く現代の環境や言葉の使用を思えば、外国に向けた論文を書いた方がいいのかもしれないな。日常語、つまり生きた言葉を日本の精神分析は大切にした方がいいと思うから。私は対象の不在を知覚することの困難と意義を絡めて「甘え」という言葉が使用されるときのことを考えている。

昔からの友達が今年もきてくれた。いろんな人とたくさんお喋りもした。精神分析的な理解は精神分析の訓練をしていなくても共有できる部分は多いというか、公的な相談室で外部からのスーパーヴァイザーとして精神分析家を呼んだりしていたのは私が若い頃からあったわけで、精神分析と呼ばなくても自然に力動的な理解をして臨床をしている心理職は多い。私の世代は気楽になんでも取り入れてきた世代だからなおさら症例や考え方はしっかり共有してもらえるうえに別の視点ももらえて楽しい。理論的な部分は難しいと言いつつも応援だからと毎回きてくれるのも嬉しい。若い頃から本当に助けられてきたつながり。仕事でもとてもたくさん話し合ったし、対話が普通にあった時代だから打てば響く。それが当たり前だと思ってきたけど今は本当に貴重に思う。携帯とインターネットは世界を変えたね。生身で、その場で、というのはむしろ自然じゃなくなってきているのかな。人間は、というか日本人は、というか、とどんどん対象を小さくしているが、本当にどうなっていくのだろう。

色々考えれば憂鬱だが考えなかったら面白いこともできなそう。新しい1週間、またがんばりましょう。

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学術大会とか。

今朝は少し蒸し暑い。ごはんを食べたらもっと暑い。代謝。今日も一日屋内。

日本精神分析協会の総会、報告会、学術大会1日目終了。大変疲れたが勉強になったのはもちろんのこと、楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。学術大会にいらしてくださったみなさま、本当にありがとうございました。お久しぶりの方々ともいろんなお話しができた。実際に会って近況を報告しあえるだけでもみんながんばってるんだな、と元気をもらえる。会員以外の臨床家にもオープンにしてから3回目の大会。参加者の皆さんの自由度が増している印象。議論が活発。有意義。学術的な議論ができる場として楽しみにしてもらえる大会にしていけたらいいな。

それにしても眠い。どうしたものやら。朝からレシートの整理とかのんびりしていたが今日発表がふたつある。全然自分の中がそんな雰囲気になっていない。いつもいかない駅でお菓子を見つけるのが楽しくて昨日もいろんなお菓子を配ったり食べたりした。世の中には本当にいろんな商品があるものだねえ。

なんかどうでもいいことを書き続けているうちに時間になってしまいそうだからもういこうかな。みんないい一日になりますように。

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6月13日(土)

いいお天気。だけど大気の状態は不安定です、とのこと。

昨日はサンダルで帰ってきたから足が痛い。朝は東京も雷雨になるのかしら、と心配していたのにもっとも雨に弱いおしゃれスニーカーを履いて出てしまった。運よく昼間の雷雨は免れたが夜も雨かもということだったので置きサンダルで会議のある場所へ移動。結局降られず。それはそれでラッキーだったが夜遅い中大混雑の駅構内を歩くのは辛かった。週末の東京の混雑、怖い。東京暮らしの方が実家暮らしよりずっと長くなってきたのに昼も夜もほとんど人に会わない通りの方に身体が馴染んでいるらしい。最近は実家に帰る電車も隣の人と隙間なく触れ合うように座らざるを得なくなったが昔はそういうことはなかった。ずっと変わらないなんてことはどこでもありえないのだろう。守ろうとしない限りは。

今日は日本精神分析協会の総会と学術大会。ずっと屋内。暑そうだからいいけど身体動かさないとなんか澱むよねえ、気分が。昨日からすでにいろいろ始まっておりすでにいろいろな話をした。今日も明日もいろんな人といろんな水準の話をすることになる。まるで余裕のないときこそいつも以上に普通に音楽を聴いたり小説を読んだりしたいが友達に本をあげることでよしとしよう。

どうでもいいことだが、昨晩、電球を交換して新しいのを店舗受け取りで注文した。新宿はどこの出口を出ても家電量販店が近いのでとても便利。そこそこ大きいものでも自分で持てるものは大体店舗受け取りにしてしまう。西口のヨドバシであればオフィスのある西参道(渋谷行)を通る路線のバス停が近いので重たいものも大体運べる。力持ちでよかったというのもある。そういえばしばらく忙しくてトレーナーさんのところに行けない。自重トレやらねば。毎日誰に訊かれたわけでもないのに言い訳をしてサボるのをやめましょうね。はい。ダイエット目的だと筋トレだけではそれほど効果ないかもしれないが、怪我予防にはとてもいいと思う。いろんなところに自分の足腰で行けたらいいな。

良い一日になりますように。

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6月12日(金)朝

いいお天気。でも予報では雷雨になるかもと。東京もかしら。昨日はお昼に外に出たときが一番涼しく感じた。朝は長袖Tシャツにシャツを羽織っていたけどお昼はシャツを脱いでいた。夜は用心して置き上着も羽織ってでた。それを脱ぐほど暖かくもなかったが着なくても大丈夫だったかなくらいの気温だった。

昨日は朝早く着いたのであまり歩かない道をぐるっとまわってからオフィスへ行った。坂道で小学生の兄と妹が手を繋いで追い抜いていった。歩き慣れている子たちは早いな、と思って見送ったら妹が急かす兄を嫌がって泣き声で何かを言い繋いでいた手を離した。お兄ちゃん、荷物を持ってあげてるんだ、と今度は私が通り過ぎようとすると兄は苛立ってその荷物を妹に軽くぶつけ、少し先を行った。信号が変わってしまう前に妹が渡れるかどうかを気にしながら立ち止まったり振り返ったりする兄とマイペースに不貞腐れつつゆっくり歩く妹に、信号変わっちゃうよ、と私がハラハラした。信号が点滅しはじめると妹は少し早足で無事に兄のあとを渡りきった様子だった。この短時間ですでに泣き顔は消えていた。きっと毎日のことなのだろう。歩き慣れた道だから生じる二人の出来事だとしたらそんなに危なくもないのだろう。お互いのペースに合わせることは難しくても付かず離れず一緒にいる。きょうだいの距離感も色々ではあるが。

先日、この八百屋に行くとテンションが上がる、と思っている八百屋にいけた。セロリが安く立派だったので買ってきて黒酢と醤油と生姜でマリネにした。時期的にはもう最後かしら。セロリって結構衝撃的な味だったと思うのだけど出会いはいつだったか。生で食べて「?」となってスープでのんで「♡」ってなっていつのまにかどんなふうに食べても「(^o^)」ってなったんだっけ。えらくまかないがおいしかったバイト先の喫茶店ではセロリ使ってなかったと思うしなあ。友達とよくいってたカフェで知ったのかも。

食べ物との出会いで一番覚えているのはナスだな。周りにナス嫌いはいたらしく、あとから嫌いな食べ物をどう拒否していたかという話をしたことがある。自分の好き嫌いはあまり意識したことはない。牛乳を飲むと気持ち悪くなってしまうのは知っていたのでほしい子にあげていた。

Netflixで見ていた「ホームランド」の最終回にカマシ・ワシントンが出ててびっくりした。面白く見てきたがこの最後でかなり印象深いドラマになった。バンドにはリッキー・ワシントンも。あー、感動した。

もうこんな時間か。計画的に過ごさねば。いい一日にしましょう。

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メッセージとか

朝の空じゃないみたいな色。夕方みたい。梅雨に入ってもまだくもりが多い。傘は持ち歩いているけど。関東は今日はにわか雨が降るかもだって。

誰かと親密になることを対人関係の目的にする必要はないと思うけど、回避しつづける関係はそれはそれでいいけど、親密になるならお互いを思いあえる関係の方がいいだろう。傷つけあうことを快楽とする場合もあるが、それも単純なものではない。自分が人にどういう態度をとっているかは怒りの表現でわかることが多い。怒りは結構自覚しにくく衝動的に表出されやすいものなのでそれが関係を一気に変えることはすごくありうる。多くの人が経験済みだろう。出せば伝わるものではないのがメッセージであり、子供と大人のコニュニケーションともなればなおさらだ。フランスの精神分析家ラプランシュは以下のようなことを言っている。今ラプランシュが手元にないのでAnat Tzur Mahalelの Routledge, History of PsychoanalysisシリーズのReading Freud’s Patients: Memoir, Narrative and the Analysandから孫引きしたのを訳してみる。

“メッセージという概念には、すでに存在し、主体に先立って存在する意味が主体に提示されるという考えが含まれている。しかし主体はその意味の主人ではなく、それに身を委ねることによってのみ、その意味の主人となりうるのである。

また、謎という概念によって、決定論には断絶が生じる。なぜなら、謎めいたメッセージの送り手は、自らが意味していることの大部分を知らないからであり、また子どもは、自分に伝えられたものを構成し理論化するための不十分で未熟な手段しか持たないからである。

したがって、一方にある親の無意識やその言説と、他方にある子どもがそれらをどのように受け取り処理するかとのあいだには、直線的な因果関係は存在しないのである。”

(Laplanche, 1999, p.160)

以上のことは本当に大事なので心に留めておきたい。

6月もやることが多いのにもうすぐ半分が過ぎてしまう。今日もがんばろう。

代々木公園
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ジビエとか。

今日は関東は涼しいみたい。湿度高いけど涼しい風も時折吹く。昨日は朝は結構厚着をしていたけど昼間と夜はそんなに気温差もなく、上着も着ないで帰ってこられた。

先日、友人夫妻にジビエ料理のお店に連れていってもらった。

鹿肉のデミグラスソースがさっぱりしていて美味で、友人が頼んでいた猪のお肉もとてもきれいだった。自分たちでとって解体してこうやって料理する。いろいろお話も伺ったがプロセスを実際に経験している人たちの言葉は気持ちよかった。

連翹や大きな鹿がいつの間に 岸本尚毅

私たちを送ってくれた帰り道、猪に遭遇した、と写真を送ってくれた。私の生活は猪や鹿が身近ではないけど、少し足を伸ばせばそういう生活がある。宇都宮にも熊が出たが、身近でないと思っていても生活圏のバウンダリーがはっきりしているわけではないのだからこれまでもありえない話ではなかったのだろう。誰も危険にさらされてほしくはないが。

こう書きながら熊が出てくるインパクトの強い文学作品があったなあ、と思っているのだけどなんであったか。最近のではなくて。宮沢賢治か?でも外国文学だった気もする。そのうち思い出したらまた読んでみたい。全く覚えていないだろうけどまたインパクトは受けるのだと思う。

今朝はルイボスティーとか皮のまま食べられる葡萄とか。ルイボスティーって本当にいろんな種類がある。すごく好きというわけではないけどなんとなくいつも置いてあってなんとなく飲んでいる。大人になってから知ったお茶だと思うけど大人になってからがもうすごく長いのでいつのことだったか忘れたな。

6月は全然休みがない。どうせ雨だから屋内がちょうどいい、と思うことにしよう。もう10日か。いろいろ間に合うのだろうか。がんばろう。

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対象の使用とか。

梅雨だ。とてもそれらしい雨。

形なきものの影濃き梅雨の家 宇多喜代子 『雨の日』

もうしばらくしたらきっと

化粧して梅雨に慣れたる体かな 岸本尚毅 『第二句集 舜』

どの季節も日常を淡々と。

花にいきなり触れる人、花をいきなり手折る人をみるとびっくりしてしまう。たまたま目にはいっただけなのに、自分のものにしても見ようともしないだろうに、その場の衝動をおさめるために対象を使用する。それは精神分析家のウィニコットがいう意味での「対象の使用」ではない。使用の前には常に想像/創造が必要。ためらいのなさとはいきなり近づいて触れることではない。雨の季節、傘についた雨粒の行方をおもう。

人は形を変え、相手を変え、驚くほど同じことをやっていたりする。精神分析ではそれは反復と呼んできた。分析家のほうには別に見えるものを同じとみなすための枠組みがあるが、本人がそれとあれとこれが同じ、と気づくには時間もエネルギーもいる。同じといわれればそんな気もして、ついなんでもかんでも同じ構造で説明したくなるというような奇妙なことも起きる。いわれたら囚われる、いわれるまで気にならない。囚われは精神分析でなくても重きを置かれる状態だろう。森田療法とか特に。

あさごはんを食べすぎておなかいっぱい。仕事までにしゃきっとできるかな。今日もがんばりましょう。

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週末

関東も梅雨入り。シトシトシトシト雨が降っている。関係ないが口の中が痛い。どこかの粘膜がやられてしまったのだろう。

昨日は同じ路線で乗り換えつつ一時間くらい電車に乗ってでかけたがずっと立ったまま本を読んでいた。途中、座ろうと思えば座れたがストレスの少ないほうを選んだ。

久しぶりに没頭気味の読書をしたが、それでもほとんどの本は読みかけのまま積まれたりする。若いときの日曜日は1日数冊読んだりしていた。読書はその時々の自分と時間の関係を示している。大人になっていろんな機能が落ちているせいなのかなにやら別の要因かわからないが、小説の読み方が随分変わった気がする。ぼんやりした状態でなくてもなんどもなんども同じ文章を追うことが増えた。内容よりも音からなにかを得ているような。それだけでなくなんとなく正確に文字を追いたいという気持ちも強くなった気がする。いろんな作家の文章を知ったせいもあるし、身体感覚が変化したせいもあるのだと思う。

久しぶりに砂浜を歩いた。海に近い庭園の土はすでに海の砂まじりで明治の頃は松林の向こうに海が見えたそうです、というお話からその景色もたやすく想像できた。海が近い土地は独特の空気がある。私は海なし県育ちで海をどこかとても怖く感じてきたのでそこにいけばいつも、普段なにも感じていない身体部位を刺激されたような気持になる。大正12年(1923年)、関東大震災で海底や地盤が隆起し景色が変わったときいた。

海が似合う大きな犬とも仲良くなった。犬らしい警戒心を残しつつも次第に耳を垂らしそばでくつろいで時折鼻をぐっとくっつけてくる様子がとてもかわいくて嬉しかった。動物とはじめましてをするときは保育園で0歳児クラスにはいるときと似たような気持になる。繊細でやわらかきものたちと距離をはかるのは少し緊張する。その緊張で相手も緊張してしまわないようにと自分をコントロールするような気持にもなるが、基本、自分のコントロールというのは難しいものなので経験を生かしていくという方向になる。

いろんな土地に行っていろんな人と出会ってきたことで身体も感覚も変わってきたのだろう。読書体験自体が無数の自分を空想させる機会にもなるのでそれにもずいぶん楽しませてきてもらったのだと思う。良い週末だった。今週も頑張ろう。

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実感とか

まだまだ朝と日中と夜の気温差が大きい。梅雨前は毎年こんな感じか。今朝も長袖。

今朝は桑名のおみやげ「焼きはまぐりサブレ」をいただいた。サブレはなんでもおいしいしいろんな形のサブレがあって楽しい。「その手は桑名の焼き蛤」という表現を最初にきいたのは親からだと思う。私とのコミュニケーションではなくて、なにかの出来事とかニュースとか映画とかそういうものに関してだろう。私はそう応答させるようなふるまいをした覚えがないから。覚えがないだけでしたのかもしれないが。なんにしてもどこできいたとしても小さいときの私にはハテナだっただろう。食べ物系の表現でこりゃ面白いなと思ったのは「目黒のさんま」だ。これは落語だから当然面白いわけで大人側も単に意味を説明するというよりは演じる感じで教えることになる。たぶんそれが面白かったのだろう。

俳人の西村和子さんが季語を実感してほしいといっていたが本当にそうだな。最近だったら新緑、若葉、薔薇、つばめ、紫陽花に季節を実感したか。もう少ししたら「梅雨に入る」になるか。

実感というの精神分析臨床においても最も大事な感覚だと思う。AIにはもっとも難しいものではないだろうか。直感もそうかな。

この前、居酒屋の店主が自分は飽き性だから同じ酒を置いておくのがいやで毎回変えているといっていた。日本酒の種類が多い店だったのでこの量を毎回変えていくってすごいことではといったら直感でいい酒が手に入るとのこと。たしかにおいしかった。長年、酒と肴・魚と付き合い続けた結果、獲得された能力としての直感でこうして私たちにいい時間をくれる仕事。温暖化も外交も彼らの仕事を追い詰めつつあると思う。店は私くらいの年代の人が多く満席だった。変わらずありつづけてほしい。守られてほしい。

来週末は日本精神分析協会の学術大会。福岡支部の人たちとも会えるし、昔からの友人たちも申し込んでくれたというし楽しみだな。精神分析学会にはいかないけどこっちには毎年きてくれるというのは協会がまだそういう個人的なつながりを生かせるくらい小さいということだけど大きくなっても(ならないかもしれないけど)学術面ではずっと対話可能空間であってほしい。

東京はくもり。お昼過ぎには雨マークも。季節を感じ、季語を実感し、うわすべりしない言葉で対話できる日曜日になりますように。

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『大濛』をみたり。

今朝も涼しい。ネットで調べてごはんを時短で炊いた。途中、気になって蓋を開けたりしたから少し硬い。

昨日は寒いくらいだった。厚手のパーカーを着て歩いてたら少し暑くなったけど。帰り道はパーカーのジッパーを首までしっかり上げて早足で歩いた。風が強いとすぐに体温を奪われてしまう。陽射しが少しでもあると一気に気温が変わることにも驚くけど。昨日、新宿中央公園を横切ったときに思った。新宿中央公園がイベント中だけどその手前の都庁のバリアフリールートが今工事中。別のルートもあるのかな。屋根がある通路や地下道があるのは助かるけどそれでも都庁へ通勤する車椅子の人が大変そうなのを時折見かける。朝は人が多いから誰かしらが声かけをしているのも見るけど通勤だけでとても体力を奪われそう。居場所づくりはよく問題になるけどそこへ至る物理的な道づくりも課題だねえ。

Netflixで台湾映画、大濛(だいもう/A Foggy Tale)を観た。言葉と絡めた台湾の歴史を知らねばと思わされる映画だった。あまりよく知らずとも想像される歴史だけでも、そこを生きた人たちを思うだけでも胸に迫るものがあり、映像も配役もすばらしかったが、この重たさはメッセージとして受け取り解読する必要があるのだと思う。台湾の人が解説したブログが良いらしいのでそれをまずは自動翻訳で読んでみようと思う。自動翻訳で読んで誤った歴史認識をしてしまったらどうしようとも思うがいろんな本を合わせて読めば標準的なことは知れると思うのでこのあまりに知らない状況をまずはどうにかしようと思う。

1週間が恐ろしく早くすぎるが夏休みの予定をお伝えしはじめたりしている。2年後のIPA大会に演題を応募したいが、それは間に合わなそう。すっかり締切を忘れていた。バラバラと仕事を引き受けてしまったのでそちらをまずはやらねばならない。

今夜は寝不足を解消したいがとりあえず今日もがんばりましょう。東京はくもり。気温はこれから少しあがるのかもだけどあったかめの服装にしてしまった。用心用心。各地でいろんなお祭りやイベントが増えている。もうすぐ梅雨入りだけど元気出していこう。

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6月5日朝

鳥たちの声がまだ少し遠い。月がまだ高い場所にある。寝る前にみた月もたいして変わらない位置にあった。寝不足ということ。夏の夜明けは西側のマンションが珊瑚色に染まるのがきれい。時折足元に涼しい風がスーッと抜ける。時折寒いくらい。

片付けも大分進んだ。紙類の処分が悩ましいが地道にやろう。

古文が好きで高校生の頃はよく読んでいた。おとなになってからは人の本経由。河合隼雄の『物語を生きる 今は昔、昔は今』(小学館)とか。殺人がない平安時代の文学では攻撃性がどう描かれたか、とか心理療法にも示唆的なことが多く書かれている。河合隼雄だから主にそれが書かれているのだが古典のブックガイドとしてもいい。私も人間の様々な心模様はほぼ本から学んだ気がする。現実の人間より掘り下げが深いし。色々書き始めると長くなるから今はがまん。

今日も一日頑張りましょう。

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天安門事件の日

夜明け前の空がとてもきれいなピンクだった。台風は東京をあっけなく過ぎたが電車はすいていた。他の地域はどうなのだろう。私の仕事も自然災害は経済状況に響くので辛い気持ちになる。

今日は中国で1989年に起きた民主化運動「天安門事件」から37年。今年は遺族の人たちの墓参りまで禁じられたという。言論統制の徹底が引き起こすことを思えば日本もこのままではいけないという危機感を持つ人のほうが多いのではないかと思うがそうでもなさそうなのが怖い。台湾での追悼集会に少しだけホッとする。

天安門事件以降、冷戦終結、1992年以降、経済の高度成長期に入った中国の学問的なあり方もずいぶん変わったときく。外とつながりはじめること、言論を封じ込める圧力に抗うには啓蒙だけでは無理だろう。内で語れないことを外が語るということもやめてはいけないし逃れ続けるならそういう弾圧に対してであって自分の嫌な部分からではない。実際、哲学の分野ではデリダとハーバーマスの訪中と交流による影響はとても大きかったという。

うーん、色々考えてしまうな。今日も色々あるかもしれないけどみんなでがんばりましょう。

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台風

雨がすごい。空気が重たく感じるくらい湿気もすごい。テスト期間中の学校もあると思うが休校になるのかな。授業はオンラインに切り替わったところもあるみたい。みんな無事が基本。気をつけて過ごしましょう。

学術大会の原稿をなんとか送ったので次の書評の仕事に取り掛からねばだけど隙間時間に一気に書いて疲れ切った頭ではどうにもならず、ダラダラと岡田温司の『アガンベンの思想圏』をめくっていた。アガンベンの「瀆聖」というのがとても興味深い。内と外をたくみにごっちゃにしていく思考はよくわからない宗教的なものにのっとられがちな今こそ必要ではないか。今はその後に切断できる準備ばかりする社会になってる気がして怖い。緻密に緻密に人間らしさを取り戻していきたい。

原稿を書きながら俺はいつも同じことばかり言っていると思ったが自分が探求したい方向性がそうなのだろう。やりたいだけ繰り返しながら少しずつ別の軌道へ、というのはむしろ精神分析的。

今日はのんびりしてしまったので時間がなくなってしまった。被害のでている地域のみなさんもどうかご安全に。

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循環

風が涼しい。台風が近づいてる。

最初、というか、もうずっとだけど家族というものが維持されている不思議について考えなければいけない時代なんだなあと思う。その単位が基本と思わないように、思わせないように、など。

週末に完成させられなかった原稿、平日の隙間時間にやるのは本当にきついがしかたない。まあ、なんと大きなものを残してくれたものか、土居健郎。私に実践が伴っていなかったら対話などできなかったかもしれない。精神分析を受けて、自分も患者を持って、指導する側にもなってという循環ができてやっと思考が可能になる感じ。でもそれを形にするのはまた別の話。とても時間がかかる作業。今は長い訓練で得たもの形にしている側面が大きい。これはこれでやらねばと思っていることではあるけど。

とにかくいただいた猶予を大事にせねば。良い一日になりますように。

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知床の自然とか。

昨晩の月がとてもきれいで何度もカーテンの向こうをのぞいてしまった。沖縄本島地方及び周辺離島と宮古島地方に暴風警報だって。大変なことだ。どうぞお気をつけて。関東はくるとしたら水曜日かな。今日はひどく暑くなるらしい。

昨晩、作業しながらNHKスペシャルをなんとなく流していたら、温暖化などでエゾジカがこの10年で急増し、ヒグマを脅かしているとのこと。ヒグマの食糧となる草を先に食べ尽くしてしまうらしい。そしてヒグマもエゾジカも食べないハンゴンソウばかりが茂ってしまう。うーん。自然の循環、恐ろしい。もちろん人間にもすでに影響が出ている。結局最後までなんとなく見てしまったのだが知床のあまりにも美しい自然の中で起きている現実にとても悲しくなってしまった。知床のネイチャーツアー、あれは原生林トレッキングだったか、すごくよかったけどもう行けなくなってしまうのかな。当時も車から野生動物たちを見たがクマの注意はそんなにされた覚えがない。むしろ人間の足跡が立入禁止のロープの外まであることに驚いた。ほぼ崖のような場所で。危ない場所が人間が踏み入れたことでもっと危なくなっていく。私の胃腸の弱さも自然とうまくやってこなかった証拠かもな。病気の知識はあっても自然の知識がないのはダメな気がする。色々知っていこう。

今日はものすごく寝不足だが作業は結局終わらず。昨日は症例を使ったグループディスカッションもあったけど普段と違う気持ちになれて発見が多いな。無理なく正直に言葉にすることはどの場面でも大事。言葉にすることで別の無理が生じたりは当然あるけど自分の中のなにを大切にしたいかだね。

AIのニュースが本当に増えたねえ。人間ひとりひとり限界ある自分のことも大事にしよう。

新しい一週間もがんばりましょう。