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Beyond

今日もいいお天気。まだ暑くもないし、ずっとこのくらいならいいのに。


昨日私は精神分析家になる(becoming)の文脈で考えていると書いたが、精神分析家によってそのプロセスは全く異なる。それはごく当たり前のことなので語られなかった言葉、忘れ去られつつある言葉に対する感受性は意識して磨いていくしかない。単に歴史は大切というのではなく、歴史に残らなかった歴史も大切である。


2年ほど前にここでも書いたがKlara Naszkowska編集のEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevanceはその観点からみてもいい本だと思う。


各章はBeyond Wife, Lover, Muse、Beyond Psychoanalyst、Beyond the Homeland、Beyond the Holocaustと「Beyond〜」のどれかに収められており、それぞれの章の著者は、精神分析家だけではなく、歴史家、ジェンダー研究者、文学研究者、ユダヤ研究者もいる。


出版社のウェブサイトの概要をみるとそれぞれは以下のように説明されている。

本書の第1部では、Sabina Spielrein、Lou Andreas-Salomé、Beata Rank といった比較的よく知られた分析家たちを取り上げる。彼女たちはしばしば誰かの妻、恋人、あるいはミューズとして記憶されてきた人物である。
第2部では、Margarethe Hilferding、Tatiana Rosenthal、Erzsébet Farkas など、明確な政治的立場をとった女性分析家たちに光を当てる。
第3部では、Ludwika Karpińska-Woyczyńska、Nic Waal、Barbara Low、Vilma Kovács といった、あまり知られていない分析家たちの伝記を、初期フロイト運動における彼女たちの重要性という文脈から論じる。
そして最終部では、Eugenia Sokolnicka、Sophie Morgenstern、Alberta Szalita、Olga Wermer の人生を、移住と亡命、トラウマ、喪失、そして記憶というテーマとの関連において検討する。(引用の訳はここまで)

この本は、特定の観点からしか語られてこなかった、あるいは語ることさえされなくなった女性たちを、既存の物語を超え、アイデンティティを超え、その枠組みの向こう側から読み直すものといえるだろう。なかでも第4部のBeyond the Holocaustの各章は印象深い。これらの章は女性分析家の語られなかった側面を語るだけでなく、精神分析を記憶、亡命、思考の歴史として読み直す視点を提供してくれる。彼女たちの体験とそれを語ろうとする言葉たちは胸に迫るものがあり、思考を促さあれる。Taking CureとかけたThinking Cureというタイトルも彼女たちの歴史の延長上で私も精神分析家になったことを思うとより集団的な態度として有効であるように感じた。


だからなにというわけではないが、土居健郎の「甘え」が人の心を表す概念として有効であることがもはや共有されていないらしい、という事実(多分)に私はそこそこ危機感を抱いているということだろう、こういう本のことを書きたくなったりするということは。

毎日眠いががんばろー。

代々木
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「甘え」とか。

東京はいいお天気。梅雨の晴間。この時期の花々は水も太陽も供給されているせいか朝日に輝く姿もみずみずしい。早朝から夜ごはんの準備をして朝ごはんを食べた。生活習慣は時間感覚を整える。ある程度の見通しがもてることは安心感につながる。
5月はソウルで精神分析の伝達、継承について、先日は市ヶ谷で「甘え」について発表したが、発表は少し過去の思考プロセスの断片となる。外からみると異なるテーマに見えてもひとりで考えられることなんてたいしたことないので、いつもいいたいことは大体同じなわけで、それらは日々考え続けられている事柄でもある。
今年の日本精神分析協会のジャーナルでも対象の不在を知覚するプロセスにおける精神分析カップルの心の揺れやそこから立ち現れる気づきについて書いた。「甘え」もそうだが、精神分析が相互作用を重視することは現代では普通のことだ。私はそれを分析家になる(becoming)という文脈で考え続けているから継承の話になるし、治療者が先に甘えにまつわる情緒を体験することの重視になる。土居はもちろん甘えの相互性を強調したし、子供も大人も甘えると述べた。そして甘えを転移と同様のものとして位置づけたが、私たちが甘えや転移という言葉を使うとき、そこに治療者側、母子関係モデルでいえば、母親側をどこまで患者と対等に位置づけて思考できているだろうか。訓練を受けることの重要性はまさにここにあるわけで土居でいえば治療者が「甘え」を自覚することにむけて自分のこころが他者との間でいかにいろんなふり幅で、いかに繊細に動くかに怯えたり、防衛したり、一時的に病的になったりする体験をするなかで自分を知る長き苦闘だろう。

私が土居健郎の「甘え」について考えるとき、同時にアンドレ・グリーンのネガティブ、そしてウィニコットの鏡役割についても考えている。たとえばContemporary Psychoanalytic Practice(2025, French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts series)のThe enigma of guilt and the mystery of shameの以下の部分は「甘え」の説明になりうる。訳はいつも通り間違いがあるかもしれないので参照する場合は必ず原著を。

>>ここに残される問題は、「欲動満足の欠如だけが攻撃性の引き金となる唯一の要因なのか」という点である。この疑問に答えるためには、まず欲動満足を構成する要素を同定する必要がある。母子関係の中で、破壊的側面が存在しているように見える場合、そこでは欠如による苦痛が攻撃性へと変形する背後に、持続的な融合、あるいは分離の欠如non-separationの徴候がうかがえることがある。子どもはこの状況から逃れようとして、母親を執拗に引き留め、ほとんど絶え間なく母親を自分のそばに置いておこうとし、母親に安らぎの時間を与えず、心配させる。まるで、母子関係だけでは得られない何かを、必死に求めているかのように。しかし、このような葛藤の反復は悪循環を延長させ、サディスティック=マゾヒスティックな関係を強化するにすぎない。私の見解では、ここで起きているのは、子どもが、自らの欲望の関係性を母親が理解していない(母親自身の葛藤のために盲目になっている)ように感じるがゆえに、その関係の中の欲望の性質を認めてもらうために行う必死の試みである。したがって、この要求に満足に応じるための前提条件は、主体がこう感じられることである。自分の欲求は欲望の表現として理解されている、そしてその欲望は、他者のうちに、自分自身を映す、自分と相補的な欲望する姿勢を見いだしたときにのみ表現可能である。
私の考えでは、攻撃性は対象を攻撃しようとする意志そのものではなく、むしろ他者からの応答の拒否への反応である。すなわち、主体が期待していた自らの欲望を映し返す応答がそこに見いだせないときに現れるのである。これこそ、ウィニコットがきわめて深く理解した点である。(引用ここまで)

土居は甘えを相手に自分の気持ち、欲求を察してほしい、理解してほしいという受動的、依存的な面を強調した。
一方、ここでのグリーンは、子どもは、自分の欲望の関係性を母親が理解していないように感じるがゆえに、その欲望の性質を認めてもらうために必死の試みを行うとう文脈で述べている。グリーンはウィニコットを引き合いにだすが、土居がウィニコットを引き合いに出すとしたらウィニコットの鏡役割ではなく、攻撃性の理解のしかたに自分の理論との類似性を見出したのではないだろうか。土居は切実さを情緒的に描写したが、それを即痛みとして、つまりわかりやすい攻撃性の文脈におくことはしなかったようにみえる。北山修のいう儚さもそうだが、日本の精神分析はどこかずっと見続けられる夢として親密さを捉えているのではいか。

とかこういうことをあれこれ毎日考えているわけである。今月末〆切の仕事もできていないのに同じく今月末〆切の演題募集に応募したいと欲張っている。どうせだめだろうとワンチャンあるかものはざまにいつもいるな。まあ、その時々の状況でどうにかしましょう。


今日は火曜日。良い一日になりますように。

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学術大会とか2

サッカーワールドカップ、ちょっとゴミ捨てに行ったら引き分けになっていた。外は雨が少し降っていた。

昨日も朝から夕方まで日本精神分析協会学術大会だった。市ヶ谷は昔、精神科クリニックの受付アルバイトで通っていた。昔すぎるが変わらない景色もある。釣り堀とか。一日がんばるためにと理由づけをして朝からケーキを食べてしまった。このカフェは私が通っていた頃はなかった気がする。午前のプログラムを聞き、すでに疲れきった頭で富士そばへ。知り合いが店内にいてなんとなくお話をしながらそばを待った。同じメニューを頼んでいたが彼は温かい蕎麦だった。私はすぐに食べられるように冷たい蕎麦にした。発表中に眠くなってしまうと困るのでさっさと食べたらそのあたりを早足で散策。お堀沿いを歩いていたらカワウがいた。また信号を渡って会場にはまだ戻らず急な坂道へ。登って降りてきた。この坂も昔セミナーで通っていた坂。腹ごなしにもちょうどよい傾斜。それでも全然歩数少ないまま会場へ。

今回は事例検討のグループとパネルで司会をしたが司会は負担が少なそうでそうでもない。一般演題で「甘え」について発表したが発表も原稿読めばいいだけといえば簡単そうだがそうでもない。そんなことは知っていたがいつもと違う頭と心を使った。事例とテーマにコミットしたコメントをいただけたりしたのは嬉しかった。せっかくオープンにしているのだからなおさら精神分析の外に開かれた、かつ精神分析概念としても重要な言葉を使いたい。「甘え」はうってつけなわけだけど、日常語としては使われていてももはや精神分析療法を説明する主要概念としては捉えられていないという感じがした。それならなおさら取り上げていかないとなあと思った。私は日々臨床の生活なので、臨床素材から議論していく形式は自分の中でぶれることはない。「AMAE」を取り巻く現代の環境や言葉の使用を思えば、外国に向けた論文を書いた方がいいのかもしれないな。日常語、つまり生きた言葉を日本の精神分析は大切にした方がいいと思うから。私は対象の不在を知覚することの困難と意義を絡めて「甘え」という言葉が使用されるときのことを考えている。

昔からの友達が今年もきてくれた。いろんな人とたくさんお喋りもした。精神分析的な理解は精神分析の訓練をしていなくても共有できる部分は多いというか、公的な相談室で外部からのスーパーヴァイザーとして精神分析家を呼んだりしていたのは私が若い頃からあったわけで、精神分析と呼ばなくても自然に力動的な理解をして臨床をしている心理職は多い。私の世代は気楽になんでも取り入れてきた世代だからなおさら症例や考え方はしっかり共有してもらえるうえに別の視点ももらえて楽しい。理論的な部分は難しいと言いつつも応援だからと毎回きてくれるのも嬉しい。若い頃から本当に助けられてきたつながり。仕事でもとてもたくさん話し合ったし、対話が普通にあった時代だから打てば響く。それが当たり前だと思ってきたけど今は本当に貴重に思う。携帯とインターネットは世界を変えたね。生身で、その場で、というのはむしろ自然じゃなくなってきているのかな。人間は、というか日本人は、というか、とどんどん対象を小さくしているが、本当にどうなっていくのだろう。

色々考えれば憂鬱だが考えなかったら面白いこともできなそう。新しい1週間、またがんばりましょう。

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学術大会とか。

今朝は少し蒸し暑い。ごはんを食べたらもっと暑い。代謝。今日も一日屋内。

日本精神分析協会の総会、報告会、学術大会1日目終了。大変疲れたが勉強になったのはもちろんのこと、楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。学術大会にいらしてくださったみなさま、本当にありがとうございました。お久しぶりの方々ともいろんなお話しができた。実際に会って近況を報告しあえるだけでもみんながんばってるんだな、と元気をもらえる。会員以外の臨床家にもオープンにしてから3回目の大会。参加者の皆さんの自由度が増している印象。議論が活発。有意義。学術的な議論ができる場として楽しみにしてもらえる大会にしていけたらいいな。

それにしても眠い。どうしたものやら。朝からレシートの整理とかのんびりしていたが今日発表がふたつある。全然自分の中がそんな雰囲気になっていない。いつもいかない駅でお菓子を見つけるのが楽しくて昨日もいろんなお菓子を配ったり食べたりした。世の中には本当にいろんな商品があるものだねえ。

なんかどうでもいいことを書き続けているうちに時間になってしまいそうだからもういこうかな。みんないい一日になりますように。

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6月13日(土)

いいお天気。だけど大気の状態は不安定です、とのこと。

昨日はサンダルで帰ってきたから足が痛い。朝は東京も雷雨になるのかしら、と心配していたのにもっとも雨に弱いおしゃれスニーカーを履いて出てしまった。運よく昼間の雷雨は免れたが夜も雨かもということだったので置きサンダルで会議のある場所へ移動。結局降られず。それはそれでラッキーだったが夜遅い中大混雑の駅構内を歩くのは辛かった。週末の東京の混雑、怖い。東京暮らしの方が実家暮らしよりずっと長くなってきたのに昼も夜もほとんど人に会わない通りの方に身体が馴染んでいるらしい。最近は実家に帰る電車も隣の人と隙間なく触れ合うように座らざるを得なくなったが昔はそういうことはなかった。ずっと変わらないなんてことはどこでもありえないのだろう。守ろうとしない限りは。

今日は日本精神分析協会の総会と学術大会。ずっと屋内。暑そうだからいいけど身体動かさないとなんか澱むよねえ、気分が。昨日からすでにいろいろ始まっておりすでにいろいろな話をした。今日も明日もいろんな人といろんな水準の話をすることになる。まるで余裕のないときこそいつも以上に普通に音楽を聴いたり小説を読んだりしたいが友達に本をあげることでよしとしよう。

どうでもいいことだが、昨晩、電球を交換して新しいのを店舗受け取りで注文した。新宿はどこの出口を出ても家電量販店が近いのでとても便利。そこそこ大きいものでも自分で持てるものは大体店舗受け取りにしてしまう。西口のヨドバシであればオフィスのある西参道(渋谷行)を通る路線のバス停が近いので重たいものも大体運べる。力持ちでよかったというのもある。そういえばしばらく忙しくてトレーナーさんのところに行けない。自重トレやらねば。毎日誰に訊かれたわけでもないのに言い訳をしてサボるのをやめましょうね。はい。ダイエット目的だと筋トレだけではそれほど効果ないかもしれないが、怪我予防にはとてもいいと思う。いろんなところに自分の足腰で行けたらいいな。

良い一日になりますように。

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6月12日(金)朝

いいお天気。でも予報では雷雨になるかもと。東京もかしら。昨日はお昼に外に出たときが一番涼しく感じた。朝は長袖Tシャツにシャツを羽織っていたけどお昼はシャツを脱いでいた。夜は用心して置き上着も羽織ってでた。それを脱ぐほど暖かくもなかったが着なくても大丈夫だったかなくらいの気温だった。

昨日は朝早く着いたのであまり歩かない道をぐるっとまわってからオフィスへ行った。坂道で小学生の兄と妹が手を繋いで追い抜いていった。歩き慣れている子たちは早いな、と思って見送ったら妹が急かす兄を嫌がって泣き声で何かを言い繋いでいた手を離した。お兄ちゃん、荷物を持ってあげてるんだ、と今度は私が通り過ぎようとすると兄は苛立ってその荷物を妹に軽くぶつけ、少し先を行った。信号が変わってしまう前に妹が渡れるかどうかを気にしながら立ち止まったり振り返ったりする兄とマイペースに不貞腐れつつゆっくり歩く妹に、信号変わっちゃうよ、と私がハラハラした。信号が点滅しはじめると妹は少し早足で無事に兄のあとを渡りきった様子だった。この短時間ですでに泣き顔は消えていた。きっと毎日のことなのだろう。歩き慣れた道だから生じる二人の出来事だとしたらそんなに危なくもないのだろう。お互いのペースに合わせることは難しくても付かず離れず一緒にいる。きょうだいの距離感も色々ではあるが。

先日、この八百屋に行くとテンションが上がる、と思っている八百屋にいけた。セロリが安く立派だったので買ってきて黒酢と醤油と生姜でマリネにした。時期的にはもう最後かしら。セロリって結構衝撃的な味だったと思うのだけど出会いはいつだったか。生で食べて「?」となってスープでのんで「♡」ってなっていつのまにかどんなふうに食べても「(^o^)」ってなったんだっけ。えらくまかないがおいしかったバイト先の喫茶店ではセロリ使ってなかったと思うしなあ。友達とよくいってたカフェで知ったのかも。

食べ物との出会いで一番覚えているのはナスだな。周りにナス嫌いはいたらしく、あとから嫌いな食べ物をどう拒否していたかという話をしたことがある。自分の好き嫌いはあまり意識したことはない。牛乳を飲むと気持ち悪くなってしまうのは知っていたのでほしい子にあげていた。

Netflixで見ていた「ホームランド」の最終回にカマシ・ワシントンが出ててびっくりした。面白く見てきたがこの最後でかなり印象深いドラマになった。バンドにはリッキー・ワシントンも。あー、感動した。

もうこんな時間か。計画的に過ごさねば。いい一日にしましょう。

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メッセージとか

朝の空じゃないみたいな色。夕方みたい。梅雨に入ってもまだくもりが多い。傘は持ち歩いているけど。関東は今日はにわか雨が降るかもだって。

誰かと親密になることを対人関係の目的にする必要はないと思うけど、回避しつづける関係はそれはそれでいいけど、親密になるならお互いを思いあえる関係の方がいいだろう。傷つけあうことを快楽とする場合もあるが、それも単純なものではない。自分が人にどういう態度をとっているかは怒りの表現でわかることが多い。怒りは結構自覚しにくく衝動的に表出されやすいものなのでそれが関係を一気に変えることはすごくありうる。多くの人が経験済みだろう。出せば伝わるものではないのがメッセージであり、子供と大人のコニュニケーションともなればなおさらだ。フランスの精神分析家ラプランシュは以下のようなことを言っている。今ラプランシュが手元にないのでAnat Tzur Mahalelの Routledge, History of PsychoanalysisシリーズのReading Freud’s Patients: Memoir, Narrative and the Analysandから孫引きしたのを訳してみる。

“メッセージという概念には、すでに存在し、主体に先立って存在する意味が主体に提示されるという考えが含まれている。しかし主体はその意味の主人ではなく、それに身を委ねることによってのみ、その意味の主人となりうるのである。

また、謎という概念によって、決定論には断絶が生じる。なぜなら、謎めいたメッセージの送り手は、自らが意味していることの大部分を知らないからであり、また子どもは、自分に伝えられたものを構成し理論化するための不十分で未熟な手段しか持たないからである。

したがって、一方にある親の無意識やその言説と、他方にある子どもがそれらをどのように受け取り処理するかとのあいだには、直線的な因果関係は存在しないのである。”

(Laplanche, 1999, p.160)

以上のことは本当に大事なので心に留めておきたい。

6月もやることが多いのにもうすぐ半分が過ぎてしまう。今日もがんばろう。

代々木公園
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ジビエとか。

今日は関東は涼しいみたい。湿度高いけど涼しい風も時折吹く。昨日は朝は結構厚着をしていたけど昼間と夜はそんなに気温差もなく、上着も着ないで帰ってこられた。

先日、友人夫妻にジビエ料理のお店に連れていってもらった。

鹿肉のデミグラスソースがさっぱりしていて美味で、友人が頼んでいた猪のお肉もとてもきれいだった。自分たちでとって解体してこうやって料理する。いろいろお話も伺ったがプロセスを実際に経験している人たちの言葉は気持ちよかった。

連翹や大きな鹿がいつの間に 岸本尚毅

私たちを送ってくれた帰り道、猪に遭遇した、と写真を送ってくれた。私の生活は猪や鹿が身近ではないけど、少し足を伸ばせばそういう生活がある。宇都宮にも熊が出たが、身近でないと思っていても生活圏のバウンダリーがはっきりしているわけではないのだからこれまでもありえない話ではなかったのだろう。誰も危険にさらされてほしくはないが。

こう書きながら熊が出てくるインパクトの強い文学作品があったなあ、と思っているのだけどなんであったか。最近のではなくて。宮沢賢治か?でも外国文学だった気もする。そのうち思い出したらまた読んでみたい。全く覚えていないだろうけどまたインパクトは受けるのだと思う。

今朝はルイボスティーとか皮のまま食べられる葡萄とか。ルイボスティーって本当にいろんな種類がある。すごく好きというわけではないけどなんとなくいつも置いてあってなんとなく飲んでいる。大人になってから知ったお茶だと思うけど大人になってからがもうすごく長いのでいつのことだったか忘れたな。

6月は全然休みがない。どうせ雨だから屋内がちょうどいい、と思うことにしよう。もう10日か。いろいろ間に合うのだろうか。がんばろう。

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対象の使用とか。

梅雨だ。とてもそれらしい雨。

形なきものの影濃き梅雨の家 宇多喜代子 『雨の日』

もうしばらくしたらきっと

化粧して梅雨に慣れたる体かな 岸本尚毅 『第二句集 舜』

どの季節も日常を淡々と。

花にいきなり触れる人、花をいきなり手折る人をみるとびっくりしてしまう。たまたま目にはいっただけなのに、自分のものにしても見ようともしないだろうに、その場の衝動をおさめるために対象を使用する。それは精神分析家のウィニコットがいう意味での「対象の使用」ではない。使用の前には常に想像/創造が必要。ためらいのなさとはいきなり近づいて触れることではない。雨の季節、傘についた雨粒の行方をおもう。

人は形を変え、相手を変え、驚くほど同じことをやっていたりする。精神分析ではそれは反復と呼んできた。分析家のほうには別に見えるものを同じとみなすための枠組みがあるが、本人がそれとあれとこれが同じ、と気づくには時間もエネルギーもいる。同じといわれればそんな気もして、ついなんでもかんでも同じ構造で説明したくなるというような奇妙なことも起きる。いわれたら囚われる、いわれるまで気にならない。囚われは精神分析でなくても重きを置かれる状態だろう。森田療法とか特に。

あさごはんを食べすぎておなかいっぱい。仕事までにしゃきっとできるかな。今日もがんばりましょう。

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週末

関東も梅雨入り。シトシトシトシト雨が降っている。関係ないが口の中が痛い。どこかの粘膜がやられてしまったのだろう。

昨日は同じ路線で乗り換えつつ一時間くらい電車に乗ってでかけたがずっと立ったまま本を読んでいた。途中、座ろうと思えば座れたがストレスの少ないほうを選んだ。

久しぶりに没頭気味の読書をしたが、それでもほとんどの本は読みかけのまま積まれたりする。若いときの日曜日は1日数冊読んだりしていた。読書はその時々の自分と時間の関係を示している。大人になっていろんな機能が落ちているせいなのかなにやら別の要因かわからないが、小説の読み方が随分変わった気がする。ぼんやりした状態でなくてもなんどもなんども同じ文章を追うことが増えた。内容よりも音からなにかを得ているような。それだけでなくなんとなく正確に文字を追いたいという気持ちも強くなった気がする。いろんな作家の文章を知ったせいもあるし、身体感覚が変化したせいもあるのだと思う。

久しぶりに砂浜を歩いた。海に近い庭園の土はすでに海の砂まじりで明治の頃は松林の向こうに海が見えたそうです、というお話からその景色もたやすく想像できた。海が近い土地は独特の空気がある。私は海なし県育ちで海をどこかとても怖く感じてきたのでそこにいけばいつも、普段なにも感じていない身体部位を刺激されたような気持になる。大正12年(1923年)、関東大震災で海底や地盤が隆起し景色が変わったときいた。

海が似合う大きな犬とも仲良くなった。犬らしい警戒心を残しつつも次第に耳を垂らしそばでくつろいで時折鼻をぐっとくっつけてくる様子がとてもかわいくて嬉しかった。動物とはじめましてをするときは保育園で0歳児クラスにはいるときと似たような気持になる。繊細でやわらかきものたちと距離をはかるのは少し緊張する。その緊張で相手も緊張してしまわないようにと自分をコントロールするような気持にもなるが、基本、自分のコントロールというのは難しいものなので経験を生かしていくという方向になる。

いろんな土地に行っていろんな人と出会ってきたことで身体も感覚も変わってきたのだろう。読書体験自体が無数の自分を空想させる機会にもなるのでそれにもずいぶん楽しませてきてもらったのだと思う。良い週末だった。今週も頑張ろう。

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実感とか

まだまだ朝と日中と夜の気温差が大きい。梅雨前は毎年こんな感じか。今朝も長袖。

今朝は桑名のおみやげ「焼きはまぐりサブレ」をいただいた。サブレはなんでもおいしいしいろんな形のサブレがあって楽しい。「その手は桑名の焼き蛤」という表現を最初にきいたのは親からだと思う。私とのコミュニケーションではなくて、なにかの出来事とかニュースとか映画とかそういうものに関してだろう。私はそう応答させるようなふるまいをした覚えがないから。覚えがないだけでしたのかもしれないが。なんにしてもどこできいたとしても小さいときの私にはハテナだっただろう。食べ物系の表現でこりゃ面白いなと思ったのは「目黒のさんま」だ。これは落語だから当然面白いわけで大人側も単に意味を説明するというよりは演じる感じで教えることになる。たぶんそれが面白かったのだろう。

俳人の西村和子さんが季語を実感してほしいといっていたが本当にそうだな。最近だったら新緑、若葉、薔薇、つばめ、紫陽花に季節を実感したか。もう少ししたら「梅雨に入る」になるか。

実感というの精神分析臨床においても最も大事な感覚だと思う。AIにはもっとも難しいものではないだろうか。直感もそうかな。

この前、居酒屋の店主が自分は飽き性だから同じ酒を置いておくのがいやで毎回変えているといっていた。日本酒の種類が多い店だったのでこの量を毎回変えていくってすごいことではといったら直感でいい酒が手に入るとのこと。たしかにおいしかった。長年、酒と肴・魚と付き合い続けた結果、獲得された能力としての直感でこうして私たちにいい時間をくれる仕事。温暖化も外交も彼らの仕事を追い詰めつつあると思う。店は私くらいの年代の人が多く満席だった。変わらずありつづけてほしい。守られてほしい。

来週末は日本精神分析協会の学術大会。福岡支部の人たちとも会えるし、昔からの友人たちも申し込んでくれたというし楽しみだな。精神分析学会にはいかないけどこっちには毎年きてくれるというのは協会がまだそういう個人的なつながりを生かせるくらい小さいということだけど大きくなっても(ならないかもしれないけど)学術面ではずっと対話可能空間であってほしい。

東京はくもり。お昼過ぎには雨マークも。季節を感じ、季語を実感し、うわすべりしない言葉で対話できる日曜日になりますように。

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『大濛』をみたり。

今朝も涼しい。ネットで調べてごはんを時短で炊いた。途中、気になって蓋を開けたりしたから少し硬い。

昨日は寒いくらいだった。厚手のパーカーを着て歩いてたら少し暑くなったけど。帰り道はパーカーのジッパーを首までしっかり上げて早足で歩いた。風が強いとすぐに体温を奪われてしまう。陽射しが少しでもあると一気に気温が変わることにも驚くけど。昨日、新宿中央公園を横切ったときに思った。新宿中央公園がイベント中だけどその手前の都庁のバリアフリールートが今工事中。別のルートもあるのかな。屋根がある通路や地下道があるのは助かるけどそれでも都庁へ通勤する車椅子の人が大変そうなのを時折見かける。朝は人が多いから誰かしらが声かけをしているのも見るけど通勤だけでとても体力を奪われそう。居場所づくりはよく問題になるけどそこへ至る物理的な道づくりも課題だねえ。

Netflixで台湾映画、大濛(だいもう/A Foggy Tale)を観た。言葉と絡めた台湾の歴史を知らねばと思わされる映画だった。あまりよく知らずとも想像される歴史だけでも、そこを生きた人たちを思うだけでも胸に迫るものがあり、映像も配役もすばらしかったが、この重たさはメッセージとして受け取り解読する必要があるのだと思う。台湾の人が解説したブログが良いらしいのでそれをまずは自動翻訳で読んでみようと思う。自動翻訳で読んで誤った歴史認識をしてしまったらどうしようとも思うがいろんな本を合わせて読めば標準的なことは知れると思うのでこのあまりに知らない状況をまずはどうにかしようと思う。

1週間が恐ろしく早くすぎるが夏休みの予定をお伝えしはじめたりしている。2年後のIPA大会に演題を応募したいが、それは間に合わなそう。すっかり締切を忘れていた。バラバラと仕事を引き受けてしまったのでそちらをまずはやらねばならない。

今夜は寝不足を解消したいがとりあえず今日もがんばりましょう。東京はくもり。気温はこれから少しあがるのかもだけどあったかめの服装にしてしまった。用心用心。各地でいろんなお祭りやイベントが増えている。もうすぐ梅雨入りだけど元気出していこう。

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6月5日朝

鳥たちの声がまだ少し遠い。月がまだ高い場所にある。寝る前にみた月もたいして変わらない位置にあった。寝不足ということ。夏の夜明けは西側のマンションが珊瑚色に染まるのがきれい。時折足元に涼しい風がスーッと抜ける。時折寒いくらい。

片付けも大分進んだ。紙類の処分が悩ましいが地道にやろう。

古文が好きで高校生の頃はよく読んでいた。おとなになってからは人の本経由。河合隼雄の『物語を生きる 今は昔、昔は今』(小学館)とか。殺人がない平安時代の文学では攻撃性がどう描かれたか、とか心理療法にも示唆的なことが多く書かれている。河合隼雄だから主にそれが書かれているのだが古典のブックガイドとしてもいい。私も人間の様々な心模様はほぼ本から学んだ気がする。現実の人間より掘り下げが深いし。色々書き始めると長くなるから今はがまん。

今日も一日頑張りましょう。

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天安門事件の日

夜明け前の空がとてもきれいなピンクだった。台風は東京をあっけなく過ぎたが電車はすいていた。他の地域はどうなのだろう。私の仕事も自然災害は経済状況に響くので辛い気持ちになる。

今日は中国で1989年に起きた民主化運動「天安門事件」から37年。今年は遺族の人たちの墓参りまで禁じられたという。言論統制の徹底が引き起こすことを思えば日本もこのままではいけないという危機感を持つ人のほうが多いのではないかと思うがそうでもなさそうなのが怖い。台湾での追悼集会に少しだけホッとする。

天安門事件以降、冷戦終結、1992年以降、経済の高度成長期に入った中国の学問的なあり方もずいぶん変わったときく。外とつながりはじめること、言論を封じ込める圧力に抗うには啓蒙だけでは無理だろう。内で語れないことを外が語るということもやめてはいけないし逃れ続けるならそういう弾圧に対してであって自分の嫌な部分からではない。実際、哲学の分野ではデリダとハーバーマスの訪中と交流による影響はとても大きかったという。

うーん、色々考えてしまうな。今日も色々あるかもしれないけどみんなでがんばりましょう。

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台風

雨がすごい。空気が重たく感じるくらい湿気もすごい。テスト期間中の学校もあると思うが休校になるのかな。授業はオンラインに切り替わったところもあるみたい。みんな無事が基本。気をつけて過ごしましょう。

学術大会の原稿をなんとか送ったので次の書評の仕事に取り掛からねばだけど隙間時間に一気に書いて疲れ切った頭ではどうにもならず、ダラダラと岡田温司の『アガンベンの思想圏』をめくっていた。アガンベンの「瀆聖」というのがとても興味深い。内と外をたくみにごっちゃにしていく思考はよくわからない宗教的なものにのっとられがちな今こそ必要ではないか。今はその後に切断できる準備ばかりする社会になってる気がして怖い。緻密に緻密に人間らしさを取り戻していきたい。

原稿を書きながら俺はいつも同じことばかり言っていると思ったが自分が探求したい方向性がそうなのだろう。やりたいだけ繰り返しながら少しずつ別の軌道へ、というのはむしろ精神分析的。

今日はのんびりしてしまったので時間がなくなってしまった。被害のでている地域のみなさんもどうかご安全に。

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循環

風が涼しい。台風が近づいてる。

最初、というか、もうずっとだけど家族というものが維持されている不思議について考えなければいけない時代なんだなあと思う。その単位が基本と思わないように、思わせないように、など。

週末に完成させられなかった原稿、平日の隙間時間にやるのは本当にきついがしかたない。まあ、なんと大きなものを残してくれたものか、土居健郎。私に実践が伴っていなかったら対話などできなかったかもしれない。精神分析を受けて、自分も患者を持って、指導する側にもなってという循環ができてやっと思考が可能になる感じ。でもそれを形にするのはまた別の話。とても時間がかかる作業。今は長い訓練で得たもの形にしている側面が大きい。これはこれでやらねばと思っていることではあるけど。

とにかくいただいた猶予を大事にせねば。良い一日になりますように。

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知床の自然とか。

昨晩の月がとてもきれいで何度もカーテンの向こうをのぞいてしまった。沖縄本島地方及び周辺離島と宮古島地方に暴風警報だって。大変なことだ。どうぞお気をつけて。関東はくるとしたら水曜日かな。今日はひどく暑くなるらしい。

昨晩、作業しながらNHKスペシャルをなんとなく流していたら、温暖化などでエゾジカがこの10年で急増し、ヒグマを脅かしているとのこと。ヒグマの食糧となる草を先に食べ尽くしてしまうらしい。そしてヒグマもエゾジカも食べないハンゴンソウばかりが茂ってしまう。うーん。自然の循環、恐ろしい。もちろん人間にもすでに影響が出ている。結局最後までなんとなく見てしまったのだが知床のあまりにも美しい自然の中で起きている現実にとても悲しくなってしまった。知床のネイチャーツアー、あれは原生林トレッキングだったか、すごくよかったけどもう行けなくなってしまうのかな。当時も車から野生動物たちを見たがクマの注意はそんなにされた覚えがない。むしろ人間の足跡が立入禁止のロープの外まであることに驚いた。ほぼ崖のような場所で。危ない場所が人間が踏み入れたことでもっと危なくなっていく。私の胃腸の弱さも自然とうまくやってこなかった証拠かもな。病気の知識はあっても自然の知識がないのはダメな気がする。色々知っていこう。

今日はものすごく寝不足だが作業は結局終わらず。昨日は症例を使ったグループディスカッションもあったけど普段と違う気持ちになれて発見が多いな。無理なく正直に言葉にすることはどの場面でも大事。言葉にすることで別の無理が生じたりは当然あるけど自分の中のなにを大切にしたいかだね。

AIのニュースが本当に増えたねえ。人間ひとりひとり限界ある自分のことも大事にしよう。

新しい一週間もがんばりましょう。