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はじめまして

今日はなにやら楽しそうな名前の保育園に行く。これまで担当していた人が遠くのご実家にお帰りになるので私が引き継ぐことになった。はじめまして。

先週の「はじめまして」もとてもスムーズだった。この仕事ももう長いのでどこへいくのもわりと気楽でどんな対応であったとしてもそうそう驚かない。いや、驚くけど「ほー、こういうこともあるのか!」と自分の知らない世界に自分のやり方で適応しようとがんばることをしない。馴染みはあるが知らない街を散策する。実際そうだし、気持ち的にもそんな感じではじめましての場へ向かう。こんなところにこんな建物が、全然知らなかった、ということばかりだ、日常は。

その園はとてもウェルカムな雰囲気で迎えてくれた。商店街のはずれ、ちょうど傘を閉じられるアーケードの端っこの方にある小さな保育園で何度か通り過ぎたけど時間ちょうどにたどりついた。その日は雨で少し寒かった。

私が担当する園は注意をしていても見過ごしてしまうような小さな園が多く、よくこの間取りで工夫して保育してるな(基準って・・・と思わざるをえない)と感心する。もちろん感心されている場合ではなくて自治体は乳幼児が育つ環境について真剣に対策を練るべきであろう。保育というのは大変だ。大変なのは保育士だけではない。月齢によって離乳食の内容も変わる0歳児の食事と他の年齢の子供たちの食事をひとりで作る栄養士の仕事ぶりにも頭が下がる。特に用事はないが「○○さん」と言っては振り向かせ何かを言ってもらいニコニコと帰っていく子供たちに対応しながらプラスチックのお皿を少量かつ多彩なおかずで着々と埋め、サランラップをかける。アレルギーを持つ子供たちの食事も特別な注意を必要とする。小さな園はひとりで全てをやっているので保育士との連携や園長の援助も絶対必要。誰かが孤立したら保育の流れが滞る。ただでさえ子供の動きは統制不可能だ。思った通りに動いてなんかくれない。言葉はそんなにたよりにならない。物理的にも仕事の内容的にもこれだけ近い関係だったら保育士の間にも色々あるだろう。それでもそれは二の次だ。やるべきことをやるためには協力せざるをえない。本来家庭だってそのはずだ。

「こんにちは」と何度もやってきては逃げるように去っていく。だいぶおしゃべりが達者になってきた2歳児だ。全身ではにかむような姿がとてもかわいい。私も同じようなトーンで「こんにちは」と返し続ける。私は観察をして助言をする立場なので能動的に関わることはほとんどしない。だから距離や時間の変化を肌で感じられる。たまには定点でじっとしている大人に近寄っては離れ離れては近寄りを繰り返しながら自分のペースで距離を調整していくことも悪くないだろう。大人も子供も忙しすぎる。

村田沙耶香『信仰』(文藝春秋)を読んだ。主に海外からの依頼で書かれたいくつかの短編とエッセイが収録されている。相変わらずなのに凄まじかった。「現実」と「信仰」。言葉が作る境界など曖昧なものだ。読めば「正しさ」がぐらつく。私はどこか気持ち良くなっていて実は誰かをひどく傷つけていることに気づいてもいないのではないか。自分に対する疑わしさはかつて大人に対して持った疑わしさかもしれない。

「何度も嘔吐を繰り返し、考え続け、自分を裁き続けることができますように。」p117

村田沙耶香は子供の頃、「個性」という言葉に感じた薄気味悪さとそれに傷ついた体験を忘れない。なのに繰り返す何かを彼女は罪として裁き続けながらこういう文章を送り出し続けている。凄まじいことではないだろうか。私はこれを愛情と感じるし、子育てにおける激情と近いように感じる。私は彼女の文章を読むと救われる。そこがどんなに血の流れる場所であっても、私たちがいかに愚かでも、私は動物的な部分をケアされたように感じる。世界を肯定するように、という言葉も浮かんだが肯定という言葉が何かとても上から目線のような気がした。私は私の好きなようにしたい。だから好きな人にもそうしてほしい。でもそれは噛み合わない。私のしてほしくないことがその人のしたいことだったりすることがほとんどなのだ。私たちはあまりに違う。こんな小さな、時折小動物のようにもみえる子どもたちが世界と出会う仕方も様々だろう。見るものが違う。感じることが違う。食べるものは同じでも消化の仕方が違う。お昼寝だって暗くするほど興奮する子もいる。ほしいものは大抵手に入らないかもしれないし、手に入れたものはほしかったものではないかもしれない。

私はすでに大人になってしまった。相変わらず自分の気持ちよさにかまけては苦しむ大人に。人なんて変わらない。毎日思う。それでも動きをとめない。感じること、考えることをやめない。罪と知って選択したものだってある。それでも。

いまだに「はじめまして」があるのは幸運かもしれない。「滅びるまで続ける」というセリフがこの本にあった気がする。はじまりに遡ることは難しくとも滅びるまでの距離と時間を子供の頃よりは定点観測できるようになったと思いたい。今日も今日を続けながら。小さな罪深き存在として。