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Netflix 精神分析 読書

日曜

昨日は寒かった。部屋は暖房いらずだったから春ではあるのね。さて日曜なので最近のことを振り返ってみましょう、といっても特に新しいことはしていない。Netflix「アドレセンス」はよかった。13歳の容疑者に対するイギリスの警察の手続きも勉強になったし(必要事項はとりあえず伝えたぞ、クレームは受け入れるけど今は従って、みたいな雰囲気に疑問はあれど)、この年代のリアル(大人はなにもわかってくれない以前にあまりになにも知らないのでコミュニケーションの相手とされていない)のも本当によく描写されていたし、母ではなく父が対象とされているのも新しいと思った。私は職業柄、自分の仕事と重なる第3話の殺人を犯した少年とセラピストの面接場面が最も印象に残った。あの喉が変になる感じ、何も言っていないのに自分の言葉にパニくる感じ、それをどうにかしようとして何事もなかったかのようにこちらに圧をかけてくる仕草、どれもよく知っている。子供としても治療者としても。誰もが知らず知らず狂わされる記号や行動、誰かのために生まれてきたわけではないのに誰かのためにしたことによって搾取されるという現実、どこで失敗したのか、何が足りなかったのか、できたとしたらなにを、という答えのない問いの反復、まさに取り返しのつかないことをしたことを認めるまでのプロセス、などなどいろんなものが盛り込まれていた。日テレでやっていた「グレイテスト・ショーマン」も結構最初の方から見られた。ヒュー・ジャックマンとザック・エフロンのバーでのシーンがかっこよすぎて意味わからないと目眩した。ヒュー・ジャックマン演じる主人公にはひどいひどい言いまくっていたのになんかあのシーンはずるかった。ザック・エフロンとゼンデイヤはもちろん最高にロマンチックでよかったけど。This Is Meはすごい名曲なのにストーリー的にはひどいシーンだよね。Netflixで「メダリスト」も新エピソードみた。人気シーンですね。フィギュアはちょうど世界選手権だった。坂本花織の演技、見たかった。ショートで出遅れてしまったのに銀メダルはさすが。坂本の実際のスケーティングって本当に早くてパワーがあってすごいらしい。テレビでもすごい筋力を感じる。そのスピードでそんな高く飛べるんだ、と「メダリスト」に出てくる子供たちみたいな感想を持つ。ほかにもちょこちょこみたかな。いきたい展覧会には行けていない。ちょっと「ながら」ができるものばかり。本は相変わらず隙間時間にちょこちょこ読んでいるけど、村田沙耶香の影響が関係ない話題でも出てきてしまうらしく「発想が怖いよ」と指摘されるようになってしまった。ヘーゲルとかもちょっと読んだ、すでにあまり覚えていないけど。最近はいい入門書もたくさん。ラカンが取り入れたヘーゲルはヘーゲル本人ではなくてコジューブ経由だけど何が違うのかしら、などちょっと勉強した。あとはもっぱら花を追いかける日々ですね。昨日の朝は雨で寒かったけどスマホ濡らしながらいろんなお花を撮りながらオフィスへ行った。今日は寒いけどお天気はいいらしいのでフラフラ寄り道しながら出かけましょう。

[臨床家の方へお知らせ]

6月に私が所属する日本精神分析協会の学術大会が行われます。

週4日以上、カウチでの自由連想という精神分析実践は今の日本でも細々と引き継がれています。その実際やそこから生まれた論点に関心をお寄せいただけたら幸いです。私は司会者とパネリストと一般演題の演者を務めます。

日本の精神分析家は名誉会員2名、会員44名で46名しかおらず、支部は福岡と東京のふたつ、会員は名古屋、京都、大阪などさまざまな地域で活動しています。

今回は日本精神分析協会の大会なので精神分析家と候補生だけでなく、日本の協会独自の機関である精神分析的精神療法家センターの精神分析的精神療法家、精神分析的精神療法家研修生のパネルや演題もあります。

精神分析的心理療法を実践されている方はもちろん、精神分析って言葉は聞いたことあるけどまだあるんだ、という方も多様な治療と治療文化を良い形で引き継いでいくために対話にいらしていただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

日本精神分析協会 第43回 学術大会

6月7日(土)午後〜6月8日(日)午後

@東京、市ヶ谷

詳細は日本精神分析協会のWebサイトをご覧ください。

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精神分析

六月、日本精神分析協会学術大会

雨。静かな雨。これから気温が下がるらしい。ミャンマーの地震、M7.7というのはどのようなものなのだろう。今治の山火事からも1週間が経つ。大船渡の火事で「熱源」という言葉を何度も聞いたが山が普段静かであることの方が不思議なのかもしれないと思わされる。どうか被害が広がりませんように。雨が救いになりますように。

早朝から掃除をしていたらあっという間にこんな時間になってしまった。

今年も六月の最初の土日に日本精神分析協会の学術大会が行われる。分析協会としては43回目だが協会に所属していない臨床家に開かれた形で行われるのは2回目だ。精神分析的心理療法を実践する人にはぜひその起源となる精神分析そのものの実践を知ってほしい。精神分析ってまだあるんだ、という人にもこの細々と、しかし世界中で続けられているこの実践を知ってほしい。精神分析は患者との関わりはもちろん、哲学者や文学者など外部の知に支えられ、交流しながら発展してきた学問である。それぞれの知が人を変化させる力を持つ。なので本当は臨床家だけではなく、いろんな人に聞いていただき、対話ができたらと個人的には思うが、臨床というあくまで個別的なものから議論を立ち上げることの優先順位は高い。私も精神分析家として生活するようになって9ヶ月が経ったが、オグデンたちが論じた精神分析家「である」、精神分析家「になる」ことを実感とともに考えられるようになってきた。分析家として認定される直前に海外で日本の協会という小さな組織での体験を話せたことも大きかった。立場が変わることで自然に失われるものもある。聞く耳の機能も変わったように感じる。この小さな組織で精神分析という治療を、治療文化を守っていくためにできることを考えるために多くの声を聞いていきたい。ぜひご協力いただけたらと思う。

日本精神分析協会 第43回 学術大会については日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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精神分析、本

1月7日(日)朝

急に空が明るくなった気がした。ブラインドやカーテンの隙間から覗いている空はまだ暗い。目線をずらしたときに部屋の明かりが揺れて空の光と錯覚したのだろう。昨年からますます目が見えにくくなり世界の光を瞬時に捉えることができなくなったように感じる。視力にあった老眼鏡に作り直したが改善した気もしない。本を読むのも異様に疲れるのでそんなに読んでいない。専門書は難しくて同じ箇所を何度も読むことになるので目がよかったときとスピードはそんなに変わらないけど疲れる。今、私の左腕の向こうに積み上がっているのは『対象関係論の基礎 クライニアン・クラシックス』『転移分析』などなど。全て何度か目を通しているはずの本だが何度読んでも同じようなスピード。理解が深まれば深まるほど疑問も生じてくるからそうならざるを得ないのだろう。

私が所属する日本精神分析協会(JPS)は国際精神分析協(IPA)のthe Asia Pacific regionの一つだ。先日、Asia Pacificとはということでウィキペディアを見ていたのだがそんなに明確な区分がなされているわけではなさそう。環太平洋(パシフィック・リム)の方がすっきり。「パシフィック・リム」って映画があったけどみていない。菊地凛子が出ている映画。菊地凛子は今朝ドラにも出てるでしょう。数回見たけどつけまつげがすごく似合う。趣里の演技がすごく可愛らしくて切なくて単発でみても泣いてしまう。

ここまで書いて放置してしまった。何を書こうとしたのだったか・・・。まあよい。今日もがんばろう。

そうだ、と思い出したけど大したことではない。アジア太平洋とか環太平洋みたいな集合体としての地域概念は単に地理的な分類ではないのだろうけどIPAの場合はまだ地理的分類という感じがする。というのはこの分類自体新しいからそこが集合体としてどう機能する必要があるかの模索はこれからなのかもしれない、とか考え出すと終わりのない議論になりそうな論点ばかり見えてくるけど「違いこそ強み」と言えるかどうかだろうか。私はあまりそういうポジティブさはないなあ。違いは当たり前とは思うけど。違うもので集合体を作ったら当然そこに類似点と相違点を見出す動きが起きるだろうけどその分類には個人の欲望が見え隠れするわけでしょう。するとその個人とやらをどこまで広げておくかが重要になるわけで個人的には(ややこしや)自分の子供が大人になる頃(今は30代半ばくらい?)までの未来なら具体的に想像できるかもよ、と思っていて、曖昧に「子供たちのため」「未来のため」とかいうより、その辺までの未来をいろんなデータをもとにシミュレーションしつつ現在のあり方について考えるというのができることのひとつかなあとか思ったりしている。

2007年に三省堂から出た『世界言語のなかの日本語 日本語系統論の新たな地平』という本があって環太平洋という視野を持って言語の成立と変遷を眺めてみる試みがなされている。日本語の系統問題はそれまで正しいとされてきた学説が間違っていたとわかったことでどこにもいけなくなってしまったみたいなんだよね。今までそうだと思っていたものを間違っていたと認めるだけでも大変だろうし新たな視点を持ち込むことは至難の業だと思うけどこの本は環太平洋という視点を持ち込んだらこう考えられるのでは、ということを書いている。日本語の場合だったら「環日本海」という視野を維持しつつということでもある。何を考えるにしても狭めたり広げたり行ったり来たりして大変だよね。迷ってばかり。といっても自分が生きているうちに行けるところは具体的にも抽象的にも限られているわけだからとりあえず今日、とりあえず明日、でもやっぱり昨日も、とかウロウロしながらやるのも悪くないってことね、多分。

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精神分析

初台と福岡

福岡から友人が訪ねてきた。小さな改札で待っていると「京王新線」が分からなくて少し遅れるとのこと。そうだった。分かりにくいことを前もって伝えておくのを忘れていた。京王電鉄京王線とは新宿駅と高尾山や八王子といった山のほうを繋ぐ電車が往復する路線である。京王線であれば新宿駅を出て一駅目が笹塚駅なのだが「京王新線」はこれらの駅の間を走るもう一本の路線であり、私のオフィスはその区間にある二つの駅のひとつ、初台駅が最寄りなのだ。その次が幡ヶ谷駅、その次が笹塚駅となる。京王線と京王新線の複々線化は輸送力増強と都営地下鉄との相互直通運転を目指して昭和50年代に行われたという。今回一つ違いとわかった私たちがそれぞれの田舎でのんびり育っていた頃の新宿駅では地上駅の地下化に伴う改修工事が難しくなっていたらしい。そこで京王線はこれまでの「京王線新宿駅」と「新線新宿駅」とホームも名称も分けざるをえなかったようである。友人はそんなことなど知らない大抵の人がするようにJRや丸の内線に近い「京王線新宿駅」へ行ってしまったというわけだ。といっても京王線と京王新線はホームをはじからはじまで歩くくらいの距離で恐ろしく遠いというわけでもなく、友人も早めに出てきてくれたのだろう。すぐに無事に会えた。東京行きのたびに寂しがるという子供を想い飛行機の時間も気にしつつの限られた時間ではあったが久しぶりに会えて嬉しかった。年齢もはじめて知ったくらいだからほとんどの話が新しく嬉しいお知らせを聞くこともできた。女性が一人でオフィスを構えてこの仕事をしていくのはなかなか難しい面もあるが具体的なイメージを描くためにわざわざこうして訪ねてきてくれるのは嬉しい。若い世代がこれからどれだけ精神分析を求めそれを仕事に生活していこうと思うのか全くわからないが役に立てそうなことがあればとりあえず声をかけてもらえればと思う。日本精神分析協会の支部は東京と福岡にありこうした交流も自然にしているがなんだかきてもらってばかりだ。私も元から東京にいたみたいな顔をしていないで移動を味わおう。ということで福岡ではあれを食べよう、あそこへ行こうと駅へ向かう道は食べ物の話ばかりして別れた。福岡のお菓子も色々いただいた。銘菓でも地元の人の話だと楽しみが増した。彼女だからというのはもちろんある。

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精神分析 精神分析、本

ウィニコットの言葉

あくびばかりしている。外は明るい。麦茶が減らなくなってきた。水分を意識してとらないといけない季節。

昨日は日本精神分析協会の定例のミーティングがあった。世界中の精神分析協会がそういうことをやっている。

定期的に会うというのは大切なことでそれで足りなければ臨時で会を開催することになる。

たまたま手元にあったジョージ・マカーリ『心の革命』(みすず書房)をぼんやり読んでいた。

多くを破壊され追放され失いながらも死ななかった精神分析の戦後についてこの本は詳しい。

戦争による大量の亡命は精神分析の地政学に変化をもたらした。

英国精神分析協会ではウィーンとロンドン、つまりフロイト(アンナ・フロイト)とクラインをめぐる大論争へと発展した。

その結果、英国精神分析協会における訓練は3つのグループによってなされることになった。

精神分析のコミュニティとは、科学的自由とは、という問題は日本で精神分析的な臨床を試みる人たちの間でもアクチュアルだろう。

さて、この論争の詳細はThe New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊”The Freud-Klein Controversies 1941-45” Edited By Pearl King, Riccardo Steiner(1991)に全て書いてある。大著。

『心の革命』にも引用されているこの大論争におけるウィニコットの発言は印象的だ。

1942年3月11日、The Second Extraordinary Business Meeting(第2回臨時総会)においてウィニコットは単にフロイトを信奉するのではなく科学的であることの重要性を

Freud would not have wished us to limit our search for truth,

フロイト教授は「真実の探究の幅を狭く」したかったわけではない、(652頁)という言葉で示した。

この日の議長はDr.アーネスト・ジョーンズ、出席者は以下の25名である。

Dr Glover, Mrs Klein, Dr Rickman, Mrs Riviere, Mrs Isaacs, Dr M. Schmideberg, Dr Wilson, Dr Friedlander, Dr W.Hoffer, Dr Weiss, Dr Herford, Miss Freud, Mrs Burlingham, Miss Low, Mrs H. Hoffer, Dr Lantos, Mrs Ruben, Dr Franklin, Mr W.Schmideberg, Dr Winnicott, Miss Sharpe, Dr Gillespie, Dr Thorner, Dr Heimann

錚々たるメンバーがどんな立ち位置から何をいったのかを追うのは興味深い。歴史は重要だ。記録も大切だ。

ウィニコットはこの発言の冒頭、I implied that the present chaotic state would be healthier than order resulting from any agency other than pursuing a scientifc aim. といっている。

そして科学的な目的とは何か、についてこう説明する。

What is this scientific aim? The scientific aim is to find out more and more of the truth, I was going to say, to seek fearlessly, but the question of fear and fearlessness must be left out of the definition. We as analysts should know better than most that some fear of truth is inevitable. Playing the scientist can be quite a good game, but being a scientist is hard,.

クラインはこの発言に賛同した。ウィニコットはクラインに師事したからそれを擁護するのは当然と思われるかもしれないがウィニコットはインディぺンデントであり誰かを信奉するよりも自らの臨床体験から精神分析を科学的に探求した人だった。だからフロイト信奉者よりもクラインを支持すると同時に二つに分裂しそうな協会にカオスであることの重要性、真実に対する恐れは避けがたいが探究を続けなくてはならないと語りかけ第三の立場として機能した。ウィニコットの発言を受け、クラインもフロイトを引用してこういった、と続けて書いていきたいがまた今度。

今日もカオスかもしれないがそれぞれの場所でどうぞご無事に。こっちはカラスが大きな声でなきながら通り過ぎましたよ。飛べない私たちは地道にいきましょ。良い日曜日を。

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精神分析的心理療法とは

臨床心理士になって20年、様々な領域の職場で働きながら、毎週1回、同じ曜日、同じ時間に会う面接を続けてきました。今は、週1、2回、あるいは4回、患者さんやクライエントと、カウチあるいは対面で、自由連想の方法を使って行う面接がメインですが、当初は、固定枠を持てる職場は少なく、週一回固定枠では10ケースも持っていなかったように思います。ただ、少しでもそれを持てたことは本やセミナーで学んだことに実質を与えてくれました。

そして、そこを基盤にして細々と、限られた資源の中で、そこを環境として安全な場所にしていくこと、何が人のこころを揺らしたり脅かしたりするのか、ということを考え、何を提供し、何を控えるかなど、構造化、マネージメント、コンサルテーションの重要性に気づき、試行錯誤を重ねていきました。

30代になると、自分も週1日、2日の精神分析的心理療法を受け、スーパーヴィジョンを重ね、自分自身も多くのケースを担当するようになり、ようやく精神分析的心理療法ってこういうものなんだ、ということを実感できるようになりました。

さらに、精神分析家になるための訓練に入ってからは、そうやって少しずつわかってきた精神分析的心理療法を基礎づけている精神分析と直に触れるようになり、フロイトの症例にも精神分析を生み出した生の体験として出会い直し、開業し、実践を重ね、それらに通底する精神分析の普遍性を感じることができるようになってきました。

精神分析はとても長く、苦痛を伴う体験ですが、驚きの連続でもあります。それを「美しい」体験という人もいます。

このように精神分析を体験しながら精神分析や精神分析的な実践を行なうと、それらはこれまでよりもたしかな技法として手応えを持ち始めました。職人と同じで、訓練を受けている人の指導を受けながら見様見真似で行なってきたそれは、言葉にしてしまえばとてもシンプルなもののような気がしています。

以下はプライベートオフィスでの精神分析的心理療法をご希望の方に向けたご案内です。オフィスのWEBサイトにも載せています。https://www.amipa-office.com/cont1/main.html

たどり着くのはいつもシンプルなことなんですね(これも実感)。

ーこんな場合にー

人は誰でもなんらかの違和感や不自由さを抱えています。
それがあまり気にならない方もいれば、それらにとらわれて身動きが取れなくなっている方もおられるでしょう。

当オフィスでは、もしそのようなことでお困りの場合、ご自身のとらわれについて考え、変化をもたらしていく方法として精神分析的心理療法をご提案することがあります。

ーたとえばー

たとえば、いつも自分はこういう場面で失敗する、いつも自分はこういう人とうまくいかない、と頭ではわかっているのに苦しむばかりだったり、その結果、不安や抑うつなどの症状を呈したり、なんらかの不適応をおこしている場合、かりそめの励ましやその場しのぎの対処ではもうどうにもならないと感じていらっしゃる方も多いでしょう。

そのようなとらわれたこころの状態から自由になりたい、別の可能性を見出したいとお考えの方に精神分析的心理療法はお役に立つと思います。 

ー方法ー

この方法は、自分でもよくわからない自分のこころの一部と出会うために、こころの状態に耳を澄まし観察してみること、そして頭に浮かんできたことを特定の他者にむけて自由に言葉にしてみることを大切にします。 

ひとりではなく他者とともに、みなさんがより自分らしく生活していくためにそのような時間と場所をもつことはきっと本質的な変化と新しい出会いをもたらしてくれることでしょう。 

ーアドバイスは難しいー

同時に、この方法は、考え方や対処方法にいわゆる「正解」があるとは考えていないことを示してもいます。
そのため即効性のあるアドバイスを必要とされる方にはお役にたてないと思います。

アドバイスというものはとても難しく、「一般的にはこうかもしれない」ということはお伝えできても、単に個人の主観的な意見を押し付けてしまう危険性を孕んでいるように感じます。 

法律に反することなどはお互いのために禁止事項になりますが、生き方、考え方については誰かが答えを持っているわけではないと私は考えております。 

そのため、問題を整理したうえで一般論をお伝えすることはありますが、それ以上のアドバイス、ましてや「即効性のあるアドバイス」は難しいと思うのです。 

ー定期的で継続的な時間、少なくないお金を必要としますー

また、精神分析的心理療法の場合、ある程度長い期間、定期的で継続的な時間(週1日以上)を維持することが必要になるため、お受けになる方にも一定の時間を確保していただく必要があり、それに伴うお金も必要になります。

ー別の方法をご提案させていただくこともありますー 

このようにコストがかかるうえに、これまで知らなかった自分の一部と出会い、情緒的に触れ合うプロセスは決して楽ではないため、状況や状態によっては負担が大きく、ご希望されても始めないほうがよい場合もありうるでしょう。

そこで、ご自身の現在のこころの状態が必要としているものを明らかにするために、最初は見立てのための面接を数回行うことにしています。 

そのうえで精神分析あるいは精神分析的心理療法をご提案することもあれば、別の方法をご提案したり、別の機関をご紹介することもあります。

まずはそれぞれのお話によく耳を傾けることから始めたいと考えています。 

ー低料金での精神分析ー
週4日か5日、寝椅子に横になって行う精神分析をご希望の方は、
私は現在、精神分析家候補生ですので通常より低料金でお引き受けしております。

日本精神分析協会のHPもご参考になさってください。
http://www.jpas.jp/treatment.html

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精神分析

同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。