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朝ドラ「あんぱん」、藤山直樹「精神分析家、鮨屋で考える 再び」、中井菜央「ゆれる水脈」

祝日があると曜日感覚も身体感覚もなんかおかしい。それでも明け方の空はいつもきれい。ずっとこのくらいの気温であってほしい。絶対そうならないってわかっていてもそう願ってしまう。

朝ドラ「あんぱん」、最近は毎日冒頭から泣いている。見る時間はバラバラだったがとても好きな朝ドラになった。SNSでのコメントも楽しかった。朝ドラも大河も大体決まった人たちの秀逸なコメントやとっても素敵なイラストを見て楽しんでいたのだけどたまに「え!フィクションにそんなこと求めるの?」「全部は書いたり見せたりできないのが作品ってものでは」「私たちがすでに知っているような人たちがいかに名を残さない人たちに支えられたかという話なのでは・・・」となるコメントを見かけたりもした。こういうことはみんなで話す会を開いたりして、そこにある程度知られた人がいる場合にもよくある。そんなとき私は「ハテ?」となる。すでに名もあって、語る場も持っている人の話はほかで聞けるけど、こういう場ではそうではない人の声こそ面白いのではないの?と思ったりする。そうやっていつも同じような人同士で対話?するグループみたいなのができて、そういう人が権威的に「権威」を語ったりするようになるのかもな、と思う。

話飛ぶけど、子供たちが口々にしゃべっていることをよくわからないけどなんだかすごいぞ、と一生懸命聞き取る方が、いつも同じ人が同じようなこと話しているのを聞くよりずっと楽しいんだけど、と私は思っている。子どもという生物の説得力は大人の言葉よりずっと力がある。

あるいは、ひっそりと、「うまく言えないんだけど・・・大きな声では言えないんだけど・・・ほんとは自分はこう思ってるんだ・・・」という語りを聞くことの貴重さ。それができる場はとても大事だし、誰にも知られていない自分の、誰にも触れられたくない自分を守ることの価値って今はほんの一部の人としか共有できなくなっているのかもしれない。守りたいのは本当に小さなことかもしれないのにあなたのことを知りもしないよく知られた人に抱えてもらいたい。そんな大きな願いで自分を保ちたくなる時代なのかもしれない。

この前、ハイキングで山から降りてくる途中、大きな鉄塔が立っていた。「すごい」と見上げているとそばにいた多分少し年上の人が「すごいよねえ、こんなの人間が立てるんだから」と笑った。本当にそう。いろんな山に道ができているだけでも「一体どうやって」と驚くのに、この鉄塔、これと同じものがあっちの山にもこっちの山にもずっと続いてるってことでしょう、一体どうやって、どのくらい時間をかけて、と思う。空高く伸びる鉄塔を一緒に見上げならちょっとお話ししてその人は先に降りていった。でもすぐに追いついてしまった。結構岩が多いしどうしようかな、と思って距離をとっていると向こうが止まってくれた。お互い「すいません」「ありがとうございます」と言い交わし、先に行かせてもらった。この日、その人と私は同じルートを歩いていたようだったけど時間をかける場所がちょこちょこ異なっていたようで抜きつ抜かれつした。そのたびに知っているような知らないような雰囲気で交わす一言がなんだか面白かった。

なんて話、どうでもいいようでいて、ハイキング仲間に話すと楽しく盛り上がったりする。みんな似ているけどちょっとずつ違う体験を話したり聞いたりしながら山でのコミュニケーションのあれこれに思いを馳せる。こういう「持ち寄り」が新しいコミュニケーションにつながったり、安全につながったりする。最近、熊が怖くて気軽に山道を歩けなくなっているが、これからもどうにか自然と過ごしていく必要がある私たちには大切な会話だ。

WEBみすずで精神分析家で日本精神分析協会の訓練分析家でもある藤山直樹先生の鮨の連載が再び始まっていた。みすずの連載は紙で届かなくなってからほとんど読まなくなったがこれはWEBで読んだ。藤山先生の連載は「精神分析家、鮨屋で考える 再び」。第一回は「鮨が生き続けること」。「生き続ける」ということに限界を感じつつ生き生きとそれにチャレンジしつづけるのは鮨も精神分析も同じだし、鮨屋の危機感を老齢となった精神分析家はもちろん強く共有している。

今は精神分析基礎講座と名前を変えたが、当時まだ対象関係論勉強会と呼ばれていたセミナーで、藤山先生の夏のグループの案内をもらった。申し込みからすごく緊張して、オフィスに伺ったのが先生の一冊目の単著『精神分析という営み』が出版されたときだから2003年。そのグループで一緒だった人たちの数人とはその後も関係が続き、当たり前だがそれぞれ20歳ずつ歳をとった。私もそうだが、精神分析家になった人もいる。

あの頃の日本の精神分析は活気があったと思う。小此木啓吾も土居健郎もいた。当然だが、彼らが遺したものは良いものばかりではない。まだ内側にいなかった私もそのあとすぐに様々な噂を聞くことになったが、自分のことで精一杯だった私は、精神分析でもなんでもただただ学べることが楽しかった。重度の自閉症の人たちと週末を過ごしながら教育相談員やスクールカウンセラーをやり、クリニックでの臨床も、塾の講師もしてた。とりあえず臨床家でありたかったし、精神分析を受けるためにも稼ぎたかった。若かった。

ここ数年、子育てがひと段落して久しぶりに学会にきたという友人やその頃からの付き合いの友人ともそんな昔話をすることが増えた。「あの頃はよかったよね」と言いたくなる感じを「なんか変わったよね」みたいな曖昧な感じで表現することも多くなった。時代が変わるとはそういうことなのだ。それでも修行の期間が長い私たちは簡単に去るわけにはいかない。私なんてまだ始まったばかりなのに、いつまで続けられるのだろう、と身体の不調や加齢を実感するにつけ不安になる。藤山直樹の年齢になればますます切実ななにかを感じることになるだろう。小さな日本の小さな訓練組織である協会の基盤づくりをしながら下の世代を育てることは、すでに整った組織で数多くの訓練分析家が機能している国のインスティチュートとは事情が異なる。今回の連載にはニューヨークに渡った馴染みの寿司職人、中澤親方という人を訪ねたときのことが書かれている。似たような危機を見据えながら下の世代を育て、自分が愛し、信じた文化が生き延びることを願い、自らも日々のそれを仕事として営む。しかも生き続けるためには生き生きと、というのはウィニコットとオグデンと藤山直樹の受け売りでもあり私の実感でもある。そんなあり方が人間にとってもっとも自然な姿だったらいいのに、と私は思うが、現実はそうではないような気がする。どうなるのかどうするのかどうしてくれるのか、とか言っていないで、私や私たちができること、したいことを模索していくことが必要だろう。何を言ったところで時間は有限だ。たくさんの支えを得ながら楽しめたらいい。

WEBみすずには8月号まで写真家の中井菜央さんの「ゆれる水脈 写真 表象の先に」が連載されていた。写真家ならではの細やかな観察と広がりのある言葉選びが魅力的で、知っている場所でまるで知らなかった景色を見せてもらっているような気持ちになる不思議で豊かな連載だった。新章を加えた書籍化が予定されているとのこと。楽しみに待ちたい。

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小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。

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わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。

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「その後」

昨晩は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン(藤山直樹編・監訳、岩崎学術出版社、2017)』のラットマンの部分、つまり「強迫神経症の一症例についての覚書(一九〇九)」を読了。

昨年度からオフィスで始めた小さな読書会。4月から新しいメンバーを加え2年目をスタートさせたけど、コロナの状況を考えてまだ一度も対面でお会いできていない。

昨年度は同じく岩崎学術出版社から出ている『フロイト技法論集』をちょうど一年かけて読み終えた。今回のラットマンは
 Ⅰ 病歴の抜粋 Ⅱ 理論編 というシンプルな構成。1ヶ月に1回2時間で4ヶ月、8時間で読んだ。強迫神経症の症例としても、転移を扱わなくてもよくなった症例としても、フロイトとラットマンの幸福な時期の描写としても読める本である。

ラットマンという名前は彼の病歴からとっている。私も自分の問題に名前をつけるとしたら何かな。病名よりはその人固有の感じが出る方がいいなと思う。

ラットマンはフロイトにお母さんのようにお世話をされ、陽性転移の中よくなっていくが、第一次世界大戦で戦死する。だから「その後」は「戦死」以外、分からない。

ウィニコットの子どもの治療記録『ピグル』に出てくる女の子は50年後にインタビューに応じている。

死に方には色々あるし、いつどうなるかは誰にも分からないけど、できたら「その後」を死以外のなにかで伝えたり、伝えられたりしたいな、と思う。