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精神分析

同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。

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電話

わたしと連絡が取れないと別の友人づてに連絡がきた。これまでもやりとりしていたのになんでだろ。わたしから連絡したら無事につながった。

私たちは大学時代が「ポケベルが鳴らなくて」の世代だから、連絡が取れないことに対する時間感覚が今の若い人たちとは違うかも。待つしかない、という状態を知ってる。

好きな子と電話するのだって家の電話だから前もって時間を決めて待機したり、それなのにその時間に親兄弟が電話使っちゃってて理由も言えず怒ったり、待機に遅れたら親が出ちゃってなぜか親と盛り上がってた、なんて話も聞いた。電話をめぐっては今よりずっとたくさんのドラマがあったのだ。

わたしに連絡が取れないと共通の友人に電話をかけたその人は久しぶりにその友人と話した、と喜び、その友人も久しぶりにその人と話した、と喜び、双方からお礼を言われた。なんだかこちらこそすいません、ありがとう。

受話器といえばフロイト なのだけど、今日はもう遅いからまたいずれ。

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いれもの

いれものを変える。儀式だ、これは。

お財布、キーケース、カードホルダー、小さいけど生活に欠かせない大切なものをいれる場所。カードホルダーは私は使わないか。

数年ぶりの儀式だ。新しいパスケースが届いた。まだ革がパリパリ。すっかり私の手専用になった今のパスケースと同じモデルのはずなのになんだか溌剌としている。持ってみるとまだちょっとゴツゴツしていて私の手には大きい。

なんだか寂しい。

交通系ICカード、定期券、回数券、図書館の利用カード、何かで当たったQUOカードはお財布を忘れた時に役に立つかな、でも交通系ICカードでなんとかなってしまう。もう使えません、となる前に使おう。やだ、このカードここにあったの、

など思いながら一枚ずつ新しいケースにうつしていく。

私はお財布はあまり忘れない。でもパスケースはしょっちゅう忘れて取りに戻る。この新しいパスケースとは何回そんな体験をするのかな。明日からよろしくお願いします。ますます忘れっぽくなってるから呼びかけて、無言でいいから。

そして、あぁ、今のパスケースさん、長い間毎日毎日ありがとう。バックの中でさえ何度も見失って、慌てて取りに戻ったら、君はどこにもいなくて結局もう一度ガサゴソしたらバッグの中にいた、なんてこともしょっちゅうあったね、

と思い出を語り出したらキリないけど(そんなことない)、ありがとう。しばらくは新しいパスケースが入っていたこの綺麗な水色の箱の中にいてね、何度も確認したけど、まだ忘れ物があったら嫌だし、もうちょっとそばに。

大事なもの。大事なもののいれもの。いつのまにか身体の一部のように動かしているけど最初はぎこちなかったね。なんでも少しずつだね、馴染むのもさよならも。

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読書

漫画

最近は漫画の貸し借りってするのかな。

昔は漫画喫茶ってなかったですよね。ありました?たくさん漫画が置いてある喫茶店はありましたよね。ゲーム台がテーブルだったり。あとは床屋さんにも漫画がたくさんあった。なんだかいろんなところで読み耽っていた覚えがあります。

大学時代によく利用したユースホステルにもありましたねえ、そういえば。そうそう、旅先にはよくありますね、漫画。宿の共有財産。

専門書だとすぐ眠くなるのに漫画は読み終わるまで寝られない、連載ともなるともう大変、というわけで夜更かししているわけではないのですが、私が読んでいた漫画っていまややや古典なのでは、と思ったりします。というか、今も語り継がれているものは覚えていられるけど、きっと忘れてしまっているのもたくさんあるのですよね。その場ではきっといろんな気持ちをもらったのでしょうけど。

また古くて安い宿で再会できたらいいな。「あー、懐かしい!」と。

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精神分析 精神分析、本

1939年9月23日

1939年9月23日、フロイトが死んだ。その生涯はあまりに有名だ。でも、未公開の資料がいくら公になったところで、フロイトについての本が何冊書かれたところで、彼や彼以降の精神分析家が患者のことを知ったようにフロイトが理解されることはなかった。精神分析の創始者である彼には自己分析という方法しかなかった。

先日、認知行動療法家の先生から本をご紹介いただいた。『認知行動療法という革命』という本だ。原題は、A History of the Behavioral Therapies: Founders’ Personal Historiesなので本当は「行動療法」の第一世代の個人史だが、翻訳は「認知行動療法」となっている。

錚々たる顔ぶれが集まったこの本は、新しい世代の行動療法家が技法ばかりで歴史を重視していないことに対する警鐘から始まるが、精神分析を専門とする私が興味があるのはやはり精神分析に対する彼らの態度である。

「精神分析から行動療法へのパラダイムシフト」という章もあるが、精神分析に対して最も明快な態度を示しているのは「社会的学習理論とセルフエフィカシー ─主流に逆らった取り組み」を書いたアルバート・バンデューラと「認知行動療法の台頭」を書いたアルバート・エリスだろう。特にエリスは精神分析実践をよく知ったうえで書いている。

もっとも精神分析に向けられる批判はいつの時代も実証性のなさなのだが、体験した人にとってはそれ以上にこれを退ける意味や理由があるのだろう。実際、実証性に関してはエリスの時代よりも効果研究が進んで、それなりのデータを持っている。一方、もし、体験が精神分析を遠ざけたとしてもそれも十分にありうることだろうと、精神分析を体験している私も思う。むしろ体験したからこそわかるのだ。

精神分析はそんなに希望にあふれていない、不幸を「ありきたりの不幸」に変えるかも、とフロイトが書いたことからもそれははっきりしている。そんなものをどう信じればいいのか、と言われれば、まあそうだよね、という気にもなる。

でも、私たちはそんな簡単に何かが修復されたり、改善されたり、正しくなったり、美しくなったりする世界に生きているだろうか、とも思う。

他の場所でも書いたが、実際、精神分析は、設定と技法以外は臨床で生じる驚きを説明するには十分ではない。そしてそれは精神分析にとっては当然のことである。無意識を扱うとはそういうことだ。したがって、比較対象にはなりにくい、と私は思う。エリスのように経験してそれを放棄するのもよくわかる。

対象の選択がその人の歴史性を示すように、私たちが何かを選択するということはそれほど意識的なものではない。精神分析を選択する人もいれば、認知行動療法を選択する人もいる。また、患者からみれば、その治療者の技法が何かよりも自分のニードを繊細に受けとってくれることのほうがずっと大切だろう。

フロイトはこの日付に死んだ。私たちはいまだに精神分析が精神分析らしいか、あるいは精神分析と認知行動療法はどちらが効果的か、という議論をしている。先人たちは丈夫な種を蒔いてくれた。改めて感謝したいと思う。

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精神分析

一語文

移動時間に徒然なるままものを書き続けたら自分の本音がみえてくるだろうか。この時点ですでに何度か打ち間違えているがフロイト的にはこの失策行為のほうに本音をみるだろう。

二語分を話し始める前の子供は単語でいろんなことを教えてくれる。一語文ともいう。一語で文章になっているということ、そこに含まれる様々な情緒、それを受け取ろうとする主観、喃語がいれものを得て人を介して広がっていく。一語文というのは本当に意味深い。

もはや一語文で何かを伝えられるほどの何かを持っていないからかもしれないが、私は少し長い文章を使う、こうやって。指が動くままに。特に何も考えず立ち止まることもせず。

そして少し不安になる。その行き場のなさに。この言葉のいれもの、置き場はあるのだろうか。この場を一応そことしたとしても、主観と客観も能動も受動も区別を曖昧にしながら文章が組み立てられていくときにポロポロとこぼれ落ちていく意味や意味のなさは増える一方。

ひどく切迫した瞬間が訪れればそれらは一語文になるのだろうか。それとも言葉を失うのだろうか。

筒美京平が死んだ。誤嚥性肺炎だったという。昭和に浸透する歌を送り出した作曲家の最後の言葉ってどんなものだったのだろう。その人を思い出せば歌が流れるような、そんな人の言葉に最後もなにもないか。人は記憶する。

一と多を含みこむ二者の言葉を一語文として、それが本当に人との間に放たれるとき、それまでとは別の何かが始まってしまう。それはどうしようもないことだけれど、そのどうしようもなさに抗うかのように主観というものがあるのかもしれないけど、種のようなその一語文にひきこもってしまいたいときもあるかな。ただの可能性に戻ることはもう難しいから。ただのじゃなければわからないけど。

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アイスココア

なんとなくお昼を食べそびれたまま用事を終えてオフィスへ向かう。今日こそ最後の暑さらしい。すでになんどか聞いた気がするけど。

ぶりかえしつつも夏が遠のく。新宿中央公園の蝉は数がわかる程度になり、空はすっかり高くなった。夕方に向かうにつれ日射しは柔らかくなったが、10分以上歩いたら軽く汗ばんだ。最後の暑さか、と思ったからでもないがココアフロートを飲んでみた。しゃりしゃりの氷がおいしい。

学生時代、人がほとんど通らない階段そばの喫茶店でアルバイトをしていた。薄暗い店内は外の大通りからみても怪しく、客のほとんどはそのビルの従業員だった。煙草臭くアングラな雰囲気を漂わせていたその店は若かった私に多くの経験をさせてくれた。

もっとも明るい記憶は、そこのアイスココアの味だ。今ではちょっと甘すぎるその味をいまだに求めてしまうほどそれはおいしかった。バタバタしたランチタイムを終えて、ぼんやりテーブルを拭いたり、紙ナプキンを折っていると店長が「何飲む?」と聞いてくれる。時々ちょこんと生クリームが乗せられたとてもいい香りのオレンジティーもお願いしたが、ほぼいつも「アイスココア」といった。珈琲なんてまだ大人の飲み物だった。フィルターの準備はたくさんしたけど。

まかないドリンクも食事も基本はメニューから頼むのだが、好みはなんでも聞いてくれて、どれもとてもおいしかった。パリパリの海苔がかかった明太子パスタの美味しさもそこで知った。

メニューにないものを頼む先輩(いつでもとっても優しかった)もそれに平然と応える厨房のおじさん(最初はめちゃめちゃ怖かった)もすごくかっこよかった。でも私はメニューからだって決められないのだ。いつもメニューと睨めっこして結局いつもと同じものをお願いしていた。こういうところ、今と全然変わってない。

アイスココアをのんだらちょっとタイムスリップしてしまった。いかんいかん。今はもうバイトではないのだ。バイト先のみなさんには大変お世話になった。なんとか仕事しています。ありがとうございました。

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ヒーロー

オフィスのエアコンがぽこぽこいうようになった。あれは7月だったか、窓側の換気扇を閉めて、エアコンを消したら急にぽこぽこぽこぽこ言いだした。小人がお祭りでも始めたのではないか、と驚いた。怖いし、でも音はなんとも呑気だし、しばらく祭りが終わるのを待ったが終わりそうもない。リズムも一定でないので音楽としてもどうかと思う、とか思いながら聞いていたが、もう夜だし管理会社もやっていない、仕方ないか、と玄関に向かい、玄関側のキッチンスペースの換気扇をきったらピタッとやんだ。なんなんだ。

ネットで調べてなんとなく理由は分かったが、患者がきている間にこんな呑気な音をたてられたらたまったもんじゃない。私は患者の声が聞きたいんじゃ。かといって業者の人に入ってもらう時間もない。ということでなんとか夏を過ごし、そろそろエアコンを使う頻度も減ったので管理会社に電話をした。私のオフィスを管理してくれている会社は同じビルの中にあるので「音がでたらすぐ呼んでください、すぐ行きます」といってくれた。頼もしい。

が、しかし、せっかくその時間をとったのにエアコンがポコポコいわない。ネットで調べて「こうやったら一時的に直る」というのの逆、というか特に何も対処せずに放っておいたのになにもいわない。なんで?と思っている間に眠ってしまった。寝不足だったのだ。気づいたらもう管理会社は閉まる時間。私が眠っている間に音はなったのだろうか。夕方からはエアコンがいらないほどだったのに、音を出すためだけに除湿や冷房をつけ、寒さを凌いでいたこの時間はなんだったんだ・・・。

まあよい。なんせすぐに駆けつけてもらえるのだ。私の大切な部屋を守ってくれるヒーローだ、今のところ。

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精神分析

自由連想

透明なものが好きだ。

大学のとき、ゼミで墨田区の硝子工房へ行った。ゼミで、といっても専攻である発達心理学とはなんら関係はない。たくさんのガラス製品ができるまでをみせていただき、柴又まで足を延ばし、みんなで大きな縁台に座って団子を食べた。

小学校の遠足の帰り、大型バスの小さなテレビにはいつも宇宙戦艦ヤマトか寅さんの映画が流れていた。学校に到着すれば、それが途中であろうとバスから降ろされる。そのことに特に未練を感じた覚えはない。バスの窓に見慣れた景色が現れたときには、すでに映画からこころが離れていたのかもしれない。

宇宙戦艦ヤマトは家でも何度もみた(そして泣いた)、寅さんはこのバスでの時間でしかみたことがないかもしれない。バスに酔いやすい私はいつも一番前の席でぐったりしながらこれをみていたが、密に心躍る時間だった。

柴又に行ったのは初めてだったと思う。江戸川の近く、たしかに風を感じた。みんなはそのあと、矢切の渡しに行ったが、当時、バイトに明け暮れていた私はここでみんなとお別れだった。今思えば、その日くらいバイトを休めばよかった。

その後、それぞれにいろんなことがあった。大きな出来事もあった。若い頃は今過ごしている時間の意味など考えたこともなかった。その後、何が起きるかなんて誰にもわからないなんていうのは今も同じなのだけれど。

その後、私の専門は精神分析になった。発達心理学は大切な基盤としてそれに貢献してくれている。フロイトは無意識は無時間だといった。そしてあまりある不断のそれを扱う設定として、休日以外の毎日、特定の時間を患者と過ごし、その対価で生活をしていた。フロイト自身の生活も非常にパンクチュアルだったという。このあり方を日本人的という人もいる。精神分析は日本人に馴染まなくはないだろう、ラカンは別の文脈でそうはいわなかったけれど。そう、日本人は確かにパンクチュアルかもしれない。私があの日、バイトに間に合うように急いで帰らねばと思ったように。

誕生日プレゼントに文庫本を開いたまま置いておける文庫サイズの透明なアクリル板をもらった。ほかのことをしながらでもパサっと閉じてしまわないし、ページをめくるときにいちいちそれを持ち上げる時間があるのもなんだか素敵だ。もちろん早く次へ、という気持ちを抑えきれないときはアクリル板を外して手に持ってしまうのだけど。

いまやアクリル板は刑務所のものでもなく、日常的に人と人とを隔てるものとなった。前にも書いたが是枝監督の『三度目の殺人』で使われるアクリル板は多くのものを映し出した。私もアクリル板越しに患者と会うとき、そこに映る自分や背景がこれまでとは異なるこころの風景を描くことがあると感じる。

文庫に重ねる透明なアクリル板は、立てるのはではなく重ねるものなので、ページをめくるときにこれまでとは少し異なる時間を体験させてくれるだけで、私と本を遠ざけない。

ガラス、画面、窓、川面、アクリル板、まるでフロイトのマジックメモWunderblockのようだ。透明な接触面越しの記憶を秘密が守られる場所で語るとき、その体験が別の姿で現れるように、限りはあるがあまりある不断の時間に身を委ねることは、不幸を「ありきたりの不幸」に変えていくのだろう。

そういえば私は以前にもこんなことを書いた気がする、と思って記憶を探った。谷川俊太郎さんの詩について書いたときだ。https://www.amipa-office.com/cont8/20.html

ああ、そうだ。本に重ねる透明なアクリル板、これには谷川俊太郎さんの書き下ろし三篇がついていた。紐解くように、自由連想のように、語れば重なるものなんだな。

「ありがとう」という詩は私の気持ちにぴったりだった。

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読書

限界

海外の本、特に、その国が、その国の人たちが経験してきた傷つきの歴史について知ることは意義深い。ときには目を背けて本を閉じたくなり、それでもそれを読むこと自体が何かの供養になるのではと思い、それでもやはりひたすらに胸をえぐられる思いに耐えきれないと感じる。

一方で、私はその国のことを何も知らない。こんな簡単にまるで自分が同じ体験をしたかのような振る舞いをしてよいものか、私の体験は私の体験でしかなく、それと重ね合わせて何かを理解したかのような仕草をしてもよいものだろうか、と考えあぐねることも多い。

物事を近くから、遠くから、斜めから、上から、下から、鏡を通じて、あるいは音声だけで、あるいは・・とできる限り多様な仕方で見られたらいいのかもしれない。でもそれほどの余裕を私たちは大抵持っていない。

だからこそ限界を知ること、そのうえで語ること、それが大切なのではないか、そんなことをよく考える。とても難しいことだけれど。

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精神分析

Fort-Da.

渋谷方面のホームは塾帰りの小学生で溢れている。久しぶりにみる光景だ。器用にマスクをずらし、傘をトントンと床に打ちつけながら「あいつ、本当にうるせえ」と悪口合戦をしていたかと思えばキャハハと別の話題で盛り上がっている。


時間通りにきた電車に乗り込むと、追いかけっこのまま駆け込んできた数人の男の子にぶつかられてつんのめった。ひとりの子が一瞬視線を走らせてまたダンゴになってぶったりぶたれたりしている。


身体の大きさもそれぞれだ。子供の頃にみていたドラマを思い出す。主人公は中肉中背の男の子だった気がする。ガキ大将という言葉は今も通じるだろうか。相変わらず駆け回っていた彼らを中年女性が一喝した。説得力のある声に誤魔化すような動きでなんとなく隣の車両に移った彼らは隣駅で降り、また声をあげながら走っていった。


電車を降りて濡れたタイルを慎重に踏みながら急ぐ。小さな段差も難しいらしい杖を持った老婦人にご家族だろうか、「私、下いくから先に行ってて」など声を掛け合っている。
今日の雨はなんというのだろう。霧雨でいいのだろうか。SNSには今夜は涼しいという言葉が並んでいたけれどあまりそうは感じない。

きっとこれは霧雨だ。遮断機が上がってから街灯の灯りを避けてシャッターを切った。あっという間に小さな水滴がつく。
都心には遮断機がない。


保育園にいくと子どもたちが駆け回っている。駆け寄ってくる子どもたちに遮断機を作ると笑顔がもっと大きくなる。なぜ腕を下ろすだけで遮断機とわかるのだろう。お散歩でも彼らは行ったり来たりする電車に何度でも同じように声をあげる。
行ったり来たり。Fort-Da.いずれはいったままに。残像と遊ぶように今日を明日へ。

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精神分析 読書

適応と適当

早朝が一番色々捗ります。今日は土曜日ですね。一日中雨かしら。

昨日は色々書いたまま眠ってしまい、内容は昨日仕様だったので消してしまいました。ほんと、画面からって消すのも消えるのも簡単。

でもたとえ私が文章を消したところで私の考えだからまた何かの形で出てくるでしょうし、たとえ私が姿を消したところで私が消えてしまうわけでもないので、何度でもやり直せますね。

でも現実に姿を消したとしたらどうでしょう。社会学者の中森さんの『失踪の社会学』を以前ご紹介しましたが、失踪とかで姿を消されたら辛いな。と、今、私が失踪される方であることを大前提として書いてしまいましたが、こういうのは注意が必要かもですね。「誰にでもありうること」、病気でも障害でも喪失でもなんでも。いや、なんでもはないか。

精神分析はその人のあり方全体を大切にしますが、それだってその人だけのこと、私たちだけのこと、誰にだって起きること、社会全体のこと、全てに関わることであって、単なる密室的なにかではありません。営まれる場はふたりだけのプライベート空間ですが。

精神分析では「適応」を特に目指さなくても治療の副産物として、いや違うな、「適応」というよりは、その人がその人らしさをある程度保ったまま、その場に適当に、ほどよくいられることができるようになります。それは精神分析が、固有のものを大切にすることのなかに社会を大切にすることを含みこんでいるからだと私は思っています。

静かな朝です。朝の暖かい飲み物がしっくりくる季節になりました。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

度忘れ

何かを言おうとして口を開いた瞬間にそれがどこかへ行ってしまうことがあります。ありませんか?いわゆる度忘れです。

フロイトは『日常生活の精神病理に向けて』(1901/1904)のなかでこの度忘れに触れています。フロイトとしては、精神分析が想定する「無意識」ってこんなふとしたところに現れるんだよ、ということを一般の人にも知ってほしくて書いたようですが、なにはともあれ、度忘れ、面白い現象です。

度忘れ、言い間違い、読み間違い、書き間違い、どれもよくありませんか?私はしょっちゅうあります。言い間違いとかとても恥ずかしくてどうして言い間違えたかなんてフロイトみたいに考えたくもないときもありますが、勝手に考えてしまうので「きっとあれのせいだ」と気づいたときにはやっぱり恥ずかしくて誰も見てなくても机に突っ伏したりしてしまいます。あーあ、ちょっと本音出ちゃったな、と。これぞ無意識ですね。

フロイトのこの本はとても売れました。この前に出した『夢解釈』がフロイトが思ったよりも売れなかったのに対して、『日常生活の精神病理に向けて』はフロイトの予想を超えて売れたようです。夢も日常ですが、夢解釈なんてちょっとおせっかいだな、とか、自分の夢なんだから自分が一番よくわかってるし、とか思われたのでしょうか。たしかに夢はみんなみるとはいえ、内容が個別的なのに対して、この『日常生活の〜』に出てくる失策行為の例は「わかるわかる、自分にもこんなのあるある」と受け入れやすかったのかもしれません。

それにしてもどうして忘れちゃうのでしょう。頭に浮かんだ瞬間に消えている、と私は感じるけど、もっと細かくみるとたくさんの不思議な現象が一瞬にして起きているのでしょうね。

眠くなってきてしまいました。度忘れどころかいろんなものが遠のいてきました。また、っっっっっっっっっって打ってた。無理せず休みましょう。今度は、いいいいいいって打ってた。いい夢、をって打ちたかったのでしょう。

明日も度忘れや言い間違いがあってもそれなりに良い日でありますように。おやすみなさい。

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和菓子

和菓子ってどうしてあんなに魅力的なのでしょう。季節ごとにどうしてこんな形が、どうしてこんな色合いが、と驚くような和菓子がショーケースにたくさん並びます。と書き出すと私の頭のなかにはいろんなお店がポコポコと浮かんできます。

一番はあそこかな、でもこの季節はこっちかな、食べたことないけどあそこのは一度は食べてみたいよね、そういえばあそこでいただいた和菓子はとっても美味しかった、と近所からデパ地下から旅先まで、私の和菓子地図は小さなエピソードと一緒に一気に広がっていきます。

季節の和菓子は大抵高価ですし、一度にいくつもいただくものでもないので、生きているうちに実際に味わえるのはとっても一部でしょう。迷って迷って迷った挙句、結局いつもと同じのを買ってしまうこともしばしばですし。あー、また同じのにしちゃった、今日こそあれを試そうと思って行ったのにな、とお店の名前が書かれた包みを開いて、お茶を入れて、竹の和菓子切りでいただくと、やっぱりこれにしてよかったー、となることもまたしばしばです。

特別なお菓子は失敗したくないので、つい守りに入りますが、そのおかげで味わえる幸せもありますね。

と美味しいもののことばかり考えているときは、あまりやりたくない作業から逃げているというのも世の常でしょうか。

空想チャージがなくならないうちにしあげましょう。今夜も少し雷がなっていますね。どうぞよい夢を。

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精神分析

本人

支援でも補償でもなんでも本人から申し出る必要がある。この「本人」というのは拡張していくことはできないものだろうか、とよく考える。私たちは誰もが裕福になれるわけではないけれど、誰もが困難を抱える可能性はある。住む場所をなくしたり、身体が動かなくなったり、言葉を失ったり、考えたり感じたりすることができなくなったり。

それでも「私が本人です」というために証明書だって必要なわけで、どうして私たちは身ひとつで、あるいは身近な人の言葉で本人になることができないのだろう。もちろん嘘はだめだ。でも本当のことなのにどうして本人ではない人がそれを証明してはいけないのだろう。

精神分析は他者を必要とする。精神分析の最大の特徴は無意識を想定し、それを言語化するところだ。つまり、自分は自分のことをわかっていない、というのが前提だ。

他者との間に言葉を差し出してみると「あれ?こんな風に言いたかったわけじゃないのだけど」とか「いざ話そうとすると言葉が出てこない」とかいう体験をする。カウチ に横になって自由連想を求められるだけで私たちは自分のなかに(でもどこでもいいのだけど)知らない誰かを見つける。

こうして少し曖昧になった自分を「あなたはそう思う」「あなたはそう感じる」とふわっと本人のものとして留めておいてくれるのが分析家だ。

今、っっっっっっっっっって打ってしまっていた。眠るときも自分が曖昧になるね。とりあえず夢で。

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読書

遺稿

今年2月、クルーズ船での感染が騒がれ出した頃、敬愛する作家、古井由吉が亡くなった。その後、『新潮』に遺稿が載せられた。

多くの本屋がコロナを理由に休業するなか、オフィスのそばの本屋はいつも通り開いていた。『新潮』自体、よく売れていて手に入りにくいと聞いていたが、本屋が開いていると思わなかった人も多かったのだろう。私はいつもより暗いひっそりした通路を行き、エスカレーターを歩いて上り、いつも通りの明るさの本屋へ向かった。この本屋のことは大体知り尽くしている。『新潮』があるはずの棚へ真っ直ぐに向かうと一冊だけそれはあった。私はすぐにそれをレジに持っていった。いつもなら時間が許す限り長居していろんな本を見るが、この日は違った。

古井由吉はおじいちゃんだからもうすぐ死んじゃう、と思っていたにも関わらず、いざ亡くなってみると親戚でもなんでもないのにそれなりに衝撃を受けた。悲しかった。

「杳子」を読んだときの衝撃は忘れられない。女を描くならこう描きたい、と思った。薄暗いのは陽の光のせいだ。まるで病床にいるかのような女を男は観察しつづける。その視線もまた仄暗い。

コロナをめぐる状況は2月とは変わった。日々の景色も変わった。マスクをしない顔と会えるのは画面の中だけ、といったら大袈裟だが人は距離を取るようになった。

古井由吉は亡くなった。彼だったら今の状況をなんというだろう。

私はまだこの遺稿を読めていない。こころの距離がとれていないから。

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俳句

小鳥来る

長月、旧7月17日、大安、立待月、小鳥来る

日めくりには素敵な言葉がたくさん。いつも1日の仕事を終えて、めくって、というか、私の場合は剥がしてからじっくり見るのだけど(見ないで積まれていく時もあるのだけど)今夜は特に癒されます。

だって立待月と小鳥来る、なんて素敵な言葉なのでしょう。「なんて素敵な」という言葉を使うときに思い浮かべるのはジュリー・アンドリュースです、なぜか。

毎日毎日空ばかり見ています。夕方オフィスに戻るとき、急に黒い雲がやってきて冷たい風が吹いたときは少しびっくりしました。降るのかしら、と思って少し急ぎ足でオフィスに帰って、夜の仕事を終えてカーテンの向こうを見たら広い空が白く光りました。そしてオレンジの稲妻も。パソコンに手書きで描くときのちょっと曲がってしまった線みたいな光が短くビビッと。

今日はパソコンも持ち歩いているし、大雨とかいやですよ、と思って今度は小走りで帰宅。降られずに間に合いました。

降られた方もいらっしゃるでしょうか。地震や大雨の地域のみなさんはご無事でしょうか。

小鳥来る、秋の季語です。空を見ていて出会えたらきっと笑顔になるような、いろんなことあったけど今年も会えたね、と思えるような、そんな季語だと思いませんか。

小鳥来る、この季語は、私が使っている平井照敏編の『新歳時記(秋)』河出文庫には載っていません。私が持っているのは1996年の改訂版初版です。その代わりではないけれど載っているのは「小鳥網」。「秋に群れなして渡ってくる小鳥を霞網、別名ひるてんを用いて捕獲してしまう猟法で、昭和二十二年以降禁止されてしまったもの」で「残酷な猟法」だったそうです。

どうしてこちらの季語を載せたのでしょう。理由はわかりません。今日の日めくりの「小鳥来る」をみて明るくなったこころが曇ってしまいそうです。

人を見て又羽ばたきぬ網の鳥 高浜虚子

これを読むとき、私たちは網の鳥になった気がしませんか。生きようとする力を本能と呼ぶとして、人はあまりに大雑把な万能感を行使して自らのそれを放棄することもあるのかもしれません。

その行為がなくなるとき、その季語もまた私たちから遠くなっていきます。でも多分、言葉は行為よりずっと長生きする必要があって、想像力がどんどん乏しくなっている私たちはそれに助けてもらいながら同じ過ちを繰り返さない努力をしたり、生きて会うことはなかった人と対話したりするのかもしれません。

小鳥来る音うれしさよ板庇  蕪村