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精神分析

やはり強くない。

まただ、やっぱりなぁ、ということが増えてきた。欲望と権力という言葉は強いけど実際はとてもマイルドな形でそれらは行使されつづけ搾取は行われつづけている。功利主義はやはり強く、それとは結びつかない自然に求めあう愛情関係は脱価値化される。一方ある目的に向かって境界を曖昧にしながら「協働」する二人がセクシュアルな関係であることを否認したり容認したりしながら排除のシステムとして機能することもある。その場合、その周辺にはそれまでの親密な関係すら鬱陶しがられ混乱し発狂する人もいたりするがその痛みを与えた本人がそれに気づくのは肥大したナルシシズムが何らかの形で傷つくときだ。文学や映画なら「本当の愛」を知って再び愛しあう二人みたいなストーリーにもなっているし、そのまま女の方だけ破滅するようなストーリーにもなっている。大抵の場合、弱い立場の人はさまざまな水準で利用されつづける。

「小4女子のグループ」ときけば大体の人は「うわぁ」となる。大人として彼らに関わるようになったときも最初は「うわぁ」となり実際大変だったが今は自分も通ってきた道としてそれをどうしても必要とする子どもたちがいるとわかる。女の子たちはやはり強くない。

大人になった。なんとなく一緒にいたい人ができた。SEXなんてもっとゆっくりでよかった。なのになんとなく身体的に近寄ってくる男性を拒めなかった。もっと一緒にいれば、もっとコミュニケーションをたくさんとれば、あとからそこに懸命に親密さを見出そうとした。でも「そもそも」だ。求めれば「重い」「もう無理」と言われ孤独は罪悪感で隠された。拒まなかった私が悪いのだ。私は泣いてばかりだった。とても悲しいことにとてもよく聞く話だ。

これは支配ではない、対等だ、そう言い聞かせようとすればするほどそれを「支配だ」「搾取だ」と感じたときに言葉が出てこない。おそらくその直観はかなりの程度正しいはずなのに。

女の子の「〜される空想」について話し合った。現実の出来事として生じれば外傷となりうるその空想は親殺しの空想に対する防衛という側面があるのかもしれないと私は言った。女の子は強くない。ひとりを分裂させ集団のなかに紛れ込ませ守らなければならない。そんなようなことを。

いつも書くがどちらがどうという話だけで出来事を考えることはできない。しかし「女の子は」という言い方は常に必要だろう。マイルドな顔をして近づいてくる欲望と権力に抗うことは本当に難しい。「自分は違う」多くの場合そんなことはない。「自分は違う、自分だけは。」そう言いたくなるときこそ立ち止まれる相手と出会っていきたい、出会ってほしいと願う。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生