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精神分析

いろんな一日

思いがけず伝わってしまった。「えーわかってくれるの!?」と思ってしまった。もちろん嬉しかったが、なぜということを考えてしまうのがこの仕事、多分。

私の描写のどの文脈が共有されたんだ、と振り返ってみる。今回はいつもは生じにくい少し離れた人が自然にやりとりに参加する場面もみられた。たしかにいくつかの準備的な要素が思い当たる。

精神分析的心理療法において転移の文脈が動き出す前、多少は動いてるとしてもそれが優勢になる前になされる初回面接をエスノメソドロジーを用いて検討することは初心者を教えるときに有効なのではないかとお世話になっている先生に話した。先生は「ありかもね」といった。私は酒井泰斗さんがいろんなところで紹介しているものを読んでいるだけなので時間ができたら勉強したいと思うがなかなか難しい。

でも多分説明に有効だ。私の理解する限り、エスノメソドロジーは現象を部分や個人のものとしない。普通に考えれば当たり前じゃないかという話なのだがこちらとあちらを相互独立的ではないものとして記述するのはなかなか難しいのだ(なかなか難しいことばかりだな)。

しかしちょっと考える。どうして人間ってこうやって情報処理したくなってしまうのかしら。なんでわかりたくなっちゃうのかな。そうしようとすれば必ず自分ルールを持ち込むことになるからきちんと勉強してからのほうがいいのに。言い換えをするってそういうことだと思うし。でもまあそういうわかっていないくせにという前提のもとに書こう。

ちょうど今日話していたのだけど「それってこういうこと?」というのだって文脈からなにかとりだしたつもりで埋め込まれにいってる側面があるわけでなにかを明確にするためだけの作業ではない。次への準備的な作業でもある。そういう構造を知っておくことは初回面接に役立つのではと考えている。臨床の場合は症状や病理を伴う相手との相互作用だからその見立てと並行したフォーミュレーションになる。するとかなりパターン化された作業とそうでない作業の両方ということになるか。こうやってあれこれ文脈とか構造とか意識すると「あー、そこだとそうなるかも」とかいう一言に含まれるものが次を作ったりもする。終わりなき作業をどこで区切るかという話も出てくるわけだ。面接の場合だと時間ですかね。

今書いたのはどちらもアクションを起こしている場合の相互作用だけどそうでないものもある。

横断歩道の向こうで怒鳴り声があがってみんながそっちを振り向いた。私も。そこに一台の自転車が猛スピードでやってきた。私のほうへ。動けずにいる私に自転車の人は「どけよ!」とどなり私にぶつかるようにして電話を手にし「もしもし!!」と怒鳴り声をあげながら走り去っていった。あっという間の出来事で私は顔色を変える余裕もなかったのか落ち着いたような変な気持ちでいた。そばの男性が気にした様子で私をみていた。

こういうときはもう文脈とか構造とか考えられるって余裕があるってことだよね、男の人はいいな、とか思ってしまったりする。一気に気持ちがちぢこまってしまう。女性の被害という問題を記述するときってどんなだろう、というさっきまでの感じで考えられたらいいのだろうけどそんな力はどこかへいってしまう。とりあえず仕事だけはしよう、とりあえず家事だけはしよう、とこれ以上できることが狭まらないようにとなってしまう。「わかってもらえてうれしい」という気持ちもどこかへいってしまう。今はこうして思い出せたけど。

勉強、仕事、遊び、食事、睡眠、一日の間にはいろんなことがあったりなかったりして感じ方も一気に変わったり変わらなかったりして何も意識せず過ぎている日もあれば眠れずに忘れることもできず引きずり続ける出来事もあったりする。人間って難しい。生きてくって難しい。みんな今日はどうだったんだろう。このあともまだまだ長いという人もいいことあったからこのまま寝てしまいたいという人もまた明日かどうかはわからないけどまたね、という気持ち。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生