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精神分析

更新、吟のカカオ、コミュニケート

もうひとつのブログ「精神分析という遊び」にオフィスのウェブサイトを更新したことをUPした。ややこしや、かな。ややこしやってご存知かしら。野村萬斎の「まちがいの狂言」。昔薪能のチケットに当選して行ったことがあるのだけど能より狂言に射抜かれてしまった。よくわからずとも面白がれるものなのかよくわからないから面白いのかわからないけど「にほんごであそぼ」で取り上げられるくらいだから前言語と言語の間の遊びであるよね、きっと。精神分析と同じね。

まだ降っていますね。今日は昼間だけでいいからやんでほしいな。ちょっと特別なことがあるから。

今朝もCafe du Jardin。今朝は福生の地酒使用「吟のカカオ」。大吟醸酒が使われてるって。大丈夫かしら。仕事になるかしら。すごくしっとり。すごく濃厚。すごく美味しい。めちゃめちゃ濃いブラウニーって感じ。袋から出す時にしっとりすぎて少し手についたけど全部引き出すしたら薄いフィルムでそっと保護されていた。このお店は「金のカカオ」というお菓子が有名ならしいからそれの日本酒バージョンなのね。それにしても名前で遊んでるわね。面白い。そういえば昨日のアメリカン・カステラの袋にきちんと「福生基地前通り」って書いてあった。基地に対しては思うところあるけどそこで暮らす人たちのこともそこそこ知っている。この仕事を長くしていると本当に色々な暮らしを知ることになるので自分の体験に基づくもの以外は言及を控えることになる。私がファシリテーターをしている初回面接を検討する小グループでも「誰にもいえないこと」「言いにくいこと」がどういう風に現れるか頻繁に話題になる。聞けば聞くほど聞けないことが出てきたりその場では言葉にできて安心した風になってもそこを出た途端「言わなければよかった」「言うべきではなかった」という声が湧き上がってきたりする場合だってある。精神分析的治療は抑圧、否認されていた意味の意識化のために言葉を使うのではない。臨床現場にいれば言葉がさらなる混乱を導く場面に圧倒される体験は必ず訪れる。なのでその暴力性を認識せざるをえない。ごく一般的な本の一言にいつまでも苦しめられたりする場合だってある。「場合だってある」というのが大切。精神分析は言葉そのものを手段とする治療であるために常にその力と使用については特に議論がなされている領域だろう。イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは晩年「交流しないこと」の価値を見出した。その論文が載っている彼の二冊目の論文集The Maturational Processes and the Facilitating Environment(1965)は昨年『成熟過程と促進的環境』という新訳かつ全訳がでた。この論文の題は「コミュニケートすることとコミュニケートしないこと:いくつかの対極の研究へ」(1963)と訳されている。以前の翻訳では「交流することと交流しないこと」と訳されていたが確かにこの言葉が持つ安易な方向性には注意が必要なのかもしれない。訳者の意図を知っているわけではないが。どこかに書いてあったかな。

日本精神分析協会候補生の会のニュースレターがようやく完成しそう。私は駄文量産はできるのだが細かいパソコン操作が苦手なのでここをいじるとこっちも崩れるみたいな事態にすぐにうんざりしてしまう。それでもなんとかなりそう。まだなってないけど。見通しが立っただけでも安心。今朝も早くから仕事だ。合間の予定を楽しみになんとかしよう。みんなにもこれがあるから少しがんばれるみたいなことがあるといいな。蝕まれながら取り戻す、毎日そんな感じだよね。そうでもないかな。とりあえずそれぞれの始め方で今日も一日。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生