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精神分析

ひとり喋り。

着々と仕事を終えている、と早く書きたい。早く書きたい、という時点で全く「着々」感がない。今日出すのも「速達」だし。高いし。昨日出せる予定だったのに持ち歩いていた書類を間違っていた。郵便局で気づくなんて・・・。悲しかったけど速達の切手を買って速達という赤いスタンプを押してもらった。スタンプ押してもらえたのは少し嬉しかった。朝出すのを忘れないこと。毎日毎日確認事項だらけ。自分でやっていると結局間違ったり忘れたりするから「忘れてそうだったら言って。忘れてそうじゃなくても言って」とリマインドをお願いすることもある。私もできることあったらするから言って。ああ、何ができるだろう・・。

翻訳は難しい。意味はとれても日本語の書き言葉にするのは非常に難しい。なんなんだ、このギャップはと思う。わかるのに伝わる言葉にできない。でもまあ言葉というのは大体いつもそんなもので対話しているうちに「ああ、そういうこと」となったりすることも多いのだから、とも思うが、書き言葉は直接的な対話を前提としていないので「言わなくてもわかる」書き方が必要なのだ。なんてひとり喋りをしている場合でない。

まず速達を出すこと。念じておかないとすぐに忘れる。前に抱えて歩くリュックのチャックを少し開けて自分から見えるようにしておかねばならない。駅前のポストに無事に投函してからチャックをしめること。癖で封筒の端っこ押し込んでチャーッとしめてしまわないこと。はい。

今朝はウィニコットフォーラムのための抄録を仕上げた。色々書いていたがほとんど使わなかった。まあこれもそのプロセスが大事、ということで。

ああ、言い訳がましい朝ですよ。

今夜はこれ。

RadioAmbient 027 : The Bookends Vol.02

ただの雑談だけど楽しかった。紹介した本はぜひチェックしてほしいです。

どうぞ良い週末を。

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読書

『なぞなぞえほん』とか尾久守侑のペソア伝書評とか。

だいぶ涼しくなってきたけどまだ蒸し暑い。つけると寒いし消すと暑いものなーんだ。この時期のエアコン。大人向けなぞなぞだな。小児発達クリニックでADHDやASDの幼児さんのグループを彼らが思春期になるまで担当していたけど(その後は個別)中川李枝子作 、山脇百合子絵の『なぞなぞえほん』(福音館書店)を使ったことを思い出す。楽しかったね。みんなもう成人した。とても大変でとてもかわいかった。こういうのは常にセットだ。お母さん、お父さんもお元気だろうか。いろんなことありましたよね。今もですよ、と笑われそう。

今日は『週刊文春』を買わねば。精神科医で詩人の尾久守侑さんが、澤田直さんの『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』(集英社)の書評を載せているとのこと。尾久さんの第4詩集『Uncovered Therapy』(思潮社)もとてもよかったのだが詩集にどう感想を述べていいのかわからず何も書いていなかった。尾久守侑の書く世界は私も普通(何が普通かわからないとはいえ)よりはよく知っている病気の世界でもあり言葉の意味の世界で生きようとするとすぐに迷子になる。記号としても同じ言葉がなんどもリフレインされてそれもまた軽い眩暈を引き起こす。この詩集は最初から順に読むのがいい。尾久守侑のはどれもそうだと思う。リフレインしながら意味を強めていくのではなく意味をずらすようなリフレインが少し不穏。そういう詩人がペソア伝の書評を書くなんてとても素敵。この詩人はあの詩人のことをどう思ったのだろう。読もう。

昨日、ハクビシンを見た、とかハクビシンは駆除の対象である、とか、スーパーでみた景色のこととか、オフィスからも帰り道でもずっと見えていた月について話したこととか、来年シドニーで発表することにしたこととか色々書きたいことはあるけど時間切れ。

あっという間に週末。疲れましたね?私は疲れてます。でもがんばろう。良いこともあるといいですね。

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読書

本屋へ行くなど。

二度寝してしまった。気持ちよかったけど朝やるべきことが何も進んでいない。持ち帰り仕事もそのまま持ち歩くことになりそうだ。

本屋に行くとSNSで見かけた本以外の本にたくさん出会えるからとても楽しい。インターネットはなんでも見つかる場所なのかもしれないが、私の場合、そこから得られる情報は限定的。そういう使い方しかしていないということだろう。バウンダリーのなさに怖さを感じてもいるので現実の場所の自由に動けなさ(opossition)は必要だと感じている。もちろん障害や困難に関してはできるだけ安全で動きやすくあるべきと思う。

昨日、時々行く本屋へ行った。時間が限られていたのでなんとなくわかっている目的の棚へ直行。ゆっくりと本のそばを動きながら、ワイヤレスイヤホンで話し歩きしながら、カップルで顔を寄せ合いながら、いろんな人がいろんなことをしている間をすり抜けて急ぐ間にもいろんな雑貨や雑誌や大きな写真集が目に入った。大型の本は普段あまり見られないのでその場でめくってみたいがこの日は表紙だけ見遣って通り過ぎた。

あった。古田徹也『謝罪論』(柏書房)刊行記念、古田徹也選書フェア@代官山。選書された本は土居健郎などすでに持っている本もあったが少しパラパラして数冊購入。幅広い。昨日はオープンレター訴訟の件で「謝罪」という言葉をいつもより多く見かけたのでみんなもこれ読んだらいいのでは、と私も古田徹也『謝罪論』を読み始めた。ノンフィクションライターの高橋ユキさんのおかげもあるが法律が絡む場所での(どこでもそうだが)人間関係はとても複雑で気持ち的にはどこにもいけなくなるような出来事がたくさん起きていると学んだのでいろんな観点から知っておきたい事柄がある。

さて時間がない。出かけよう。皆さんも良い1日を。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析 言葉

9月27日朝。

キッチンで色々しているうちに空の青が薄くなってきた。きれい。54袋入りの麦茶が消費できていないけれどこれは2巡目なのかな。8月初旬に青森に行く前から作っていたと思うのだけど、と書いていたら「あ、これ2袋目かも」と思えてきた。前に空になった袋に別のゴミを入れたイメージが浮かんできた。青森、楽しかったな。猛烈に熱くて猛烈な陽射しでまだ日焼けの跡がくっきり残っている。最終日に行政の方にたくさん説明をしていただいた八戸ブックセンターでは24日(日)「本のまち八戸ブックフェス2023」が開催されたとのこと。私も知っている関東の出版社も参加されていた様子。会場はこの八戸ブックセンターと「八戸まちなか広場マチニワ」「八戸ポータルミュージアムはっち」。街づくりの時にこれらを拠点として街をぐるっと回れるように設計したというのも聞いた。私たちは何も知らないままそれらをぐるっと回ってブックセンターに到着したので街づくりは成功している。

あ、雨だ。さっき天気予報をみて朝だけ少し雨マークがついていて「ふーん」と思っていたら本当に降った。降り込んではこなそうだから窓は閉めない。鈴虫が遠くの下の方で鳴いている。水平線を想った。空はもうだいぶ明るい。

別のところにも書いたが、人の心を殺して身体を傷つけるような人でも外では優しく穏やかに軽薄なおしゃべりをしながら快楽優先で過ごすことは当然ありなのだが、知識があったり書くのが上手ということだけで臨床の知にまで踏み込んできたりするのは厄介だなと思う。もちろん賢い人の行動よりお言葉のほうが関係のない人には貴重で、知的な部分だけで「学際的」であることも大切かもしれない。でも、現場での搾取や現場でトラウマが作られる可能性に言及するのであれば、同時に、法的にも規約的にも規制されない部外者をお友達感覚で現場に関わらせて消費者からお金をとることについても鈍感であってはいけないのではないか。少なくとも人をモノのように扱う人に自動的に書く場が与えられているのをみると世の中の仕組みだなあとうんざりする。見えない暴力は蔓延るばかり。現場を守る環境を壊す仕組みを見ながら現場で仕事をするというのは不毛だが不毛さから何かを見出す仕事だから無思考にはなりたくない。そんな社会でも自らの思考や心ある身体を守ろうと思う人は患者としてやってくるだろう。すでに傷ついた心身と共に。言葉と力で言いたいことだけ押し通そうとしているだけの人を見破ることはできなくても戸惑いや疑惑を感じたら相談する場と出会ってほしい。背中を見せれば触ってもいいと思っているような人たちは現実にいる。一度受け入れれば何してもいいと思っている人も現実にいる。自分の暴力性もナルシシズムも否認して相手が悪いとする人に効く治療はあるかもしれないがないかもしれない。そういう人が治療を自ら求めるとしたら自分が相手にしたことを自分が体験したときかもしれない。やはりこの仕事は傷ついた人たちに向けられているので弱い立場の人の声をかき消すような構造や仕組みに対してできる抵抗を考えないといけない。専門性はそのためにあるのだろうから。

今日こそ地道に。コロナもインフルエンザも流行っているようなので皆さん、どうぞお気をつけて。体温調節も難しいと思うけど脱いだり着たりできるようにしましょう。

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散歩 精神分析

月、祭、音楽

昨晩、月がきれいだときいたが私が見たときにはもうどこかへ行っていた。その前の日はきれいに輝く月を見た、神奈川県秦野市で。ということで今朝の音楽はB’z「今夜月の見える丘に」と思いきやスターダスト☆レビュー「月の輝く夜に」。彼らももう長い。B’zより前からだろう。B’zは今年35周年。最初から大好き。吉田栄作も来年歌手デビュー35周年だそう。なぜ突然吉田栄作かというと「秦野たばこ祭」でライブを観たからです。栄作(ライブで野太い声で「栄作ー!!」と叫んでいた人を思い出している)は「はだのふるさと大使/秦野たばこ祭エグゼクティブアドバイザー」とのこと。LUNA SEAの真矢もはだのふるさと大使ということで和太鼓を披露していた。私は川沿いにズラーっと並んだみんなが掲げたスマホの画面にそれらしき姿を眺めながら遠くからの太鼓とスピーカーからの音を聞いただけだけど。とてもいい祭だった。祭については時間ある時にnoteにでも書いておこう。ちょっと確認しながら書かないとだろうから。LUNA SEAはB’zより少し遅い登場だった。なんでもB’zが基準になっとる。

今朝も何も進まないまま寝不足。大変なことだぞ。羊羹とお茶の組み合わせは早々にいただいたが。日差しが優しくなったのにもホッとする。バタバタと移動しながらの日々だから辛かったんだ、夏は。電話もしなければいけないんだ。まずい。気づいたそばからその前に思い出した予定が抜けていく。大丈夫じゃないな。が、こういうことは珍しくないので単にしっかりしなさいという話か。なんでも寝不足のせいにしてないで。昨日は早速買ったばかりの高性能イヤホンが行方不明になり泣きそうになった。なくさないように派手な色のポーチに入れねば、と思ったところまでしか記憶がなかった。帰り道まで気づかずにいられたのはよかった。仕事詰まってるのに気になっちゃって、というのでは困る。患者さんたちもいろんな音楽聞いてるよなあ。この仕事してるといろんな学校や仕事や音楽やゲームや習慣の話を聞くので世界は広いなと感じる。自分のことを話すというのは他人のことを話すということでもあるのでお会いしたことのない人が聞いたり読んだりしているものまで知っていたりする。私は最近再びジャズを聴き始めたおかげでずっと音楽活動をしてきた先生といろいろ話すことができた。黒人音楽のような手応えのある「相手」の登場は日本にはありうるだろうか。小さな差異に非対称を見出すことでは話を聞く気などない相手に抵抗することはできないだろう。いつの間にかのっぺりと「きみたちも似たようなもんですよ」と呑み込まれなんだかんだそこに安住している自分を見つけたりしないだろうか。それも見ないふりでいくのだろうか。傷つきはすべて「個人的なトラウマ」として処理される可能性はないだろうか。行けるところまで見て見ぬふりで?実際、そうなっていると感じないだろうか。日本の精神分析は日本の文化に向けられたものである必要がある。患者が生きる場所自体の分析を同時に行うために大切な対話ができたのはよかった。

今日も冷たい冷たい世界ちゃん、おはよう。秦野たばこ祭の「火」は幻想的に燃えていた。どこで熱くなるかは人それぞれ。それなりの緊張感と切迫感を維持したいと思うがどうだろう。

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お菓子 音楽

羊羹、お茶、音楽

PC前に突っ伏して寝ていた。よく働きよく遊びよく疲れている。が、翻訳とか書き物とかは全然進んでいない。なぜだ。やっていないからだ。

南側の窓を4分の1開けた。これまでは半分。それ以上は開かない。戸袋がないから。大学生のとき一人暮らしをしていた仙川の小さなアパートは雨戸があって戸袋があった気がする。いや違うかも。どこかで私は戸袋に窓を入れるのが下手だな、と落ち込んだ記憶がある。ああいうのに上手いも下手もあるのかよ、と思うかもしれないがあるんだよ。不器用な人は本当に驚くようなことに苦労しているものなのだ。今はとにかくゆっくり動く、仕組みをよく見る、人の真似をする、それでも無理ならやってもらう、ことが上手くなった。最初のステップである「ゆっくり動く」が最大の難関だったが優しい人たちの上手な声かけが徐々に内在化され今は不安や恐怖や眠気が強いとき以外はまるで落ち着いている人のように振る舞うことも可能になった。

戸袋といえばこれももうどのくらい前になるのか。母と京都の町屋に泊まったことがあった。とてもとても古い建物でとてもとても高齢に見える女性がお孫さんと思しき方と一緒に経営されていた。お二人ともとても素敵でお二人の姿が見えなくなるたびに母と静かに盛り上がった。建物も古さゆえの不便はあれど私の語彙では表現できないがとてもよかった。あの町屋はもうなくなってしまったはずだけどまた行きたい。

今朝は、暑い間は食べる気がしなかった羊羹をようやく開けた。熱いお茶と一緒にいただきたかったから。羊羹は数年前、河口湖に行ったときにふらっと入って一目惚れした「富士菓匠 金多留満」の「富士山羊羹  甲州もも」。今回はお土産でもらった。パッケージはまるで洋菓子。桃と羊羹の断面がいろんな向きで配置されているピンク基調の絵柄なのだがよく見ると少し面白い。かわいいピンクのワンピースに羊羹の柄を描かないでしょう、桃は描いても、という感じ。フフフ。かわい面白い。さて、少しの弾力を感じながら小さなナイフを入れる。伊万里の青木陶房で買った水色の小皿にそっと置く。青木さんもとても素敵だったな。土のこととか色々教えてくださった。お茶も夏の間は開けなかった滋賀のお土産、中村農園の「土山煎茶」。爽やか。緑がきれい。少し暑くなってトレーナーを脱いだがまた着た。今朝は少し寒いくらい。

お茶といえば来月はルピシアのBOOK OF TEAが出ますね。知ってるかな。いろんなお茶を丁寧に、でも気楽に飲みたいな、という紅茶好きな方に特別な贈り物をしたいときにはこの一冊(一箱)。最初にいただいたとき、大感激した。みんなであれこれ言いながら分け合うのも楽しいです。お茶とか陶器とかはそのヴァリエーションの多さに本当に驚く。葉っぱとか土とか基本は同じなのにね。

今朝はNubya Garcia『Source』。ゆったりかつ力強いサックスが心地よい。最近は柳樂光隆の記事が私の音楽の指針。どの記事も背景がしっかり書かれていてその人の個人史としてもジャズの歴史としても興味深いし勉強になるし紹介されている音源が素晴らしい。あと彼らが所属していたり受けてきた教育の話がとても参考になる。多様性を実現しようとするチャレンジャーたちの資質と地道な努力が素晴らしい音楽とともに受け継がれる土壌づくりにもしっかりと目配りが利いている。上質のグループで教育を受けられることは本当に素晴らしいこと。そういう人たちを単に「恵まれている」とするのではなくそういうグループ作りが可能であることを私たちはまず知らないといけないのかもしれない。ヌバイア・ガルシアのインタビューはこれ

今日は再び月曜日。色々あったはずの9月も体感5日分くらいでしたね。そうでもないですか。日常は慌ただしいけど心の中の時間だけは過去にも未来にもどこかへも引き伸ばす工夫をしながらなんとか過ごしましょうか。

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読書 音楽

秋、80年代、ラジオ

涼しい。半袖だと少し寒い。今日は長袖で出かけられる。嬉しい。別にいつでも長袖着たければ着ればいいじゃん、という話ではないのである。どんな格好してても暑いぜ(でも電車は寒いぜ)、という日々がようやく終わってのびのびと秋の服を着られるのが嬉しいのだ。今年は本当に「秋なのに」という残念な気持ちが続いた長い長い夏だった。これ当然「春なのに〜♪」のメロディにのせて書いているわけだけどこの曲は春に期待しすぎだ。「春なのに」ではなく「春だから」だよ、と突っ込む人もいたと思う。現実、春は別れの季節なのだ。そう考えると「秋なのに」は暦に引っ張られすぎかもしれない。お天道様がそうならそうなんだよ、と素直に長い残暑を受け入れることも大切かもしれない。でも暦はもともとお天道様の事情に合わせて生活してきた人たちが作ったものなのだからそれが合わなくなってくるというのは環境問題、マジでやばいですよ、という話でもあるのである。本当に。ちなみに「春なのに」は1983年1月11日に発売された柏原芳恵の12枚目のシングル(by wikipedia)である。当時はみんな「こんにちは、柏原芳恵です」と真似していた。私はひたすら「ハロー・グッバイ」の冒頭を歌っていた。「紅茶のおいしい喫茶店♪」と。でも「こんなかわいいカップになりたい」とは思わない、と話したら「えー、そう?」と言われた。なりたい人もいるのか・・。「美女と野獣」のチップを思い浮かべた結果らしいが、あれ魔法かけられちゃてるわけだし。ちなみに(二度目)宮本浩次が歌う「春なのに」もいい。宮本浩次は何を歌ってもいい。

身体の強張りが強い日はこうしてタイプするのも苦痛だが一度座った場所から動くのももっと苦痛、ということでどうでもいいことをばーっと書いてしまった。いや、どうでもよくない。1980年代の歌と共に育ってきたのだから。どの曲も歌詞はツッコミどころ満載だがとても切なくもなる。

この前、 HelloTaroさんのニセコのコミュニテイラジオの番組RadioAmbient 026 : The Bookends Vol.01にお邪魔して主に私たち世代の曲に谷川俊太郎の詩を載せて遊ばせてもらった。ストリーミングありなのでよろしければ。ただおしゃべりをしているだけなのだが1970年代生まれの方には響く曲もあるかもしれない。

今流れているのは小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」♫

良い日曜日を。

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精神分析、本

binocular visionなど。

雨?南側の大きな窓を開けたらやはり雨。さっきは「降り始めた」と思ったがずっと降っていたのだろうか。そういえば昨晩はひどい雨の中を帰ってきたのだった。ジーンズも雨用のはずのスニーカーも少し寒くて羽織った薄手のパーカーも結構濡れたがもう帰るだけだからと全く気にならなかった。濡れたものは乾かせばいいだけだから簡単でいい。今朝は涼しいが熱気の澱みを感じてエアコンを短時間つけた。

昨晩、友人に“binocular vision”について聞かれた。精神分析家ウィルフレッド・R・ビオン が使用した言葉だ。ビオンはできるだけ抽象度の高い言葉、意味に汚染されていない言葉、例えば数学で使われるような言葉を用いた。binocular visionはvertexのひとつでありそれをviewpointとは言わないというようなことである。binocular visionは双眼視とか両眼視とか複眼視とか訳される。簡単にいえば二つあるいはそれ以上の異なるvertex(頂点)から一つのものを見るということだ。日本の精神分析家の北山修が『共視論』(講談社選書メチエ)で述べたのは発達心理学の用語であるjoint attentionを拡張したものだった。母と子が二人で同じものを見ることについて北山は浮世絵研究を基盤に論を展開した。ビオンも母子関係をモデルにしているが彼が注意を向けたのは乳児と乳房の関係というようなより早期の原初的な関係でありbinocular visionはひとりの人の内的な複数の視点のことである。他に、精神分析の対象を眺めるためのvertex(頂点)として“reversible perspective”や“hyperbole”などもある。これらの複数の頂点、パースペクティヴがどのように“selected fact” (選択された事実)と連接していくのか、あるいは別のfactと連接していくのかを見立てていくのも精神分析家の仕事だがそこに正解があるかというと「ない」というしかないのですべきことはひたすら現象の描写ということになるだろうか。

ビオンの解説としてわかりやすいのは松木邦裕『精神分析体験:ビオンの宇宙』(岩崎学術出版社)だろう。

ちなみにそこには「’双眼視(もしくは両眼視)binocular visionは、ふたつの異なる視点からひとつのものを見ることの大切さを取り上げています。平たく言うなら、同時に複数の視点を持つことです」と書いてある。シンプルだ。

今日はビオンとウィニコットの「退行」概念についてのセミナーがあるので友人が質問を投げかけてくれてよかった。セミナーは英語なので思い込みによる理解は避けたいがどうなることやら。

そして秋彼岸。お墓参りに出かける方は足元お気をつけて。

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精神分析 音楽

「個人的なこと」、「場の安全」?

なんか蒸し蒸しする。まだ冷たい麦茶を飲んでいる。もう9月も22日というのに。もう22日か。言ってみて改めて意識する。どうしよう・・。

あるイベント会社の会員の自動更新が減っているという。どうしてだろう。私もやめた。私の場合は小さな抵抗として。女を部分対象として扱い、扱えない女には暴力的に振る舞い、そう扱える女とは依存関係を維持し、そうすることで自らを使ってくれるホモソーシャルな場ともwin-winであろうとする人を知識人として扱い登壇させる場にお金を払うことは性的搾取の温床の維持に貢献することになるから。個人の戦いなんて誰にも理解されないかもしれないが、そう感じながら戦っている人はたくさんいるというのも事実だ。個人的なことを個人的なこととして考える大切さを知っているからむやみに「私も同じだよ」と言わない。だからそれぞれ孤独だけどそれを維持することも必要なんだ。精神分析は社会的に、政治的に自分を抑圧、否認、解離することで消去してきた人に「個人的なこと」を個人として語る場を提供する。そういうイベントスペースとは真逆の機能。こういうプライベートな空間を維持するためにはそれを脅かす場にたやすく課金するなどしないという努力も必要。私が会員の自動更新をしなかったところで登壇者たちは何も困ることはない。そこではない場所で十分に稼げている社会に「適応」した人が登壇する場所だから。それでも、ということ。

喪失をモーニングワークすることができない時代。実際の身体をもつ人間同士の関係を「リセット」できるかのように振る舞う人が高度なAI技術について語ったり「人は誤る。失敗する。そういうものだ」とかいっているのを見ると「なかったことにしたいだけじゃん・・・」と呆れる。痛みに触れることができないのだろう。相手から脅かされたと感じるとすぐにビビって被害的になってありったけの知識を駆使してこちらを加害者にするスキルも高い。痛い想いするくらいなら相手の心も身体も壊してもいいことになってるみたい。すごいことだ。人の痛みを理解する基盤を自らが壊す。大変な時代だ。そういう人が「場の安全」とか言ってるのをみると驚く。自分の「安全」ばかり考えている人が?安全ってなんだっけ?場づくりについてはずっと考えていかないとすぐに何か良くないものの温床になる。難しい。

Samara Joyの声は優しいなあ。昔、サラ・ヴォーンが大好きでよく聞いていたことを思い出した。個人的なことを大切にできる場をそれぞれが維持できることを願って。

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音楽

蚊。音楽。

パッとしない空。光が差したようなあとはあるけど。どの方角の窓を開けても窓のほうに手を差し出せば風を感じるけどスーッとは入ってこない。

「北八ヶ岳ロープウェイ プレミアムコーヒー 深く濃いブレンド」をゆっくりゆっくり落としてりんごのお菓子といちごのお菓子と一緒にお盆にのせてパソコンの前へ。おなかの調子はずっと悪いので大好きないちじくは我慢。やっと買いやすい値段になってきたのに。お盆をテーブルに置いて座ろうとするとなにやら黒いものが。一瞬怯んだら見失った。そしたら今度は私の大事な「もりりんご」の上に!なんで私ではなくてそっちを吸おうとするのか全然わからない!と思って少し追いかけっこ。大きいがそんなに動きは早くない。なのに捕まらない。「もりりんご」をやられたショックに結構本当に呆然としつつ蚊取り線香に火をつけにキッチンへ戻る。ずっと昔から集めていた素敵なデザインのマッチ箱の中身はもう湿気っているからチャッカマンで。よくこんな名前をつけたものだ。うちもハンガーのこと「ハンガマン」とよんで歌もあるけど。自分につける虫除けスプレーはあるけどこの部屋に夜までゆっくりされても困る。蚊取り線香は喉をやられるからあまり使いたくないのだけどしかたない。エアコンつけたけどドアを開けたまま足元に置く。蚊取り線香を持って戻ってきてから見かけないのですでにこの部屋にはいないのかもしれない。それならそれでいいけどなんで私ではなく「もりりんご」を・・・。お菓子をとられた恨みは大きいぜよ。自分でもびっくりするくらい元気なくなった。胃腸の健康よりお菓子を優先しているというのに邪魔をするとは。もー!蚊め!「亀」って出たらどうしようと打ちながら一瞬思ったけど大丈夫だった。

そして音楽を聴きすぎて仕事が全くはかどらない。Cyndi Lauper ”Time After Time”なんて好きすぎて何回もきいてしまう、しかも歌詞をしっかりきいてしまう。まさにtime after timeなのだがこれはとても悲しい曲。シンディが当時付き合っていたマネージャーとの歌。こんな素敵な歌にできたんだからむしろ別れてよかったじゃん、と慰めた人もいたかもしれない。いないかもしれない。そんなことは誰にもわからないけど多くの人が共感できるからこそ今でも人気があるのはたしか。恋だけの話ではないが、だれかとの関係を表現するときどこをどう取り上げるかでまるで印象は変わってしまう。自分がどう表現したいかということに尽きる。意識的な目的は色々だろう。相手にこう思われたいとかとりあえず吐き出したいとか特定の相手にだけ伝わればいいとかこの部分だけは正確に伝えたいとかまるで逆のことにしておきたいとか。小説家でもなければ表現は大体ステレオイプで何度書き直しても結局「下書き保存」してばかりだったり書いているうちにアホらしくなって「こんなの書くくらいだったらこの曲きいてたほうがいいわ、こっちのほうがよっぽどしっくりくるわ(関西弁風に読んでください)」ということでシンディ聞いてしまうかもしれない。逆にどんな手垢にまみれた言葉だろうと自分で書いておくことに意味があると感じて書き続ける人もいるかもしれない。この曲だって歌詞はわりとよくある感じだから。でもこのメロディにこの韻をのせるのは最強という感じがする。どっと切なくなってしまう。一曲リピートで何度も何度も。

もうこんな時間だ。蚊め!ショックを受けてる時間が長すぎた。バカみたいだ、木曜日の朝。

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音楽

9月20日朝

毎日眠くてしかたない。すっきりしない。カーテンも朝一番に開ける気にならない。麦茶は潤すために飲む。胃腸もずっとすっきりしない。でもいつもの居酒屋にはいきたい。毎日ほとんどの店がラストオーダーを終える頃に帰るのでよかったかもしれない。時間があったら私の胃腸は耐えられなそう。私の自我は信用ならない。

ジョン・バティステ『World Music Radio』(Verve/Interscope, 2023年)を聞いている。面白いし美しいし楽しい。スパイク・リー監督の『Red Hook Summer』の音楽も手掛けてるそうだけど日本未公開。ピクサーのにも参加していたみたいだけどみていない。スパイク・リーは別の映画も音楽がらみで先日教えてもらったばかり。

radikoタイムフリーは7日前までなのかあ。がびーん。聞き逃しも聞き逃した。TOKYO FMのTHE TRADで9月12日にやった柳樂光隆さん @Elis_ragiNa ゲストの「秋のジャズ新譜大収穫祭」聴きたかった!

ジョン・バティステのインスタで自宅らしきところでピアノを弾いている場面がみられるのだけど千葉雅也さんもこういう構図で自分のピアノ場面を撮っていた。これがピアノ弾き的にはベストなのかな。写真の構図も難しいけど面白い。

なんだか爪の伸びが早い気がする。夏は髪が伸びるのが早いと聞いたが爪も早いのか。爪的にはまだ夏ということか。まだまだ暑いのは事実だが夜はだいぶいい感じになってきた。

今こんなことをしている場合ではないのだが、頭の中ですべきことがぐるぐるまぜこぜになっているのを感じるのみで手が動くままにしている。とりあえず全部持ち歩いては手をつけずそのまま持ち帰る重たいだけの日々。今日はさらに重たくなる。筋トレにもならず腰が痛くなるだけなのに。まあ、がんばりましょーね。

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コミュニケーション 音楽

「博覧強記」、継続、音楽。

地震か。Yahooの地震情報によると震源地は宮城県沖、最大震度4、マグニチュード5,5とのこと。東日本大震災以来、ずっとこの地域で大きめの地震が続いているように思えてしまうのは果たして気のせいだろうか。震災の2ヶ月後から郡山、石巻、南三陸、相双地区、塩釜などいくつかの被災地に行ったが、そこで見たり聞いたりしたものが地震のたびに最近のものとして蘇り続けるからだろうか。とにかく起きたとしても再び眠ることができますように、被害が出ないように、と祈るばかり。

外では夜明けに向かうまだ暗い空の中、カラスが大きな声で鳴いている。小さな声を出すこともできるのだろうか。

私は「博覧強記」という言葉をSNSやある言論プラットフォームのおかげでたやすく信じることをしなくなった。「おかげ」というのは変かもしれないが今のそれは特に人間性と関係していない薄っぺらいものであるという認識ができたのでこの言い方にもなる。優しく穏やかに嘘をつきホモソーシャルな基盤(「つまりオレ」と心で呟く、みたいな)に貢献しない女を見下し、時には実際に傷つけながらなんか哲学っぽいこと語られても、という話でもある。SNSとコロナによって「博覧強記」さんたちの棲みつく環境は豊かになった。傷つけられた人たちの記憶が薄れる機会も奪われた。トラウマの時代は回復を見込めなくなりただ生き延びることを迫られるようになった。それについてなんか偉そうなことを書いたりするのもそういう人たちだったりする。救ってくれると思った場所も地獄だった、みたいなお話が古びないのはそれが現実だからだろう。

さて、週末は個別的で特別な対話に時間を割いた。アセスメントと「最低限のことをやっていく」ということについて。この仕事はこの二つを継続的にやっていくことで、それを可能にするのもこの二つを継続的にやっていくことなのだが自分のしていることの公にはしない部分の言語化も必須。言葉だけならなんだって言えるのは最初に書いた通り。

音楽もたくさん聞いた。昔からの友人にたくさんの音源を聞かせてもらったり由来を教えてもらったりもした。そしてnoteにも書いたが子ども世代と音楽の交換のようなこともした。ジョン・バティステも聞いているというAdoの新曲DIGNITYは稲葉浩志作詞、松本孝弘作曲でいかにもB’zで切なくドラマチックだった。Adoはいろんな声を出せる。Official髭男dism、Mrs.GREEN APPLE、back number、GReeeeN、藤井風、優里などを聴き比べながら私の世代の音楽と重ね合わせて紹介したりした。

今日もどうなることやら。防衛と武装などせずにいられたら楽かもしれないが人の心は勝手にそれらを必要とするので過剰さにだけ気付ければよいがどうなることやら。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

反転、バウンダリー

人って簡単にこうなる。やってること変わらないじゃん。反転反転反転。どちらにも転ばず両面見せながら人を憎まずやっていくのはそんなに難しいことだろうか。そもそも憎むほど愛してる?もしそうなら体を張れるのでは?なんの覚悟もなく女のおいしいところだけ使う搾取男を「賢人」とか「知の巨人」とか簡単に言い換え虚像を実像にたやすく変換できるSNS時代、だらしない身体は快楽のためにはがんばるがその時間が過ぎればすぐしんどくなる。自分を気持ちよくさせてくれる人以外に心を動かすのは負担。女も男も公私混同で共謀する、様々な形で。バウンダリーの問題は難しい、と外国の人とも話した。あれこれの事件も起きるわけだ。自分を部分ではなく全体としてみてくれる人たちと今日も一日。

https://note.com/ami3note/n/na7eaf5e3366a?sub_rt=share_pw

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精神分析

旅のこととか。

日の出が少しずつ遅くなる。西の方はまだまだ明けない。夏の旅は日の出の早い方へ。冬の旅は日の出の遅い方へ。昔からの友人に旅の話をした。「うちは転勤族だったから」ときいてそういえばそうだった、と思った。海沿いの街に住むその人に案内されながら時々車が身体すれすれに通るのを避けながらその人の前を歩いた。便利か便利じゃないか、というのも誰にとって?何を目的にする場合?そういう便利さからはあえて離れたい、とか色々ある。日本全国旅をしていると地域によって観光客に対する態度は異なる。もちろん個人の性質もあるだろうけど「見かけない顔だね」と囁き合うシーンをテレビなどで見たことがあるだろう。異質なものに対する態度はその土地が歩んできた歴史や文化と関係があるように思う。旅するなかでいろんな体験をしてきたが毎回興味深いのは地元の人との関わり。あったりなかったりする関わり。

菅島に泊まったときの話をした。菅島は三重県鳥羽市、伊勢志摩と呼ばれるあたりの離島の一つだ。その人は三重にも住んでいた時期があるが離島のことはあまり知らなかった。菅島には鳥羽マリンターミナルから市営定期船でいく。船がくると多分島の人たちが続々と荷物を積み始めた。鳥羽湾最大の島、答志島に最初に寄り散策をした。島の生活、島の祭事に関わるであろうもの、狭い道路、突然開ける海、猫、歴史を感じさせる佇まいだった。そこから宿泊先の菅島に移動した。旅館の人が迎えにきてくれた。行きはほとんど何も話さなかった。魚が干されているのをたくさん見かけた。答志島の活気とは打って変わってとても静かだった。誰にも会わない道は海沿いなのにいつの間にか海が見えないくらいの木々に囲まれ夕日が沈むまでに灯台にたどり着けるかわからなかった。その後の記憶はあまりない。別に何が起きたわけでもない。魚が干されている四角い網、木々の間からチラチラ見える海、私たちしかいない大広間と御膳、そんな断片的な場面と独特の静けさだけが私に残った。翌日、宿を出て船の出る場所まで送ってもらった。昨日と同じ人が島のことを話してくれた。最初彼が口を開いたことに少し驚いてしまったがなんだか少し嬉しかった。

友人の案内で海を離れてまっすぐ歩いていたら駅に出た。お店はどこも混んでいるようだった。最初の店は予約で満席、二つ目の店も満席と言われてドアを出てエレベーター前の狭いスペースを挟んだ数歩先のガラス窓はイタリアンだった。入ってみた。入れた。とても美味しかった。たくさんの話をした。お互い生活が変わってもなんでも話し合える関係は全然変わらない。楽しかった、と駅へ向かうと時間を調べてあった電車が電光掲示板に出ていなかった。人身事故でダイヤが乱れてるとアナウンスがあった。乗り換えが増えるだけで電車の本数はある駅だ。私より心配そうに見送ってくれる友人の変わらなさにもほっこりした。

今日も一日仕事だ。いろんな土地での出会いや思い出を自分の背景に海みたいに広げながらそこで遊ぶようにでも真面目な顔して仕事したい。いい気持ちで二度寝したらこんな時間になってしまったけど。どうぞ良い日曜日を。

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精神分析

上原ひろみ新作とクラリネット

ゴミ捨てにいった。私より早く家の前の道に誰かいる音がしていた。もう昼間みたいな音を立てて。ゴミを持って外に出ると誰もいなかった。隣の家はまだ起きていない。あの窓がガラガラと音を立てるんだ。ゴミを捨ててタイマーをかけていた除湿機に溜まった水を捨ててまたかけた。玄関には靴もたくさんあるから除湿は必須。とはいえ毎日同じ靴ばかり履いている。最近はいつ雨が降ってもいいように傘は持たずともずっと雨用のスニーカーだし。靴は服よりも使ってあげないと悪くなる気がする。持っているのはスニーカーばかりだけど生地によってはすぐはきにくくなる場合もある。不思議だ。生地の特性とかをしればうまいお手入れもできるのだろうけど。靴屋さんみたいに壁に貼り付けるみたいに並べれば手に取るかな。なんでも一番ちょうどいい場所にあるものを使ってばかりだから。

コンビニのレジ横にあったというスイートポテトをもらった。角切りりんごが入っているとあって確かにポテトというよりアポー。紅茶が合う。

柳樂光隆による上原ひろみのインタビューを読んだ。衣装もすごくかわいい。米ラジオ局「NPR」のTiny Desk Concertの音源が最高。最高すぎて何度も何度も聴いてしまう。

SET LISTは 新作”Hiromi’s Sonicwonder”から”Sonicwonderland” “Wanted”の2曲。トランペットの Adam O’Farrillがすごくいいと書いてあったが実際すごかった。ドラムはGene Coye、音が小さいってあったけど本当にそう。ベースはHadrien Feraud。あとでアルバムも聴いてみたい。私はベースはビリー・シーンとダフ・マッケイガンくらいしか名前を覚えていない。ギタリストはたくさん知っているけど。それももうだいぶ忘れたか。楽器として好きなのはベース。昔付き合っていた人もベーシストだった。低音の方が好きなんだろう。このアダム・オファリルのトランペットもクラリネットみたい。ああ、素人すぎてなんと表現していいかわからない。

小さい頃からピアノを習っていた。隣の市まで子供だけで電車で通った。ボックスシートではないドアのそばの二人がけの席でちょっとしたことでずっと笑いをこらえるように笑っていた。うるさくする子供ではなかった。たまに喧嘩もしたがお互い少し心細かったのかすぐに仲直りした。車内で編み物をしている高校生がいた。みんな三つ編みだからあの学校だ、とわかるようになったのはもう少し経ってからだ。父の整髪料の匂いがすると父がいるのでは、と探した。仕事をしている父を知っているのにここにもいると思うのだから電車はまるで夢の中だ。駅のドムドムでジュースを飲んだ。ドムドムの象さんはいつもそこにいてくれた。ピアノの先生はきれいでしっかりした人だった。ピアノの才能が特にない私は順番を待っている時間が大好きだった。とにかく綺麗がいっぱいだった。綺麗なカップで紅茶を淹れてくれる。最初はいい子にそこで待つ。すぐに飽きる。綺麗な花柄のトイレットペーパーを点線でちぎってポケットに入れたり勝手に外に出てマンションの生垣を綱渡りするようにひと回りして戻ってきたりした。マンションの周りは同じ植物ばかり、と思ったのもその頃。一番楽しかったのは先生が一緒に暮らしていたクラリネット奏者のお部屋に入ること。細身で優しくて小さく笑う人だったがそこで会ったことはあったのだろうか。いつも誰もいなかったような気がする。私の記憶ではその部屋はとても小さかった。いつもドアのそばの低めの本棚の前に座り込んで音楽雑誌を見ていたから中の広さを気にしたことがなかった。今思い出してもそんなに広いマンションではなかった。クラリネットの練習部屋だったのかもしれない。雑誌の中でもクラリネットはトランペットより上品で私はなんだか誇らしかった。クラリネットの音というか多分その人が奏でるからなんだけど、その音に魅了されたのはそこでだったからやっぱり彼はいたのかもしれない。アダム・オファリルのトランペットをきいて彼のクラリネットを思い出した。

冬休みはいろんなライブに行きたい。旅先で出会う音楽もいい。そろそろワイヤレスイヤホンを買うか。ずっと音楽と離れていた気がするけどそろそろ昔みたいに一緒に。

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夏と秋の間、時間軸

今朝の空もきれい。オフィスの窓からはずっと遠くまで空が見える。夏の雲と秋の雲が共演する季節。単にダイナミックなだけではなく、単にコントラストがはっきりしているだけではなく、うっすらと落ち着きが宿る。特に昨日は風がなかったせいかもしれない。絵画みたいな空だった。その空の下の明治神宮の森は空よりも少しだけ秋らしく緑に少し錆びたような色が混じり始めていた。昨晩の空は夜の萌黄色という感じで緑がかってみえた。明日は雨なのかな、と空を見上げながら帰ってきた。実際、今日は雨が降り出すみたい。移動の時間と重ならないでほしいけどちょこちょこ移動してるからどこかで雨にあたるのは仕方ないか。明後日は?くもりのち晴れか。悪くない。

今朝はこの秋はじめての柿。ワケアリみたいな感じで4個入りで安く売られている和歌山産の柿。袋がかわいくて柿の時期が終わるまで今年もきっと何度も買ってしまう。最近スーパーで買い物をするたびに合計金額に驚く。いつも似たようなものしか買わないのに物価が高すぎる。海外に行けるだろうか。柿は見かけより熟していた。おいしい。硬いのも熟しているのも好き。

インスタでお花が開くタイムラプス映像をじっと見ていた。ずっと見てしまう。小さい頃、部屋のお花がいつ開くのかと植木鉢と同じ高さで寝そべるように頬杖をついてずっと見ていた。お水をあげるとピクンと動くのを目にすることができたが開花を見るには時間も忍耐も足りなかった。いつの間にか寝てしまい目覚め慌てて花を見ても眠る前と何も変わっていなかった。小声で声をかけたり歌を歌ったりしてみたが声も変わってるし歌も下手だからあまりいい刺激にならなかったかもしれない。でも花こそ変わった形や色に溢れてるから人間の変さなどきっとどんぐりの背比べ。タイムラプスやスローモーションという手法は私が待っていた長い長い時間をぎゅっと縮めてその繊細な動きを鮮やかに見せてくれる。大体の植物は頭をグイッともたげるようにして立ち上がりゆらめく。そのしなやかなこと。大野一雄なら表現できるかもしれない。植物とも動物とも境界をぼかせる人間もいるのだ。表現というのはすごい。私は時間軸が異なる世界に感動することが多いような気がする。だから精神分析とかやるのだと思う。絵本とか子供の本とかだと引き出しとか庭の穴とかが時間軸の異なる世界への入り口になる。でも植物といたり動物と暮らしたりすると時間軸は自ずと揺らぐ。あと赤ちゃん。

あー。社会の時間はもう私にこれを書くのを続けさせてくれない。突破することもできるが合わせることで得るものも多いから出かけますよ。みなさんもどうぞお元気で。

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カーディガン、チョコレート、いちょう並木のセレナーデ

窓の外がきれい。でも風が足りない。朝晩はだいぶ涼しくなった。昨日の帰り道、Tシャツの上にカーディガンを羽織っていたことを駅に着くまで忘れていた。冷房対策と夜の気温対策が同じ服でいけるという時期ということ。

誰かと会うたびにちょこちょこお菓子とか小物を贈り合うが、そろそろチョコレート好きの友人にあげられるかも。ずっと外にいるのでなければ溶けないだろう。棚に並ぶチョコを眺めてその人の顔が思い浮かんでも手にとれない時間が結構長かった気がする。だってここにこうやって書く程度には何度も同じことを思ったから。チョコレートは気楽に買える範囲では日本のチョコが一番おいしい気がする。DARSとか出たとき「あーこれおいしい」と思った覚えがあるし。アポロとかかわいいのも最高。あー。秋だからモンロワールの葉っぱのチョコとかもプレゼントにいいか。そういえばDARSのCMってオザケンだった。

オザケンはこの季節だったら

♪きっと彼女は涙をこらえて 僕のことなど思うだろ いつかはじめて出会った いちょう並木の下から♪

ですかね。 「いちょう並木のセレナーデ」。

仕事が全然進んでいない。隙間時間にひたすら訳すとかしないと翻訳の仕事は進まない。ウィニコット協会の抄録は絶対今日書こう。

そうそう、私がはじめて読んだウィニコットの論文は「食欲と情緒障害」(1936)だったと思う。今は精神分析家になられた妙木浩之先生が『小児医学から精神分析へ ウィニコット臨床論文集』の読書会をしていらしてそこに参加した初回が第1章のこれだった。私にとって最も印象に残っている論文でもある。もちろん内容的には重要論文と言われるものはこの本の別の章のものだったりするのだけどインプリンティングみたいなものだ。最初に出会ったものを親だと思う、みたいな。その後もよくわからないなりにウィニコットだけは読み続け、よくわからないからクラインとフロイトの購読会に何年も参加し、そこでいろんな分析家の論文に触れ、今は自分で読書会を持つようになったし、精神分析家になる訓練まで受けてしまった。同一化ってこういうプロセスなんだな、と事後的に感じているのが今。

とか言っている間に作業をしましょう。少ししか時間がなくなってしまった。なくなって、とうったら「な苦なって」とでた。テレパシー。今日は木曜日。なんとか過ごしましょう。

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朗読、絵本

鳥たちが少し鳴いてまた静かになった。窓を全部開けてみたけど作業するには暑くて少しの隙間を残して閉めてエアコンをつけた。エアコンの音。風が涼しい。でも冷えるばかりで自然ではない。

友人が朗読のファイルを送ってくれた。小学生の頃、教科書をもらったら国語だけはすぐに全部読んでいた。朗読も大好きだった。指されると嬉しかった、ような気がする。今も保育園でまだ絵本でさえ重たそうに持って膝に乗ってくる子たちに読み聞かせをする。辿々しい足取りでみんな違う絵本を持ってくる。「読んで」とはまだ言えないが目の前にぐいぐい差し出してくる。かわいい。最初に持ってきた子の絵本をみんなに見せるように読みはじめるとさっきまでぐいぐい自分の本を差し出していた子たちの動きが止まってそのままの姿勢で絵本に見入る。読みながら立ち尽くして絵本に吸い込まれそうになっている子のそばの床をトントンとする。座る。目線は絵本から離れない。読み終わると「もっかい!」と小さな手で同じ絵本をもう一度開いてくる。さっき自分の絵本を読まれなかった子たちが再び目の前にいろんな絵本を押し付けてくる。「じゅんばん」となんとなく掴んでいた順番で次の子の絵本を受け取る。別の子がそれを叩き落とすようにして自分のを差し出す。一応受け取って床をトントンとして座ってもらって3番目の子にアイコンタクトをしてうんうんと頷く。その子に表情でお礼をして2番目の子の絵本を読みはじめる。どうしてこれが通じるんだ、と思いながら。大学の臨床センターで幼児グループをみていた頃もよく任せられた。その頃は今よくみている0、1、2歳よりも大きい幼児さんだったがADHDや自閉症など発達の困難を抱えている子たちだった。すぐにどこかへ行ってしまう子供たちもいたが私が絵本を読む時間は療育の後のフリーの時間だったのでみんな自由にしていてよかった。それでも絵本には力があるのだろう。遠くにパーっと走っていってもドアのところから絵本をじっとみている子もいた。隣で急に大きな声を出すので「どうぞ」という気持ちで床をトントンすると隣に座って絵本は見ずに言葉を聞いているようだった。

あ、朗読のこと。いつの間にか友達が送ってくれたファイルの再生が終わっていた。私もこれにチャレンジする予定。

もう13日か。まずいな。みんなはどんな感じだろう。どうぞ元気で。

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精神分析って。

窓を開けずにキッチンであれこれしてパソコンの前にきた。キッチンの小さな窓は開けっぱなしで寝た。その前に立った時にあまりいい風が入ってくるようなイメージを持てなかったのかもしれない。椅子に座ってすぐにエアコンのスイッチを押した。鈴虫が今日はそばで鳴いている。

今朝、宇多田ヒカルのインスタがネットニュースになっていたが私もこの写真はインスタで見た。ほんと子供ってすぐに大きくなる。こうやって私生活を守りながらあれだけの仕事をしていることにも驚嘆する。宇多田ヒカルは精神分析に助けられたそうだし私も助けられてきた。では何が助けになったかというと精神分析を体験した人とは共有できると思うがその人たちとさえ言葉で共有できるかというと心許ない。むしろその共有できなさについて言葉にすることになる。私のところへ来る人は専門家に話すのははじめての人もいれば別の場所にかかったことのある人もいるし多くは医療にかかりながらだ。彼らは以前のカウンセリングや医療での体験を「話を聞いてもらえて」とか「問題を整理してもらえて」と話すことが多い。精神分析にもその側面は含まれるが混乱の中、狂気に陥らずに混乱したままいられるようになるとか、自分にしかわからないことを自分にしかわからないこととして大切にできるようになるとかいうことを助けに感じていることが多いと思う。異質なものや人に対してバウンダリーを揺さぶられつつもメタで考えられる自分の機能を失わなくなる。ほとんどの場合、「適応」はいつの間にかよくなる。憎んでいた人や場所を愛せるようになるとかではないけれど「最悪!」と思いつつも憎しみに覆われることも減るし、覆われている自分に自分で気づけるようになるので行動が変わる。外側は何も変わっていないのに自分が別のしかたでそこにいられるようになる。あるいはいてはいけないことを認識できるようになる。もちろんそのプロセスは反復のプロセスでもあり何度も似たようなことは起きる。その度に狂気に陥りそうになる。でも精神分析が機能していればその反復は少なからず治療者との間にも起きている。だから外側のことではなく今ここのこととして扱える。同じものをお互いの場所から眺め対立したり共有したりする。「そっちからはそう見えるのか」という驚きに素直に驚くことができず「こっちからはこうにしか見えないのだからこうなんだ」と言い張ったりしながら少しずつ別の可能性に開かれていく。このプロセスにおける二人はとても対等で直接的な関係だ。でもこの局面にこそ関係の非対称を持ち込みたくなるのも事実。差異はあるものとせず差異のせいでこうなっているという考えにとらわれてなんとか自分の立ち位置を維持する。それはある意味なけなしの努力でもある。変わることは怖いことだから。などなど。体験してみなければわからないことを言葉にしていくことの意味などない、とは全く思わない。自分の知らない場所の方が知っている場所よりずっと多いなんて当たり前なのだから。「そういう場所があるんだ」と知るところから旅が始まるのと同じ。精神分析状況を両方の立場で体験しているから観光案内としてもそんなに間違ったことは書いていないと思う。でも考えは変わるかもしれないからこういうことも書き続けると思う。もう準備せねば。今日は火曜日。なんとかやりましょう。

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北杜市、シャトレーゼ、環境。

今日は虫も鳥も遠い。PC前にきたのが遅かったからか。ハーブのパウンドケーキをハーブティーと。どちらもとても優しい味。ケーキ職人の友人が暮らす山梨県北杜市で今週末だかいつだか何かのイベントに参加すると大学のときの友人が言っていた。詩とか本のイベントかな。ほかにも知り合いが北杜市のイベントに出ると話していた。みんなが知らずに同じ場所で出会っていたりするのかな、と思いながら聞いていた。北杜市が合併する前、不登校の子どもたちと廃校になった小学校で長期休みを過ごしていた頃、みんなを連れてシャトレーゼのアイス工場へ行った。工場見学はとても楽しくてみんな食べ放題のアイスを競い合って持ち帰ろうとしていた。すぐ溶けるってわかってるのに。さっきウェブサイトを見たらこれまでの工場見学はコロナ禍の2020年に休止し、2022年4月に再開中止の発表。その後は有料の体感ツアーという形で見学は再開された様子。食べ放題はないらしい。もう25年以上前のことだがみんなが嬉しそうに楽しそうにそこにいられるような場を作ってくれたことに感謝。今でも話題にするほど楽しい時間だった。

シャトレーゼは私が子どもの頃にできたのだと思う。どういう出会いだったか忘れたけれど小さな衝撃のようなものを受けたのを覚えている。田舎の子供が知っていたアイスとは違うというよりも多分私が驚いたのはその売り方だったような気がする。今はシャトレーゼは素敵なケーキ屋さんのような店舗ももっていてそれを見たときにも驚いた。この変化に対する大きくはないがそれなりに何かを考えさせる驚きをうまく表現することができないが別の文化と出会ったような感じだったのかもしれない。

違う文化といえば、先日、外国からきた訓練分析家資格を持つ精神分析家と話す機会があった。そこでオーストラリア精神分析協会のトレーニングシステムの話を聞いた。精神分析家になるためには訓練を受けなければいけないがその訓練を受けている人たちを候補生candidateと呼ぶ。私もその一人だ。

日本精神分析協会は東京支部、福岡支部の二つがあるのだが、オーストラリア精神分協会にはシドニー支部Sydney Branch 、メルボルン支部Melbourne Branch、アデレード支部Adelaide Branchの3つの支部がある。

そこでは、
the candidates of the three different Branches of the Society meet interstate three times per year to share their clinical and theoretical experiences.

ということでin personで年に3回、州を超えて3支部の候補生が一同に会する機会があるという。精神分析の訓練は組織によって違いがあるとはいえかなりハードだ。そんななかこういう機会が候補生たちに対して設定されているのはとても心強い。

人はそれぞれ少しずつだが大きく異なる文化を持つ。日々、多くの人のこころの動きに細やかに出会っていくためには異なる文化に対する自分のあり方を常に内省し、変化させていく必要がある。そのためにはそういう違いをたくさん体験していくしかない。同じ場所でも別のしかたで立つために訓練を続けている今、環境側の整備も同時に必要だ。いまだcandidateとはいえ普段は教える立場でもある。次世代に向けて何ができるかも自分が訓練でどう変われるかにかかっているのだろう。

シャトレーゼに一緒に行った彼らとも本当にいろんなことがあった。今思えば私たちはそれほど歳が離れていなかった。元気だろうか。私のできなさを笑いからかいそれでも頼ってくれたりもした。感謝。私たちはみんな違うけどみんな似たようなものでもある。大学のときの友達とは会うたび「変わらないねー!」だが彼らからはすごく老けたと言われるだろう。現実、そうなのだ。同じか違うかより変われるかどうか。今日はどんな感じだろう。慌ただしいがなんとかやろう。みなさんもどうぞ良い1週間を。

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言葉。

洗濯機が回る音。いや、洗濯機を回す音?洗濯槽が回る音?洗濯槽も洗濯機の一部だからやっぱり洗濯機が回る音?元に戻ってくるまでのくるりんくるりん。言葉が醸し出す空間をくるりんくるりん。

「でもなんかそういうふうに言いたくないんだよなぁ」「なんで(笑)」言葉を使うというのはそこに含まれる命令に従うことだから?ピクトグラムだってそう。なんでそのマークのある方へ入らなくちゃいけないの?なんで三つしかない丸の色で止まったり進んだりしなくちゃいけないのさ、といって赤信号を渡ったら死んでしまうこともある。それはそれで縛られちゃってる。私は赤信号を突っ切って走ってきた車に轢かれそうになったことがあるが自分が間違ったのかと混乱した。その後、赤信号を突っ切っている車を数回見つけて「そういう場合もある」ということを確認したが。

言葉はずっと遊ばせておくと遊ばなくなってくる。楽しくてはじめた遊びがそのうち捕まるような悪さになっているなんてこともある。精神分析は言葉遊びというよりは言葉が遊ぶ生き生きした感じが好きなのであって患者のそれを大切にしたい治療法なのだと私は思っている。そしてその遊びは抑圧という心の動きを細かに想定してこそ成立する。抑圧されたものに気づくプロセスには痛みが伴う。自分ひとりの言葉がそうではなくなるから。押さえつけられているように感じるから。好きに話させてもらえない。ごまかしていては伝わらない。小さい子が叱られたときに大きな声で言ってはいけない言葉を何度も何度も繰り返して親の言葉を遮る。あれは悲痛な叫びだ。言葉で縛るのはやめてよ、と。自分は自分を大切に閉じ込めていたいんだ、という言葉が相手に通じるとわかると少し相手が自分に入ってくる。そして長い時間をかけて他人がいても言葉が遊ぶようになってくる。むしろ他人がいたほうが言葉が自由と感じたり。抑圧は治療者の言葉(非言語を含む)が患者の心を、という流れだけではなく患者の言葉(非言語を含む)が治療者の心を、という流れもある。陣初期のコンピューターで陣取りゲームをやったことがある。あんなシンプルではないがいつの間にか自分の陣地が減っているような感覚、それを取り戻そうという動き、いろんなことが二人の間に生じる。「コミュニケーションが成立しない」と言って切り捨てるのは簡単そうで簡単ではないから何度もそう思いながらずっと一緒にいたりもする。争いも消えないが仲直りの機会も残り続ける。コミュニケーションをしたいかどうかは重要だが。

たくさん言葉を聞いてたくさん言葉を使った後にひとりになる。別の音が聞こえてくる。別の言葉が生まれてくる。昔やった言葉のひとりあそび。最近は遊ばなくなった言葉と短時間戯れるように過ごす。言葉を使うことはとても疲れる。別のものに気づく余裕をなくすこともある。精神分析は毎日のように会うけど会わない時間の方がずっと多い。そのことがいかに重要か。音楽も聴き続けない。邪魔が入る。電源を落とす。それを聞いていないときに聞こえてくる音にノル。今日も一日。

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「地続き」にしない

お湯を沸かして残りのカポナータを温めてゴミ捨てにいった。涼しい。昨晩はタオルケットでは寒いくらいだった。雨は上がっていたが湿気がすごい。鈴虫。通りにはまだ誰もいなかったが家の中で人々が起きているような気配があった。今日は隣の家の窓が開いていない。土曜日だから少しゆっくりなのだろうか。ゴミ箱はすでに結構いっぱいだった。開け放したままの玄関に戻って昨日面倒で捨てなかった除湿器の水を捨てた。いっぱいになっていない。しょっちゅうかけていたからか。でも表示は湿度76%。この数字の方が溜まった水の量よりリアルなはずもないが体感はこっちに近い。空気はどれだけ水を閉じこめておけるのだろう。溢れてこぼれ落ちたものが雨か。メタファーとしても涙と近い。再び除湿器をONにした。「ワイド」「4時間」、あといくつか設定があったが変えるのはタイマーくらいだから忘れてしまった。

なにもする気がするせずただ眠れなかったというだけの寝不足をなんとか取り戻した。元々睡眠時間は長くない。どこでも眠れるからだろうか。昔は電車のドアの隅っこに立ったままガクンってなることも多かった。見かねて席を譲ってくれた人もいた。年上の人だった。「ベッドで寝なさい」と言ってもらえるのは子どもだけか。大人になってもそういう部分は子どものときのままという人もいるか。そうやって親と子供みたいなパターンになっていくこともあるのかもしれない。自分の性質の強い部分を強化する相手は対象として選択されやすいだろうから。

先日、音楽評論家の方にこのブログを引用されてびっくりしてしまった。閲覧数が平均より増えるとなのかなんなのかわからないのだけど通知がくるのだ。「読まれてます!」という通知はnoteだったか。いろんなところに書き散らしているのでそれぞれの文言を忘れてしまった。引用はその方の記事について書いたからに違いないけどその人のだから、と辿ってきた方々にこんな文章でなんだか申し訳ない気もした。きちんと考えて書くような文章は公にしない文章の方が多い。考えたからといって大した文章が書けるわけでもないが姿勢として。考えるでもなければ溢れてくるとか?というわけでもない。キーボードに手を置いて起きたばかりのことを書き始めると自然に浮かんでくる他愛もないことを書いているだけだから時間切れで突然終えてしまうことも多い。でもその人の記事がとてもよかったということが伝わったのならそれはそれでよかった。そういえば昨日はすごく久しぶりにブログを書かなかったな、と思ったら書いていた。寝ていなかったから時間軸が狂ったのかもしれない。

少し前に『中央公論』2022年10月号掲載の大山顕さんの文章を読んだ。漫画『東東京区区』のかつしかけいたさんが写真の色づけに関して紹介していた。

寝なかったその日にベッドで一瞬見た夢がカラーでも白黒でもなかった気がしたのとインスタで結構見かけるモノクロのポラロイド写真の数枚が重なって思い浮かび、写真の色づけに連想が飛んだ。

大山顕さんは写真家だ。記事はネットで途中まで読めるが私は全文を読みたかったのでKindle Unlimitedで読んだ。「戦前・戦争写真のカラー化は何を見えなくしたのか――色づけが生み出すスペクタクル」という記事である。写真に残された記憶を色付けによって現在の自分たちと「地続き」「身近」にすることについて彼はこう書く。

ー「地続き」「身近」にしないことの重要性があるのではないか。自分に引き寄せて感じたり考えたりすることは、いつでも良いことなのだろうか。遠く隔たったことを、そのままにして考え続けていくことが重要な場合もあるのではないか。そうでなければ、「当事者」が最も「正しく」なってしまう。ー

夢はどちらにでもになりうる。見たのは眠っている自分だけで最初から「正しく」などありようがない。

触感が強く残った一瞬の夢だった。精神分析状況は夢見と覚醒を行き来する場だ。今日はひたすら覚醒している必要がある時間があり言葉を信じて使う必要もある。勝手に自分たちと「地続き」にしない。私はそれを心がける。

窓を開けているとやはり少し寒いくらい。気温の急激な変化に体調を崩す人も多いだろう。どうかお大事に。良い週末を。

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雨。資源。

雨がいろんなところを叩く音が聞こえる。鈴虫も鳴いているけどいつもみたいにきれいに声が響かない。その場所から動けないのかな。それとも動いてそこにやってきたのかな。

「娘は絶対日本から出させる」「力のある女性は日本から出た方がいい」というような言葉をよく耳にするようになった。切迫感のあるメッセージだと思う。頭はいいらしいが幼児的な快楽優先の男性に気持ち悪さを感じながら戦ってきてくれた力ある女性たちの危機感は大きい。互いに甘えあってwin-winの世界にいる男女もたくさんいるがそれは多くの場合部分的な関わりなので、子供がいたり、普通に第三者的な視点を持っている人なら遅かれ早かれ自分と向き合わざるをえなくなる。このままでいいのか、と。いつまでも子供でいられる立場の人は永遠少女とか少年でいることに満足を見出す余裕もあるかもしれないからそれはそれ。でも永遠少女やお勉強はできて自分のダメさもふざけながら上手に自己開示できている男性に「ほんとそういうところが・・」なんて真顔で言おうものなら引きつった笑いか小さな舌打ちとともに不機嫌になって急に相手を見下した態度をとる人は多いわけで、戦う女性たちはそのあまりに薄っぺらい正体に怒りを通り越してヤバさを感じるのだろう。コミュニケーションが成立しないという判断のもと「こんなところにはいてはダメだ」あるいは「いさせてはダメだ」と。たしかに。「いさせてはダメ」というのは実際に守るべき相手に対して思うことでもあるし、自分の尊厳なるものに対してもだろう。一方、尊厳は守りたいが、たいして力のない私はここにいるしかない、というか与えられた場所でどんな工夫ができるかを考えることをまずするかもしれない。怒りに打ち震えたり吐き気と涙でぐちゃぐちゃになったり、何も手につかずここから動けないという状態になってもそういう自分をぼんやり観察する。そういう時はぼんやりか極端かのどっちかにならざるをえないから眠れないときみたいな少し変になった頭と身体で観察を続ける。狂った世界ではこちらも少なからず狂うこともを許容しないと知らないうちに迎合して本当に心が死にそうな気がする。だからぎりぎりのところに留まる。自分の資源があまりない場合は相当な切迫感がないと行動の判断って難しいけど心が壊れてしまうと死を行動と勘違いしてしまうこともあるから本当に危険。なのでひとりではなく専門家か、普通に思いやりのある人と。彼らが変わることは偶然何か起きないかぎり多分期待できない。自分が変わることも一人では多分相当難しい。だからまるで知らない人(繰り返すけど専門家か、普通に思いやりのある人、あと常識のある人)に相談してみるのもいいと思う。相手や世界に対するあれこれを吐き出しつつそこで反復される自分の心のありように目を向けてみる。それはときとしてこの国から離れたくなるくらい気持ち悪かったその人たちよりもずっと不快なものとの出会いになるかもしれない。でも他人のものより自分のものの方が取り扱いは安全にできる。ときに自分を傷つけたり誰かを傷つけたくなることもあるだろうけどどうにかして持ち堪える力も同時に芽生えていく。そういう心の変容って本当にあるから自分にはそんな力ないし、と本当はすごく気持ち悪いのに気持ちよくしてあげなくて大丈夫、と言いたい。そしてそんなこと言わなくてもいい日がくると願いたい。今はとても無理だけど。なんとか生き延びよう。そうだ、前の職場の人とごはん食べにいく日程決めなければ(=こういうのもありがたい資源)。

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「サイダーのように言葉が湧き上がる」とか寒立馬の作品とか。

「フライングドッグ」の設立10周年記念作品『サイダーのように言葉が湧き上がる』をNetflixで見た。2020年5月の公開予定がコロナで延期され、2021年7月に公開された映画だそうだ。

俳句をやっている友人が「高校生の俳句は本当に高校生が作ってて大人のは黒瀬珂瀾という人が作ってるんだって。よかったよ」と教えてくれた。二人の高校生が出会うまでのオープニングがとてもカラフル。誰かを想うことで防御一方だった過敏さを超えていく二人と彼らを取り巻く人たちの優しさの描写がシンプル。ところどころスマホに打ち込まれる俳句が意外なほどパワフル。

よい映画だった。

台風が近づいているのか。移動に支障が出たら嫌だがなにより被害が出なければよいが。

映像作家の小田香さんという人が、青森県の下北半島で寒立馬を題材に監督作品を作っているという。「かんだちめ」と読む。朝日新聞デジタルの記事で読んだ。小田香さんは大島渚賞の第1回受賞者とのこと。坂本龍一が強く推したそうだ。8月初旬に巡ったばかりの下北半島、下北半島に住むガイドさんがこれまで扇風機しか使ったことがないのに今年はエアコンを導入せざるをえなかったというこの夏の炎天下、のんびりとたくさん歩きながらいろんなことを感じた。この作品はぜひ見たい。その記事に小田香監督が寒立馬を撮影する写真が載っていたがちょうど私たちが行った頃のだった。すぐそばに津軽海峡と太平洋が広がり、それを分ける位置に真っ白な尻屋崎灯台が立つ。国の重要文化財であり日本の灯台50選に選ばれているとのこと。

さて、記事には

「放牧中の寒立馬はかつて、身近で見ることができたが、人が馬に蹴られたり突かれたりするトラブルが相次ぎ、柵越しにしか見られなくなった。」

と書いてあるが、どうやらペットを連れた人とのトラブルもあったらしい、と現地で聞いた。動物と人間の関係は難しい。

そういえばこれは先日ここで文句めいたことを書いた青森県立美術館のプロジェクトの一環だそうだ。素晴らしい活動だと思う。

忘れないようにここにメモしてしまうけどそれが小さなアザであろうと小さな裂き傷であろうと心踏み躙られる体験と重なればその傷自体が消えても痛みは消えることはない。ただ変化はする。単純に薄くなるとか、いずれ消えていく、とかではなく、景色でも人でも外とのなんらかとの関わりにおいて心がふと軽くなったりほっこりすることがある。逆に急に吐き気を催したり突然涙が止まらなくなることもある。そうなることはわかっていてもそうなるときはそうなってからでないとわからない。「またか」と思うのはそうなってからだ。そのときに思い出せるのが心を支えるなにかの方であることをいつも願う。その「なにか」が直接的な関わりだけではなく外からふとやってくるものであることも確認したい。

さてさて、今日はどんな1日になることやら。なんとかはじめましょうか。

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博物館とか美術館とか。

紅茶とフロランタンと粉砂糖のかかった丸いホロホロしたクッキー。名前を忘れてしまった。昨日、緑道を歩いていたらアゲハがフワフワよりも速いスピードで横切っていった。名前のわからない葉っぱのそばをこれまた結構なスピードで舞い降りたり浮かび上がったりしていた。花はないのに何を探してるんだろう。私は少しずつ近づきなかなか写真に収まってくれないアゲハを何回も撮った。きれいに写せたのも数枚あった。アオスジアゲハ。少し光沢のある水色の小さな四角が帯状の模様を作っていてとてもきれい。我が家の小さな花壇の山椒は最初はアゲハの幼虫に食われてばかりだったがいまや時々切り落とさなければならないくらい立派な枝を伸ばしている。どこが転機だったのだろう。花壇にアゲハがやってくると「むしろ今は食べ放題ですよ、ぜひ食べて」と心の中で伝える。料理で使う山椒の葉なんてほんと数枚だから。箱根登山鉄道 「入生田」駅からすぐのところに神奈川県立生命の星・地球博物館がある。以前ここで見た蝶の標本が素晴らしかった気がする。蝶のすごい標本というのは全国回っている間にいくつか見た気がするが多分私がこういうときに思い浮かべているのはこの博物館のだ。河口湖でもそういう展示があったかもしれない。とても心に残っている博物館なのでまた行きたい。今ならもっと違う楽しみ方もできそう。当時よりきちんと観察する力が身についたと思うから。いろんなところへいっていろんな人と話していると「ほらここ」と言われ何かをきちんと見る機会が多い。自分では気づかなかった部分に目を向けさせてもらえる体験はその後の自分の目の力になる、思い出と共に。

思い出といえば青森県立美術館はとてもまわりにくかった。最初から館内が複雑でまわりにくいと言われていちいち案内されるのだが、この案内のせいでまわりにくかった。美術館の設計がどうであれ私は一度入ったら自由にまわりたい。次はあっち今度はこっちあれれどこ行くんですかこれはこっちいやいやお手洗いへあああちらへあれれこちらはご覧になりましたか今お手洗いへ行ってきてはいはいそうですかこっちはご覧になりましたかはいさっきあそうですかなど今やっている「生誕120年 棟方志功 メイイキング・オブ・ムナカタ」は十分に楽しみつつも疲れてしまった。あまりの声の指示の多さに途中からはイライラもしてしまった。どうして簡単な地図と矢印とか視覚情報ではいけないのか。点字だってあっただろうか。美術館では視覚優位になっているので聴覚情報とバランスが悪いと疲れるのだろう、と今思った。余裕があるとこういうことも考えられるがあのときは疲れきった。そのあとに奈良美智の「あおもり犬」へ向かおうとしたらここからだとすぐそこなのにそこのドアは配慮の必要な人用だから、と一度外へ出て階段を登って、と疲労とイライラに少し拍車がかかった。こちらがこれだけ動きにくいとなると障害のある人とか妊婦さんとかにも全然使いにくいのではないか。人の声での指示はできるだけ少ない動線づくりというのが重要なのでは、と保育園でいうようなことを思いながら歩く。いた。あおもり犬。でかいのはわかっていたがかわいい。このおかげで元気を取り戻したがいやはや、自由度大事。

それにしてにも以前青森にきたときに三内丸山遺跡はいったのに青森県立美術館にはいった覚えがない。時間はあったと思うのだけど。すぐそばだし。まあ一度は行けてよかった。八戸市美術館は真逆でとてもオープンな空間で作家との距離も近くその時やっていた展示も非常に印象的だった。また行きたい。八戸ブックセンターでは行政の人とたくさんお話できたし楽しかったな。

しまった、もうこんな時間。いかねば。どうぞ良い1日を。

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林芙美子「漣波」、リモコン、寿命

遅い時間のごはんが消化されない。アタリマエジャ。ソリャソウダ。ごはんを食べたあとまた林芙美子『トランク 林芙美子大陸小説集』(中公文庫)をパラパラした。やっぱり面白い。芙美子は4本の連載を書きながら突然死んだ。今回の文庫にはその中のひとつ「漣波ーある女の手記」が収められている。1951年、芙美子が死んだ年に中央公論社から「漣波ー或る女の手記,女家族,菊尾花(新方丈記)」を収めた『漣波』が出ておりそのあとがきを書いたのは川端康成だった。今回の文庫『トランク』にはそれが付録として収録されている。「漣波ーある女の手記」は手記なので一人称で書かれており「三十歳を越えた私は、十七歳の、あの時から、まるで一呼吸(ひといき)で現在になったような気がしてなりません。」と十七歳のときに女中としてパリで体験した出来事がとても無垢ぶった様子で書かれていて大層面白い。気持ちが昂ったり急に冷めたりうっとりしたり意地悪な気持ちになったり男性との関係で経験する体温の変化を十七歳ならではの無邪気さでなんとなく大袈裟に描写しているのがとてもかわいい。最後に(絶筆)とあるのでこれが未完であるとわかるが書かれなければこの余韻のまま何も気づかないかもしれない。

今朝はすでに暑い。エアコンをつけた。西の窓の左後ろの方でカラスが一声鳴いたあと少し早いリズムで何度か鳴いた。

昨日、とうとうエアコンのリモコン(なんでも「コン」だな)に何も表示されなくなりついに運転を切ることができなくなった。電池を変えよう変えようと思っていたのだが小さなリモコンの動かせる部分を全て(と言ってもスムーズに動くのは1箇所のみだが)動かしても電池を入れる場所がわからず変えていなかった。でも今回ばかりはまずい。消さないで出かけられない。こんなときこそインターネット(久しぶりにきちんと言った)。「ナショナル」と品番を入れて検索。「ナショナル」は2008年にブランド名として廃止されたが私がここに住んで15年くらいだからナショナル最後の世代のエアコンということになるか。やはり世界をつなぐインターネット。同じように困る人はやはりいるらしくすぐに動画が見つかった。なんてことはない。私が何度も滑らせていたカバーの下の方をねじるようにして力を入れて開ければよいだけだった。おかげで「運転 切/入」を押したらピッと消えてくれて出かけることができた。消したら急に鈴虫の声が聞こえ始めた。そういえば冷房をつける前もすごく鳴いていた。同じ鈴虫だろうか。ずっとそこにいたの?私ここにきて15年くらいなんだけどみんなは?検索。鈴虫は卵が孵化してから約4ヶ月、成虫の寿命は約1、2ヶ月しかないそう。「人の手で大切に育てたとしても冬は越せないため、」と読んで悲しくなっていたら「次の年も飼育を楽しむには産卵・繁殖させる必要があります。」と続いていた。Oh…。

今日やるべき事務作業や翻訳作業の資料はひとつのファイルに入れた。分けるとあっという間にどこかへ分散してしまうことがわかったから(何回もやってるけど)「2006世界バスケ日本開催!」と大きく書いてあるファイルに入れた。どこかでもらったのだろう。中学時代バスケ部だった私は一時バスケ観戦もよくしていたから。今回の「FIBAワールドカップ2023」は日本すごかった。前回日本で開催したのが2006年だからこのファイルもこの家にきた頃のものか。ものは大雑把な時計代わり。私は物持ちが良すぎるから時計としてはどんどん大雑把な機能しか果たせなっていくものたちだけどそれぞれの寿命をなんとか生きましょうかね。

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お菓子、クリップ

キッチンの窓を開けたら珍しく鳩の声が一番最初に聞こえた。今は西の窓の向こうで鈴虫が鳴いている。あ,鳴かなくなった。鳥たちがガヤガヤとなにか言っている。どんなことがやりとりされているのだろう。やりとりとは限らないか。人間には思いもよらない何かがたくさんあるのだろう。

今朝は友人の手作りフロランタン。吉祥寺の小さなお店を閉じてから何年経つのだろう。オンラインにお店を出すわけでもなく、季節ごとにケーキと焼き菓子セットを届けてくれる形式。山梨県北杜市から。その人のこだわりにきちんと答えてくれる土地なのだろう。引っ越してからもうだいぶ経つ。小さな段ボール箱を開けるといつもの小さな紙にその人の書いた字が見えた。栗の実のことも書いてあった。「竹のクリップはプレゼントです」とある。箱の中をみるとクシャッとされた薄ピンクの硬めの紙に守られたいつもの蝋引き袋がある。蝋引き袋というのを私はそれまで知らなかった。おしゃれで機能的。袋はいつもはない細長い竹のピンで留められていた。そっと外す。口はとても小さく挟む力はほとんどない。端っこを押して開く仕組みでもない。挟むというより留めたいものをそっと差し込むようにする。いざ挟むと結構しっかりしている。ゼムクリップよりもずっと繊細にみえるけど竹は強い。ケーキの紹介文が書いてある和紙のような紙を差し込んでその確かさを頼もしく思った。その人みたい。竹のクリップは竹細工職人さんに作っていただいたとのこと。嬉しい。フロランタン、とっても美味しかった。少しずつ大切にいただこう。

今日はいつもの仕事の前にあれこれやっておかねばならないことがたくさん。困った。いつも困っている。とりあえずやろう。夜中より雨の音が弱まっていると思うのだけど今日は一日雨なのだろうか。雨は大事。いい音。どうか静かに降ってくれますように。自然に対しては願うばかり。

月曜日、なんとかはじめよう。

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おばあちゃん

「うん?三日」と思う。昨日は「うん?二日?」と思った。一昨日は「(略)」と思ったがいよいよ〆切日だ。毎月毎月誰も見ていないのに声も出さずこんなことを繰り返している。「ちっ、暦なんかあるから、グレゴリウスめっ」とか思っても〆切は遠ざからない。というか暦って多分ないと困る。毎月毎月ほぼ同じように数字で区切ってもらえるからかろうじて〆切だって思い出せるわけだ。これが1ヶ月40日とかだとちょっと感覚狂うかもしれない。40人学級より30人学級の方が運営はうまくいくはずだ。何月が31日まであるんだっけ、と小学生のとき、友達が指で確認していてめっぽうかっこよかった。私も真似したが山と谷、どっちが30日でどっちが31日かを忘れてしまったりそもそも最初の手の形が違ったりする。しかもチョンチョンって2回やって折り返さなければならない。難易度が高い。なので結局「8月は31日まで」というのを基準にあとは大体変わりばんこと覚えていた。私の誕生日を祖母は死ぬまで「8月31日」と思っていて毎年「亜美ちゃん、8月31日、お誕生日おめでとう」とお手紙とお小遣いをくれた。おばあちゃん、私の誕生日は30日だよ、といつもほっこりした。

そうそう、おばあちゃん、と祖母に向けてお話したくなるがBack to realityの声が聞こえる

そうそう、おばあちゃん、昨日ね、友達がとっても美味しいお店に連れていってくれたの。前菜がシャインマスカットといちじくと生ハムだったの。すごいでしょ。最高でしょ。夏に青森に行ったんだけどね、その話とかしながらなんとなく群馬の話も出たの。そしたらシェフが「生ハムは群馬のですよ」って。そー、びっくりでしょ。向いてるんだって、群馬、生ハムに。あのからっ風が。あの冷たい乾燥した風が生ハムの熟成にいいんだって。前髪は凍るし肌は粉吹いちゃうしいいことなんてないと思ってたのにね。「からっ風、いいとこあるじゃん」って思わずいっちゃったよ。

あ、天の声を無視してしまった。Back to reality.あなたは9月は本当にまずいよ。がんばりなさい。あぁ、おばあちゃん、私こんな歳になったけどまだこんななんだけどなんとかやってるよ。おばあちゃんは元気かな。なんで死んだ人にそう思っちゃうんだろ。私の記憶の中で彼らがみんな元気でいてくれたらいいなと思うからかな。また話そう。今日も元気でね。

おばあちゃんといえば

Woman’s Best 13 韓国女性文学シリーズ10​『私のおばあちゃんへ』나의 할머니에게

ユン・ソンヒ、ペク・スリン、カン・ファギル、ソン・ボミ、チェ・ウンミ、ソン・ウォンピョン 著​ / 橋本智保 訳

はとてもよかった。

私も着々とおばあちゃんに向かっている。戦争を知っている祖父母は長生きした。その時代に生きるってどんな感じだったんだろう。うん。やっぱりまた話そう。なんらかの形で。岸政彦さんたちの本とか生活史の本もたくさん出てきた。私も聞こう、話を。

みなさんもどうぞお元気で。

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精神分析

『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』(柏書房)を読みはじめた。

よく寝たと思ったけどそんなに時間は経っていなかった。

人の身体を傷つけて心を踏みにじった人がしんどいしんどい言いながら嘘ついたままやりたいことやって偉そうに人間ってこういうものみたいにいっていると唖然とする。嘘、しない。そういう人だから。「知性」も自分の暴力的な関わりをなかったことにして突き進むために利用するならそんなのなかったほうがよかったのでは、と思うけど、そんなこと知らない人には大層役に立っていたりもするのだから大きなお世話だろう。見えないところでなされる暴力が裁かれることは少ない。自分の快楽に忠実な人が起こす様々な事件も事件にならなければなんにも問われない。事件になっても関わっていなければ心壊されることもない。そんな安全がほしい?ほしいだろう。それが人間。なのか?疲れる。胃が痛い。

昨日は金曜日の仕事をしていたのにどこかで土曜日だと思って病院に行きそびれた。朝の予定を間違えたからだろう。不注意な人間にはよくあることだ。辻褄を合わせようとするから。一度間違って「あれ?」と思う。特にトラブルにならなければすぐに忘れる。でもどこかで最初間違えたときのモードが残っている。それがどこかに出てしまう。気をつけててもそういうことは起きる。完全に忘れるのも問題だがそれこそ不可能なことだ。困った。胃が痛い。

『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』ソーミャ ロイ 著/山田 美明 訳(柏書房)を読みはじめた。発売前、柏書房のnoteに公開されていた冒頭を読んだときにすでに言葉を失った。巨大なごみ山に捨てられた大きなガラスびん。そこに詰め込まれた臍の緒がつながったままの三つ子の赤ん坊。それをそっと抱きかかえ埋葬したのはそんなごみ山に暮らす子どもたちだった。これはノンフィクションである。ムンバイを拠点とするジャーナリスト、ソーミャ・ロイが2013年に出会ったゴミの山、デオテールごみ集積所を8年以上にわたり調査、インタビューをしてきた記録だ。物語はデオテールごみ集積所でくず拾いをしながら暮らすコミュニティ、特に大人になる一歩手前、18歳になろうとするファルザーナー・アリ・シェイクを中心に進む。

また読み耽ってしまった。今日も無事に過ごそう。

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音楽

柳樂光隆のnoteを読んだ。

穏やかな朝。鳥たちは元気だろうか。蝉や鈴虫の音に気を取られていた。もちろん毎日姿をみているのは鳥が一番多いのだけど耳が拾うのが。

柳樂光隆のnote更新のメールがきた。先日、Rolling Stoneに公開されたジャズハープのブランディー・ヤンガーへのインタビュー記事がとてもよくてnote 「review is a diary」に課金した。オンラインの記事に課金することはほとんどないのだが哲学者の千葉雅也、ノンフィクション作家の高橋ユキの文章にはしている。それぞれリサーチもすごいし対象に対して真摯、誠実な書き方はお金を払ってでもというよりお金を払って読んで大切にしていきたい。

今回の柳樂光隆のnoteは「about SF JAZZ COLLECTIVE:21世紀LAジャズの拠点(6,800字)」。

“「SFジャズ」はアメリカでのジャズの普及と発展に貢献してきた団体で、コンサートの企画から、LAの子供から大人、プロを目指す若者からジャズに興味を持ち始めたリスナーまで、様々な人たちに向けてジャズに触れる機会とジャズを学べる環境を提供してきた。それらの多くは前述のSFジャズ・センターで行われている。”

ということなのだがその活動がすごい。ときめく。6800文字ぎっしりその魅力でいっぱいなのだが引用されているたくさんの音源も素晴らしい。こんなふうに書ける柳樂光隆も教育者として優れているのだろう。ジャズを学ぶことはアメリカの歴史や社会状況やそれが生まれた土地について学ぶことでもある。だからこそ適切でエキサイティングな教科書が必要だしそれを実践で見せてくれる先達が必要だ。ああ、なんて羨ましい!と思うがこの記事から学んだそのエッセンスを自分の仕事に活かすことならできなくはない。毎日慌ただしくて読んだり書いたりする時間がないが音源がたくさんあるとそれを聞きながら移動したりもできるから本当にありがたい。

今日も無事に夜を迎えらえるように陽射しの中へ出かけよう。子どもたちも夏休みが終わってしまったね。早く学校に行きたかった子もまだまだどこにも出かけたくない子もみんなみんなとりあえず無事に一日をすごせますように。