たくさん聞いてたくさん話しながらたくさん歩く。自分がいた場所と少し離れるだけで景色が変わることを知る。驚く。相手がいると自分が何に対してどんな気持ちでいるかを知ることもできる。意外な気持ちで事実を内省できる。それは率直に反応してくれる相手のおかげだけど。率直に反応するされる仲になるにはそれなりの時間経過とコミュニケーションが必要、強く支えられるときもあればまるで異なる意見を言われてショックを受けたりもするから。単に自分が思っていたことと違うことを言われて頭と気持ちが追いつかなくてショックを受ける場合もあるけど相手の気持ちを知って「ああ、そうだったのか」となるショックもある。どちらにしても大切にしたい相手であればそういう自分や相手にもちこたえる必要がある。「もちこたえる」という言葉は私の仕事ではよく使う言葉だと思う。何に、かといえばたいていsomething bad or unpleasantでその状態をkeep, hold, sustainしているある種の緊張状態だと思う。一言でsufferと言ってもよいのかもしれない。先日sufferにはwaitの意味があると聞いてなるほどwaitかと思った。そうするとそこには単なる緊張状態ではなくてその先が見えてくるなと思った。something bad or unpleasantがgoodかpleasantの方向へ、少なくともnot bad,not unpreasantくらいの状態へ変化することへの期待が込められている。実際はそうに違いないのだが、臨床現場で「もちこたえる」という言葉を使いたくなる場合、それはかなりなすすべがないといか行き詰まっているときで希望は無意識に追いやられている。どこかで希望がなくてはもちこたえることなどできないにも関わらず。しかしだからこそ「希望」とかいう言葉を簡単に使えないのかもしれない。「希望が持てないんですね」とはいえても「希望を持ちましょう」とはいえない感じがする。「少し希望の光がみえてきた感じでしょうか」とはいえるか。「希望の光」はたいてい「一筋の」とかがつくわけでそんなにすぐに全体を照らしてくれない。ひたすらその状況にとどまりながら時間に何かを託している状態でふいに気づかれるような、そんなものがあるのを忘れていたような光で安堵をもたらしてくれる。でもその光は未来からとか神様からとかではなくて実は過去の蓄積から生じてくるのだと私は思う。だから人はすぐに自分にとってbadだったりunpreasantなことが起きると「あのとき自分が〜したから」「あんなことさえしなければこんなことは」など思うのではないか。過去の集積=過去のせい、というのは明らかに短絡的なわけで「どう転ぶかわからない過去を積み重ねてきたんだな、それが今たまたまこんな光になったんだな」という認識がまず重要だと私は思う。すぐに何かに結びつけるような思考は反復を生じさせる気がする。だってそれはどちらかというとナルシシズムの世界にひきこもっていくような感じではないか。コミュニケーションが大事だけどとても難しいのはどちらに転ぶかわからないきっかけを作り出すものでもあるからだろう。信頼していたのに、大好きだったのに、あのときに言われたことって実は、あんな言い方で伝えてくれてたことって、など相手が心にいると出来事は時間経過とともに変化する。ああ、さっきから眠くてしかたないのにダラダラこううちづけている。ねむけにもちこたえることで何かを待っているのだろうか。希望的な何かを。いまのところ起きなくてはならない、という現実しか見えない。ああ。おなかがすいた。昨日は美味しいサラダに出会った。サラダは素材の味も大事だけどドレッシングが特に大事だと思うんだよね。バルサミコが上手に使われていたみたい。まあ、調味料っておいしいよね、みたいな話でもある。でも「おいしいサラダになーれ」と言いながらかけても誰も「調味料かけただけじゃん」とは言わないし。あ、うとうとしてしまった。わかりやすい魔法で今日が良い1日になりますように。なーれ。なれー。