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精神分析

共にいること

早朝から家事をがんばった感じがあったがそんなこともなかった。ゆっくり過ごしながら家事をのんびりしただけだった。今日は洗濯物干しっぱなしでいいかな。暑くなるらしい。窓を開けたら鳥が賑やか。活動時間が早くなっていると思う。何喋ってるんだろうね。私は最近学生時代にボランティアをずっとやっていてその後非常勤でいっていた施設で一緒に過ごした言葉の出ない重度の自閉症の人たちのことをよく思い出す。同世代だった。その施設や関連の仕事についていたら私の生活は今とは全く異なったものになっただろう。毎日自然の中をお散歩したりドライブに行ったり歌ったり大きなお鍋でごはんを作ったり。家事は全てこちらがするけれどそれが当たり前だから何かをしてあげてる感じもないし大変さはもちろんあるけど穏やかな日々だった。安全で健やかでいてもらうこと、それが一番大切で難しいことだった。だってそのためには職員もそうでないといけないから。彼らの保護者の歳をとる前にできることをという気持ちは本当に切実だ。最近メジャーデビューした壷阪健登のピアノを聞く。With Time.彼らと一緒に聴きたかった。みんな今どんな暮らしをしているだろう。あの仕事を続けていたら今とは全く異なる生活になったかもしれないと書いたが、あの日々がなかったら今の生活もなかっただろう。大切な時間だった。

朝のうちに文献を少し読んでいいかげん書き始めねば。先日、転移を認識する・させるについて話があったが、現在の精神分析は転移が生じるかどうかがまず問題になる場合が多いだろう。私の考えではその可能性のアセスメントにもある程度の期間の精神分析が必要になる。フロイトは精神分析の適応についてかなり慎重で狭い範囲の病理を考えていたが現在の精神分析が対象とするナルシシズム、倒錯、自閉症は古典的な理論では理解が難しい。それでも人が人と関わることで何かをするということは変わらない。対象を対象として自然に立ち上げることをしない病理(と呼ぶかどうかさえ疑問だ)と共にいるには「共に」が生じるまでに時間がかかる。それで困っていない場合はいいのだがどうしても困る事態が生じたときに対象と関わり合うことを前提とした理論はあまり役に立たないだろう。人は心の中から対象を締め出して空想でいっぱいにすることができる、というような事態を何度も何度も実感しないことにはそれが長い時間をかけてもたらす困難を知ることはできない。問題は時間をかけて形をなす場合もあるし発病という契機があることもあるしとにかくことは複雑であるということ。今日もそういう複雑さを単純化したい心たちに抗いながらやっていくのだろう。なかなか気づきにくいことだけど。

西側の窓からなのに日ざしがすでに強い。皮膚も守らねば。守っててもかゆみや痛みや赤みなどすでに色々出てるけど仕方ない。地球のことも考えないとまた海の様子が変わってしまう。昨年青森で受けた衝撃を思い出さないと。どうぞみなさんもお大事に。お元気でお過ごしください。