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精神分析

紫陽花、中村達連載、ゲンナリ

雨がまだ降ってる。何度起きてもずっと降ってる。今朝はだいぶのんびりしてしまった。雨の音を聞いているとすぐに時間が経ってしまう。

昨日は朝から夕方までずっとPCの前にいなくてはいけなかったので始まる前に散歩に出た。いつものカフェはまだやっていなかった。日曜日は少し遅い始まりなのか。それがいいね。日曜の朝は静かでのんびりしていていろんな紫陽花が咲き、梅が色づき、朝顔がラッパの形で顔を出していた。夕方PCの中のみなさんに挨拶をしてまた外へ出た。雨がパラパラ。一応傘を持って出たけどさすほどではなかった。紫陽花あるかなあといつもとは少し違う道を歩いていたらドクダミにはたくさん会えたしここにこんな大きな木があったのか、と見上げたりしたが紫陽花がない。これだけ歩いて出会わないのも珍しいな、と思っていたらようやく住宅街の小さな庭先に小さい紫陽花を見つけた。しばらく歩くとその先にいつもの紫陽花とカシワバアジサイが見えた。会いたかったよー。カシワバアジサイは面白い形で大きいから目立つ。線路脇のそのお家のは結構背が高かった。雨の音。紫陽花には嬉しい雨かな。なんだかんだ雨が似合う花だと思う。

散歩に出る前、柏書房のwebマガジンで連載中の中村達さんの「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」を読んだ。

コロンブスによる「発見」以降、発見する主体としての西洋と発見される客体としての非西洋という一方的な図式が再生産され続け、西洋は非西洋との「遭遇」の記憶を一方的に語り、カリブ海の人々に語られる対象としての他者という役割を押しつけてきた。ジャマイカ人小説家・批評家のシルヴィア・ウィンターは詩人セゼールとフランツ・ファノンを参照しながら人間が生物学的かつ社会発生学的に物語る文化を育む種であると主張する。ウィンターは「ホモ・レリギオースス」(homo religiosus)「ホモ・ポリティクス」(homo politicus)「ホモ・エコノミクス」(homo oeconomicus)という「人間観」の問題を明らかにし「物語る種」としての人間、「ホモ・ナランス」(homo narrans)というあり方を提唱した。

と著者の言葉を引用しつつまとめて書くとこんな内容から始まり、この部分だけで1回分でもよいのではないかという重要度だと思うが、その先も長い。その次にきたのがアーレントだ。昨年、田野大輔、小野寺拓也たちによる『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』でもアーレントの言葉が検討されていたがここではアーレントがアフリカを捉えるその仕方が取り上げられている。欧米のホロコーストをめぐる記憶研究によって「多方向的記憶」を打ち出した比較文学研究者マイケル・ロスバーグによる批判がそこに続く。

「アーレントが見ているのは確かにトラウマ的な経験としての西洋とアフリカの「植民地的遭遇」であるが、「そのトラウマは被植民者側のものではなく、植民者側のものである」

「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」

と。そうか。

私は次の部分にも衝撃を受けた。

「アーレントは、理性を備え経済的にも優れた西洋文明人である「ヒト」を「人間」として当然のように表象し、西洋人にトラウマをもたらす野蛮なアフリカ人は「人間」として欠如を抱えた他者として隔離しているのである。そしてこの「人間の分割」は、ウィンターが人間の特異性として語った物語る種としてのあり方をも分割してしまっている。すなわち、「物語る」西洋人と「物語られる」非西洋人という人間の分割である。」

少しずつ勉強しているとはいえ少ししか勉強しない私にとってアーレントはまだまだ理想化されていると思った。相手が誰であろうとその言葉をその人のものとして追っていく仕事をしているのに、そして引用したような事態は論理的に考えれば普通に起こりうるのにアーレントがそれに加担していることに驚いた自分にゲンナリした。日曜の朝、紫陽花を愛でながら追う一方で、ゲンナリしていた。両立するもんだ。思い出したらまたゲンナリしてきてしまった。仕事に戻ろう。こうやって何度も気づきながら行くしかない。今日は月曜日。がんばろう。