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精神分析

下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」

昨日はいい文章を読んだ。下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」というミシマ社のウェブ連載「文学のなかの生命」の連載である。今回、第13回ということだがご本人のSNSによると5年ぶりとのこと。2022年『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)を読んだときもとてもいい心の書物に出会ったと思ったが今回もよかった。私は下西風澄が撮る写真に惹かれるところがありその後は文章より写真を見てきたような気がするが今回なんとなく読んでみて丁寧で切実かつシンプルな文章にまた胸打たれた。文学作品を知らずとも誰でも読めるのでぜひ。ヘミングウェイの『老人と海』を親が愛読していたがそれはこういうわけだったのか、など思ったりもした。先日、サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて 自由と存在とアプリコットカクテルを』(向井和美訳)を読みながら著名な哲学者たちの愚かさ、ひいては人間の愚かさについて考えていた。今回の連載で取り上げられたヘミングウェイの『蝶々と戦車』における水鉄砲の男を彼らにも重ねた。人間の心を守るために最も必要なものが愚かさだろうと私はどこかで思っている。下西風澄によるヘミングウェイ『蝶々と戦車』の読みに本当にそうだなと思った。

「はたから見ると、ふざけているように見える蝶々のような酔っ払いのダンスは、命がけのダンスだったかもしれない。本来は同じ国に生きる仲間であるはずの男たちに殴られ、血だらけになりながら水鉄砲で香水を撒き散らせていた男の心の中は分からない。彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。それでも男は、暴力という戦車に向かって、蝶々のように踊り、そして撃たれて死んでいった。」下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。」の部分がいい。この切迫感が彼を踊らせ続けた。

何回やめてと言われても相手が泣き出し怒り出し飛びかかってきても相手の真似をするのをやめない子供を思い出す。見ろよ、これがお前の姿だよ、気づけよ、こんななんだよ、と言葉にせず行動にする。自ら鏡を買ってでるのは実はそれは自分でもあるということに気づいているから。否認したいから。それが行動に攻撃性を帯びさせる。それを防衛して笑う。変な踊りをする。相手はどんどん怒りを強める。殺したいのは相手じゃないのに。自分なのに。緊張と弛緩、笑いと怒り、そして踊り。誰もが知っている自分の姿であり友の姿であると思う。投影過剰なのは現代に限ったことではないのだ。だから精神分析は生き残ったともいえる。複雑すぎる心は関わりによってより複雑になると同時に象徴機能によって単純で単一になったりもする。そこで止まったらそれは知ったかぶりでしかなく再び体験の複雑さに戻る必要があるのだろう。痛いほどわかる。