小さいバニラクッキーをふたつとレモングラス&ジンジャーティー。美味しいなあ。熱いのを飲むと少し暑いな。夏。
戦争が身近でつらいですね。こういう一つ一つのことが戦争につながっていくんだな、という実感もつらいですね。
今度、日本精神分析協会の学術大会で「精神分析家への訓練、そのリアル」というテーマでパネリストとを務めるのだけど「精神分析家への」の「への」と「訓練」のつながりの悪さが気になってしまった。引き受けたときもなんか不思議と思ったけどいざ話すとなるとなんで「精神分析家への道」とか「精神分析家になるための訓練」とかではないのか、と思ったけどこの二つにしたって前者はプロセスのことで後者は手段のことだから内容は変わってくる。「への」は方向性を示すものだし、確かに訓練は精神分析家になることを目指して行われるものであるのだけどなんかしっくりこない。なんでだろ、ということをずっと考えていた。「精神分析家への道」=「訓練」がくっついている感じの「精神分析家への訓練」。この違和感についても話すかどうかだねえ。
精神分析は言葉の違和感にうるさいというか大切にする。初回面接でもその人らしい表現というのはたくさん出ていて、継続して会っていけばもっと多彩な表現が見られる一方でパターンも浮かび上がってくる。それは関わり方を示すものでもあって精神分析のように週に何度も会っているとその人の言葉の使い方とかこちらの言葉に対する反応の仕方とかがすごくよく見えてくる。精神分析理論を基盤に生まれた短期力動療法のように抵抗を中心的に扱っていく技法は関係性ありきだと思うが、精神分析が特殊な技法なのは関係ありきではないということだろうと最近の私は実感している。
以前、私のオフィスのウェブサイトで短期力動療法について紹介した際、私は精神分析についてこう書いていたらしい、ということをさっき確認した。
「精神分析はお互いのこころをフルに使いあうものなのでお互いに相当のエネルギーがいります。「こころを使う」というのは単に自分の気持ちに意識的に気づくというものではありません。それはタブーとされているような人間の生の部分にフルに触れていくことであり、自分の無意識に翻弄されながらも生活を維持することです。こころはいつでも壊れる可能性を持っています。精神分析は異常と正常の間、意識と無意識の間でギリギリの体験を扱っています。したがって治療者が使う注意力も精神分析ならではの質を持っています。
だからこそ精神分析の治療者になるのであれば訓練が必須で、まずは自分が十分にそのこころの動きに耐えられるようになる必要があります。やってみなくてはわからない、というのはどの治療も同じですが、精神分析を受けることは他の心理療法とは異なるかなり特殊な体験となると思います。」
私は最初から「お互いの」ということを強調していたんだなと思う。「こころをフルに使う」というのをこの時はまだよくわかっていなかったが訓練を終えた今ならよくわかる。それはかなり知的な作業でもある。精神分析は自分が預かり知らぬところで失われたものを弔う作業だ。ナルシシズムによって補ってきた喪失や欠如を「他者」に対して開きつつもそこを勝手に埋められることに抵抗するものだ。「ギリギリの体験」と書いたのも当時それを実感していたからなのだろう。私は今や「他者」とか「関係」という言葉を括弧つき以外で使う気にならない。とかいって普段は使うと思うが、対象や関係を前提にできない世界を私は学んだ。言葉は人と人を単に繋ぐのではなくそこには常に切断と距離があることを意識させる道具だと思う。
なんかこういうことがわかるようになって思考パターンというより軌道が変わったというのが私の訓練のリアルでしょうか、ということを話せばいい気もしてきたな。外側に現れたものとしてはこれこれこれで、全部後付けではあるが実感としてたしかなのはこれでおそらく当時の私はこうだったのだろう、みたいな。まあ、いろんなことが起きるしふたりで起こしていけるかどうかなんだろうね、という感じかな。今日も長いぞ。がんばろう。