鳥が鋭く鳴いている。元気かな。今日もいいお天気?昨日、2日もいいお天気だった。元日は初詣に行った神社で初日の出をみた。本来なら地平線や水平線にみる1月1日の太陽のことなのだろう。なので少し昇ってしまった太陽だったけどみんなで歓声をあげるほどきれいだった。空に馴染むまでみんなの顔が赤く照らされていた。朝の太陽はみんなよけないのね。元日も陽射しが強くて前にいたカップルはストールで遮っていた。私もずっとキャップをかぶっていた。
おせちも分けていただいた。紅白かまぼこ、伊達巻、昆布巻き、田作り、手綱こんにゃく、里芋、きんぴら。紅白なますと黒豆は今年はいただかず。みんな食べたいもの、作りたいものだけでいいのだ。おやつにはレトルトのぜんざいと薄いお餅をもらっていたのでそれを。お休み中はなんでも特別特別と思ってクラフトビールも色々試した。親戚の子がまだ小さかった頃、私たちが遊びにいくと「特別」と言って好きなもの三昧していたことを思い出す。親から何か言われるのを見越しているのね。親たちは「特別?」と笑っていた。特別な日をいっぱい作ってあげたいし自分にも作りたい。そのために地道に習慣を続けていく。
習慣には趣味も含まれているがライブや演劇は普段はなかなかいけないので主に配信。美術館とかはちょっともったいないなと思いつつ自分の時間に合わせて動けるから行く。配信はみたいのがたまっている。タロン・エジャトン主演のApple TV+のリミテッドシリーズも見たいが入っていない。Netflixでやってくれないよね、だからリミテッドなんだよね。限界は大事。有限性あってこその趣味。休みだって終わるから楽しいんだ。でも、となる。「グッド・ドクター6」もU-NEXTでやっているがこちらはNetflixでやるのだろうか。優先順位大事。
私は水族館が好きで先日も行ってきた。特にこだわりがあるわけではないのだが各地の水族館にはその土地にしかいない魚がいるので面白い。イルカはどこにでもいるがイルカショーとなるとだいぶ違う。イルカの学習能力については昨日少しベイトソンの学習理論で触れたが(触れたか?後で確認)体重とかも違うからそれぞれやりやすい技も変わってくるよね、など思いながら訓練士さんとのコミュニケーションを見守ることが多い。聴覚や視覚の違いとかも気になる。ショー自体よりショーの前のリハーサルとかショーが終わった後のイルカの様子をじーっと観察することが多い。聞いたり調べたりすればいいのだが答えが知りたいわけでもない。しかし、なんとなくじーっと見てると係員さんの方から声をかけてくれることもある。先日はタツノオトシゴが元気いっぱいのお魚(名前を忘れてしまった)に餌を取られてしまうのをどうなることかと見守っていたら係員さんが動きがゆっくりのタツノオトシゴのことを教えてくれた。元気いっぱいのお魚のこともちょっと困った顔をしながら愛おしそうに話してくれた。この水槽の子たちをみんな大切に思っているのね、と思いながら聞いていた。餌を取られてしまうとしてもいろんな種類のが一緒にいた方がいいのかしらね、とまたベイトソンのことを思い出す。
『精神の生態学へ(下)』(岩波文庫)「クジラ目と他の哺乳動物のコミュニケーションの問題点」は討議の記録なのだがベイトソンの言葉に同意する形でレイ博士がニューヨーク水族館でのシロイルカの観察について話す場面がある。彼はそこでイルカが水槽の中で退屈しないようにする工夫として次のようにいう。気に入った箇所なのでメモをしておいた。
「イルカをいじるというのではなくて。干渉されるのは嫌いますからね。そうではなくて、たとえば、違った動物を連れてきて同居させてみるとか、ちょっとした気の利いたことをわれわれがやってみせるとか、そうすれば、連中ももっと反応してくるようになると思うんです。今のままだと、檻の中のサルと同じで、高度な知能と営みを持ちながら、鈍い動物として暮らすよう強いられてしまうことになる。」
「ちょっとした気の利いたとをわれわれがやってみせる」。これ非常に大事。なにが気が利いているかは観察ありきだが。「違った動物を連れてきて同居させてみる」というのはタツノオトシゴと元気いっぱいのお魚を同居させることと似ているかもしれない。別にそれでタツノオトシゴの動きが早くなって確実に食事にありつける、とかそういう目的のためではなくて。うーん。今赤ちゃんのこととか戦時中のこととか色々思い浮かんでこういう説明はそれこそコンテクストが共有されていないと議論になりにくいんだよなあ、と頭の中で頭を抱えた。
今日もいい日でありますように。