カテゴリー
精神分析

クドカンドラマをみたり、土居「甘え」を忘れていたり。

昨日は草むしりはマメにすべきだ、ということを学んだ。これまで何度も学んだはずだが、いまだこうなるということは学んでいなかったのだろう。同じ花を植えていたはずなのに、プランターによって根の張り方がまったく違うのはなぜだ。耕すのに苦労した。山椒の木の枝を切るときほどではないが、エネルギーを使った。筋トレ効果もここには発揮されず。筋トレの効果もここでは発揮されず。生活のなかで筋トレの効果を実感するのは、転ぶ回数が減ったことくらいか。山に行くと特にそう感じる。

クドカンのNetflixシリーズ『俺のこと、なんか言ってた?』にでてくる時代劇とかみてるとやっぱり殺陣かっこいいなと思う。ああいうのができたらいいのに、と思うが、生活上、そういうシーンがないし、あっても困るかもしれない。

土居健郎「甘え」論文を書こうと思っていたが、いろんな種類の忙しさにかまけていて何も書いていない。その間に、村上龍が死んだ。妙木浩之との対談を思い出し、やっぱり土居の「甘え」は母子に密着しすぎだろうと思い、やる気をなくした。

妙木先生には『父親崩壊』という本がある。村上龍との対談でもその本が話に出ていたように思う。中身はよく覚えていない。けれど、妙木先生が『父親崩壊』という題で本を書くことには、それまでの日本の精神分析への、ひそかな(たしかな、かも)アンチテーゼみたいなところがあったのではないか。私の曖昧な記憶のなかでは、そういう雰囲気がある。

それで、母子関係のモデルに根ざす「甘え」の理論に、どう父親を登場させるかと考えたら、あまりに難儀で、だんだん興味まで薄れてきた。でも、そのおかげで学会の教育研修セミナーの発表原稿はなんとか書けた。父の不在というのはずっと現代的なテーマだから、そこからなら書けるか、と思ったらなんとなくできた。人は不在をどうにかして生き延びてるからね、という大きなことを小さく書いた感じか。

なにかができなくてもなにかはできているもんだ、と楽観的にやってきたが、論文はそういう態度では書けないものね。向いていない、とかいって書かないわけにもいかないし。なによりも臨床の合間にやるには切り替えがきかなすぎる。精神分析臨床は言葉を個別に使っているし、いろんな方向に気持ちが揺さぶられて言葉にならないことも多い。言葉の世界にいながら言葉を使えないのはまずい。方法を考えないとなあ。

とりあえず「甘え」は脱錯覚予防になるという点でやっかいだからそれを精神分析的に使用するなら、それを単なる依存欲求の現れとして捉えることはできない。IREDにもそう書いてある。

あー、俳句の締切も着々と近づいてきている。どうにかせねば。好きだからなんとかなる、といかないのがつらい。

今日の東京はそのうち雨が降るみたい。今も十分そんな感じの空。いい一日になるといいですね。がんばりましょう。

もう咲いてた。