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精神分析

可能性待ち

10月になってようやく「ちいかわ」をみはじめた。私は、話題作とか流行に疎いので、これまでも大抵のかわいいものたちと出会い損ねているが、ちいかわ、本当にかわいい。お菓子も酒の肴もいっぱいでてくるところに親近感がわく。かわいいのか怖いのか気味悪いのかわからない相手を討伐して報酬を得る設定はシュールだが、ちいかわとハチワレが色違いの武器でポーズを決めているのはかわいい。みんなかわいい。危険の多い世界で、基本、のんきで優しい。そんな10月も今日で終わる。

頭を切り替えて、次の仕事に取り組まねばならないが、どう切り替えていいかもわからず腑抜けている。

で、平井靖史さんの本をまた読んだりしていたわけだ。前に、平井さんと小倉拓也さんが小寺学際的WSにゲストでいらしたとき、私が、質問で、人がふたりいたらどちらかが能動性を全く発揮できないこともあるんだ、というようなことをいったのだけど、それによって私がなにをいったのか、という肝心なことを忘れてしまった。

精神分析で、分析家の能動性といえばフェレンツィだが、フェレンツィのはフロイトの受動性に対する能動性。受動性はそのままいればいいだけ、というか、それがいかに不可能かという中立性と似たような言葉だと思うけど、受動的でいることで生じる動きとか開かれる可能性とかがあるわけで、そこから動くかどうかというより、動いてしまうときになにが起きているかの吟味が肝要になって、能動性って本来そんなコントロールして発揮できるものではないだろうから、やっぱりそれを意図的に発揮できるものかのように持ち込むことって無理がある気がする。

私はネガティブケイパビリティという言葉がケアや絆や、なんだっけ、ほかにもあったな、ほかのいくつかのメジャーな言葉と同じくらい苦手。用語を使うときにネガティブケイパビリティは発揮されないのだろうか。

精神分析が意義深いのは、長い時間をかけて、その人がその人だけの言葉をいつのまにか話すようになるということだと思う。これは、当然、外国語を話せるようになるとかではなくて、語彙としてなにもかわらなくても、その使われ方が自分の情緒や状態や思考を開いていくようになる。ようやく自由連想が可能になるといえばいいのかな。本当に苦痛の多い作業だけど、そのプロセスで「え、私、そんなこと考えてたんだ」「私、こんな言葉使ったことないのになんでだろう」「なんで今急にこのこと思い出したんだろう」とか自分の知らない部分が駆動される感覚を新鮮に思えれば、そういう自分の可能性として賭けたくなるのではないか。私はそうだったな。少ない持ち物でもなんかあるだろう、今日も今日とて可能性待ち、くらいな感じでやってきたのかもしれない。とか書いていると「知らんけど」と普段使わない言葉が浮かんでくる。しかもそれのメジャーな使い方をしらない。

朝から適当なことを書いてしまった。再び眠気が襲ってこないうちに次のことしよ。切り替え切り替え。今日は気温あがるみたいだけど朝は寒い。昨日ほどではないけど。寒さのほうが暑さよりもちょっとした差を口にしたくなる気がする。一緒に空をみあげてれば「さっきまで晴れてたのにねー」「ねー」と通じるけど。

今日も空模様にあれこれいいつつ「なんとかなれーッ!」(ハチワレ)と願いながらがんばろう。良い一日になりますように。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家