来月はお世話になっている先生のお誕生日。お祝い句をお送りすることになったが、果たしてお祝いの気持ちを句にのせられるだろうか・・・・
ことばに気持ちをのせることは本当に難しい。自分が言葉を話すときもそうだし、相手の言葉にのせられたそれを受け取る場合もそうだ。私たちは大抵、言葉を字義通りに受け取ることはせず、無意識の文脈にのせてそれらを変形する。話し手と受け手の双方がそれをする。宛先がないとしても言葉はひとりだけのものではなりえない。
昔、鍵のついた日記帳を使っていた。簡素ですぐ外れるような鍵だった。でもとても気に入っていた。「ひみつのノート」を作っている子もいた。ノートの表紙にそう書いて。自分だけの秘密のノート。誰かを想定しているから「秘密」は生じる。
松田聖子の「秘密の花園」を思い浮かべた。80年代。カセットテープに秘密を吹き込んだ思い出のある人もいるかもしれない。好きな子のために夜通しカセットテープにダビングを繰り返した人もいるかもしれない。たとえ口下手でも音楽なら率直に伝えられる。「どうしてこの曲?」と相手が思ってしまう場合もあったかもしれないが(もはや笑える思い出になっていることを願うが)。
SNSで一方的に知っている立場から投げかけられる攻撃的な言葉、あれはなんなのだろう。たとえ本当にそう思ったとしても秘密にできないものだろうか。投げてしまうことで、自分から放してしまうことで自分の内側は少し楽になるのだろうか。画面上で削除できても人のこころはそうなっていない。痕跡が残る。
お祝いの一句。攻撃の言葉よりずっとずっと難しい。プレゼントを買うときのように数えきれない言葉から17音を選びとる。困難で幸せな時間だと思う。
お互いのこころで紡がれ編まれる言葉。今日がよい1日でありますように。