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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析 言葉

9月27日朝。

キッチンで色々しているうちに空の青が薄くなってきた。きれい。54袋入りの麦茶が消費できていないけれどこれは2巡目なのかな。8月初旬に青森に行く前から作っていたと思うのだけど、と書いていたら「あ、これ2袋目かも」と思えてきた。前に空になった袋に別のゴミを入れたイメージが浮かんできた。青森、楽しかったな。猛烈に熱くて猛烈な陽射しでまだ日焼けの跡がくっきり残っている。最終日に行政の方にたくさん説明をしていただいた八戸ブックセンターでは24日(日)「本のまち八戸ブックフェス2023」が開催されたとのこと。私も知っている関東の出版社も参加されていた様子。会場はこの八戸ブックセンターと「八戸まちなか広場マチニワ」「八戸ポータルミュージアムはっち」。街づくりの時にこれらを拠点として街をぐるっと回れるように設計したというのも聞いた。私たちは何も知らないままそれらをぐるっと回ってブックセンターに到着したので街づくりは成功している。

あ、雨だ。さっき天気予報をみて朝だけ少し雨マークがついていて「ふーん」と思っていたら本当に降った。降り込んではこなそうだから窓は閉めない。鈴虫が遠くの下の方で鳴いている。水平線を想った。空はもうだいぶ明るい。

別のところにも書いたが、人の心を殺して身体を傷つけるような人でも外では優しく穏やかに軽薄なおしゃべりをしながら快楽優先で過ごすことは当然ありなのだが、知識があったり書くのが上手ということだけで臨床の知にまで踏み込んできたりするのは厄介だなと思う。もちろん賢い人の行動よりお言葉のほうが関係のない人には貴重で、知的な部分だけで「学際的」であることも大切かもしれない。でも、現場での搾取や現場でトラウマが作られる可能性に言及するのであれば、同時に、法的にも規約的にも規制されない部外者をお友達感覚で現場に関わらせて消費者からお金をとることについても鈍感であってはいけないのではないか。少なくとも人をモノのように扱う人に自動的に書く場が与えられているのをみると世の中の仕組みだなあとうんざりする。見えない暴力は蔓延るばかり。現場を守る環境を壊す仕組みを見ながら現場で仕事をするというのは不毛だが不毛さから何かを見出す仕事だから無思考にはなりたくない。そんな社会でも自らの思考や心ある身体を守ろうと思う人は患者としてやってくるだろう。すでに傷ついた心身と共に。言葉と力で言いたいことだけ押し通そうとしているだけの人を見破ることはできなくても戸惑いや疑惑を感じたら相談する場と出会ってほしい。背中を見せれば触ってもいいと思っているような人たちは現実にいる。一度受け入れれば何してもいいと思っている人も現実にいる。自分の暴力性もナルシシズムも否認して相手が悪いとする人に効く治療はあるかもしれないがないかもしれない。そういう人が治療を自ら求めるとしたら自分が相手にしたことを自分が体験したときかもしれない。やはりこの仕事は傷ついた人たちに向けられているので弱い立場の人の声をかき消すような構造や仕組みに対してできる抵抗を考えないといけない。専門性はそのためにあるのだろうから。

今日こそ地道に。コロナもインフルエンザも流行っているようなので皆さん、どうぞお気をつけて。体温調節も難しいと思うけど脱いだり着たりできるようにしましょう。

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コミュニケーション 音楽

「博覧強記」、継続、音楽。

地震か。Yahooの地震情報によると震源地は宮城県沖、最大震度4、マグニチュード5,5とのこと。東日本大震災以来、ずっとこの地域で大きめの地震が続いているように思えてしまうのは果たして気のせいだろうか。震災の2ヶ月後から郡山、石巻、南三陸、相双地区、塩釜などいくつかの被災地に行ったが、そこで見たり聞いたりしたものが地震のたびに最近のものとして蘇り続けるからだろうか。とにかく起きたとしても再び眠ることができますように、被害が出ないように、と祈るばかり。

外では夜明けに向かうまだ暗い空の中、カラスが大きな声で鳴いている。小さな声を出すこともできるのだろうか。

私は「博覧強記」という言葉をSNSやある言論プラットフォームのおかげでたやすく信じることをしなくなった。「おかげ」というのは変かもしれないが今のそれは特に人間性と関係していない薄っぺらいものであるという認識ができたのでこの言い方にもなる。優しく穏やかに嘘をつきホモソーシャルな基盤(「つまりオレ」と心で呟く、みたいな)に貢献しない女を見下し、時には実際に傷つけながらなんか哲学っぽいこと語られても、という話でもある。SNSとコロナによって「博覧強記」さんたちの棲みつく環境は豊かになった。傷つけられた人たちの記憶が薄れる機会も奪われた。トラウマの時代は回復を見込めなくなりただ生き延びることを迫られるようになった。それについてなんか偉そうなことを書いたりするのもそういう人たちだったりする。救ってくれると思った場所も地獄だった、みたいなお話が古びないのはそれが現実だからだろう。

さて、週末は個別的で特別な対話に時間を割いた。アセスメントと「最低限のことをやっていく」ということについて。この仕事はこの二つを継続的にやっていくことで、それを可能にするのもこの二つを継続的にやっていくことなのだが自分のしていることの公にはしない部分の言語化も必須。言葉だけならなんだって言えるのは最初に書いた通り。

音楽もたくさん聞いた。昔からの友人にたくさんの音源を聞かせてもらったり由来を教えてもらったりもした。そしてnoteにも書いたが子ども世代と音楽の交換のようなこともした。ジョン・バティステも聞いているというAdoの新曲DIGNITYは稲葉浩志作詞、松本孝弘作曲でいかにもB’zで切なくドラマチックだった。Adoはいろんな声を出せる。Official髭男dism、Mrs.GREEN APPLE、back number、GReeeeN、藤井風、優里などを聴き比べながら私の世代の音楽と重ね合わせて紹介したりした。

今日もどうなることやら。防衛と武装などせずにいられたら楽かもしれないが人の心は勝手にそれらを必要とするので過剰さにだけ気付ければよいがどうなることやら。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

反転、バウンダリー

人って簡単にこうなる。やってること変わらないじゃん。反転反転反転。どちらにも転ばず両面見せながら人を憎まずやっていくのはそんなに難しいことだろうか。そもそも憎むほど愛してる?もしそうなら体を張れるのでは?なんの覚悟もなく女のおいしいところだけ使う搾取男を「賢人」とか「知の巨人」とか簡単に言い換え虚像を実像にたやすく変換できるSNS時代、だらしない身体は快楽のためにはがんばるがその時間が過ぎればすぐしんどくなる。自分を気持ちよくさせてくれる人以外に心を動かすのは負担。女も男も公私混同で共謀する、様々な形で。バウンダリーの問題は難しい、と外国の人とも話した。あれこれの事件も起きるわけだ。自分を部分ではなく全体としてみてくれる人たちと今日も一日。

https://note.com/ami3note/n/na7eaf5e3366a?sub_rt=share_pw

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コミュニケーション 精神分析 読書

問う

問われることを極度に嫌う人が問いを大切にするのはなぜかという問い。問いって本当に終わりなきもの。一問一答が見えなくしているものについてはこの前のグループでも話し合った。一問一答で問いを狭め仮の答えを欲しがっているとしたらそれはなぜか。こぼれ落ちるものが増えるだけとわかっているのに余計なことをしてしまうのはなぜか。子供といると「なに?」「なんで?」とよく聞かれる。泣き叫ぶ赤ちゃんにこれかなあれかなと何かを提示しても泣かれるばかり。なすすべなしと「うんうん、やだね、泣いちゃうよね」と抱っこしていると指しゃぶりを始めたりさっき拒んだおもちゃを気にするそぶりを見せたり。答えってなんだろう、と問いはいくらでも出てくるが答えってなに?「適応」ってなに?というのもよくある問い。誰に?何に?あなたに?社会に?あなたが社会ってやつ?「逸脱」ってなに?何から?どこから?あなたのルールから?お互いにお互いのこと考えたらそんなに差はできないはずだよね。いろんなことは差異で語ってるんだよね、私たち。みんな違ってみんないい、とか悪いとかではなくてとりあえずみんな違う、ただそこからなんだよね。違う?永遠に問いの型にすることはできるのだけどどっかで答えを決めたいね、仮でいいから、という場合もある。同じ、違うというマッチング課題は具象と抽象の行き来を見ることもできるけどずっとそこでゆらゆらしていられないことってある。朝がきたら仕事行かなくちゃ、学校行かなくちゃ、とか実際それをするかどうかはともかくなんらかの「次」っていつも準備されていてプレシャーをかけてくる。身体を自由に動かせなくなってしまった人と目で話す。これ?こっち?次は?これ?・・・と繰り返す。目の光を追っているような気がしてくる。それがいつの間にか言葉になる。できるだけ言いたいことと近い言葉でありますように。願いながら問い、仮の答えを探し、それを繰り返しなんとなくのまとまりを一緒につくる。言葉にならないものが言葉になっていく。それが正しいか間違いかはともかくとして。「クィア・アイ in Japan!」の印象的なシーンを思い出す。プライベートな関係は外からは見えないもので溢れてる。だからプライベートなわけで自分のあり方に侵入されない場所がないと人は壊れてしまう。ウィニコットのいう「孤立」がありうる場所を。問いの基本は相手がいるということ。=言葉があること。耳が聞こえない親である斎藤陽道さんご夫妻と子供たちの関わりを描く斎藤陽道さん原作のNHK Eテレの手話アニメーション「しゅわわん」で斎藤さんが「好き」という手話の起源を考えるシーンがあった。人はなぜ起源を考えるのだろう。なぜルーツを探るのだろう。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)の著者は流刑地を辿りながら追放された3人が見たであろう「陸の端とその先の果てしない海」を眺める。そして自分がここにいる理由を見出す。「存在するものはすべて、なんらかのかたちで痕跡を残す。(中略)ここでは、ほかの場所では不可能なかたちで、その人たちを取り戻すことができる。」私たちは、相手や別の可能性を想定する問うという行為を言葉以前からしてきた。ウィニコットのいう「孤立」はその源泉なのだろう、ということに仮固定しておく。そして次へ。きっとまたここへ。その繰り返しを問いとともに。今日はお休みの人も多いだろうか。すでに暑いけどどうぞお気をつけて。お大事にお過ごしください。

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コミュニケーション 短詩

除湿、イベント、コロナ禍

湿気がすごい。除湿を除湿のためだけにつけたがやっぱりちょっと寒くなってすぐに消した。この部屋のエアコンは冷房除湿と衣類除湿とただの除湿がある。もう15年くらい使っているエアコン。リモコンに「エアコン」と書いてあることをさっきはじめて意識した。「あれ?これなんのリモコン?」ってなってしまう人がいるからかな。いないか。「温度」とか「除湿」とかいかにもエアコンらしい文字も書いてあるわけだしね。

昨年8月、東京公認心理師協会の地域活動に応募して松岡宮さんと心理士(師)向けのイベントを行なった。人数が少なかったおかげで本音をゆっくり話せる充実した時間になった。本音かどうかは本人が話してみてから「あー今日はなんか本音を話してしまった気がする」くらいな感じで認識されるものだろうからわからないけどそれがどのくらい建前っぽくないかはこの仕事を長くやっていれば人よりはわかると思っている。今年も松岡さんがお誘い待ってますとメールをくれた。毎日をなんとかやり過ごしている状態だったので自分からなにか企画するという行為自体忘れていた。やるなら夏休みだからそうしたらそろそろ企画出さねばじゃないか。

とまで書いていろいろ家事してきた。ハーブティーもいれてきた。雨の匂いも嫌いじゃないけどいっぱい降ってるとそれどころじゃないしね。

誘われればあっさりやる気が出て「コロナ禍を振り返る」にしようと返信。8月6日(日)10時からの予定。企画書書いたからそれが通れば今年も東京公認心理師協会のイベントになるし、通らなくても私たちのオフィスが主催するイベントということでやればいい。お互い個人で開業しているからそういうところが楽。

コロナ禍はすでに遠いだろうか。マスクをしている人はまだまだ多い。私もしている時間が長い。それでももうこの三年間はすでに遠い感じがしないだろうか。コロナ禍初期、これが過ぎた後のことをここに書いた気がするがこんなに長い期間になるとは思ってもいなかった。私はこの間、人間の本当にいやらしい部分に触れたようなこともあったがこのネット社会ではむしろそういう人がプチインフルエンサーとして信頼を損なわずに生きていけることも知った。理不尽な現実をいろんな書物の言葉を借りて説明できる人は理不尽なことをいくらしても「現実はそういうものだ」といえる強さがある。心身の搾取をしても事件化されなければさせたほうが悪いくらいの勢いで黙らせておしまい。それが現実、現実は理不尽なんですって。実際に身体に触れるような関係での振る舞いは外からは見えないけど外向けの言い方書き方振る舞い方が上手だとなんとでもなる世界があるらしい。コロナゆえの理不尽な出来事も多かった。東京に住んでいること自体が問題にされたことがこれまであっただろうか。昨年の松岡さんとのイベントでは「地域」という境界がいかに恣意的かとピキッとしたという話もした。今年もいろんな実体験を共有できたらと思う。

昨年はその一週間後に川柳作家の暮田真名さんをお迎えしたイベントも行なった。これも参加者に大好評。川柳のおもしろさは教える形式ではなく対面でまずは作ってみるところからなのだろうと思った。その後も暮田さんと親しく話すなかで昨年のイベントは楽しかったなぁ、と言ってくれたのでまたやろうかね、ということになった。日程はこれから。今回はやはり仲良しの蒼海俳句会の千野千佳さんもご一緒にみんなで駄弁ろうかということになっている。先日も伝えること、教えること、売ることにおける美意識というような話をしたのでそんな感じで。

楽しいイベントを楽しく過ごすために着々とやるべきことをこなしていかねば。毎日そう思いながら何も進んでいない。まずい。美味しいものを食べてもこの不味さはどうにもならないけどこれは理不尽でもなんでもない種類のものだから苦しまずにやりましょう。今日は足元気をつけてお過ごしくださいね。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 散歩

女王様のおやつ、工場見学、消しゴムマジック

今朝は群馬県高崎市に工場があるガトーフェスタハラダの群馬限定ラスク「グーテ・デ・レーヌ キャラメルショコラ」をいただきます。高崎市にある珈琲屋さんのコーヒーと。さて女王様のおやつ、とのこと。なるほど。ゴージャスな作り。なんでこれが群馬限定販売なのかな。普通のグーテ・デ・レーヌもあるんだね。レーズンサンドと合わせてるんだ!美味しそう。ぐんまちゃんのイラストが描いてあるわけでもないしなぜだ?まんまと買ってしまったではないか。おいしいからいいけどさ。ここは工場見学にいくと生ラスクも試食させてもらえるの。これがとっても美味しかった。生ラスクって言い方でいいのかしら。まだ少し柔らかくて表面にお砂糖だっけな、それをその場で炙ってくれてすぐいただけるのです。飲み物つきでいただけるスペースもきちんとあるし。県民としてはこんな田舎へ誰がくるのだろう(私は行くよ)と出かけた工場見学だったのに混んでたー。特にショップ。工場をまじまじと見学しているのはわたしたちくらいだったけどね。工場見学ってとても面白い。小学生の時に行った前橋市六供の清掃工場と下水処理場の中身は覚えていないけど温水プールとのセットでその仕組みとか感動した。あの辺は遺跡も多くて古墳みたいなところも行ったな。あとから国立中学附属の小学校はバスで行くんだよ、と聞いたけど確かに私の通っていた公立小学校は子供の足では遠いだろうと今なら思うほどの距離を歩かせていた気がする。ああいう「付属は」みたいな言い方って面白いし変。群馬のお受験なんてそこくらいだものね、受験に対する意識が低い学校でもそういう言葉だけはなんとなく使うようになるのだから面白い。

昨日も寝不足のままうつぶせで倒れこんでいたから顔が変。見慣れない顔になってる。出来事をまるでなかったことにして平然と軽薄でいられるのはなぜかということをここ半年くらいずっと考えているのだけど精神分析のセッションでは瞬間的にでも長期的にでも生じる状態。意識化ということが強調されがちだけど無意識化のプロセスだと思っている。精神分析場面でなくてもDVやハラスメント事案の多くにそういうのって見られるでしょう。そんなことしておいてよくそんなこと言えるよなってやつ。向こうはこっちにそう言わせない圧力をもって「自分のしていることがわかってるのか」とかいってきたりするから怖くて何も言えなくなってしまったり悪循環。誰かを喰い物にしてただの排泄物にしたり詐欺みたいな行動に役立てたりなんにしても「もの」扱いしてしまう心性は相手がいない状態、つまりナルシシズムの文脈が一番語りやすいと思う。相手がいないから平然と相手に押しつけて自分だけさっぱりしてしまう心性。相手のことを人として見てればそんなことはできないと思うのだけどなかなか。最近、写真の編集で「消しゴムマジック」ってあるでしょう。あれを人間関係でやってる感じといえばいいのかな。むしろああいうのは人間の性質がテクノロジー化したともいえるのか。DMとかと同じで一方が消してももう一方のは消せないし、オンラインからはほぼ永遠に相手はいなくならないのでそういうマジックを気楽に使わない方は苦しい。使えない方がいいけどね、魔法的なことは。ドラえもん的なことは。アンパンマン的なことは。万能感はケアとセットならともかく、と思うけど、自分のいったこと、したことは棚上げどころかマジックで一括消去してケアとか環境型セクシュアルハラスメントについて語って賞賛と共感を得てしまう「いい人」でいるとかいう場合もあるでしょ。それってどうなんだろう。そうなりたいわけではない人でも相手を部分的に利用したくなるときはあると思うけど怖さや理不尽さが強烈な場合は問題にしていかないと。自分のせいにすることでなくしてしまわないように。今日もみんなで考えられたらいいですね。

先日、神代植物公園へいったら藤が満開でした。バラ園のバラの蕾もいっぱい。ハンカチの木の花も満開。緑はすでに少しずつ濃くなってきています。少しずつ少しずつ。

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コミュニケーション 散歩 言葉

菓詩、歌詞、葛藤なき世界

朝は少し冷えますね。すっかり寝不足ですが今朝も山梨県塩山のお土産をいただきます。今回は「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」の抹茶のほう。栗を抹茶餡でくるんであります。今日の断面は素朴できれい。そしてこれもほんのりした甘さで美味しい。ただほろほろ崩れやすいのでご注意あれ。包装紙にはキラキラした文字で和歌みたいのが書いてあるのだけどキラキラしてて読めない。少し暗いところ、でも暗すぎないところで見てみましょう。あ、見えた。

志ほの山  さしでの磯にすむ千鳥  君が御代をば  八千代とぞなく

古今集 詠人しらず

だそうです。ふーん。少し君が代的かな。山梨には磯はないから志ほの山ってどこかしら。一青窈のハナミズキ的でもあるわね。「菓詩処 石井」だものね。どのお菓子にもなんらかの詩とか和歌とかが書いてあるのかしら。あとで白あんの方もみてみましょう。大学生の頃、山梨県身延の方の廃校になった小学校で学校に行かない子たちと一緒に生活するポランティアをしていたので塩山は何回も通っている。桃の花といったら塩山のあの景色を思い浮かべるなあ。農園に降りるなり高齢の方が小さなナイフで手早く桃をむいてくれてその場で美味しい美味しい言いながら食べた。手がぬらぬらになるのも外だと気にならないしね。手をきれいにするというところまで混みでむいてくださっていますし。自然の中でいちじくをとったり鳥兜を「触るな」と言われたり音楽室でバンドで歌ったり騒いだり眠ったりシベリアンハスキー2頭の散歩行ったりウサギを校庭に離して草食べさせたり、烏骨鶏の卵をいただいたり。チーコだっけな。とってもかわいいひよこがどんどん大きくなっていくのにはびっくりしたしなんかどんどん立派になって別の世界へ行ってしまったと感じて悲しんだこともあったな。修羅場ありつつ楽しかったけどあんなことよくやってたな。すごい体力。地元の子たちもよく遊びに来てくれた。ちっちゃい頃からよく遊んでいた子に弟や妹ができてたくさん面倒もみた。彼らは別の世界へとは思わなかったな。当たり前か。チーコの世界はどうなっていたのかなあ。かっこよかった。こっちはカラスが鳴いてるよ。こんなとき「君が御代をば 八千代とぞ」とか「君と好きな人が百年続きますように」とかいう気分になるのね。みんなに幸あれと。

そうそう、この前高崎に行ったばかりだからなおさら思い出したのかもしれないけど高崎市山名町に石碑之路(高崎自然歩道)というハイキングコースがあってそこに万葉集の歌碑がたくさんあるの。寂しくて悲しい歌詞が多くてね、山の中で読むとなおさらジーンときてしまうのですよ。

自分のお気に召さないと葛藤するのがいやだからすぐ別の人で代替、補完してしまうような、人を想う余裕などないというか人を人とも思わない人もいるしそういう人でも本の言葉、他人の言葉とかを上手に借りて葛藤について語ることはできてしまう。でもできたら想うこと、想うがために生じる葛藤から言葉を紡げたらいいのではないか。こっちはポイ捨てしたしこっちには上手く隠せてるしこっちは絶対に味方してくれるしみたいな感じで葛藤なき世界を作り上げることはできてしまうけど。葛藤することが実はいかに難しいかはこの仕事をしてればわかる。してなくても体験から知ってるかも。多くの犯罪と彼らの言葉を知ればその極端な例もわかる。そうでなくてもあんぐりしてしまう言い分もたくさん聞くし巧妙な言い回しもたくさん聞く。嫌ね。辛いね。苦しいね。私はネガティブな方に強く気持ちを揺さぶられたらとりあえずじっとする。時間経過でそれがどう変わっていくか観察する。それから表現する、なんらかの形で。直接的にすることもあればただ黙々と不特定多数の相手にそうするだけのこともある。ある事象に関しては即座にパターンとして表出することもある。俳句や和歌にできる人が羨ましいけど自分が壊れてしまわないためにやることは自分なりの形式でやればいいのだろう。

さあ、今日は水曜日。まだまだですね。なんとかやれたらいいなあ。みんなはどうですか。どうぞご無事でお過ごしくださいね。

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コミュニケーション 散歩

カフェとかで

早朝、海外から届いたメールにほっこり。普通の目で見たら昨日は何も進まなかったけどveryスモールステップの目で見たら「そういえばこれをやった」ということをひとつ思い出した。ほっこり効果。暖房をつけると白桃烏龍を飲む前に暖まった。白桃烏龍を飲んだらあっつくなった。朝の気温が上がってきたんだね。

午前中、時間があった日にのんびり散歩をした。道端のかわいい看板に惹かれて入ったカフェがとても素敵だった。隣のカップルはバスで砧公園にいくと言っていた。砧公園は世田谷美術館があるところだけどとても広いし大きな桜の木も何本もあって本当に素敵。この前行ったけど藤原新也の展覧会がもうとっくに終わっていたことに驚いた。私が行ったのは一月はじめだったか、忘れてしまったけどもうあれからこんなに時間が過ぎたのか。

そうそう、砧公園を出て高級住宅街をしばらく歩くとひっそりと社会福祉法人が運営しているカフェがある。私が行ったときはダウン症の方が配膳をしてくれた。「彼の練習のためにお時間いいですか」ととても優しい声の女性に聞かれた。素朴でのんびりした時間を過ごしたけど他のテーブルにコーヒーをおこうとした彼がソーサーを持つ手がどうしても斜めになってしまい「危ない危ない」と言われながらお客さんたちに手伝ってもらっているのをみながら彼が運びやすいカップはどんなのかなあなど考えていた。そういえばお散歩途中に寄ったかわいいカフェのカップとソーサーはとってもおしゃれだったけど色が違うこともあって「これセットなんだよね」と思わず確認してしまった。不器用な私にはよくあることなんだけどこの日もカップの持ち手に指を入れるときに大きくユラってなっておー危なかったーとなった。私に持ちやすいカップ&ソーサーってどんなのだろう。

さあ、今日も長い。みんなはどうかな。それぞれのペースを模索しながら無理せずやれるといいですね。鳥たちは今日もマイペースだなあ。実はそうでもないのかなあ。ではまた。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 俳句

俺俺倫理に抵抗す

鳥が鳴いてる。句友が増えていく。年齢も職業も知らないで俳句を巡ってやりとりしているだけの人も多いがむしろその言葉選びにその人らしさはでているようにも思う。句会はクローズドだけど俳句は誰にでもできるし私がいる句会はどれもとてもオープン。楽しいし勉強になる。

noteで「あれはなんだったんだろう」解明のため俺が倫理みたいな人を取り巻く家族やそこそこ歳をとった永遠少女や飼い犬のことをネタとして書きつけるときはとても嫌な気持ちになる。気持ち悪いパターンが一切変わらないから。一方で言葉豊かな句友たちと話しているといろんなことに気づく。普段使いの言葉で身も蓋もなく景色を描写する。読み方も自由なので自分では気づけなかったであろうことにもたくさん気づく。こんな豊かさを背景に搾取と依存によって退行を維持する人たちのことを考え続ける。考えるのが嫌でというかそのキャパが少なすぎて不快なものはすぐに外に押し付けてしまうのだろうから大人がやるべきことをやりましょう、という感じ。西村賢太みたいに書きたいけど全く無理なので逆に身も蓋もないことを書いて俺俺倫理に身の回りの人が騙されないように注意しないと。しないとってこともないけどこれからを生きる世代がせめて人の身体を弄ぶようなことをしないように、そうされないように、とかすごく最低限のことを考えてしまう。そういうことが普通に起きているから。どんなに知識が豊富で口がうまくても言葉がパターン的で深みがなくなんか自分のことばかりと感じる人と関係が近くなったとき、違和感さえ否認しなければ悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。いろんな要因で自分で自分を騙すことをする私たちだから事態は変わりにくいけどまずは知ることで抵抗、対抗。退行するなら専門家のいる安全な場所で。何がなくともやっていきましょう。今日もどうぞご無事で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

お喋り、バッティングセンター、月曜日

よく話しよく笑った週末だった。大切な話もたくさんできてやっぱりこういう場が大切だね、と頷きあった。話している内容というより話すこと自体の大切さ。「普通」に言いたいことが言えるって当たり前ではないんだ、という感覚はポストコロナという感じもした。コロナ禍における「あれはなんだったんだろう」を相対化できる時期がきたのだろうか。まあしたくもないか。まるでなかったことにして進んでいく世界を前に置いてけぼりの感覚を維持している「あれはなんだったんだろう」状態のまま「人間って・・・」と考え続けるのは私の仕事でもあるし心身を守るすべでもある。「きっと今日もまた」と予想していたくせに傷ついたり衝撃を受けたりする体験に慣れることはないが慣れないことで維持されている自由や倫理だってあるだろう。違和感や不快感を対象まるごとなかったことにして平然と口にされる自由や倫理なんてそれこそ不快だけどそういうのに蝕まれながらもなかったことにだけはしないということも大切だろう。

久しぶりにバッティングセンターへいった。ゲーセン兼バッティングセンターだけどゲームをやりにここにくる人もいるのだろうか。バッティングの合間とか待ち時間にやる人の方が多そうというかゲーム台の前の椅子に人はいてもゲームをしている人はあまりいなかった。バッティングは二打席目はそこそこ当たったがなんかもう姿勢とかもろもろどんなだっけという感じだし腕がすぐに疲れてしまってそのあとやったストラックアウトなんてバウンドした球で2枚抜けただけだった。球技全般得意だったのなんてもう遠い昔のこと。身体がバキバキだ。そうでなくても加齢による身体の悩みは増えるばかり、と同時に同年代のみんなの共感と持ち寄られる情報の質は高まるばかり。不注意による怪我の多さとかはほとんど共感を得られなかったけど。バッティングセンターは自打球にさえ気をつければいい狭くてやることがシンプルな安全空間だから私には向いてる。常に運動不足だからまた行こう。東京は水曜から雨だって。雨の日でもバッティングセンターなら行けるね。時々こうしてバッティングセンター熱が高まると歴史とかも気になってきて「バッティングセンター 歴史」で検索してみた。やっぱり調べてる人っているんだねえ、何事も。『日本バッティングセンター考』(カルロス矢吹/双葉社)という本が見つかりましたよ。本紹介を読んで全国のバッティングセンターにいってみたくなった。今度旅に出るときは必ずその土地のバッティングセンターやそれっぽい娯楽施設をチェックしよう。これまでの旅を思い返しても田舎の3,4,5階くらいの総合スーパー的な施設のぽかーんとしたスペースに卓球台があったりしたもんな、そういえば。もちろん見つければやる。卓球もバッティングと同じで娯楽とトレーニングの境界が薄い気がする。たまにめちゃくちゃ上手い人が打ち合ってたりするもの、そういうスーパーの一角で。温泉卓球とかもそうね。

とか書いてるうちに月曜日、という言い方も変だけど休みはおしまい。「きっと今日もまた」という失望や絶望に沈んだとしてもいずれ回復できるようにこころの隙間を残しておけるといいですね、お互い。とりあえず今日をご無事に。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析、本

プリズム、やり直し

鳥が鳴いてる。カーテン開けられない。飛んでいっちゃうから。でもカーテン開けないと見えない。生活はジレンマだらけだな、とか急に大きそうなことをいってみる。鳥の世界の方がずっと広くて大きいけど。

すぐそばでスズメの大きな声がした。一羽じゃ出せない大きさ。『スイミー』(好学社)を思い出した。そっちの方を見上げる。いた!小さな木にいっぱい止まってる。一緒にいた人は最初気づかなかった。まさかこんないっぱい木と同じような色したのが止まってるって思わなかったみたい。毎日そこがねぐらなの?こんなに風が強いのに一晩中そこでそうやって丸まって寝るの?大好きなスズメのことも全然知らない。

まさかこんないっぱいいるとは、そうなんだよね。こっちは大体いつも同じ目線でしかものをみてないから向こうにとっては当たり前のこともすごく新鮮でびっくりちゃうことがあるんだよね、という話もした。よくよくみるように知るようになってから全然見え方が変わったものや人について話し、話しているうちにそのものや人のことをもっと共有したくなったといって色々教えてくれた。私は私でまた別の印象を持つわけでそうするともっとそれらについての見え方って変わる。プリズム♪YUKIの曲、よく歌ってたな。

♪いじわるな人がとやかく言うけれど 私は、どこかでまちがえたかしら?♪

今日はまちがえないぞ。この前すっぽかした予定を移してもらったの。すっぽかしたのだから移してもらったとは言わないか。すっぽかすつもりはなかったのだけど。すっぽかすつもりですっぽかす人だっているでしょ。日曜日に何も予定がない日はないはずなのにその日は「何もない!」と勘違いしてプチトリップに行ってしまった。そしたらLINEが。がーん。アイフォンに入ってない。入れたはずなんだけどなんかアイフォんのカレンダーに同じ予定が二重で出ることがあってその一個を消すと両方消えちゃうみたいなの。どうして?同期の問題?動機の問題?いやいや。だっていつもすごく楽しみにしてる予定だもん。そこでやり直しの機会をいただいたわけです。ごめんね、みんな。お詫びのお土産あり〼。お詫びのお土産って言うのも変か。でも本当ごめんよ、ありがとう。

昨日も海外でトレーニングしている友人からのメールでさ、とまた私側の忘却による不義理があったわけですが何度でもやり直せる関係の相手だからきっと大丈夫。ごめんなさい。

やり直せない関係は自分か相手が死ぬ場合以外、本来あるのかしらね。コミュニケーションを断たれることはやっていきたくないというコミュニケーションだからやり直す以前。基盤が壊されてしまうわけだから。やり直しには共有された何かが必要だものね。精神分析の防衛機制の分類は本当に有用。そういう分類でも使って仮の理解しなくちゃ耐え難い心ない反応にもたくさん出会うものね。こころが壊れないように、殺されないようにできることを実際に死にそうな人たちと一緒にいて自分たちが共有できそうなのは言葉だから言葉中心にできることを探って作り上げてきた治療文化を外側からわかったように語る人もいるけどそれはそれでコミュニケーションする気がないというか知的に素早くコミュニケーションできる人としかコミュニケーションしたくないとか色々あるのかしらね。私はコミュニケーションは時間をかけて続けていくものとしか思っていないので「正しさ」について何かいいながら何かの方法を「これぞ正しき方法」みたいに教えている人とやっていくのはいまのところ難しそう。どんな丁寧な物言いでどんなに信頼されていても陰で人を切り捨ててるような人がそういう教えによってお金をもらっていたりもするわけで、でも現実ってそういうことに溢れてる。教員のセクハラとかもそうだろうし。私たちの仕事だってある人にはこうである人には全く別物だろうし。だから実践を通じて訓練するわけだけど。ほかの人にいっても「まさかあの人が」と一面的な見方しかしてもらえず偏った聞き方しかしてもらえないようなコミュニケーションは死にたくなるほど苦しいしそうやって傷ついた人たちと関わるような仕事だから今日もいいとか悪いとか正しいとか間違ってるの前に何度でもやり直せるための条件について考えましょう。それを壊してくる圧力や暴力のことも同時に。

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ガシャーン

コーヒーで熱くなったので今日も寒いらしいことをすっかり忘れて薄着で出ないようにしないと。一度出ちゃうと振り返ればうちだとしても戻るの面倒になって「ま、なんとかなるか」と駅くらいまではいいけどホームで「やっぱりもっと着てくればよかった」となることを何度もしているのだから学びましょう。今日も着膨れていこう。外の世界は春の季語だらけだけど私の身体はまだ冬の季語だらけ。

この前、3ヶ月後には2歳になる子とたくさん遊んだ。ひらがなとか数字に合わせた絵が描いてある正方形の積み木を横に積み重ねるのではなくて縦に重ねていたらその子もなんなくその上に重ねはじめてみんなでびっくり。みんなで手をたたいてすごいすごいとするのを見上げるがその子はそれを偉業とは思っていないらしくクール。一方、積み木が崩れたときの興奮は素晴らしくかわいらしくみんなで「ガシャーン」と言いながら口に手を当ててびっくりするポーズを何度も何度もやった。絵本の蝶々の片方の羽を引っ張ってちぎってしまったときはびっくりしてしばし思考停止していたようだったのに積み木に対しては崩し残した積み木も手ではらいのけ完膚なきまで崩してから例のポーズを楽しく繰り返す。大人でもひとつひとつの仕草とかいろんな特徴を知るのは楽しいけど小さい子のには驚かされることばかり。自分も通ってきたはずなのにね。

本当に毎日色々あるけどなんとか過ごそう。まずは忘れずに暖かく!

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

子育てとかこれとあれの違いとか。

小さい子と遊ぶとそれ以外のことはなにもできなくなる。子供1人で大人が3人以上いればひとりが遊んでもうふたりがしゃべっている時間もあるが結局全員の注意は子供に注がれている。楽しくて楽しくてなんとか眠らないようにいろんなことをする子供がおかしくてかわいくてみんなで笑う。ようやく腕に抱かれて眠りそうな子供のそばであとのふたりは声を潜める。小さな身体でチュパチュパと音を立てながら眠りに落ちようとする姿に懐かしさを覚える。懐かしいと愛しいはセットで生じる。子供がいる大変さを語りながら子供に時間をとられながら子供と一緒によく笑い子供の仕草に驚き発達を心配し「そうか」と何かを発見しということを子供のそばで繰り返す。自分のしたいことすべきことは全く進まない。それでもなんとか進める。大変としか言いようがない毎日だがそれはネガティブな意味だけではなくとにかく予測不可能だということが想定される毎日だからだろう。私は子供と関わるのは仕事でも趣味でも生活でもあるのでわりと役に立ちありがたがられるしいろんな親たちといろんな子供と遊びながら話をしてきた。子育てを語るというより子育てをしているその人が語ることはそばにいる子供の語りでもある。彼らの親の語りでもある。ひとりの人に生きている歴史、生きようとされている歴史、そういうのが大切にされればいいなと思いながら話を聞く。当事者として語ることと第三者として語ることは当然異なる。当事者のくせにあっという間に第三者として語れてしまうこともある。子育てをしている人にはそれができない。だからきついということもあるだろう。なかったことに、いなかったことにできたらどんなに楽か。負担を引き受ける方の願いは大抵望ましくないものとされる。おかしなものだ。どうして自分だけ逃れらられると思ってるんだろう、実際逃れられてしまうのだろう。前者は個人の問題で後者の社会の構造のせいだとかざっくりしたことをいっておこう。戦争が起きている世界のすぐそばで心はもちろん身体的な搾取を行う一方で人の相談にのって感謝されたり大きなこと、丁寧なきれいごとをいって大きさを問わずメディアと共謀しナルシシズムを満たされている個人は子育てをしている人の横で何も見えていないかのようにしてでも見えているから急に怒鳴ったり暴力を振るったりしながら外では「いい人」でいる人と何が違うのだろう。あれはなんだったんだろう問題がこれとあれは何が違ったんだろう問題として私の中で変換されがちな今日この頃。やるべきことやりながら感じたこと今日も色々書きつけていきましょう。

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三木那由他さんの本のこととかを少し

昨日、三木那由他『グライス 理性の哲学』(勁草書房)を開いていたはずが持ち歩いたのは小さくて軽い古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)で読んでいたのはもはや紙ではなくkindleの三木那由他『話し手の心理性と公共性』(勁草書房)。三木さんは文庫じゃないのは両方勁草書房なのね。書いてみてようやく意識することってあるね。

書くことに関する本も山ほどあるねえ。私も辛いときほど小説を書きたくなって小説を書くための本とか何冊か読んでるけど書き物に生かせるほど読んでも書いてもいないねえ。でも小説でなくても、こんな駄文ブログであっても、書くことで自分をどうにかこうにか保とうとしているところは多かれ少なかれある。ひどいことって色々あるから。個人の体験で外側に見えているのってほんの一部。いろんな話を何年聞いても、まだ本人が知らなかった本人のことがたくさん出てくるんだから。そのプロセスでまとまらなかった断片がなんとなく居場所を得たりもするから量的な問題ではないけれど。言葉はいつも必要だし、コミュニケーションに関する本、言葉に関する本も出続けるよね、そりゃ、という感じかしら。言葉にできない、ならない出来事って尽きないけど。悲しいことに。苦しいことに。物言わせぬ圧力をかける側が相談って大事だよねとばかりに周りに上手におはなしして同情共感されているのをみたりするとそれはそれで地獄だったりするし(私は「地獄」という言葉を使うたび九相図を思い浮かべています。あれについてはまた別の機会に。)コミュニケーション大事だよ、相談大事だよ、と言いつつそのあり方によってはそれ自体がまだ誰かの傷口を広げるわけだ。そういう困難や不均衡は生じるわけだけどそれこそ言葉を持ってしまった以上そういうのは仕方ないのでそれぞれがどうにかこうにかやっていくために今日もまた言葉に困り言葉に助けられながら。

三木那由他『話し手の意味の心理性と公共性』はグライスの意図基盤意味論(これは『グライス 理性の哲学』で詳細に書かれている)に対する批判から共同性基盤意味論を立ち上げることによってコミュニケーションにおける話し手の意味の公共性に注意を向けさせる本である(と思う)。そこでは共同的コミットメントによって誰かと出会い、共にあることが重視される。私はこの考えはウィニコットのshared reality、サリヴァンのconsensual validation と重ねて考えることができると思って読んだ。精読すべき本だと思うので近いうちにしよう。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。