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精神分析

やまない雨

雨の音をずっときいてる。きいている場合ではないのだけどこの音は結構侵入的。まずいのではないか。被害に繋がらなければいいけど。これまでに水害にあった地域にまたその切先が向かいませんように。この言い方は人間視点で対立的。うーん。

なんか気温が下がってきた気がする。この数時間で少しずつ着膨れた。

これはまずいかも、やばいかも、という直観はそのまま従えれば多分相当に正しい。でも無理。ベルクソンとか読んで説明できればいいのだけどそれも無理。フロイトとの関連で本は持ってるしかじってはいるけどチーズをかじるネズミな感じ。

臨床にはどうしても「巻き込まれる」というか「巻き込み合う」という状態が生じるので「思わず」とか「せずにはいられない」とかいう事態にどう持ち堪えるかが自ずと課題になる。臨床ではない親密な関係においてもそれは避けがたいけど、そこでは持ち堪えることはどのくらい必要なのだろう。答えなんかないに違いない。それぞれの事情との兼ね合いだろうから。投げ出すことも捨て去ることもできる関係を維持するために消費する時間もエネルギーは莫大だ、と私は思うし辛くて苦しくてどうしようもないのにそこに価値をおいている自分ってどうかと思うときもある。その分、やるべきことは溜まり、別の大変さも襲ってくるのだから。大体相手がいることなのだからいつまで経っても正解などないのだ。仮の同意のままなんとなく続ける途上で「ああ、あのときのあれ」と出会い直しなんとなくわかったような気持ちになることはあるだろうけど。「夕鶴」でもし与ひょうが玄関を開けた時点で「ああ、あのときの」とかなっていたら物語にならない。異質なものと出会っていくには時間がかかる。対話とかいうけど私はその言葉も苦手。だって大抵対話になってないわけで、でも言葉でどうにかせざるをえなくて、それが難しいからただ黙ってじっと一緒にいるときが一番幸せとか思ったりするのかもしれないし。お互いに優しいってどんなことだろう、というのはここでも何回か書いている気がする。自分の無理や我慢ってどこからが「そんな無理しないで」といわれるべきものなんだろう。症状に対してはもちろん早め早めの対処が必要だけど。

いつもいちいち俎上に上げるのではないやり方で。相手のことを思いつつ自分に配慮する。言葉にしたら失敗ばかりで本当に戸惑うけれど。

雨はまだまだ。よくぞそこまで降らせるものがあることよ。どうぞご安全に。

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精神分析

やはり強くない。

まただ、やっぱりなぁ、ということが増えてきた。欲望と権力という言葉は強いけど実際はとてもマイルドな形でそれらは行使されつづけ搾取は行われつづけている。功利主義はやはり強く、それとは結びつかない自然に求めあう愛情関係は脱価値化される。一方ある目的に向かって境界を曖昧にしながら「協働」する二人がセクシュアルな関係であることを否認したり容認したりしながら排除のシステムとして機能することもある。その場合、その周辺にはそれまでの親密な関係すら鬱陶しがられ混乱し発狂する人もいたりするがその痛みを与えた本人がそれに気づくのは肥大したナルシシズムが何らかの形で傷つくときだ。文学や映画なら「本当の愛」を知って再び愛しあう二人みたいなストーリーにもなっているし、そのまま女の方だけ破滅するようなストーリーにもなっている。大抵の場合、弱い立場の人はさまざまな水準で利用されつづける。

「小4女子のグループ」ときけば大体の人は「うわぁ」となる。大人として彼らに関わるようになったときも最初は「うわぁ」となり実際大変だったが今は自分も通ってきた道としてそれをどうしても必要とする子どもたちがいるとわかる。女の子たちはやはり強くない。

大人になった。なんとなく一緒にいたい人ができた。SEXなんてもっとゆっくりでよかった。なのになんとなく身体的に近寄ってくる男性を拒めなかった。もっと一緒にいれば、もっとコミュニケーションをたくさんとれば、あとからそこに懸命に親密さを見出そうとした。でも「そもそも」だ。求めれば「重い」「もう無理」と言われ孤独は罪悪感で隠された。拒まなかった私が悪いのだ。私は泣いてばかりだった。とても悲しいことにとてもよく聞く話だ。

これは支配ではない、対等だ、そう言い聞かせようとすればするほどそれを「支配だ」「搾取だ」と感じたときに言葉が出てこない。おそらくその直観はかなりの程度正しいはずなのに。

女の子の「〜される空想」について話し合った。現実の出来事として生じれば外傷となりうるその空想は親殺しの空想に対する防衛という側面があるのかもしれないと私は言った。女の子は強くない。ひとりを分裂させ集団のなかに紛れ込ませ守らなければならない。そんなようなことを。

いつも書くがどちらがどうという話だけで出来事を考えることはできない。しかし「女の子は」という言い方は常に必要だろう。マイルドな顔をして近づいてくる欲望と権力に抗うことは本当に難しい。「自分は違う」多くの場合そんなことはない。「自分は違う、自分だけは。」そう言いたくなるときこそ立ち止まれる相手と出会っていきたい、出会ってほしいと願う。

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ヒトガタ

狭い街だ。大きな街と思われているだろうけどこの街に来る人の行動範囲なんて限られている。知り合いを見かけることもしばしばだ。声をかけられる状況とそうでない状況があるが。もし鉢合わせたくないときはスッと入れるビルが立ち並んでいるので安心だ。全くの作り話なんだけどこの前、昔の彼が前の彼女とこっちへ向かってきたからスッと横のビルに入った。その彼と付き合っていた頃に通ってた英会話学校があったビルなのだけど今そこは楽器屋になっていた。何か動いた気がして暗がりに目を凝らすとヒトガタみたいのが壁にペタって張り付いてた。「どうしたの?」と聞いてみるとそいつもちょっと気まずい状況から逃れてそこに張り付いたという。正確には張り付いていたわけじゃないけど実際ほぼ張り付いているようなものだった。そういえば「都市伝説なんだけどさ」と彼から聞いたことがある。「このあたりにすごく薄っぺらい人がいてさ、なんか苦労人らしくてそれ語らせるとすっごく面白いんだって。で、客が吹き出すじゃん。そうすると乗り出して喋ってたその人が飛ばされちゃって話も終わっちゃうんだって」「最後まで聞けた人いるの?」「それがさ、いないんだよ」「えー、むしろそれがおもしろい」とか無邪気に笑っていた頃が懐かしい、と顔をあげるとヒトガタ人がじっとこっちを見てた。顔がないから見てるのかわからないのだけど。「なに?」「いえ、ちょっとニヤニヤしてたから」ニヤニヤはしてないよ。なにこのヒトガタ。ていうかどこから声が出てるの?「ねえ」「はい」「あなたってすぐに吹き飛ばされちゃうから地下道に住みはじめたんだよね」ヒトガタが頷く。「どこぞの田舎から出てきたんだけど最初から薄っぺらいのか都会で暮らすうちにこんなになったのか誰も知らないんだよね」コクリ、というかパラリ?「この街はいろんなスピードが早いから」とヒトガタが急にカッコつけたようなことをいったのでパシんとしようと手を上げたらその風でヒトガタがふわっと浮き上がった。片手でキャッチ。フリスビーより薄く軽い。「大丈夫?」「はい」「ごめんね」「はい」「いつからそんな薄っぺらいの?」「自分でもわかりません」「そうなんだ」私は当時と比べると厚みが増した。服のサイズは変わってないけど。ここはお金のかからないデートコースのひとつだった。多分何か意味がある形に積み上げられたレンガに座ってコンビニ弁当やアイスを食べたり噴水が上がるたびにキスしたりした。頭のいい彼は頭の良さそうな話ばかりしていたけれど私にはひどく退屈で噴水の飛沫の数を数えようと目を凝らし積み重なるレンガであみだくじを試みた。そんな二人に同時に芽生えつつあった言葉が「薄っぺらい」だった。一年ほど経ってお互いバイト先にちょっと気になる人が現れそれを報告しあったりしていたのだけどそんなはなししたくも聞きたくもなかったのだろう。「おまえってさ」「なに」「ほんと薄っぺらい男が好きだよな」「そうかな」「だってさ」と彼がまた頭の良さそうな言葉で私の目の前を埋めはじめた。うんざりだ。ホントにもううんざりだ。私は目の前をかき分けるようにして思いっきり立ち上がった。背の高い彼は座高も高く階段の二段下に座っていた私は立ち上がっても彼とそんなに目線が変わらなかった。彼のまんまるい目をみながら彼を圧倒した気分でいた自分の大したことなさに戸惑った。それでも一気にまくしたてた。自分でも支離滅裂なことを言っているなと思いながら。そして「お前が薄っぺらいんだよ」と吐き捨てた。上に行ったらいいのか下に行ったらいいのかわからなかった。とりあえず彼から見えない場所まで走りに走った。しばらく暗がりでハアハアして背中で壁をズリズリ落ちながら膝を抱え込んだ。泣いた。嘘泣きみたいな顔しかできなくなった頃、バッグがないことに気づいた。外は暗がりより暗くなっていた。彼はいなかった。バッグもなかった。コンビニへ行った。「ああ!」とネパールからきた店員さんが持ってきてくれた。彼はなにがあったかなんて全く気にしていない様子でいつものにこやかな笑顔で「バッグなくしちゃだめよ」と送り出してくれた。なんかのフェアのアイスもくれた。あれは秋だったんじゃないか。蝉のかけらが地下道まで運ばれてきていた気がする。「アイス」とヒトガタがつぶやいた。「アイス知ってる?」「そりゃ知ってますよ。何年ここにいると思ってるんですか」「だって覚えてないんでしょ」「このコンビニができた頃にはもういたんですよ。だから私の方がベテランです」なんの競争だよ、と思いながらヒトガタとコンビニへ行った。別の外国人の店員がヒトガタに手を振って私にも笑顔を向けた。ヒトガタが何をしたのかわからないけどすぐにアイスが出てきた。「え?いいんですか?」「いいのいいの」店員さんはあの時の店員さんみたいな笑顔でアイスを手渡し送り出してくれた。「ねえ」「なんですか?」「食べる?」「どうやって?」「そうか」アイスは硬かった。もう涙なんか出てこないけどあの頃の私はほんと薄っぺらで頭でっかちで彼とおんなじだった。一緒に食べたいろんなものが美味しかった。コンビニ弁当もアイスも制覇したと思ってた。

「ねえ」

あれ?いない。ふと空の方を見上げる。地下道には珍しい風が吹いた。「台風が来るんだって」そばのカップルがスマホをみながら話していた。

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弔い

雨風の合間を縫うように鳴いていた虫たちが今朝は何事もなかったかのように一定のリズムを奏でている。

疑惑や不信をなだめるのってそんなに難しいことではないと思うのだけどそういう状態を維持したい場合もあるのだろう。人間はめんどくさい生き物だ、と断定しておく。特に親密な関係においては。自分の気持ちよさを邪魔する相手を排除できる準備をいつでもしておく。親密な者の公共圏にはいつも死の欲動が蠢いているとでもいえばいいのか。親密さとはそういうものだとかいっておけばそれは行動化の免罪符になりうるか。弔いの場をみながらこれはなんのための儀式かと考える。せめてその生がその追悼によってたやすく忘れ去られることのないように。今は亡き生のうちにあった暴力的で殺人的な排他空想と共にあった親密さはいつもこうして危うかったはずだ。フロイトのいう去勢不安はそれ以前に殺人空想があるという話をした。自らの暴力性、破壊性、それに伴う罪悪感を親密な他者を弔うことによって他者の棺に投げ込むこと、殺人空想はいつもそうやって弔ってもらう場所を他者に保証させる。それゆえに暴力や殺人、戦争に終わりはないのではないか。精神分析においてはそれをコンテイナーともモーニングワークとも言わないだろう。SEXがいつも誘惑と強要の可能性を帯びることを認識することにさえ防衛的になり、慌てて「同意」という曖昧な判断基準で自分が相手を傷つけた可能性を否認していくあり方も同様と考える。信頼はそんなところに生じない。私が傷つくとしたらそれはあなただけのせいではないのに対話のないまま勝手に処理されることで傷が現実化することもある。 vulnerabilityという性質を共にもつ相手として弔われる以前の日々の方へ。

親密な人のことを、精神分析のことを、フロイトのことを話しながら考えた。

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休み明け朝。台風。

すごい音。静かだなと思って台所の小さな窓をあけたら本当に静かだった。その5分後にはこれだ。すごい。時折うねりをあげる風に翻弄されながら大量の雨が窓に壁に屋根に行き先などどうでもいいとばかりに打ちつける。カーテンを少し開けて南側の大きな窓を覗いたら水滴がいっぱい。いつもはベランダを覆う幅広いひさしに守られてこんな風にならないのに。上から下へ落ちるだけの雨だったなら。水滴でその先は見えないが向いの屋根はプールみたいになっているかも。そしてまた虫の声。彼らをこんなに慌ただしく感じることもない。被害が広がらないことを祈るばかり。

昨晩はエリザベス女王の国葬でしたね。私は写真と流れてくる動画だけみた。今朝、会ったこともない人の喪失感は悲しみといえるかという記事を読んだ。まず悲しんでからでよくない?知的な作業にするのはモーニングワークを妨げると思うよ、と思ったけどメディアとはそういうもの。そこに有名人との一方通行の関係をparasocialな関係というとあった。1956年にHorton & Wohlが発表した用語で、テレビなどのマスメディアの普及によって個人と有名人の間にみられるようになった関係のこと。今でいえばSNSでのインフルエンサーと消費者との関係など。まだよくない?という思いが先走ったせいかそんなに興味を持てない記事だった。IPAがツイートしていたから読んだのだけど。

私はSNSを不特定多数の人に気楽に開くような使い方もしないし、自分にフィットするような言葉を反射的にRTしたりもしないのんびり使用なので、いくらそれがごもっともでも目の前で突然それやられたら嫌でしょう、という対立がRTなどで流れてくるとうんざりしてしまう。誰が誰に反応してそういうことするかもわかりやすいからこういうのは本当にパターンだなと思う。自分の言葉で書くより乗っかった方が楽なのかもしれないけど私は書くなら自分の言葉で書くかな。そのほうが不用意に誰かを傷つけることもしないで済むと思うし。まあある程度のインフルエンサーはその辺を割り切ってるからそこそこのインフルエンサーになるのかもしれない。もっとすごいインフルエンサーはもっと気をつけながらあるいはもっと偏った形で発信するからすごくなっていくのだろうし。知らないけど。

そういえばparasocial relationshipをマーケティングの文脈で書いている論文があったけどそれはちょっと面白かった。上手に使える人は使えるのだろうねえ。

私も自分の言葉で書けないことはRTさせてもらうことがある。昨日は國分功一郎さんの「国葬を考える」のシンポジウム、酒井泰斗さんの非専門家としてのふるまい方、立木康介さんが出るラカン関連のセミナー情報、藤岡みなみさんのとってもほっこりする動画とかをRTした。私にはとても言語化できないけどほんとそうだなあと思うことが攻撃的ではない形で書かれているツイートとか大体知っている範囲のみんなに届けたい情報とか関係性を優しく捉えた文章や動画は共有したくなる。普段の関係性ってそんな思いやりに溢れてなくても結構共感的だったりおかしかったりしてそんなに攻撃的じゃないと思うんだけどSNSってなんかそういうところが奇妙。昨日はのんびりできたので平和&素敵ツイート探しができて楽しかった。Likesにもためた。やることはたまったまま。まあ今日から今日から明日から。とならないように雨ニモマケズ風ニモマケズとりあえず仕事に無事にいくところからね。いけるのかな。無理せず台風情報チェックしながら動きましょう。

どうぞお気をつけてお過ごしくださいね。

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友と食事

外が静か。夜中、強い雨の音もしていたけど。今日もその繰り返しだろうか。九州のみなさん、どうかお気をつけて。

誰かとごはんを食べることって特別だと思う。その特別さを示す場面を書き並べることはたやすいけどいちいち書くほどのことでもない。それがさまざまな事情でかなわない人のことを思えば書くまでもない。もしかしたらそこに自分もいるかもしれない。誰かと食事をすることは経済的な事情はもちろん関係性の象徴でもある。

好きな人が別の誰かと食事をしていた。息をのみ涙を堪え引き返す。

NetflixでみていたNYガールズ・ダイアリーでもそんなシーンがあった。おおむね関係性がわかってからは流しているだけみたいな感じだが同性の友達はいい。身体のことから共有できる。恋人に言えないことをぶちまけられる。すでにガールズではなくてもここに描かれる様々な痛みはいまだに経験する。

10代後半、20代の頃からの友達とのLINE。一年に一度会うか会わないかのような、コロナ禍では一度も会っていない彼らと二、三往復のやりとりをして仕事に戻る。「元気?〇〇いく?」「いくの?様子教えて。」「(OKスタンプ)」みたいな感じで。

台風や地震のときも数日後に「この前大丈夫だった?うちの職場停電したよ」「大変だったね。こっちは大丈夫だった。」「よかった。無事に過ごそうね」「うん、お互いに。(ありがとうスタンプ)」とか。

赤ちゃんの頃から知っている子供たちもすでに写真を送るような年齢でもない。お互いの日々のことなんて全く知らない。でもいつも心の中にいる。彼らとも何度一緒にごはんを食べただろう。大学でお互いの家で旅先でお互いの中間地点で。

はあ。友達のことを考えていたら元気が出てきた。彼らにも元気でいてほしい。誰にも言えない。でも彼らになら。一緒にごはんを食べられるのはまだ先だろう。会ったばかりの相手に感じる孤独も彼らがいれば少し別の形になる。違う色に変わる。

誰かと食事をすることについてその特別さとそれゆえに感じる孤独について悲しく苦しく思うところがあったから書き始めたような気がするけど友達のこと考えたら必要なくなったみたい。それだけでいいことって色々あるね。ありがとう、友よ(スタンプ送る気持ち)。

今日もみんなが無事でありますように。色々あっても回復できますように。どうぞご安全にお過ごしください。

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パラドックス

なんか蒸し暑いな。除湿つけたり消したりしてる。梨がとっても瑞々しくておいしかった。夜の間に失われたものは色々あるだろうけどとりあえず少し取り戻した。

精神分析家のウィニコットはパラドックスをどうにかしようと思うな、とは書いてないけど

The paradox must be tolerated.

ってよくいう。母と子の間に存在する様々なパラドックスというかその空間をウィニコットは”potential space”とよんだ。正確な引用は時間がないのでしないけど私の言葉で一気に書いてみると、そこは存在しないのだけど存在する仮想領域で(すでになに言ってんだよという感じかしら。二次元とかVRを思い浮かべるのも悪くないと思う)potentialityという言葉がすでにフロイトの『夢解釈』から精神分析に登場しているように自由連想という方法はその潜在性を前提とすることで機能するのだと思う。つまりこの領域はコミュニケーションの領域であって主体は夢の中のあれって誰?というくらい曖昧で無主体といってもいいくらいかも。なのでそこで生じるのは単なる二者関係でもなく、単なる「今ここ」でもなくぼんやりした三者関係あるいは三角空間なんだと思う。

オグデンが2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊として出した

Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibilityのことをここで書いたときに触れたけど(なにを書いたか探すぞ。見つけた。こちら↓)

オグデンはウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直した。

この現在進行形がとても重要で、ウィニコットは特にこれを意識して書いた人だった。これはパラドックスを解消するというすっきりした方向を目指すのではなく、その曖昧さと混沌に混乱し病的になりつつもそこに居続けることで見出される希望みたいなもの、というか居続けること自体に見出されるその人自身の潜在性というものに光を当てているからだと私は理解している。

ということを書こうと思っていたわけでもないけどウィニコットのパラドックスに関する論文

The grammar of paradox: Deciphering Winnicott’s language theory

Ronnie Carmeli

を読んでいるからメモがわりということで。この論文はウィトゲンシュタインの言語ゲームとウィニコットの言葉の使用を絡めて書いているのでウィトゲンシュタインを勉強しながら読まなくてはで私には大変なのだけど言葉の使用についてはもっとも興味のあるところだからがんばれたらいいな。「がんばる!」と言葉だけでも言っておけばいいのにいえない自分なのがもどかしいですね。自分で言った言葉に縛られるなんていやだけどこうやって逃れられないものから逃れつつ。

ちなみにウィトゲンシュタイン『哲学探究』から引用がなされているので鬼界彰夫訳のこちらも参考にしている。あとは古田徹也さんの本とか。

それぞれの週末がご無事でありますように。台風にも気をつけて過ごしましょう。

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知識と配慮

フェデラー引退。Twitterで文字でも声でもお知らせしてくれてた。まだ41歳か。これだけ長い間トップ選手でいたのだからもう年齢とかで何を判断したらいいのかよくわからないけどずっと追ってきたわけでもない私でもしみじみするのだからすごい選手だった。

外がすっかり明るい。最近、いつの間にか眠ってしまうことが多く記憶がないのだがこの早朝の数時間さえ何していたんだっけとなっている。珈琲はいれた。洗濯もした。今のところ太陽が出ているので外に出した。フェデラーの動画に見入っていたというわけでもない。うむ。

昨日、本屋で一冊文庫本を買った。平積みされているのの下の方からとった。レジへ持って行くといつもなら尋ねられるカバーの有無を聞かれずささっとカバーをかけてゴムで止めて渡してくれた。確かにそれにふさわしい本かもしれない。

今井伸『射精道』(光文社新書)。こういう本が書名はともかくせめてシンプルな装丁の小さな本として出版されるのは良いことだと思う。もちろん(というほど知らないけれど)これは新渡戸稲造『武士道』にかけられた書名であるがジェンダー外来でも診療を行っているという著者は「射精道」は「女性のための思想」でもあり「オルガズム道」と言い換えることもできると書いている。

この本は大まかにいえば発達段階(思春期、青年期、妊活編、中高年期)、障害などに対する医学的メンテナンス、性教育の歴史を一男性としての著者の来し方と泌尿器科専門医としての知識と経験をもとにコンパクトに具体的に時にユーモラスに示した誰にでも読みやすい本である。

著者は「第2章 思春期編」で「第2条 セックスは「心・技・体」が伴うまでは行うべからず」といい、その基本が正しい知識に基づいたマスターベーションによる射精であるとしてかなり具体的な解説を行う。この部分は教育相談の現場などでかなり活用できるのではないか。性教育に限らず教育には何度も確認しなおせる媒介があったほうがいい。

セックスが異性間に限らず二人の行為であることは当然だが「第4章 妊活編」ではいまだ「不妊治療において最初のアクションをとるのは女性が多い」という現状が示される。そしてそれがどちらかの孤独な戦いにならないためにも月経周期や妊娠のメカニズムを知ることなどセックスを義務や苦行にしないための「妊活における「射精道」」15条が提示されている。「子どもを持たない選択をされている」人は読みばしていいと書かれているが、妊娠に関しては人間がその機能を通じて生まれてくる以上、経験の有無に関わらず知っておいた方がいいだろう。孤独な戦いを避けるためとしたらなおさら。

専門医による本なので医学的知見もわかりやすく紹介されいて助かる。男性不妊症の原因となる射精障害やED、トルコの報告によると最近増加している40歳未満のED患者のなんと85%が心因性(器質性ED約15%)とわかったそうだ。また、欧米ではデフォルトである「仮性包茎」が日本では恥ずかしいこととされていたり誤った情報は感情を刺激するから残りやすいのだろうかなど難しさを感じた。感情ではなく正しい知識を使用して対処すること、身体については徹底してそうであってほしい。

著者はよく親たちから「いつ性教育について教え始めればよいですか?」という相談を受けるという。そしていつも「子どもさんが自分から聞いてきた時が、教え時です」と伝えるそうだ。もちろんプライベートパーツの意識については、幼少期から入浴時などに親が教える必要があると書いている。著者自身は子どもたちが思春期の頃に中高生用の性教育の本を一冊ずつ渡したそうだ。なぜなら「本であれば、自分で気になった時に、気になる箇所を、誰にも気兼ねせずに確認できるからです」。

本書もそういう一冊である。書店員さんがささっとカバーをかけてくれたおかげで移動の電車の中でもそのまま読み進めることができた。配慮。性については特に、お互いに。

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時間をかける

時間をかけて丁寧にコミットし続けることの大切さ、つまり精神分析のような仕事って普通に必要だなあ、と実感することが多くなった。マイナーな治療法として放っておいてもらえればいいのかもしれないが創始者の存在が知られすぎているとそうもゆかぬ。

精神分析を志す女性は巷で言われるほどそれをフェミニズムの敵とは思っていない。かといって顔と名ばかりが有名な政治家たちのように「私は女だけど男性の言っていることわかります」というような安易な迎合とともにフェミニズムに対して非論理的な態度をとるようなこともしない。精神分析における女性性をめぐる論争はフロイトの女性論(多くはペニス羨望の文脈)の読解と共にあった。それはそうである必要がある。これは学問でもあるのだから。

フロイトの女性性に関する論文には女性をわかろうとするたびにわからなさを強めていくフロイトの姿がみえる。一方、フロイト自身が『集団心理学と自我の分析』(1921、『フロイト全集17』、岩波書店)で明らかにしたように彼自身、そして彼の精神分析は殺しの対象となる権威として存在した。しかし、アーネスト・ジョーンズを別とすればフロイトの女性論に対して異議申し立てを行ったのはフロイトが最後まで自信を持って語ることができなかった女性たちだった。

この構図は精神分析内部だけでなく、ちょっと見渡せばどこでも観察できるものだろう。異議申し立てをはじめた女性たちを意識した男性たちの女性に対する様々な態度とその男性たちと共に暮らすほどではないが親密な関係を繋いでいく同性、異性の態度というのは継時的に追っていくと面白いと思う。状況というのは片方からは生まれないし、歴史を追えば私たちはひとりひとり被害者でも加害者でもありうるわけで、ものをいえなくなる自分、いわせなくする自分から逃れるように、「自分はそうではない」と言い続けるために他者を使用したり依存したりしつづけている面もあるだろう。自分に生まれた小さな声を無事に言葉にして大切な人に届けたいだけなのにそれが早い段階であっという間に抑え込まれよくわからない攻撃性の応酬と分断の共謀の場となるいわばSNS的世界にとりこまれてしまうのは私は避けたい。時間をかけて自分の拙い表現を大切にしていくこと、してもらうことで出会う「それは過ちだった」という慟哭は裁きの場では生じない。憎しみは内省を促さない。それはやはり戦いを促す面があるのだろうと思う。

そういえばジュディス・バトラー 『非暴力の力』の「第四章 フロイトにおける政治哲学——戦争、破壊、躁病、批判的能力」(佐藤嘉幸、清水知子訳、青土社)は秀逸だった。フロイトが単なる二元論に陥らず生の欲動と死の欲動の狭間で揺らぎを保ち戦争に抵抗する仕方は個人の小さな努力かもしれないがその努力に価値を見出せる時間と場所が維持されれば私たちはそのような心的次元まで破壊され尽くされることはないような気がした。

反射を得意技にするのではなく「いいね」でたやすく分断に共謀するのでもなく大切な人を大切にできますように、今日も、今日こそ、今日がダメなら明日以降に。時間をかけて細やかに現状においてむやみに自分を正当化することなく過ごせたらと思う。

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見えないもの

河口湖のフジヤマクッキーチーズケーキガーデンのお土産、嬉しい。太宰治ゆかりの地でもありますね。大人になってからいった河口湖はとても楽しかった。何度かいったけどまたいきたい。とてもきれいな和菓子をおいているお店もあるの。名前を忘れてしまったけれどはじめてその和菓子を見たときは釘つけになってしまった。すごい技術だ。

私はきれいとか汚いとかいろんなふうにいわれる心とそれこそそんな風にしか表現できない言葉を使用して関わっている。そんな風にしか、というのは私の限界の話でもあるけれど。

群像』2022年10月号(講談社)で連載されている山本貴光「文学のエコロジー」はすでに第8回。第6回が芭蕉の句をひいた回だったか。第7回はいつの間にか過ぎていた。この連載が始まったとき満を持してという感じがしてとても楽しみにしていたのに早々に挫折した。山本さんの文章は情報量が多くて、それについていきたいという欲望を持ってしまうとあっという間にそうなる。多分相当の読書好きでない人でなければみんなそう。でも大丈夫。そのうち本になるだろうから。私は第2回で早くも一度挫折。バルザックの『ゴリオ爺さん』を取りあげると知り読んでから読みたいという欲望をもってしまったのがいけなかった。「哲学の劇場」主宰の山本貴光さんと吉川浩満さんが紹介してくれる本は全部読みたくなってしまうから困る。

そして『ゴリオ爺さん』を読み終える頃には連載は数ヶ月先へと進んでいた。で、芭蕉回で復帰したけどいつの間にかまた1ヶ月あいていた。でもまあ『ゴリオ爺さん』は山本さんのどこへ行ってしまうのだろうという宇宙へ向かう際限のなさと違って、人間社会というちっこい世界での飽くなき欲望(多くは金金金)の話で欲望に負けやすい私には面白かった。バルザックも相当変な人(大雑把すぎ)だったらしいけどさすが生み出される登場人物たちの豊かなこと。ゴリオ爺さんは本当になんていうかめっちゃかわいそうで今の言葉でいえばやばい(これも古いかも?)。私、もしゴリオ爺さんがカウンセリングを受けにきたら相当やばいなあと思いつつとっても愛しく感じると思う。でもどんなアドバイスしてもどうしてもやってしまうものはやってしまうだろうから「あらあ、また」「それは若者言葉だと“やばい”ってやつかもです」とかいって時々一緒に静かに笑ったり娘に対する想いをやば愛しく感じつつ彼に近づく死を想いながら聞き続けると思う。

「自分、やばいですよね」<そうかも>

「めんどくさくて」<自分が?>「そう(笑)」

よくあるやりとりだ。

さて今回、山本さんが取り上げたのはニャンと(こういいたくなる気持ちわかると思う)ホメロスの叙事詩『イリアス』。でもかえってよかった。自分で読めるとは思えないから原作にいかず素直に連載を読みました。今回のテーマは「「心」という見えないものの描き方」。ほんと、これどうしたらいいのかしら。これというのは「心」。どうやって言葉にしたらいいのでしょう。毎日の苦悩。哲劇のお二人の共著『脳がわかれば心がわかるか 脳科学リテラシー養成講座』(太田出版)はこれもこれだけの文献をよくこの分量でしかもこんなに読める形でというすごいマップ&ガイド。その204ページに斎藤環を援用して「なにか大きな事件や犯罪が起こったときに新聞やメディアなどに駆り出されてくるコメンテーターは、昔は多くは小説家でした。小説家こそが人間を描くスペシャリストだと考えられていたからです」とある。1980年代以降はそれが心理学者や精神科医、社会学者が重宝されることになり、その後そこに脳科学者が仲間入りしたそうだ。

今月号の「文学のエコロジー」は言葉のみを使う治療である精神分析を実践する私にとって「ここに戻ってきてくれてよかった!」というものだった。自分では遡れないが考えたい部分。脳科学の分野のみならずどの分野でもその専門家と対話できる知識や考えを持つ山本さんが漱石を読み解く緻密さで、「心」という言葉の意味を一旦できるだけ空っぽな状態にして、そこからそれを再び立ち上げてみようとしているような感じがした。「心」に抱いている「意図」というものをどう考えるかが最初の課題になるような印象を受けたがこのテーマは次の号にも続く。ゆっくり時間をかけてほしいな、私のために(無理)。たった数ページの連載でも自分の課題と結びつけばその質量というのかなんというのかわからないけど私が感じる重みは増す。今日もこの見えないものと一緒にやっていくのか。うむ…。とりあえず寝不足をどこかで解消したい。夢で少しどうにかしたい。

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その前に今日を

虫が透き通るような声で鳴いている。月はもう見えなかった。

「随分、子どもっぽいやりとりしてるんだなぁ」と思ったけど言わなかった。親密な関係だからこそ生じる退行というのが難しく、ちょうどよく受け止めてくれる相手でちょうどよく出せる自分を確認して安心している場合もあるだろう。依存は「私は知っている」という形をとりやすくでもそれを承認するのは常に他者なのでその「自分」はとても脆い。私はこれに関しては受け手の態度の方に関心が向く。思い切り依存の形をとらなくても「私とあなたは同じことを感じているはず」という前提のもとに関わってくる相手に「あなたは私の誰ですか?」とか嫌味をいって遠ざけたくなる場合もあれば、同じようなことをいわれて多少めんどうでもちょっと気持ちよかったり「嫌われたくない」が優先される場合もある。自分なんて曖昧で勝手なものだ。

昨年だったと思うが、なぜだったか読み始めた『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)がたいそう面白く、日記というのは興味深いな、と思っていろんな人の日記を読んだ。そして最近「交換日記」という文字を見てたいそう懐かしく、夕暮れどき、下北沢の屋外で秋田の地ビールを一杯呑んだあと本屋へ寄った。コロナ禍で始めた店だそうで「大変でしたね」と本当にそう思っていったもののなんとなく後悔した。あった、交換日記。奥の暗がりに。いざ手にとってみたらなんとなく魅力が消え失せてしまいそばの俳句や短歌の棚をぼんやり眺めたり読みたいと思っていた『群像』2022年10月号(講談社)をパラパラしたり何を見るでもなく本棚に沿って歩いたりした。「あ」と知り合いの本を見つけた。少し意識がはっきりした。パラパラした。これは内容はともかく(内容もいいけど)装丁が本当にいいよな、と改めて思った。するとそのそばの本たちがさっきより鮮やかに目に入ってきた。「ああ、対話」と思う本が数冊あった。「交換日記」だって「対話」だろうになぜこちらに惹かれたのだろう、と後から思った。

イ・ラン/いがらしみきお『何卒よろしくお願いいたします』(訳 甘栗舎、タバブックス)を読みはじめた。数冊目に目がとまった本だった。

2019年11月、まだ震災の痕跡も残るいがらしみきおのオフィスに彼を敬愛するイ・ランが訪れたことをきっかけに「コラボ」という「対話」がはじまった。韓国と日本それぞれで刊行された本書は往復書簡の翻訳であり、2020年春から夏、秋、2021年冬、春、2021年7月30日にいがらしがだした手紙で終わった。あとからの刊行となった日本版には今年2022年2月に二人が交わした手紙も収められている。出会った時はそうでなかったのに二人のやりとりはコロナ禍と重なった。

最初のイ・ランの手紙からすごいインパクト。採用面接の話、と書けば思い浮かぶような内容では全くない。各手紙に見出しのような形でその日の手紙の一文が引用されているのだがこの手紙の見出しは「神はなぜ金銀財宝が好きなのでしょうか」である。いがらしからの最初の返事の見出しは「たぶんAIを作るのは神になりたいということでしょう」。どんなやりとりなんだ、と思わないだろうか。

二人は手紙の間にもLINEの翻訳機能を使いながらやりとりをしていたという。言葉の違いもある。昨日取り上げた鶴見済のものの見方もそうだが、彼らは今ここ自体を変化させることに希望など持っていないようにみえる。ただ、別の場所、「今とはちがう世界」があることを願うとかいうレベルではなくそれがあると普通に思っている。死ぬまで生きるだけの場所である現実に対してドライであると同時に怒り、失望、諦めにもじっと身を浸し、相手のそれらにも心を揺らすことができるのはその存在のおかげかもしれない。

様々な話題はどれも興味深く強い印象を残すが後半にデヴィッド・グレーバーの本が軸となっているのも意外な感じがして面白かった。

途中を飛ばして2022年に久しぶりに交わされた手紙を読んでしまったのだが思わず嗚咽した。

自分って何?どうして生きなければならないの?私たちが子どもの頃、あるいは今も問い続けていることかもしれない。答えなどないからいずれ死ぬことだけを見据えて日々に身を委ねざるをえないのかもしれない。でもそれはあまりにも苦しいから誰かを使うのかもしれない。愛するのかもしれない。憎むのかもしれない。ひとりではいられないというどうにもできない現実があるから人との関係に支えられたり死にたくなったりする。それは仕方のないことだ。だからさらに何かを求める。終わりなき渇望と必要性の区別は難しい。

あとでまだ読んでいない途中の季節に戻ろう。その前に今日をいつも通りはじめよう。彼らのやりとりによって動かされた部分をとりあえず淡々と胸におさめつつ。

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少し別の場所へ

夜に溢れる言葉。そっと胸に秘めておくはずだったのに、どうしても知ってほしかったこと。夜にしか言えない言葉。ここで言葉にすればそれは昼夜問わず読まれ見知らぬ人にも届き言葉の意味も言葉にした意味も変わり自分の知らない誰かの言葉として私はまたそれと出会い苦しむのかもしれない。

ここ数年「つながり」の本が多いように思う。この言葉には良さ、正しさへの圧を感じなくもない。というか圧を感じるからそれを弱めたりゆるめたりそこから降りたりしてみましょうか、という提案がなされるのだろう。

「恋愛をしろという“圧”は、この社会ではあまりにも強い。強い“圧”の上から何番目かに確実に入る」125頁

鶴見済 『人間関係を半分降りる─気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)「第3章 恋人をゆるめる」からの引用だ。

「あ、完全自殺マニュアルの人」とインタビュー記事が目に留まった。1993年出版だったのか、あれは。私は周りであの本がすごく話題になってから少し後に読んだのだけどすごくよく(?)書かれていてびっくりした。淡々と落ち着いて自殺の方法について知る時間が人のある種の衝動について思いを巡らす時間になっていたように記憶しているが違うかもしれない。この仕事についてからも患者さんやそのご家族との間でこの本は話題に上がった。私はこれを本当にマニュアルとして読んでいて著者が誰かなど気にしたことはなかったように思う。今回初めて著者と著書名がつながった。

読んだのは「好書好日」のインタビュー。私が「本当にそう!」と思ったのはSNSについての言葉だ。

「物理的には離れているのに、心の距離が近づき過ぎてしまうという問題もありますね。頭に毎日思い浮かぶ人というのは、嫌な人であっても心の距離が近いんですよ。」

近さは様々な錯覚や「こうすべき」を生み出す。セクシュアリティに「愛」という言葉がくっつくと厄介なのと同じだろう。

このインタビューは鶴見済 『人間関係を半分降りる─気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)発刊に合わせた者だったらしく「お、また“つながり”本だ」と思って読んでみた。

先ほどは「恋人」に関する章から引用したが、この本では、学校や会社などでの「友人」、「家族」「恋人」が再考の中心となる「つながり」である。著者の体験と合わせて「世間」で言われがちなこととは全く異なる視点を提示され私たちは戸惑うだろうか。私は戸惑わなかった。「本当にそうだなあ」と思うところが多かった。著者は現在囚われている「つながり」の内側から考えようとしない。囚われている状態が「つながり」として圧を生じさせるとしたらそれが囚われの場にならないようにこう考えてみるのはどうだろう、という視点をたくさんくれる。たくさんあるので読者には選択する余地も考える余地もたくさんある。つまり押し付けがましくない。圧を感じなくて済む。これは『完全自殺マニュアル』に助けられる感覚と通じるのだろうと思う。

それにしても本というのは、特にこれらの本は言葉や体験にまとわりついた情緒をちょうどよく調整してくれるようなところがある。夜に溢れそうになった言葉が朝になって少し別の場所に戻るように、夜暴れ出しそうになってもとりあえず寝てみよう、でも眠れないなら、という感じでこういう本を読むというのもありかもしれない。いつも少し別の場所へ。せめて自分で自分に圧をかけないように今日も。

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間違い探しではなく

英国のエリザベス女王が8日、96歳で亡くなったとのこと。20歳の頃ロンドンへ行った。「女王の部屋はここ」と矢印が書いてあるバッキンガム宮殿のポストカードなどが売られていて日本だったらこういうのはタブーなんだろうなぁと思った。Netflixの『ザ・クラウン』にははまった。20代からこんなに長い間、動乱の英国を定位置から見続けた女王はチャーミングな人に見えた。精神分析もナチスから逃れ移住した英国で大きな発展を遂げた。フロイトの孫のルシアン・フロイトは女王の肖像画を描いている。受け入れてくれてありがとう、となんとなく思う。まず居場所を得ないことには精神分析自体が過酷な迫害と喪失を生き残ることができなかっただろう。ひとつの文化としての経験を受け継ぐのも私たちの役割のひとつと思う。私だったら精神分析を実践する立場として。若い頃はタヴィストッククリニックに憧れそこでの訓練を考えたがそうしなかった。私が英国を最も身近に感じるのは英国対象関係論を通じてだ。特にウィニコットに惹かれてこれまでやってきた。今年は学会でウィニコットサイドからビオンとウィニコットの理論のオリジナリティを検討する役割もいただいている。ウィニコットはエリザベス女王からナイトの称号をもらっていると思うがそれって何に対してなのかな。よくわからない。なんにしても受け継がれてきた文化、そして戦争を知る世代の眼差しを丁寧に追うことが大切だな、と改めて思った。そう思うと私はまだ何にも馴染んでいないというか知らないことばかりだな。人間であることには馴染むも知るもなにもそう分類されてるしそれでやってるとしかいいようがないけど。毎日異質なものと出会っては驚いたり戸惑ったりどう付き合ったらいいかわからなくなったりしながらやっているけど間違い探しではない仕事につけたのはよかったんだろうな、多分。

牟田都子『文にあたる』(亜紀書房)は校正のプロである著者がその仕事を通じて出会い、経験してきたことをそれこそ細やかで丁寧な筆致で共有してくれるエッセイ集だ。たくさんの短いエッセイが織り重ねられたこの本はどこからめくってもいい、と著者が書いている。「本を読むことは本来自由な行為です」と。

お言葉に甘えて、というわけではないが一気に最後のエッセイ、「おわりに」の前のエッセイに飛びたい。「天職を探す」と名付けられたこのエッセイは著者が現在この仕事に感じているであろう喜びとそこに至るまでの数えきれない逡巡を想像させるおはなしでじんわりきた。多分、この本を読んだ読者は少しだけ誰かに優しくなっていると思う。丁寧に時間をかけることに価値をおけること、そこで生まれ育まれるこころのこと、それを想像力というような気がした。著者は「いまでもこの仕事が天職だとは思っていません」と書く。このエッセイの冒頭では影山知明の文章が引かれ、天職は英語ではcalling、つまり「呼ばれる」ものなんだということが書かれている。「誰からも必要とされなくなるかもしれない」という可能性も胸に現在進行形で続ける仕事、それが「天職」であるかどうかはこちらが決めることではなさそうだ。これから先のことなんて誰にもわからない。受身的に紡がれる今を織り重ねていく。エリザベス女王の人生もそれに近いものであっただろうか。歴史における「正しさ」は揺らぎやすい。間違い探しではないあり方で間違いや失敗と出会っていけるだろうか。わからない。できたら、と思う。

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言葉を失って頭をまっすぐに戻した

昨晩、遅い夕飯を食べて資料作らねばと思いつつウトウトしてはぼんやりを繰り返していた。ぼんやりとPC画面を見るといろんなツイートが目に入ってきた。バスのなかで亡くなった女の子のニュースは私が知っている様々な保育園での様々な場面を一気に想起させると同時にそれについて考えることをやめさせた。水筒を開ける小さな手、何も出てこなくなった水筒を下ろす仕草、まだ言葉にするのは難しいなにかを感じ誰かを思い出し身体の限界がくるまでそれに身を委ねていたのだろうか。言葉をなくす。

重たい障害をもつ子どもを育てる方がリツイートしたものも目に入ってきた。その方とはオンラインでやりとりをしたことがある。赤ちゃんのときから手術を繰り返しながらも着実に成長していくその姿、カメラが捉えるその泣き顔や笑顔、人を信頼する眼差し、できるようになったことを披露しようとする仕草、それをこの状況でするのか!とその逞しさには共に驚いた。

そのかたがRTしていたのはやはり重たい障害を抱える子どもを育てる方のものだった。療育施設に通うまだ小さな子どもの止まらない癇癪。その子が眠っているとき以外はひとときも目を離すことができない様子。壊された部屋で子どもが大暴れする横ですやすや眠り起きても静かに携帯をいじっている父親。私は重度の障害を持つ人たちとはそれなりに馴染みがあるのでどれだけ想像を絶する状態かということは普通よりは想像できていると思う。驚くのはこの方がおそらく子どもといながらしているであろうこれらのツイートの面白さ。そのままの状態や気持ちを書いているだけなのだと思うがその状況でその視点をとれるのかと驚く。怒りも単なる怒りではなくさっきの父親に関するツイートも内容は「うーん、よくある構図」なのだがそんな一般化できる書き方ではなかった。「その人らしさ」というものがあるのならばこういうところにそれは発見されるらしい。

言葉をなくす。なんだか人はすごい。恐ろしいところも逞しいところも面白いところも良い意味だけではなくて本当にすごい。自分もその一人とはとても思えない。

相変わらず頭痛は激しくやるべきことは山積みでしんどさを感じやすくなっていたがそんなのはすっと背景に退いたようだった。ムクっと頭をまっすぐに戻した。そしてやる気が出て何かが進んだとかでは全くないし、みんながんばってるんだから私もがんばらなくては、という気持ちになったとかでも全くない。ただ現実に戻された感じがした。もうしばらくしたら身近な人にああしてくれないこうしてくれないと言い出しそうになっていたかもしれない状態はとりあえず脱した気がした。

私の周りには本が溢れていて毎日なにかしら読んでいる。でもこれらの出来事はこの本たちのどこにも見つけることができないだろう。言葉を失う。その体験は本を読むのとはまた別の仕方で私に影響を与えている。

生まれたら育まれること、生かされること、それが当たり前になされるために、ということを考える。大人もその育ちの延長にあるわけで大人になったから急にそれが義務となるわけではないだろうけどできることは確実に多いはず。突っ伏していた頭をまっすぐに戻す。まずは突き動かされるところからだとしても。

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マシなほうへ

やってもやってもしんどい、というほどやっていないからもっとしんどい。あーあ。がんばれるかな。色々割り切って集中できればいいけどそうもいかないのね、私は。すぐにもやあっとした気持ちになってしまうから何も見ず何も聞かず作業に没頭できればいいのだけど今のPCは多機能すぎてダメだね。ワープロ時代の方が作業が早かった気がする。もう忘れてるからそんな気がするだけだろうけど。きっと今のいろんなモヤモヤも時間をかけて別の何かに変わっていくのだろうけどとりあえずそんな場合ではないのにそうなってしまう今、今をどうにかしてください、誰か。他力では無理だけど願うだけならいいよね。誰かー。頼みはAIか?でも「現状ではAIに責任を取らせることなどできません」(『いまを生きるカント倫理学』171頁)。

いろんなこと、誰かが決めてくれたらいいのに。という部分に対して法律や制度ってできたのかもね。でもそれだと窮屈なのよね、となるとそんなのいらないとなる。たぶん、制度がなくても自由を持て余すことはできない、というか自由って何かと何かの間で求められるものだと思うから人に対する態度と自分の思いや態度が常に矛盾しがちな私たちの自由って常に窮屈を伴うと思う。そしてその窮屈さが人間を愚かな(主観です)暴走から守っているのだとも思う。

うーん、これは昨日あげたアリス・ロバーツ『飼いならす』や秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』の内容を思い起こすけどあまり余裕ないからカントの「法の普遍的原理」のところだけとりあえずメモしておこう。

「誰のどのような行為でも、その行為が、あるいは、その行為の格率から見て、その人の選択意志の自由が、誰の自由とも普遍的法則に従って両立できるならば、その行為は正しい。」(『人倫の形而上学』)177頁

「カント倫理学(「徳論」)における「自由」とは、自己の感性的欲求から完全に自由であることを意味するのですが、ここでは法律論(「法論」)について説かれており、そのため「自由」の意味合いが異なっています。私たちの日常的な使用法に近く、「自分の好き勝手に振る舞うこと」と理解してください。」178頁

だから法律は大事。でも「誰もが相互に納得できるようなもの」となると、うーん・・・。仮象に騙されるな!」には「気をつけます」と答えたいが「徹頭徹尾、自分の理性を用いて、批判的な吟味を加えること」となるとまたもやうーん・・・。自分がもっとも信用ならない。とはいえこういうモヤモヤをすぐに言葉にして公開してしまうのではなく、この人だったら、あの人だったら、あの時の自分だったら、昔お父さんが、などいろんな視点から考えることでなんとなく自分にも相手にもそれなりに負担のない見方を得られたりもするからあれこれあーだこーだは大事かもね。精神分析の自由連想ってそんな感じでそれを数年間やってきて本当に辛い時期もあったけど今は気楽。あーだこーだに付き合ってくれる相手って大事ね。

秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』は自己開示的というわけではないのだけどまさに現代を生きる私たちが考えるべき問題が生活から離れない形で取り上げられた対話的な本だった。あーだこーだに付き合ってくれる。

私は千葉雅也さんがいうマイルドヤンキー的な環境にいるのも好きなんだけどこうやってダラダラ書いたり本読んだりしているうちに別の世界と出会うのも好き。能力ってそんなに高くなくてもなんとかなる部分が多くて、と思うのは私は結局ひとりで仕事をしていないしどんなに辛くても苦しくても実際に一緒にいる人間とのことだから空想をふくまらせてもお互いの現実がそれを有限化してくれるからかも。歳をとってきて治らない頭痛とか身体の限界とか否認したところで何か変わるわけではないと思うような体験もそれなりにしてきた。今も毎日しんどい局面は色々あれど記憶力がないせいか老化のためかその合間合間で「あ、洗濯物」など現実がちょこちょこ顔を出してくれて答えなき終わりなき疑惑や問いに区切りを入れてくれるのを感じる。だから、というわけでもないけど今日もとりあえずいつもの感じではじめましょうか。しんどくても緩やかにそれよりはマシな場所へ。「さっきより少し楽」。そんな感触を大切に。

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飼いならす

深夜にカラスが一声鳴いた。変な声だった。大丈夫だったかな。カラスはどこにいてもかっこいい。ゴミ捨て場を二羽で漁る(鳥だけど)姿も迫力がある。ぴょんぴょん歩くのはちょっと間が抜けててかわいい。ずっと前のことだけど、隣駅の商店街を散歩していてふと見上げたら家の屋上でゴルフクラブを振り回してカラスとやり合っている(?)人がいた。まるでいつもの喧嘩のように。道具の利用って難しいね、人間。

アリス・ロバーツ『飼いならす 世界を変えた10種類の動植物』(明石書店)という本がある。人間は動物を飼ったり、植物を栽培したり野生に手を加えてきた、と書けば一方的だが、それによって人間もまた飼いならされてきた、ということ。取り上げられるのはイヌ 、コムギ 、ウシ 、トウモロコシ 、ジャガイモ 、ニワトリ、イネ 、ウマ 、リンゴ 、そしてヒトの10種。とりあえず全部知っているが、中を読むと全然知らなかったな、となる。先史時代へ。「そこは今とは似ても似つかない世界だ。都市はなく、集落もなく、農地もない。まだ氷河期の凍てつく魔の手に捕らえられていた。そこでわれわれは、最初の協力者に出会う。」

この本の「はじめに」で著者はダーウィンが使用した「人為artificial」と言う言葉は「種を飼育栽培するプロセスにおいて、恣意的な意図の役割を誇張しすぎている」という。そして別の表現を模索する。Tamed 飼いならすはそのプロセスで生まれた言葉なのだろう。

最後の「ヒト」の章のエピグラフがこの本の要約となるかもしれない。

「歴史にまつわる多くの問題は、人間と植物の相互作用によってしか理解できない。」

ーニコライ・ヴァヴィロフ

出版社の紹介ページを見てもわかると思うが、これだけ学際的な本となるとその多様さゆえにシンプルな説明しかできない気がする。つまり「興味があれば読んでみて」となる。

精神分析では「欲動を飼いならす」ということがいわれるのだが、ということはまだ蝉がジージー賑やかな時期に書いた。

どちらも自分の力が直接的には及ばないところに向けて使われている「飼いならす」という言葉。興味深い。飼いならしているつもりが飼いならされている。とりあえずの均衡、破壊や絶滅が起きていない状態をいうのだろう、と私は理解している。

毎日、様々なこころの状態と出会い続けているとその対立はその場でなかったらその時間でなかったらそのタイミングでなかったらその言語を使う人でなかったら「対立」ではなくなってたかもしれない、と思うことも多い。

今日も身体的に触れることなく、しかしかなり直接的な言葉で対面で人と会っていく。保育園では触れるけど。言葉が作る距離は彼らの移動距離とずれがありすぎる。まだまだそばにいて少しずつ。そんななかでも私たちはお互いを変えていく。世界を変えていく。少しずつ少しずつ。

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Web学会、朔太郎

誕生日祝いに故郷では有名なケーキ屋さんの焼き菓子が届いた。「朔太郎の詩」と名付けられたフィナンシェ。素敵でしょ。萩原朔太郎もこの地で生まれた。

この週末、日本心理臨床学会のWeb大会というのがはじまった。1ヶ月間様々な講演やシンポジウムをWeb上で視聴できる。

今年6月末、日本臨床心理士資格認定協会に対して教育研修制度に関する要望とコロナ禍に伴う制度の変更に関する議事録開示のお願いを書面で提出した。

全国の臨床心理士のみなさんから署名や助言、激励の形でご協力いただいたが1ヶ月を過ぎても受理のお返事がなく心配した。紙になったからといって個人情報の重要性が薄まるわけはなく、私たちはそれらの扱いを気にしていた。自分がどこの誰であるかを明確にしながら明らかに非対称の関係にある相手に向けてこういう活動をするのはなかなかエネルギーのいることで根拠はないが経験からくる不安がその都度顔を出した。戦いたいわけではない。ただ普通に、自分たちの仕事、ひいては生活に関わることなので知りたいしできることはやっていきたい、こう書けば極めて当たり前のことなのだが組織というのはなかなか難しく、反射的にパターン的にされがちな反応というのも推測してしまい不安になったりもした。人のこころって本当にこうやって動くんだな、と実感した。とにもかくにも内容に対する返答以前にまずはそれが無事に届いたかどうか知りたかった。ラブレターでも面接場面でもこういう運動においても想いを届けたい相手にアクションを起こしたらまずはそれが受け取ってもらえたかどうか捨てられたり破られたりしていないかどうか(こういう空想をしてしまうのが人のこころの厄介さ)気になるのは同じだろう。

2ヶ月が過ぎる前に書面でお返事がきた。安心した。ひとまず受け取っていただけた。今の時代、できたらメールでやりとりがしたかったのでそれも叶うようでホッとした。

内容についてはその話し合いの形式から検討をお願いしているところだが一歩一歩だ。

今回のWeb学会で私がまず注目したのは職能委員会企画のシンポジウムだった。会員動向調査の報告とそれに関する討論が組まれていた。データは大切だ。心理職としてどうあるべきかを話し合ったり技法を学んだりということはもちろん大切だが、それを可能にする基盤にもはや潜在的にではなく可視化された問題があるのを見て見ぬ振りすることはやってはいけないような気がした。

萩原朔太郎は『虚妄の正義』(講談社文芸文庫)というアフォリズム集の中で女性について様々な観点から様々なことを書いている。それはその後変わっていったりもするのだが結構面白い。

たとえば「女性教育の新発見」は「如何にして女共から、その野獣の爪を切り取ろうか?」という文章から始まる。興味深い。「職業婦人」についての記述はややうんざりするがアクチュアル。

現実的であることは大事だ。たとえば『絶望の逃走』には別れた妻が教えてくれた唯一の教訓を書いている。私が何よりもまず会員動向調査の報告に関心を向けたことと関係していそうで可笑しかった。

「観念(イデア)で物を食はうとしないで、胃袋で消化せよ」

「妻はいつも食事の時に、もっと生々した(いきいきした)言葉でこれを言った。「ぼんやりしてないで、さっさと食べてしまひなさい。」

ー「妻の教訓1(恐ろしき蒙昧)」『絶望の逃走』所収

かくして私たちの運動は女性としてのそれでもあるらしい。確かに代表者は皆女性だ。

対立したいわけではない。ただ明らかな非対称がある場合、それを少しでも均した状態からでないと対話も何も成立しないと考える。私がもし朔太郎の身近な読者だったなら彼に「女共」というのは「女と共にってことだよね」と言ってしまうな、きっと。

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受け身

書き出そうとしたら見えない。老眼鏡を忘れていた。

寂しさと頭痛を抱えたまま朝になった。気持ちだけでは動き出すことはできないみたい。

下北沢へ行った。時折雨がパラつくなか駅前の地べたにいくつかのグループが座り込んで何かしていた。夜の動作だと思った。あのまま朝を迎えた人もいるだろうか。

「1日」なんて区切りがなければ待ちぼうけをくらうような気持ちにならないですむのかな。

和辻哲郎随筆集』を開くと文楽の人形使いの話からだった。旅先でそれらの人形を見たことがある。佐渡でみたそれが強く印象に残っている。ジェンキンスさんと会ったのはその館のお土産屋さんだっただろうか。

「女の人形ではその足さえもないのが通例である」

「従って足を見せる必要のない女の人形にあっては肢体の半身には何もない。あるのは衣裳だけである」

「人形使い的形成」をしたそれは何がなくとも「人形使いの運動においてのみ」形を形成する、というのでそれはなくても構わないし、この随筆自体が女男のどうこうをいっているわけではまるでない。ただ人形に命を吹き込む人間と人形の動作が相互浸透していく描写は私を人形の側におき、見えないけどあると感じられる手足、吹き込まれるのを待つ命というものを思わせた。

受け身のまま朝を迎える。毎日それ以外にない。朝が来て夜が来てまた朝が来て、このリズムがなければこんな気持ちにはならないのだろうか。「こんな気持ち」という「形」があるからそれを変形させようと試みたり、捨て去るまでのシミュレーションを繰り返してみたりするのだろうか。

突然どこが痛くなるかわからない頭痛ももうどうしようもない。時折痛みに顔をしかめながら痛みの波が押し寄せたりひいたりするのに任せている。

受け身の維持。意識せずともそんなふうに過ごしていることを意識した。そうでしかいられない人生を想像した。空虚であることの重たさを感じた。

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しんどい精読

フロイトが神経学者から精神分析家という臨床家へ変化を遂げた初期の論文を読んだ。1894年「防衛ー神経精神症」の2年後に出された「防衛ー神経精神症再論」。パリでシャルコーのもとヒステリー患者を目の当たりにしたフロイトはブロイアーと彼らとの臨床に取り組み1893年「ヒステリー現象の心的機制について」を「暫定報告」とした後、これらの論文を挟んで1895年「ヒステリー研究」を出した。岩波書店から出ている『フロイト全集』1、2、3にこれらは入っている。初期だってこと。

患者とのやりとりから自由連想という設定の潜在性に気づき「防衛(抑圧)」を発見しヒステリー症状、恐怖症、強迫神経症の由来となる機制を明らかにした「防衛ー神経精神症」と「再論」は1915年に一気に書かれた『メタサイコロジー論』(十川幸司訳、講談社学術文庫)で一旦の仕上がりをみる。一旦というのは今回読んだ「再論」も1924年まで加筆修正が加えられるなどフロイトの考えは、特に初期は臨床によって常に揺らぎ行きつ戻りつを繰り返しているからである。初期に用語としてはすでに出揃ったような精神分析の主要概念も揺らぎ続ける。昨晩読んだ論文においてフロイトは性的外傷体験を軸に一旦神経症の性的病因論を確立したかのようにみえたがその2年後には「僕は自分の神経症学を信じていません」とフリースに書き送っている。幼児性欲と心的現実が問題系として視野に入ってきたのだ。このあたりから現在に至るまで精神分析における性の扱いには様々な目が向けられてきたがフロイト自身も患者との臨床において迷い続けた。私たちのように精神分析を実践する、あるいは志している者はこの初期に生じた概念の変遷において何が変わり何が引き継がれたのかを正確に追う必要がある。性は外的な現実であれ心的な現実であれ外傷体験とともにあると捉え、それがどのように抑圧されその人固有の体験を形作ってきたのかを患者の自由連想における言葉とそれを誤読させる転移関係によって細やかに読みとっていくこと、それには理論を正確に理解することが必要なのだ。だからフロイトを精読する。

精神分析は学ぶのも体験するのもしんどい。しかしその人固有の言葉(リズムやペースを含む)を守ることが最大限重要であることを否定する人はいないだろう。私たちは日々それを守る闘いを続けているのではないだろうか、今だとSNSで。言葉のみを使用し、患者自身がそれを使うことを最優先とする精神分析は心理療法のような解決志向ではないが、他者に流されるまま自分を少しずつ失い、声をあげても自分の声ではないような気がする、という事態において固有の声を聞き直す方法として大切な役割を果たせると思う。こう書くとそんなの当たり前じゃん、身近な人とやればいいではないかという声も聞こえてきそうだが、それができている人にとってはもちろんそうだと思う。でもそうでない人が多いからこんな風にSNSが使われる時代になっているのではないだろうか。目の前の個人を信用して一緒にいることの困難は誰かに特別なものではなく誰だってそうだろうと私は思うがどうだろう。

とりあえず時間。それぞれにそれぞれできることをしながらまた考えよう。そうこうしているうちに考えも変わるかもしれないし。慌てて言葉にすることで自分の考えを外側からしばったり固めたりしないようにしよう、私はすぐ慌てるから、と意識しても失敗するかもだけどそのときはそのとき。何度でも少しずつやり直しの機会がほしいです。。。

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この時間は虫も鳴かないのか、とさらに耳をすました。やっぱり何も聞こえない。キッチンに立つ裸足が汗ばんでいる気がした。この時間に麦茶を作ったら朝までに冷めるだろう。もう冷蔵庫に入れなくてもいいのかもしれないけれど。

外で渦巻くような風の音がした。窓を少し開ける。やはり少し蒸し暑いか。冷房除湿をかける。寒い。消す。暑い。またつける。

吉川浩満『哲学の門前』がその反応のなかでいつの間にか「門前の哲学」になっていると思った。生活環境における受動性が「いつのまにか」を引き起こす可能性。「門前」という言葉に多孔性を感じた。この本でもドゥルーズが何箇所かで引かれているが、リゾームは多数の入口を持つという言葉を思い出した。出口も?

千葉雅也note、8月31日“「意味」について(1)”を読みながら私も蝉のことを考えていたなと思った。毎朝、思いつくままに書いているここで昨日も蝉が粉々になっている姿をその硬い機械のような身体と共に思い浮かべて書いた。千葉さんはドゥルーズの『意味の倫理学』における「意味」と少しずらしたところでそれについて書いているようだった。それ以外言いようがないシンプルな感動。言葉と意味が繋がりをもった瞬間の1、2歳児へとなだらかにつながっている気がした。

ドゥルーズの入門書を何冊も持っている。というかなんでこんなに入門書が多いのだ。どれかは「門前書」だったりするのか。國分功一郎さんの講義で紹介された本が多いような気がする。千葉雅也さんが何かの選書フェアで紹介されていた『ドゥルーズキーワード89』はリブロ池袋店で買ったはず。今は新版も出ていたはず。なんでも曖昧。リブロ池袋店が閉店してからももう数年が経ち、ドゥルーズにせめて入門しようとがんばっていた痕跡として本は積まれているが内容はあまり覚えていない。ただ、こうして書いているとなんとなく思い出してくるものもある。先日聞いたベルクソン研究者たちの講義も思い浮かんだ。「持続」「差異」そういう単語もぼんやりとついてきた。

岩波書店『思想』で十川幸司先生の連載「「心的生の誕生――ネガティヴ・ハンド(リズムの精神分析(1))」が始まった。そこではドゥルーズは引用されていないがどの部分に対してだったか「あ、これドゥルーズだ」と思う箇所があった。なにかしら私の中に教わった痕跡はあるらしい。痕跡といえば十川先生が新連載の中で引用している「ネガティブ・ハンド」という壁画は興味深い。赤ちゃんのときに手形を取るような身体と対象に隙間のない状態ではなく、投射のような形式で直接触れることなく輪郭を描きそれが形として浮かび上がる様子を想像した。これは精神分析作業そのものであると同時に、言葉の発生を去勢と共に語るのではない、つまり単なる切断ではない新たな繋がりの描写の仕方のような気がした。そういえば十川先生はアダム・フィリップスの言葉を引用するのをやめたらしい。今手元になく正確に引用できないので書かないでおくがなるほどと思った。

今号の特集はG.E.M.アンスコムで巻頭の「思想の言葉」がとてもよかったのでそのページのリンクを貼っておく。

こんなあんなをダラダラと考えているうちに外では虫の声が増えてきた。早朝の救急車は止まることなく急げているらしい。

千葉雅也さんがnoteで書いていたことは印象的でドゥルーズ『意味の倫理学』もパラパラしたが「これアリスの話じゃん」とまたアリスに出会った。多孔性。ここでも感じる。少しずつ読めたらいいけど今日からまたフロイト読書会が始まる。いつだってフロイト最優先。だってフロイトの論文を全て精読することは一生かけてもできないだろうから。まあ、長年連れ添っても相手のすべてを知ることなどできないのだからせめてこんなまとまらないことがボワンと浮かんだままの頭をどうにかするために少し読むか。

異質なもの、不快なもの、受け入れ難いものと出会ったときにこんな自分でも傷つけずに生かそうと防衛的に、反射的にがんばるのではなく、とりあえず身を委ねるようにそっち側にいってみる。最近はそんなことをずっと考えている。

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人ひとりひとり

秋の蝶黄色が白にさめけらし

高濱虚子句集 『遠山』

虚子居らぬ世や風鈴を見て欠伸

秋風に見るうどんのううなぎのう

岸本尚毅句集 『雲は友』

文化を大切にすること。その文化に生きる人がいること。その意義や価値をあえていう必要のない世界はまだ存在している。とても安心した。

自分の領域への侵入には達者な言葉で謝罪を要求し続けるのにたいして知りもしない他者への領域への侵入はあっけらかんとおこなう。自ら対話の場を失い、同じような刃を持つ人か刃を権力として従うか利用する人ばかりが当面の話し相手になっている可能性は否認されているのだろうか。そうでないとそんなことできないか。撒き散らすようにかかれるものばかりが業績になり、それに素早く迎合できる人が作るものがこの国の「文化」になっていくのだろうか。

毎日、目に見えない差異に怯え、苦しみ、時折素直に反応しては素早い攻撃にあい、言葉にする体験を奪われ続けている人のことを知らないわけではないだろう。自らもそんな経験をし傷つきと戦い続けたプロセスが今なのかもしれない。でもそのやり方は反復を生じさせているだけだ。いつの間にかおそろしくマジョリティの立場から振りかざしているそれを指摘してくれる友はいないものだろうか。おそらくいるのだろう。でもできない。そういうものだというのはなんとなく知っている。力を持つものが弱さを持たないはずなどない。知性とは何か。やはり「連帯」という言葉が良きもののように利用されないことを願わざるをえない。

頭で考えることと気持ちを感じることの乖離が甚だしいこの世界に対する違和感を意識することもままならず、言語とスピード優位の周囲にただただ振り回されるように生活している人たちと私は仕事をしている。時間をかけてしっくりくる言葉を探す仕事をしている。これまでの傷つきをさらなる、あるいは別の傷つきとして重ねていかないこと、彼らに対するケアは彼ら自身にだけでなく、そこにいない周りの人たち、ひいては私たち全員に通じていることだ。それは特別なことではない。自分も関わりがある、と引き伸ばされた時間の先を想像できない人がそういうひっそりした場にぞんざいな言葉を投げ込んでくるのだろうか。だとしたら反射的にそれに応答するのではなく、何が生じているのか考え、静かに抵抗をつづけ、患者たちが自分のペースで言葉にできる場を守っていくのも私たちの仕事だろう。

昨日、紀伊國屋の階段を踏み外して派手に転んだ。そばを通り過ぎる人の足が見えた。顔だけよけるようにした。しばらくして通りがかった店員さんが心配して傘を杖にして歩く私と一階分一緒に降りてくれた。心優しい人もきちんといた。足腰が健康でないと不便な世界はたくさんあることを不注意で怪我をしがちな私は多分普通よりは知っている。人ひとりの力の大きさもたくさん経験してきたように思う。

昔、足の指の骨にひびがはいったときも一歩一歩片足を引きずるようにしか歩けなかった。前から人が向かってくるスピードが普段の何倍にも感じた。東京は前にも後ろにも真横にも人がいる。怖かった。でもあまり庇うと腰もやられる。人が来るたびに止まりながらやっと電車に乗った。疲れた。ドアの隅に立っていても続々乗ってくる人が怖かったけど足を安全な隙間に隠せて安心した。そのとき優先席にいた私よりずっと年上の方が「座りなさい」と声をかけてくれた。足の指など誰も気づかない。たとえ包帯を巻き大きなサンダルをはいていても。見かけは単に歩くのがやたらゆっくりな人だ。その人はどこからみていたのだろう。動かなければそんなに問題なかったので戸惑ったが座らせてもらった。とても疲れた。こんなに安心できていなかったのか。ありがたかった。

昨日もしばらくは人を避けて端っこをゆっくりゆっくり歩いた。怖かった。どうしても端っこを歩きたい人というのはどこにでもいてぶつかっていく人もいた。これは私がこの見かけでなくてもされることなのだろうか。よく思うことをまた思った。

自分が知らない世界がある。起きない方がいいけどどうしても起きてしまうことがある。細々とでも着実に受け継がれてきた学びや文化がある。

見知らぬ人の頭のそばを靴で通り抜ける。びっこをひいて隅っこを歩く背の低い女に邪魔だとぶつかる。誰かがそれで生計を立てている仕事をいらないものとする。こう書けばおかしなことのように思うかもしれないがこんなことは日々平然となされている。私たちがそれぞれに感じる不自由や理不尽に終わりがくることはないだろう。それでもできるだけ防衛的にならず、何かを排除する言葉を使うことに少し躊躇することを忘れない。それはひとりではなかなか難しいから私は今日も仕事をする。

何がなくとも何もないという必要などない。誰かにそう言われたとしてもそんなはずはないのだから。無理に言葉にしないで黙っている権利だって誰にでもある。黙っていることを何もないという人がいるとしたらそれはその人に圧倒的に何かが欠けていると思っても間違いではないだろう。時間をかけることで見えてくるものでゆっくり繋がっていくこと。その厚みと豊かさを静かに守るにはとても痛みが伴う世の中だけど今日もなんとかやっていこう。人ひとりひとりの力は小さくない。言葉にできない、言葉にならない、言葉にするプロセスにそんな戸惑いがたくさんあること、そこに注意を向けること、向けてもらうことはひとりではできないけど相手がいればできなくはない。

さあ、今日も一日。何がなくともどうぞご安全に。

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精神分析

連帯と孤独、居直り

夜通し、近所で工事をしていて時折家が揺れた気がして寝ては起きてを繰り返した。今「夜中中」と書いて中が続くのは強調表現として間違ってはいないのか、と思いつつやっぱりなんか変だなと思って「夜通し」に書き直した。工事は今も続いている。多くの人が起きだす時間には終わるのだろう。作業している人は完全に昼夜逆転か。大変だな。寝られるといいけど。

玄関に向かう門をあけると間近で虫が鳴きはじめた。すごく大きな声でびっくりして「人感センサーかよ」など思いながら本当に人感センサーのオレンジ色のライトの下を歩いて玄関の鍵を差し込んだ。虫の声が止まった。思わず振り返った。ドアを開けて入ると背後でまた鳴きはじめた。リズム。雑な詩のような私たちの関係。

私は「連帯」という言葉が好きではない。正確には良さそうな意味で使われる場合の。

先日もここで書いたエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson 1830-1886)の詩をおもう。

I’m Nobody! Who are you?

I’m Nobody! Who are you?
Are you – Nobody – too?
Then there’s a pair of us!
Don’t tell! they’d advertise – you know!

How dreary – to be – Somebody!
How public – like a Frog –
To tell one’s name – the livelong June –
To an admiring Bog!

これは「連帯」の詩のように思う。nobodyであれば。声を出さなければ。詩人の孤独はいかばかりか。

人間として扱われないのにnobodyには決してなれない事態もある。

そこにあるものは

そこにそうして

あるものだ

ー石原吉郎「事実」より抜粋

石原吉郎に「ある<共生>の経験から」という文章がある。シベリアのラーゲリ(強制収容所)での体験である。収容所での<共生>はただ自分ひとりの生命を維持するためのものだった。

「それは、人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である」

「例の食事の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯である(イタリックは本文では傍点)ことを、私たちは実に長い期間を経てまなびとったのである」

そしてこの認識の末に発見される孤独は現在私たちが使用しがちな「連帯」との関係で記述さえる孤独とは異なり

「孤独は、逃れがたく連帯のなかにはらまれている。」

私たちは石原吉郎が体験したほどの過酷な状況に身を置くことはこれからも恐らくないと思うが、実は石原の書いたことを身をもって感じとれるとも思う。私の苦手な「連帯」という言葉はnobodyでいられない、ここにいるものはいるものとしての人間の孤独を否認しているように感じる。これも数日前にここで書いたが「シスターフッド」という言葉を苦手と感じるのもこのことと関係があるのだろう。

石原吉郎の詩やノートには引用したいものが多すぎる。でも詩というものを抜粋するのも野暮な気がするし(さっきしたけど)、実際どのくらい引用していいものかわからない。

でも「居直りりんご」という詩を書いておきたい。教科書で読んだことがある人もいるかもしれない。今日もこんな感じで過ごせたらとちょっと思った。

居直りりんご

ひとつだけあとへ

とりのこされ

りんごは ちいさく

居直ってみた

りんごが一個で

居直っても

どうなるものかと

かんがえたが

それほどりんごは

気がよわくて

それほどこころ細かったから

やっぱり居直ることにして

あたりをぐるっと

見まわしてから

たたみのへりまで

ころげて行って

これでもかとちいさく

居直ってやった

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精神分析 精神分析、本

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』をいただいた。

昨晩遅くにコーヒーを飲んでしまった。昨日はそんなにカフェインをとっていないような気がするが朝は紅茶にしておこう、とティーバッグをだした。カフェインであることに変わりないけど気分の問題。あっつい紅茶が美味しい朝になりました。今年も無事に夏が過ぎていく様子。私たちも無事に朝を迎えた様子。

昨晩、帰宅したらポストに厚みのある封筒が入っていた。あれ?なにか本の注文してたっけ、とポストから取り出す。早く見たかったが他の郵便物や重たい荷物のせいで確認できない。部屋に入るまですぐなのにこの短時間が待ちきれない。本が届くのは本当に嬉しい。荷物をドンと置いてチラシを紙袋に仕分けて厚みのある重たい封筒を手に取る。うわあ!と嬉しくなった。

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』(松木邦裕、小波蔵かおる監訳、岩崎学術出版社)をご恵投いただいた。重たいけど意外とコンパクト?と思ったけど他の本と変わらなかった。なんでコンパクトと思ったのだろう。ギュッと詰まった論文集だから?

そういえば最近本屋さんで精神分析の本が置いてある棚の方へいっていなかった。自分で買うつもりでチェックしてあったが大変ありがたい。この本は8月に出たばかりの新刊だが古典だ。

1965年にイギリスで出版された。すでに訳出されている1987年出版の『治療の行き詰まりと解釈』(誠信書房)はローゼンフェルドの後期の思索を解説したものであるが、今回訳出された『精神病状態』は初期の論文を集めたものである。原書はpsychotic states a psycho-analytic approachで、精神病に対する精神分析の貢献の可能性を示した1947年の彼の最初の論文から1964年の論文が収められている。精神分析を専門的に勉強している人はここに収められた論文をすでに英語で読んでいる人が多いのではないだろうか。監訳者のおひとり、精神分析家の小波蔵かおるさんがその訓練中に「なぜこれが翻訳されていないのだろう」と不思議に思い翻訳を申し出たということを「解題」の最初に書かれているが、訓練に入っている人はおそらくみんなそう思っていたと思う。だからこの翻訳は大変ありがたく、これから精神分析を学ぶ人たちがこれまた学ぶことが必須であるメラニー・クラインに始まるクライン派精神分析の初期の成果を追うためにも助けになってくれるに違いない。英語で、しかも精神分析で、しかも理解が非常に困難な精神病の世界のことが書かれた論文たちは読みとおすだけで精一杯みたいなところがあると思う。私はそうだった。多分私だけではないと思うから助けてもらおう。

ローゼンフェルドは1909年7月生まれの精神分析家だ。ドイツで生まれたユダヤ人である、と書くだけで彼が経験した苦労を想像できるだろう。1935年、ナチスの迫害を逃れイギリスへ向かうがそこでも敵国の外国人であるために居場所を得られなかった。しかしなぜか精神療法家としてなら滞在できるということで彼はタビストック・クリニックでの訓練をはじめ、そこでメラニー・クラインの分析を受けた。彼の人生史や人となりは本書の解題にも『行き詰まりと解釈』にも触れられているが、今回の監訳者のもうひとりである精神分析家の松木邦裕先生が昨年2021年に出された『体系講義 対象関係論(下)ー現代クライン派・独立学派とビオンの飛翔ー』(岩崎学術出版社)にはパーソナルな描写もあり、これを読むと論文にも近づきやすくなると思う。どういう時代を生きたどういう人がこれを書いたのかということはどの論文を読む場合にもとても重要だろう。

また、ローゼンフェルドの最も重要な貢献の一つである精神病に苦しむ人への精神分析的アプローチについては『行き詰まりと解釈』の第一章「精神病治療への精神分析的アプローチ」が詳しい。

毎日勉強だなあ、と思いつつ、フロイト以外の精神分析の本をあまり読んでいなかった。古典を読むのは楽しい。目次をみてパラパラとするだけでここに収められた論文のいくつかはぼんやり思い出すことができた。勉強会でも話したいことが増えた。正確に紹介できるようにきちんと読もう。訳者にはフロイトをしっかり読んでいる知り合いの名前もある。頼もしい。翻訳作業でも世代を繋ぎながら精神分析を受け継いでいる監訳者の先生方からこの本をいただけたことがとても嬉しい。もうちょっとしっかりしなさい、というメッセージとして受け取ろう。どうもありがとうございました。

今日は金曜日。週末ですね。無理をしなくてはいけない人もほどほどのところでお茶を濁す練習も大事かも。自分のこころを守ることを優先するってなぜか本当に難しいけど長い目でみれば今そんなに無理しなくてもどうにかなることもあるかもしれない。少しずつ、力抜きつつ、ぐったりするだけではない夜を迎えられますように。お大事にお過ごしくださいね。

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精神分析

模索は続く、与作は木をきる、ってなんか似てる、と思った、今。北島三郎が歌った「与作」。多分今生まれてはじめて書いた、北島三郎も与作も。ヘイヘイホー。

サンフランシスコでプライベート・プラクティスを営む精神分析家のトーマス・オグデン(T.H.Ogden,1946〜)が2021年12月にThe New Library of PsychoanalysisのシリーズからComing to Life in the Consulting Roomという本を出した。副題はToward a New Analytic Sensibility。

オグデンはここでフロイトとクラインに代表されるる”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ、と以前に書いた。

オグデンはウィニコットをはじめとした精神分析家の重要論文の再読、詩人ロバート・フロストの読解など”creative readings”を試みてきた。詩を読むことは一種の「耳の訓練」であり「言語の使用されかたによって創造される効果に気づき、それに対して生き生きしているという能力を洗練する」。精神分析における患者の言葉を「意識的無意識的な情緒体験の構造や動きが、無自覚にその文章を構成する道筋をかたちづくった」と捉え、それを「書き、読む体験のなかで初めて生起する何かを創造する」ために「分析家は、耳を傾けている自分自身に耳を傾けなければならない」とオグデンはビオンを引いていう。

引用はT.H.オグデン『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること』(藤山直樹監訳、木立の文庫)「一種の「耳の訓練」として詩やフィクションを読むこと(p94)」からである。

オグデンは最新刊でこれまで中心的に取り上げてきたロバート・フロストに加えエミリー・ディキンソンの詩、There’s a certain Slant of lightを取り上げている。

8:Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson

短い章だが死を想うオグデンを感じることができる。オグデンはもう70代後半だ。

I’m Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there’s a pair of us?
Don’t tell! they’d advertise — you know!

ディキンソンのI’m Nobody!Who are you?の冒頭だ。対象と出会う乳児のこころを描写したウィニコットの言葉のようだ。

この詩はWilliam BlakeのInfant Joy(赤ん坊のよろこび)Infant Sorrow(赤ん坊のかなしみ)の後に読むとさらにグッとくる。

魂の声 英詩を楽しむ』(亀井俊介、南雲堂)でその体験ができる。この本は私が思春期に詩をたくさん読み書いていた理由を体感的に思い出させてくれた。誰もが知る(私は詩人たちの名前しか知らなかったが)有名な詩の数々を対訳で読むことができる。亀井俊介の序文の言葉は「詩ってなんだっけ」とぼんやり考えていた私にしっくりきた。亀井は序文で詩に対する考え方が自分とは異なる研究者として二人をあげ、その一人は阿部公彦なのだが翻訳家の柴田元幸と共に帯文を書いているのも阿部だ。もう一人、亀井が序文で批判を向けた研究者がいたが名前を忘れてしまった。今手元に本がない。

音声ファイルをダウンロードし美しい英語で美しいリズムで読まれる名詩たちをきく。どれだけ多くの人がこの調べに支えられたりものおもったりしてきたのだろう。

誕生のよろこび、すぐにやってくるかなしみ、私は誰、あなたは?という問い。

「赤ん坊は生まれたとき、みんな泣くんだ」

生後二日で事故にあった宇宙船で育てられてきた(誰にかは読めばわかる)9歳の少女がはじめて宇宙船の外に出る。「初めての」だらけの「外」へ。泣き出す少女。

新井素子編『ショートショートドロップス』に収められた萩尾望都「子供の時間」の一場面だ。一緒に泣きたくなった。

喜びも悲しみも言葉にすれば分かれているようだが体験としては分けられないだろう。詩の言葉が持つ多義性を曖昧にせず、「曖昧」という言葉で7つの型に分類した『曖昧の七つの型《記号学的実践叢書》』 ウィリアム・エンプソン(著) 岩崎宗治(訳)にも似たようなことが書いてあった。亀井の本にも。

なんだか止まらなくなってきてしまったけどもう準備しなくては。ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(みすず書房)に詩を全部忘れたら詩を書ける、とビオンのno memory,no desireのような話がある。そのことも、というよりむしろそのことを書きたかった、ということを今思い出した。こういう忘却はどうなんだ。

まあ、今日も色々あるに違いない。私たちは頭だけでできているわけではないから子供のこころと身体で人間以外の世界にも助けてもらおう。昔読んだ詩とか思い出したりするかもしれない。そうだったらちょっと素敵だ。私が最初に思い出したのはヘイヘイホーだったけど。

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精神分析

沈黙のため

沈黙する。止まらなくなってしまわないように。一見まともそうな理由をつけて誰かを巻き込まないように。自分の不安をその対象からずらすことがその相手の不安を刺激することでもあるけど自分のことは自分で考えねば。だから見せない。その人はそういうこころのメカニズムがわからないからなんとも思わないだろう。本音を伝えたところでそんなつもりはない、これこれこういう理由がある、と苛立っていうだけだろう。頭でならわかるだけに嫌な思いをするだろう。悲しみや寂しさは感じるほうが悪いのだ。気持ちの共有はいつもむずかしい。もっと悲しくもっと寂しくならないために我慢する。こんな気持ちになる自分がおかしいのだと。受け入れることだけしてほしい相手に自分の寂しさや我慢することの負担を伝えることの負担はずっと経験してきた。それにこれ以上直面したくないから黙る。優しい人なのだ。でもその優しさを私に向けられるのは直接会っている間だけなのだ。会わない時間は時折思い出してもらえるだけマシなのだ。受け入れてあげることで嫌われないですむのならその人のあり方に合わせた私になるべきなのだ。自分の気持ちは自分で引き受け続けるべきなのだ。苦しんで苦しんで少し慣れてきたけれどノルマ的なスタンプと変わらない悪気のない言葉によって引き起こされる気持ちを抑えこむのは時間がかかる。でも暴発しないためにひたすら時間をかけるやり方を学んだ。外向けの饒舌と優しさも嘘ではない。それとは全く異なるあり方に心底悲しくなったけど何かを言ってはいけない。だから言葉にしない。沈黙の方法を模索する。言ってもまたスタンプ的な、あるいは本当にスタンプしかかえってこないのだから。悪気なんてないのだから。余裕がないだけなんだ。特別にしてあげてるくらいに思っているかもしれないのだ。気持ちを言ってもこちらの陰謀論だくらいに言われるかもしれない。陰謀論という言葉は相手を抑えこむために使うためのものではないけど。それにもしそうだとしても気持ちを考えてもらえなければそうなってもおかしくないのではないか、とも思うけど。でもそれも言わない。相手の振る舞いも自分の気持ちも飲み込むための沈黙の方法はどこ?どこまで続けるのだろうこんな見て見ぬふりを。

自分で理由をつけて苦しみを終わらせようとしない。身体もこころも壊れていくのを感じるけど壊れるまで続けてしまうのが私たちだ。そうなっても伝わらないものは伝わらないのに。

今日もいろんな人のこころが壊れていく。相手のことは諦めるざるをえなくともどんな言葉で思うこともどんなことを考えるのも自由であることを忘れませんように。一瞬一瞬の回復によってなんとか持ち堪えることができますように。

昨日も何冊かの本を買ってどれも途中まで読んだ。どれも詩に関する本だった。すごく大雑把に言えばだけど。沈黙するためにこころを大切にしようとする言葉を求める。そうだとしたらと思うと悲しくて可笑しかった。

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精神分析

「いいね」の応酬

泣いては眠り、泣いては眠り、何度目かに起きてやっぱりSNSにしかいないと確認して急に冷める。なーんだ。話されていないことのほうが重要、なんてこと、いつもそうと知っていたはずなのに。話していたあのことは話されていないこのことに向かっていてそんな日はいつもこうなる。なーんだ。もう泣きすぎて疲れて涙になるような気持ちにもならないし身体もどう動かしたらいいかわからない。なーんだが空虚にこだまするだけの身体。なーんだ蝉、だな。蝉は短命でいいな。もう夏は終わった。暦上は。

眠れない、生きてたくない、という投稿が増える時間。わかるー、と思って知らない人にいいねを押し続ける。我先に。そうしている間は多分大丈夫だから。向こうはまだ昼間だという。まだ?もう?先に進んでいるのかこれから追いついてくるのかなんてどっちでもいい。闇ではない。それだけで羨ましいようなこっちでよかったような気もする。

何年も何年も毎日毎日男女問わず年齢問わず数えきれない人の話を聞いてきた。仕事だけではなく。

私は「シスターフッド」という言葉をよくわかっていない。調べればわかる程度にはわかっているがそれが具体的にどう可能なのかがわからない。性別問わずたくさんの人に支えられてきたが私の周りは圧倒的に女性だった。彼女たちは私に理不尽で過酷なことが起きたときもそれを中立的な態度で聞いてくれてどう行動を起こすのか起こさないのかを私が自分自身で考えられるように一緒に考えてくれる人たちだ。子供の頃なら身内や友人が、社会に出てからはやはり身内や友人や職場の人が支えてきてくれた。これはシスターフッド?あえてそういう必要ないよね、と思う。私が戦うべきかどうするか考える対象は男性とは限らなかったし。私の理解ではあくまでフェミニズムの運動の歴史と文脈において外部へ働きかる際、男性に対して必要となる連帯がシスターフッドで当時はあえてそう呼ぶ必要があったと思うが現在の日本でその用語を使用することはあまり適切ではないのではなど考える。この用語に限らず男女の分断が言葉の吟味がされないせいで生じてはいないだろうかなど考える。知性溢れる明快さで強い語調で女の傷つきが語られているのをみるとなんだか傷ついてしまう。それは誰の痛みの発露だろうか。それとも愛とか欠如とか不在とかなんとか、など考えてしまう。

わからない。人は恐ろしく自己中だ、簡単にいえば。私も含め。そしてそれは悪いことではないはずだ。ただ時折死にたくなるほどに苦しくなるからいい悪いの話にした方が楽なときもある。傷つけるより傷つかないこと。不安は別のものに置き換えること。「いいね」を微妙にずらした相手へ向けること。持ちつ持たれつの「いいね」の応酬に終わりはない。今日も見ないふりをする。

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精神分析

つもり

冷蔵庫から麦茶を出した。そろそろ作り置きしなくてもいい時期かな。カフェでもフローズンドリンクに惹かれなくなってきた。まだまだ暑いのに身体はもう冷やされることを望んでいないみたい。真夏でも冷やしてはいけないのだろうけど美味しいフローズンドリンクを飲むと確実に喜んでるよね、身体。

昨日は仕事の合間にずっと専門書と睨めっこして疲れた。勉強すると賢くなると錯覚できるのはそれをテストにできる場合だと思う。私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな、と自分の知的能力を否認できなくなることはあれど賢くなったと感じることはない。でもこの「私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな」ってこれまでも何度も思っていることだから現実って本当にすぐ忘れ去られ否認による錯覚の世界を生きやすいってことだね、人間は、というか私。

否認も精神分析では重要な防衛機制と考えるが、精神分析には「否定」という重要な概念もあり、『否定Nagation』というそのまんまの名前の短いが重要な一本の論文にもなっている(フロイト(1925),『フロイト全集19』岩波書店)。この論文の冒頭は患者の言葉だ。精神分析の方法である自由連想、つまり思い浮かんだことをそのまま言葉にする、という方法において患者がする語り口、たとえば「そんなつもりはないのです」という否定、ある表象内容に対して無意識的な抑圧が働いていたことはこの否定によって明らかになる、という理解を精神分析はする。「そんなつもりはなかった」、よく聞くし、よく使う言葉だ。精神分析は無意識を想定するため、そんなつもりはなかったが現に今こういう出来事が生じているということに対して二者で思考するプロセスといえる。

昨日、睨めっこしていたのは精神分析の専門書で『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(金剛出版)とラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典 vocaburaire de la psychanalyse』(みすず書房)。「表象」について考えはじめたらドツボにハマってしまった。先述した「否定」はフロイトが「思考」に不可欠と捉えた機能であり、事物表象と語表象の区別にも関わるため同時に考える必要があった。

それにしても難儀。精神分析が使う「表象」は哲学で使うそれとは異なるのはわかる。でも何度学んでも自分で説明できるほどにならない。フロイトの初期の著作からずっと登場する概念にもかかわらずスッキリしない。大体フロイトの概念の使用は年代によって変わっていくのでスッキリしてしまったらどこかでついていくのをやめているということなのかもしれないが私の理解はそれ以前の話だ。難しく考えすぎなのかもしれないが難しい。

精神分析でいう表象は対象の痕跡からきたものであり記憶系である。フロイトが否定という機能に重きをおいたことで患者との関わりを思考するための複数、あるいは反転可能なパースペクティブを意識することができるようになった。それによって内部と外部、良いと悪い、存在ー非・存在といった二元性の判断についての探求はもちろん、患者が破壊欲動によって思考すること自体を攻撃し、こころを動かし続けることをやめてしまうこと、それは変形とそのプロセスにおける破滅に対する恐怖からかもしれないなどの仮説もたてられるようになった。

ということがあるので概念の理解とそれによる思考は重要であり、捉え難くともそこに身を置き続ける必要がある。だが難儀だ。今日もまたちょこちょこやるしかないが。精神分析は現実の二者のものなので私が作業をやめるわけにはいかない。ただ無意識的にはありうる。それを「そんなつもりなかったんだけど」と済ませることなくそういう事態が生じたら生じたで何がどうなってしまっているんだ、と二人のこととして考え直す、今日もその繰り返し。

また月曜日。嫌になっちゃうことも多いかもしれないけど毎日が続いていること自体になんとか希望を見出せますように。

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不気味世代

舌が痛い。朝からしょっぱいものを食べたからか。

PCに向かうと自動でアップデートされていたようで立ち上がるのに時間がかかった。しかもこれはアップデート時は毎回なのだが立ち上がってアセクスビリティに関する選択の画面が出ると凍ってしまう。「今はしない」だっけな。選択肢が出るけどクリックがきかない。で、毎回再起動する。するともうその画面はでず「問題が発生したため」どうこうという画面が出てその部分へのクリックもきかず「〜秒後」に再起動します、というのを待つことになる。そしてようやく起動。このプロセスってもう何度も経験してるのだけどどうにかなっちゃうから問題にしたことがない。数年前の年末年始、高野山へ旅したときは確か原稿締切が近いのに全然進んでいなくて仕方なくPC持ち歩いていたらフリーズ。外は雪。この子(PC)はフリーズ。私だってフリーズしかけたがもうこの歳になるといろんなことに驚かなくなる。歳のせいではないかもしれないがとにもかくにも自分にはどうにもできないことはどうにもできないのだ。何かできる状態に持っていくしかない。宿坊での早朝の朝勤行の床の冷たさに比べたらなんでもないわ、と思いつつ雪のなかを散歩した。今だったら気楽に旅できていただけラッキーだったわ、っていうことになるね。1月2日に一番早く予約が取れた銀座のアップルストアに持っていき理由わからず回収。数日後、中身が新しくなって戻ってきた。原稿は間に合った。

鳥が賑やかになってきた。SNSにも鳥の声をあげている人がいる。画面に鳥はいないけど高く響くかわいい鳴き声がそこから聞こえる。私も今窓の外に鳥を感じるだけでその姿は見えていない。生まれつき目が見えない人は鳥の姿をどんな風に想像するのだろう。私は私が見えているのと近い形に想像しているのではないかと想像する。彼らが音から空間をつかむ姿を見ているとそんな気がするけど違うかもしれない。どの程度を「近い」というかという話でもあるがそういう意味でも私はやっぱり近いような気がする。今度聞いてみたい。

昨日、千葉雅也さんのnoteを読んでいてホテルというのは出来事の宝庫だなと思った。現実にあることもないことも起きる。殺人、密会、乱交、ドラッグなどなどの現場になったり別の時代への入口になったりする。映画や精神分析状況を思い出している。

ビジネスホテルはコンパクトで過剰も余剰もないが千葉さんの記事に出てくるようなホテルにはある。さらに鏡、固定電話、湯沸かし器、エレベーターといったホテルに必ずある物たちも別の時空を現実的、想像的に体験するには十分な力を持っている。同じ姿をしたドアがずらっと並び中では何が起きているかわからない。その羅列は反復でもあり三面鏡の前に立たされたような感覚にもなる。少し時空が歪んだかのように過去と今が錯綜する。インターネット以前も以降も知る千葉さんや私の世代はある程度歴史を持つホテルがもつような空間とネット上、つまり平面が持つ奥行きという空間の両方に引き裂かされながら生きてきた世代だ。

疎外によって「私」が発生する鏡像段階、去勢による言語の発生の段階(精神分析の用語を使用する場合)、私たちの世代は身体で関わり合う対人状況と記号から立ち上がる触れえぬイメージの時代の比重が変化する移行期を生きてきた。「戦争を知らない子供たち」という歌を思い出す。私は千葉さんのnoteを読みながら、私が今以上に歳をとってある程度ラグジュアリーなホテルでくつろぎながらその時代にはすでに気持ち悪がられているかもしれない身体に悪そうなソースがかかったステーキとかを食べているのをこれからの世代が見たら不気味だろうなと思った。想像上のホテルの鏡的な場所に映った老いた自分を見たような気がした。フロイは『不気味なもの』のなかで不気味なものを「慣れ親しんだ–内密なものが抑圧をこうむったのちに回帰したものである」としながらそれだけではないという含みをもたせた。そこには触れえぬもの、疎外状況があるのだろうと私は思う。

千葉さんのような語り部が必要なのはそういうわけだろう。アイデンティティなんて言葉はいずれ使われなくなる気がする。自分を語る見知らぬ他者が連続しない場所に複数存在するような時代に誰の声でどうやって自分の輪郭を確かめていくのだろう。触れられ抱えられ声や身体感覚を頼りにそうしてきたこの身体が断片化したり流出し拡散していく状態はもはやエリクソンのいう「危機」でもなくなるだろう。

本当はnoteの内容を具体的に書きながら共有したいが有料記事なのでぼんやりしたことを書いた。千葉さんのしていることも私が考えていることも結構重たいと思う。でもこの世代としてやれるならやっておくべきことというのはあると思うのでとりあえず続けよう。

今日は土曜日。いいこともありますように。

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新しいダム

昨晩のおかずの匂いがまだ残っている。台所の窓を開けた。今日も虫の声がした。もう蝉の声に戻ることはないだろう、来年の夏までは。来年の夏なんて本当にくるのだろうか。くるにはくるだろうけれど。不安がよぎった。

待ちくたびれた返事に返事をした。一瞬胸が疼いた。こういう時なんだな、不安になるのって、と少し笑った。おかしいからではなくてそうなるってわかっているのにまたそうなっていることに対して。

フロイトは、とまたフロイトが私の元へやってきた。昨日、私なんだかんだほぼ毎日ここでなんらかの本を取り上げている気がすると思った。メモがわりにツイートしておこうと思ったけど昨日分だけして面倒になってしまった。

フロイトは『フロイト全集 21』「終わりのある分析と終わりのない分析」(岩波書店)のなかで「分析を受けた人間と分析を受けていない人間とのあいだに本質的な相違をつくり出す」ものがあるのではないかという。フロイトはそこで分析によって作り上げられるのは「新しいダム」であり、それは「以前のものと較べ、まったく異なった堅牢さを有する。つまりわたしたちは、新しいダムに対して、それらはそんなにたやすく欲動の高まりの洪水にやられてしまわないだろう、という信頼を寄せることができる」と書いた。この論文は精神分析とは何かということを考えるための必読論文だ。そうか、私は、彼彼女は、あなたは「新しいダム」を作っているのか。大変なわけだ。

白川郷、飛騨高山へ向かう途中、ダム建設によって水没した村、元荘川村、現在は御母衣ダムのそばで高速バスが止まった。バスガイドさんが巧みな話術でそこから移転した桜の話をした。荘川桜の話だ。母も泣いていた気がする。

以前通っていた墨田区鐘淵に都営白髭東アパートという大きな防災団地がある。最初に見たときには思考が停止した。団地それ自体が防火壁になっており非常時にはシャッターが降りる大きな門がある。え?人が住んでるよね、と。もちろんこの構造は人を守るためでもある。でも人住んでるよね….。どうにも理解が追いつかなかった。

自分を新しいダムとして再建する。そのイメージを使えばその構造はそんなに矛盾を孕んだことではないのだろう。しかしリスクは大きい。まさに、だ。

フロイトはこの論文の最後では治療の終わりに突き当たる「岩盤」として去勢不安に基づく心的両性性の受け入れ困難の話もする。フロイトのダム建設過程において両性性は当然のものとされながらフロイト自身によって拒絶されたといえるだろう。そこはまだ「新しい」ダムではなかったのかもしれない。ダムや防災団地の建設過程にはマゾヒズムの問題を見出すこともできるだろうか。どんな建造物ができればそれは「新しい」といえるだろうか。それはどこまでいってもまだ途中のとりあえずの形なのかもしれない。

何はともあれもうこんな時間。地道にやることやりましょうか。まだまだ暑いですからお大事になさってくださいね。

cf.終わりのある分析と終わりのない分析」(1937) は岩崎学術出版社の『フロイト技法論集』にも入っています。

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中井久夫の本

3時過ぎ、揺れを感じて起きた。地震ではなかったらしい。

昨日、店が開くのを待ちながらTwitterを見たら友人が中井久夫死去のニュースを流していた。そうか、ついにと思った。

揺れを感じて目が覚めるなり中井先生のことを思った。大地震が来るような気がして少し怖かった。先生というほど直接的な関係はない。講演は聞いたことがある。本はずっと読んできた。引用もした。中井先生の下で働くために神戸へ越していった知り合いは数年前に亡くなった。東日本大震災の時、阪神・淡路大震災以降に先生が書かれたものを読み直した。土居健郎先生との交流が心に残り彼らと付き合いの長い分析家の先生と話した。

私が自分の書いた論考で引用したのは『徴候・記憶・外傷」(みすず書房)の主に外傷性記憶についての文章だった。この本は1995年阪神淡路大震災以降に執筆された論文を集めたもので、エピグラフのあるものとないものがある。

私が繰り返し読んだ「外傷性記憶とその治療ー一つの方針」のエピグラフは中井久夫が愛し、訳したポール・ヴァレリー『カイエ』からの引用である。

“体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。五〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。”

中井久夫が翻訳について書いた文章もまさにまさにだ。先日、「言葉の可能性を探る」〜心理士(師)が地域でひらかれるために〜というテーマでイベントをしたときに参考文献を写真でツイートしたが、その中の一冊『私の日本語雑記』(岩波書店)は今年最初に文庫化した。

中井先生は描画の天才でもあるがその言語感覚にはこれからもずっと刺激され続けるだろう。言葉がいかに人間を作り、動かしていくか、中井先生の言語での描写には静かな危機感が滲むようで私のような一読者の言語使用をとどまらせ再考を促す一面を持つ。

3時過ぎに起きて二度寝してしまったせいか少し疲れた。さっき調べたらその時間に実際に地震があったらしい。あの震災の体験を生き続け書き続け伝え続けた中井先生の言葉がこうして残っていることに気付かされる体験だった。

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短詩 精神分析 読書

Z世代のうたい手たち

空が赤みがかって水色とピンクが混じり合う時間。今朝もまだ風が強い。昨日、新宿の上空に次々現れる飛行機を見上げながら見送った。いつの間にか月が大きく出ていた。近くの森でアブラゼミが鳴いている。ミンミンゼミが鳴き始める頃には出かけよう。

キャロル・キングの優しい歌声を流しながら先日読んだ『ユリイカ』2022年8月号

<今様のうたい手>
何万回でも光る遠吠え! 初谷むい
川柳のように 暮田真名

を思い出していた。オフィスに置いてきてしまったので見直せないが同世代の二人の文章にはしみじみ思うところがあった。1990年代後半、2000年手前に生まれた子供たちだった彼らは短歌と川柳の世界で早くも輝き始めている、と書きたいところだが彼らにそんな陳腐な言葉は似合わない。

彼らはその時代のその年齢らしい悩みを抱えながら生活する中で偶然出会ったものに素直に反応し自分の好きなことをやっていたら早くもその才能を見出されただけという感じで自然体であると同時に短歌にできること、川柳にできることをしっかり発信している職人であるようにみえる。愛想もあまりない感じなのになんだかかわいい。自分のあり方を模索し苦しそうな様子も見せるのに今回のような散文で見せるバランス感覚はこの世代独自のものと感じる。AI時代の彼らは人間そのものと塗れなくても寂しさや苦しさを癒す方法を知っているからだろうか。若い患者たちの世界にもそれを感じる。もちろん私の主観に過ぎないが、彼らの作品や文章はエネルギーはあるのにこちらを巻き込んでくる感じがない。私は見かけがいくらカッコよかったり素敵であったとしても人目を気にしすぎではと感じてしまうと冷めてしまう。自分がそういうのをめんどくさいと思っているから上手に受け取ることができないのだろう。器が小さい。一方、Z世代と呼ばれるらしい彼らは自分がどう見られるかよりも自分がいる世界のことを気にしていて、そことどう折り合いをつけたらいいのかナルシシズムと格闘するのではなく小さな無理を重ねては解消し少しずつ進む形で自分を大切にしているように感じる。今回掲載された散文は文体も雰囲気もだいぶ異なるが、壊しては出会う、生きてるってその繰り返しだ、ということを二人とも書いているように思った。その循環によって過剰な表現(=死に急ぐ可能性)は遠ざけられているのだと感じた。

イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは主体が空想できるようになり、生き残った対象を「使用」できるようになるプロセスをこんな風に表現した。

‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’ 

ーWinnicott, D. W. (1971)

6. The Use of an Object and Relating through Identifications. Playing and Reality 17:86-94

邦訳は『改訳 遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」である。

「こんにちは、対象!」「私はあなたを破壊した。」「私はあなたを愛している。」「あなたは私の破壊を生き残ったから、私にとって価値があるんだ。」「私はあなたを愛しているあいだ、ずっとあなたを(無意識的)空想のなかで破壊している」と。

若い世代に自分たちの世代が負わせてしまったものを感じる。でもそれを生き抜く彼らのバランス感覚を頼もしくカッコいいとも感じる。あなたたちのために、なんて今更いうことはできない。ただ彼らの世代が「自分自分」とがんばらなくても大丈夫なようにできるだけ広く注意をはらいたい。早くもトップランナーになりつつある彼らはきっとそれに協力してくれるだろう。

「また会ったね」としぶとい自分に笑ってしまいながら卑屈にならずにいこう。といっても難しいから卑屈になっても壊れても回復しながらいこう。そういう力は強度の差はあるかもしれないが誰にでも備わっているはずだから。いいお天気。とりあえずカーテンを少しだけ開けるところから。

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精神分析

ラッパ、小径、猫

ラッパみたいに白くて大きな花を首を垂れるようにして咲かせているお花がその小径の目印になる。毎朝遊歩道を彩る花々を愛で時々写真に撮りながら歩いているが名前を言えるのはほんの少し。私がいろんなことを覚えられないのはお花のことだけではないのでもう仕方ないとして、お笑いでも作家でもなにかとなんでも詳しい俳句仲間たちが割と私と似たような感じでお花の名前を知らないのは興味深い。すごい数の俳句を空で言えたりするのに。あれ「空」でいいんだっけ。誦?まあいいか。「空で言う」なんてなんか素敵だものね。

そうそう、早朝から脱線している場合ではない、というほど今日はバタバタしていない、というかなんとなく毎朝こうするのがリズムになっているだけでノルマでもなんでもないし、これを書くぞ、と決めているわけでもないのだから脱線とかないよね。線路がないよ、元々。

お花の名前って調べるのに覚えられない。さっきも「ラッパ 白い大きな花」で検索した。「エンジェルストランペット」だって。え?そのまんま?いや、エンジェルの、とは思わなかった。確かに天使ってああいうラッパ吹いてる。トランペットね、なるほど。熱帯花木ですって。「天使のラッパ」で調べたら「黙示録のラッパ吹き」のウィキペディアがトップに。クリックしないでも見える範囲に

“黙示録のラッパ吹きは、『ヨハネの黙示録』に登場する災害の前触れとなる7つのラッパを吹く7人の天使達。”

って書いてあった。まあ・・・。やめてよね、そういう合図鳴らすの。でも「きみたちがラッパ鳴らしたせいでこんなことが起きたんだからね!」と怒るのは多分違うな。見かけからして彼らのアイデンティティって奪われてるものね。神様、やめて、ってことになるかしら。

昨日は「心理師(士)×言葉」イベント第一弾で公認心理師でアーティストの松岡宮さんの「小屋」へ行ったのだ。松岡さんはこの一軒家で障害のある方々のピアサポートをされていて、そうだ、この小屋のことを「公認心理師のいる白い小屋」と書いていた。そうだ、と思ったのは、とまたどうでもいいことを書こうとしてしまったけど戻ろう。この「小屋」が下の写真にある小径にあって、その入り口にこのラッパ花(こう言い換えるから覚えないのか)があったの。道に迷ってしまってもこれが目印になるかしらと思って写真に撮ってTwitterに載せた。松岡さんは「毎日来てるのに全然気づかなかった。やっぱり感性が」とか言ってくれたけどそのあと行ってみたらオレンジ色の車が停まってて見えなくなっていた。そっか、駐車場だもんね。松岡さん、感性とかではなくて視覚的に見えていなかっただけかもしれません…。しかも毎日きている松岡さんが気づいていないなら目印にはならなかったな、多分。

イベントのことを報告がてら書こうと思っていた気がするのだけど迂回に次ぐ迂回。寄り道しかしてこなかったからかな、幼稚園の頃から。田舎だからサイロ近くの小径を牛に塞がれて(牛にしてみたら座ってただけなんだけど)しばらく牛と見つめ合いながら立ち尽くしたあとトボトボ引き返してそこから走って学校へ行ったこともある。

昨日は少人数でそれぞれの現場での話をちょうどよく具体的にしながら言葉で表現することについていろんな話ができた。いつもならこう書き始めればサラサラ書けてしまうのだけど昨日のは多分書きたくないんだろね、私。荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』をなんとなく参考文献のような感じでツイートしたけどまさにそんな感じ。とても言葉にはできない曖昧でギリギリのところでなんとかやっているような仕事なんだな、この仕事。改めてその部分を自覚できてよかった。

そうだ、「地域」という言葉の使い方についてややピキッとしたね、私は、昨日。はっきりとは言わなかったけど。元々曖昧な区分でしかないこの言葉を「閉じる」方向で使用することに対しては今後もピリッとしていきたい。ピキッとするよりは。

良い時間、良い小径でした。猫と見つめあったり見送ったりしていたら松岡さんがちょうど玄関から出てきて「猫ちゃんいました?」と。いつもいる猫さんなのね。「今写真撮ってました」と答えたその中の一枚がこちら。

今週も始まりますね。またとっても暑くなるみたい。どうぞお大事に。

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精神分析

慣れない

これは本当に私が求めていることなのだろうか。求めれば求めすぎだといわれ我慢していずれ慣れれば関係が安定する。それは私が求めていることなのだろうか。「でも彼が」「でも母が」「でも子供が」と「でも」を使いたくなるとき、私の気持ちは何をしたがっているのだろうか。

言葉にしないことに慣れつつある。私とあの人とでは「普通」が違う。これがあの人の「普通」なんだから「普通はさ」と私が言ったところで「だったら」とまた突き放されるか謝ることで責められたと感じていることを示されるだけだ。できるだけ受身的に合わせていればそのうち慣れる。今はまだこんなに長く眠れもせずただぐったりと何も手につかない時間が続いてしまうけれど。

共に生活をする仲でもなければ言わない、見せないことはいくらでもできる。普通は会わないからこそ細やかに想像しあい思いやりあう部分もあるのだろうけど。また「普通」って使ってしまった。相手にとっては普通ではないのだから仕方ない。でもそんな風にできないことを「わかってくれたか」と言わんばかりにあるいは何か言いたげな私と「一緒にいてやっている」と言わんばかりに自分の都合ばかり。私にも都合があるんだよ、と小さい声でいうことも憚れる。

それでも私はこの関係を絶対に間違っているとはいえない。私が本音をいうことで相手が傷つくなら私も私がされたことをその人にしているということにならないか、と躊躇する。明らかに感じている理不尽さを「わかってもらう」ように伝える仕方がわからない自分がおかしいのではないか。

もし気持ちがもっと元気ならこういう状況になっていること自体を「間違っている」として自分の自由を模索できるのだろうけど。

簡単ではない。だからアドバイスはしない。一般論はいうが「普通」とかよくわからないものを探したりもしない。いい悪いの話もしない。あってる間違ってるの話でもない。ただあなたが辛くて悲しくて寂しくてそういう気持ちを隠したくてでもこれ以上嘘をつきたくなくて変わらないであろうその人との関係をどうにかしたくて眠れない日々を送っている、そしてそれを私に正直に話したら何かしらの評価や判断をくだされるのではないかと恐れ、そう私に理解されているにも関わらず上滑りする言葉ばかり使ってしまう。

私は人ってそういうものだと思いつつ「今、こういう感じみたいだ」ということを伝えていく。その時間は相手と私だけのものだ。そこで相手に向けられる眼差しは親が子供に向けるそれと似ている。が、日常は仕事ではない。

古来「川」は境界として機能してきた、という。

“そのほか、水辺、崎、みなと、山の端、道、関、戸、門、垣根、軒など、境界の表象は和歌にふんだんに登場する。空間の境界だけではない。季節や一日の時間の中でも、変わり目となる境界的な時間がしばしば選ばれる”

ー渡部泰明『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか」

今は時空をたやすく越えた気になれる時代だ。先月天の川を見上げた?私は18歳の七夕の日のことをここに書いた。今年の空のことは覚えていない。

今は自分の都合や気持ちを優先するためのツールがある時代ともいえる。だが、それが誰かの気持ちも動かしている限り不安や後ろめたさやそれをかき消そうとする衝動や攻撃性から逃れられることはないだろう。

「本当に」なんて言葉も相手がいる限り無理をしている証拠にしかならないかもしれない。なんとなく自然に委ねるように相手のことも自分のことも信頼できたらよいのだけど、と思う。

今日は日曜日。眠れなかった人がまだゴロゴロしていられますように。そうできない人がとりあえず動くというところまでできますように。願うばかり。祈るばかり。

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前髪と雷

また前髪を切りすぎた。思ったよりひどいな、と鏡をみて思う。

「すいません、自分で切っちゃって」というと「あちゃあ」という顔できれいに切り揃えてくれるその人はもう随分前から軽く頷くだけになった。お互いにいつものことだけど私はいつまでも少し恥ずかしい。その人と出会ってから一度も美容室を変えていない。出産でお休みをされたときは私の街でやはり小さな美容室を一人で開いている友人を紹介してくれた。その人にも前髪を揃えてもらった。私はずっと開業を見据え部屋借りをしながらいくつかの仕事を並行してやってきた。今は自分のオフィスでのプライベートプラクティスがメインだ。美容師と心理療法家の仕事はよく似ている。その人は私の開業を心待ちにしてくれてとっても喜んでくれた。一年に数回しか会わないけれど会えばずっと話をしている。お互いのプライベートもそれなりに知るようになった。その人が隣町で女性一人で小さな美容室を開き、たまたまそれを知って通い始めてから10年以上が過ぎた。本当にいろんなことがあった。

昨晩は眠りに落ちてまもなく雷の音で目が覚めたようだった。カーテンを真っ白くして入り込んできた光のせいだったかもしれない。うめき声のようないびきのような音が一気に高まってバリバリと空を切り裂く。白い光を浴び、大きな音を聞きながらぼんやりしていたが眠れなくなってしまった。バリバリ音を録音してみようとiphoneを手にとったがこっちがそのつもりになると鳴ってくれない。寝る前に出したメッセージにマークが灯った。まだ起きているのか、あるいはこの雷で起きてしまったのか。もう遠くにいっちゃったのかな、まだこんな光ってるけど、とiphoneを枕元に置くとまた地響き。くるぞ、バリバリ、と思ったけど結局録音せずただ聞いていた。

しばらくしたらリンリンと雨が手すりを叩く音が聞こえてきた。まだ降っていなかったんだ。この音が消えたら雨が手すりを全部濡らしたってこと。雨はどんどん激しくなる。

「ちょうど雨と雷が。すいません。」と申し訳なさそうにしながらワクチン接種会場の出口のドアを開けてくれた。「すいません」だってと思いつつ笑ってお礼をいうとその人も笑って見送ってくれた。回数を重ねるごとに動線がはっきりし、案内がスムーズになるワクチン接種。初めての会場だったが知っている街なのに思ったよりずっと近くて早く着いてしまった。「大丈夫ですよ」と熱を測ってすぐに待機場所へ。スムーズ。医療従事者として高齢者の方々に囲まれて待っていたのだが携帯電話の使い方やご夫婦の連携などみなさんの行動がひとつひとつ興味深く面白く「元気でいましょうね」と呟くように思った。

動かすと腕が痛重たいがこれまでと同じように大きな副反応は出なそうだ。これからということもあるのだろうけど。ワクチン接種会場を出て雷の大きな音に怯えながら駅に急いだ。ポツリポツリと大粒の雨が落ち始めすぐに傘を傾けても防げない雨に変わりジーンズが濡れた。たまたま晴雨兼用の大きな傘を持っていたのはよかったがジーンズは失敗。目的地に着くまでは不快だったが何事もなかったかのように戻ってきた強い陽射しですぐに乾いた。空、すごい。

講談社学術文庫から『風と雲のことば辞典』というのが出ている。ウィトゲンシュタイン研究者の古田徹也さんがブックフェアか何かで紹介していた。開いてみる。「浮雲」「浮き世の風」「動かぬ雲」「丑寅風」「丑の風」ふむふむ。昨日の風は何?昨晩の風は何?

「白雲糸を引けば暴風雨」

「ハチの巣が低いと風の強い日が多い」

などなどもある。そうなのか。地方によっていろんな観察から生まれた言葉があるのね。私は無知すぎるな。まあ、そういう人のために辞典というのはあるのだろうから助けていただくことにしましょう。

そういえばともう一度鏡を覗く。おでこが狭い上にこの前髪、風に揺れる長さもないな。

警報の出ている地域の方々もどうぞご安全に。皆様、ご無事でありますように。

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精神分析

また言葉

何かを捕まえにいくような聞き方をするときもあれば囚われて巻き込まれているなかでなにか聞こえてくるのを待つときもあるけどどちらにしてもそれが臨床である以上どっちかの言葉ということはないから難しい。

なんだかわからないことばかりで暴走したくなるときもあるけど暑いのでやめよう。まあ相手にも世界にも色々あるのだろう、と思うことにしよう。

暑いのでやめよう、となるエネルギーの乏しさ。老化とも成長とも。気持ちまで沸き立つのいやだからね、と私が私の感情を拒否する。上手くなったものだ、と自分の心身の連動に笑う。正直そんな暇ではないという思いもある。そっちにエネルギーを使うならこっちだろうと冷静な自分に静かに言われたような気もする。

言葉のことばかり書いている気がするが仕事がそうだし言葉には苦しめられもするけど面白い。トークも下手だし、好きな人を怒らせるし、文章もこの程度だけどだからこそ言葉への興味は尽きない。自分の態度も言葉の使用を辿り直すことで振り返る。人間の身体の水分量と同じくらい言葉が私を占めていると推測する。だからかな。なんだか離れられない。

私の知っている言葉の才能が豊かな人たちはお互いを収集しあうのが好きでその人自身のことなどどうでもいいようなのだけどそんなもんなんだなぁ、と思う。葛藤のない気持ちの良いところだけ受け取ればいい関係が必要らしい。私はこの表面だけ触り合うような言葉だけの関係をやらしいなと思って眺めている。そこから恋が始まることもあればハラスメントが始まることもあるだろう。冗談で今書いたようなことをいって怒る場合なんてなおさら。

大体のことは言葉から始まっている。誰かを気持ち良くしながら誰かを傷つけることを巧みにやってのけるのも言葉だ。どの言葉も反応もその人だけに真っ直ぐ向けられているわけではない。こういう複雑さを知りつつそれを利用する人と反応を控える人がいるわけで、それを人によって使い分けている人もいたりする。もちろん「そんなつもりはない」と思う。

精神分析臨床で二人の間でキーワードになるような言葉が生まれることがある。生まれるといっても既存の言葉ではあるが二人にとってはそれがターニングポイントになったり支えになったりするような言葉だ。週一回の面接ではこの言葉の力を非常に感じる。これまで自分が囚われ苦しめられてきたと感じてきた出来事や関係を治療者を通じてある程度やり直すなかで言葉と感情と行動がバラバラとしたものからまとまりをえていくと患者は自分がどうしていきたいのか、それがいかに無理か、あるいはこういう方向でなら可能か、とやや未来志向になってくる。変化をあまり恐れなくなってくる。精神分析の理論は「原初の」という言葉をよく使うがそういうものを想定はするが、私は週一回の面接ではそれを想定しなくても日常言語でこういう変化は見込めると考えている。

IPA基準の「精神分析」は週4日以上のセッションを継続していくことが条件だがそれを体験してから言葉がいかに役に立たないかということを実感するようになった。それでも言葉しか使えるものがない。そういう状況を乗り越えていくのも言葉だ。言葉に対して不信感を持っている場合でもないが信頼して使うこともできない。しかし希望を持つしかない。「原初の」というときそれは主に不安に対して用いられるだろう。何がどうなっているのかまるでわからない状態と言ってもいい。意味と言葉の繋がりをゆるくすることでなんとか生きてきた人たちの言葉の使用を精神分析は一度解体する。何を言っているかわからないという状態が始まる。週一回ではとても抱えきれなかったものたちと私たちは遭遇する。言葉巧みな人たちがみせるような言葉の使い方が可能なのは初期だけだ。沈黙が増える。体験したこともない恐れや苦痛を表現する言葉がまるで見つからない。戸惑い、泣き、激しく怒り表現が退行していく。それでもこれまでの言葉を使用し上滑りを繰り返しながらやっていくしかない。

週一回でも普通の人間関係よりはかなり親密になる頻度だとは思うが精神分析の設定は夫婦関係や親子関係のあり方と近い。そこで生じる言葉にならなさ、どうにも抑えきれない感情、外からは見えない暴走、誰でもいくらかは思い起こせるだろう。周りにはわからない。言葉を何かの操作のために使うことはできない。言葉では通じない、と絶望したところでそれを伝えるのも言葉であるという絶望だけはかなりの程度共有されているはずでこれは支えになる。通じるより通じないことの共有がまずされること。言葉の使用の不自由さに戻ること、ナルシシズムと共に言葉が肥大し、自傷他害へと利用されないためにそれは必要なプロセスとなる。防衛パターンばかり身につけてやり過ごしてきた人生をどうにかしようとしているのだからそれは致し方ない。始まりに戻ることは誰もができることではないし別に望ましいことでもない。目的のためのプロセスとしてどうしても生じるし、これが生じないと別の動きが始まらないというものでもある。

あー時間切れ。暑いから仕事いくのもやめておこう、とはならないからいきましょう。みなさんもお大事に。

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ここにもアリス

夜中ほどむっとした空気ではなくむしろ少し涼しい気がする。そんなはずないか。今日だって猛暑日のはずだ。情報ではなく自分の身体で確かに感じられることの少なさ。私だけの問題でもなかろう。おはようとおやすみの挨拶さえすれ違う時代。「価値観が違う」という言葉を離婚記事とかで見るたびに「違うの当たり前だろう」と思ってきたが「時間や情報に対する価値観が違う」とか言われたら「なるほど」と納得してしまいそうだ。それだって違うのが当たり前ではあるけれど。

一緒にいるってどういうことなんだろう。

わからなくなる。自分のしていることが。思考と行動が乖離する。老眼鏡をかけたはいいが何を持ったらいいかわからない。軽い認知症のようだ。しばらく考えてからiphoneを探し手に取る。呟きはあるのに返事は来ていなかった。何かを手に取らなくても見える世界を見てればこんな寂しさは知らなくてすむのだろうか。

解体。言葉も自分も。『不思議の国のアリス』と突然再会したことは書いたと思うがさっき何気なく手にとった多和田葉子『穴あきエフの初恋祭り』を読みながらこれもアリスの話だと気づいた。

“朝目が覚めたら、睡眠中かかった呪いを吹き飛ばす勢いで、寝間着のボタンを引きむしるように外せばいい。ボタンをイメージするのは簡単だ。半透明の桃色の貝殻の頭がクリッとボタンの穴を通ってはずれる時の指先の感触を思い浮かべるのも簡単だ。ところが、イメージ・トレーニングをすればするほど、脳と指の距離が遠くなっていって、どうしてだろうと思ってみると、腕が長くなっていた。身体がどんどん大きくなっていってしまう時のアリスは、不思議の国で自分の身体が自分のものではないことに気がつく。”

ー137頁「てんてんはんそく」『穴あきエフの初恋祭り』(文春文庫)所収

輾転反側。眠れぬ夜を繰り返すうちに少しずつおかしくなる身体が自分のものではないと気づくならまだいい。不思議の国にいけなくなってしまったアリスは病気になってそれを作り出すかもしれない。

洗濯が終わった、と洗濯機が音楽を鳴らした。最近はなんでもメロディつきだ、ということは以前にも書いた。今日は火曜日。こうして毎日書いていたら少しは時間感覚がはっきりするだろうか。会いたい人に会えなくても解体せずにいられるだろうか。私もあなたも私たちの言葉も。

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止まる。動く。

夜明け前の曖昧な明るさ、静けさが好き。鳥たちが鳴き始めたら世界が少しはっきりしてきた証拠。

複雑な状況をどうにかこなそうと意識的にも考えるが多くの場合仕事をするのは無意識だ。無意識というのがあれなら、私が意識的に何かをしている感じがしないといえばいいのか。胸が苦しくなるような出来事に涙や怒りやどうしようもなさを感じてもじっとそこに浸る。今具体例を書こうとしたが、こういうときもセーブがかかる。私がどうかしそうになる瞬間を多く体験するのは親密な関係においてだけど、親密な関係であることを権利として奪われていると感じ毎日絶望しながら戦っている人たちもいるだろう。差別的な発言でない限り、私が何かと比較して表現を抑える必要はないとわかってはいるし、そうすること自体が何か偉そうな気さえするが意識して考えようとしなくてもこういう考えが次々に浮かんでくる。辛くて悲しいけどそれらをじっと観察している自分を感じる。それすら私がそうしようそれがいいと思って選んだ方法ではない。声をあげる権利は誰にでもある。悲しむこと寂しがること怒ること自体に抑制をかける必要などないはず。そう思っても相手のことを誰かのことを想うと私はこうしてじっと自分を追う以外なくなってしまう。こんなに書けない、書いては消すみたいな状態になるときこそ不用意に最初に感じた強い気持ちをぶちまけたくなるときかもしれないが自分でもよくわからない。

こんなときも「とりあえず」だ。「動こう」と思う。世界が二人でできていない以上、私があなたが誰かに向ける感情はすでに二人だけの関係で生じたものではないからものすごく複雑だ。憎しみや怒りも本来特定の人に向けるものではないはずで、だから私たちは苦しむ。でもこの立ち止まる感じなく、みながみな自分を制止する自分や誰かを振り切って「声をあげる」ことを善として動き始めたらそれはそれで相当の無理が生じているだろうし、誰にも気づかれないように少しずつなんとか関係を紡いできた日々をすべて同じ色で塗りつぶすようなことにもなりかねないのではないか。

私は止まる。いつも通り動く。その両方を今日も繰り返す。無意識が仕事をしてくれることを願いつつ私は私の仕事をする。私も私たちの関係もものすごく複雑な世界にあるのだから半分委ねつつ自分たちを観察し想いあい小さな関係を大事にしていけたらいいのに、と辛くなりながらも願う。測定しえない何かはもうそうなっていると信頼する以外ないが盲信するべからずではある。普通に見て普通に聞いて自分の感じることを大切にする。何を書いても無理そうな気分なときもあるけど、そんなふうにできる時間が少し先のあなたや私を守ってくれる気がするのだ。さぁ8月、と意気込むには暑すぎるので無理せずいこう。熱中症気をつけようね。

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グッドイナフで

蝉がジージーずっと元気。早朝、洗濯物を干しながらなんか蝉って世界をのっぺりした感じにするよね、と思った。いつもの森で鳥はまだ眠っていたみたいだけど流石にこの時間になると元気いっぱい。さっきからずっと同じリズムでピッピピーってないてるけどなんだい?というか私も誰にも通じない言葉であなたに話聞いてもらいたいことがあるよ。

ウィニコット (1971)は「心理療法は遊びの領域、つまり患者と治療者の遊びの領域が重なり合うところで行われる」と述べ、オグデン (2006)は「分析家と被分析者が「共有された」(しかし個人的に体験された)無意識的構築物の「漂い」(Freud 1923)を感じ取るところの、もの想いの状態を育むための努力」が重要であるとした。これらは精神分析が相互性に基づいた間主体的な場の生成によって展開することを前提としている。

実際の治療はこの前提を作り出すところか始まるといってもよいだろう。サリヴァンがいう共人間的有効妥当性確認(consensual validation)にいたる過程がまず必要と言い換えてもいい。

治療のみならずお互いが前提を共有することのなんと難しいことよ。治療と普段のコミュニケーションは状況がだいぶ異なるけどプライベートでもコミュニケーションは常に悩みの種。見て見ぬふりをして、なんとなく何も感じていないふりをすることもしばしば。「私だったらこうする」「私だったら絶対しない」ということはあるけどそれは私の前提であって二人の前提ではないことの方が多い。お互い大切なものは違うし、大切にする仕方が違う、だからといって想いあっていないわけではない。ただその出し方は違う。ずればかりだ。そこに攻撃性を含む場合だってある。でもそれだって人間関係では当たり前のこと。通じない、通じさせたくない、隠しておきたい、お互いの自由を守りつつお互いを悲しませたり寂しくさせたりしないことは多分不可能なんだ。我慢して悲しんででも寂しくて泣いて怒ってぶつけてまた辛い状況になってそれでも乗り越えられたら乗り越えてあるいはいずれ回復するまで壊れていく。できたら壊れない方向へお互いが最大限の努力をできることを願うけどそれも相当不可能なこと。私たちは委ねる形ではなく歪んだ形で自分の欲望を実現しようとする動物だと思うんだ。

治療状況はこの不可能と思える努力をお互いがかなりの程度やり遂げられる設定になっている。時間と場所を守り金銭のやり取りをする。設定をかたくすることで関係に生じる曖昧さに有限性を持ちこみ仮の形を与える。出典をメモするのを忘れたが北山修は言葉の曖昧な使用に着目し、「何かをはっきりと言うことは常に選択であり、同時に別の何かを言わないことでもあるが、曖昧化obscurationは、日本語に必要な基本的レトリックであるとして、それを「置いておく」ことの重要性を述べた。日常生活では関係が近くなればなるほどこの「置いておく」ことができない現実がくっついてくるが、治療状況はそれがかなりの程度可能なほどにいろんな要素が持ち込まれない設定になっている。錯覚を可能にするにも条件が必要だ。空想の余地を与えること。それは隠されていることがあからさまになりやすい現実では難しい。

現実の難しさを考えれば考えるほど治療の枠組みがいかに重要であるかが見えてくる。欲望を飼いならす、ということが精神分析では言われるがそれも程度の問題だ。私からしたらグッドイナフな程度に、というしかない。悲しんだり寂しがったり怒ったり、そういう感情を相手が持っていることに気づいたり、そういう能力を持つことでさらに苦痛だったりするわけだけどそれらをなくしたら人間ではなくなってしまう。だからグッドイナフで。あえて見るなの禁止を破ることもなかろう。そこは悲劇の発生の場でもあるのだから。

今日もひどく暑くなるらしい。まずは無事に過ごそう。

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アリスの余裕

アリスは不遜でパンクな女だ、という鈴木涼美さんのコラムに全くもって同意。意味の占有をめぐる攻防が生じがちな精神分析臨床においてルイス・キャロル『鏡の国のアリス』にでてくるハンプティ・ダンプティは象徴的だ。元々はマザーグースに登場する人だかモノだかよくわからないこの卵そっくりの何かの言葉。アリスにはいくつもの翻訳があるがここでは河合祥一郎の訳で引用する。

「わしが言葉を使うときは」ハンプティ・ダンプティはかなり軽べつした調子で言いました。「言葉はわしが意味させようとしたものを意味する──それ以上でも以下でもない。」

「問題は」とハンプティ・ダンプティ。「言葉とわしのどっちがどっちの言うことをきくかということ──それだけだ。」

ハテナハテナを浮かべつつまあなんとも偉そうなと思う。 アリスも混乱している。が、ほとんどそれをどうにかしようとしない。ただこれ以上めんどくさいことが起きないように丁寧にうまいこと言って切り抜けようとしているアリスは全く可愛げがない(実際そんなのいらないよね)。私はこれを第二次性徴を迎え混乱しはじめる思春期心性の特徴として捉えてもいる。思春期の彼らとの心理療法は深刻さと軽薄さを揺れ動く。使われる言葉も喃語と若者言葉と覚えたての敬語となど伝わらない言葉と伝わる言葉の間を行き来する。

たまたま自分が意味の管理人だとでも言いたそうなハンプティ・ダンプティに助けを借りて精神分析臨床を描写する試みをしていた。そんなときちょうど「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」のお知らせもみつけ、鈴木涼美さんのコラムもみつけた。こういうのは出会い。本と出会うときと同じ。惹き合う何かがあるらしい。

鈴木涼美さんも引用している『不思議の国のアリス』の冒頭のアリスも驚くほど呑気。

「うさぎを追ってアリスもすぐにとびこんだのですが、全体どうやって戻ってくるか考えてなどいなかったのでした。」

アリスの好奇心は常に現実的な未来のことよりも今ここでなにが起きようとしているかというところにある。

「というのも落ちていきながら、まわりを見わたして次には何がどうなるのかふしぎがる時間があったからです。」

まるで夢の時間のようだ。そしてよく喋る。なんだこの余裕は。

you know.を混ぜながら独り言を言い、

「口に出してみるとなんだかすごく大人の気分」

と自分を状況に委ねてそれがどんな感じかを描写するアリス。ほとんど自由連想だ。言葉を口にしてみることが自体が楽しい。口にしたら感じたこの気持ちが面白い。読んでるこちらもワクワクする。

まだ20代の頃、研修か何かで浜名湖に出かけた。夜、みんなで食事をして宿に戻る道で、普段からよく懐いている知人の子供たちになにか歌ってと頼まれた。が、私は歌詞というものをほとんど覚えられない。歌詞だけでなく曲も覚えられない。何度も何度も歌った歌でもそうだ。なので適当な言葉で適当な節をつけて彼らと手を繋いでぐるぐる回ってみた。彼らはゲラゲラ笑いながら私が2度と繰り返せない適当な歌詞と節を何度も繰り返した。こんなのでいいのか、と思った。盛り上がりすぎて興奮を収めるのが大変だった。ちょっと失敗したと思いつつめっちゃ楽しかった。

アリスはハンプティ・ダンプティと話すときも相手の反応を見つつ自分の感覚に開かれている。親の顔色を気にしつつ実は考えているのは自分のこと、という思春期っぽさが生意気で楽しい。可愛げのなさがかわいい。

思春期臨床には勢いとvividさが必要だと私は思う。彼らを押し流していきそうな心身の急激な変化を私たちはすでに体験している。彼らよりは乗りこなすのに慣れているはずだ。一緒に失敗しよう、一緒に楽しもう、激しい言葉の応酬、暴力的な動きもあるがどうしようもなくそうなるんだよね、大丈夫、これ繰り返しているうちになんとかなるよ、と半分翻弄されつつ半分余裕でもある。呑気さにも発達段階があるのだろう。

ナンセンスを遊ぶ。わかることばかり求めない。わからないはわからないでいいのでは。今日は土曜日。7月も明日で終わり。それは確かみたいだよ。それぞれ良い週末を。

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自分方向

今朝の産地のわからないスイカも美味しかった。夜の間に干からび始めていた身体に甘く染み渡る。失っては取り戻す。毎日その繰り返しだね。とスイカを食べただけで大きなことを言いたくなるのが美味しかった証拠。暑い中疲れ切ってたどり着いた喫茶店で「天国!」となるのと同じ。・・・朝から適当なことを書いているな。だって美味しかったから。

人が嬉しそうにしているのをみるとこっちまで嬉しくなる。仕事だとそれが症状である可能性にも注意を払っているけど話されていることと起きていること、言葉と表情と伝え方とが一致しているとその嬉しさが私にも染み渡る。美味しさ、嬉しさ、いわゆるポジティブな言葉で表現されるものの方が浸透性がいい気がする。もちろん対比しているのはネガティブな言葉。どちらにしても字義通りの意味ではなくて文脈によるけど。

精神分析における転移状況は常に自己言及的。精神分析についての一見かっこいい文章が胡散臭く鼻につくのはこのことと関係していると思う。精神分析は被分析者(患者)のためであって分析家(治療者)のためのものではない。そうなんだけど投影同一化によってお互いの距離がグッと縮まり、お互いがお互いを乗っ取って自分のことを相手のことととして言葉にしたり感情をぶつけたりする事態が必然的に生じてしまう設定なのでどことっても自分がいる、なに言っても自分のこととなりがち。精神分析家になるために精神分析を受ける必要があるのはこういうプロセスを自分の身体に染み込ませておかないと介入や解釈といった治療者の機能をどこでどう使っていいかがわからず、自動的に反復的で不毛な出来事の繰り返しに参加することになるからだ。それはつまり自分を失う=相手も自分を失うことであって自己変容や新しい言葉の生成どころか患者が反復してきた「またか」という絶望や希死念慮に加担しつつ自分もその状態になるということ。治療によって変化を目指さない、病理を維持する方向へ行くという意味でこれを共謀ということもできるが、それすら自分たちに向けられてやっていることなので自分で自分のこと傷つけてなにやってるんだよ、となってしまう。こういう事態なので誰かが精神分析のことを語るとき、語る人は患者のことを語っているつもりでもそれを聞く方はそこにナルシシズムを見出すのだろう。実際、ナルシシズムこそ日々の私たちを説明する部分は大きいので語る方が自分とは関係のない第三のちょっと変わった治療法として精神分析を語った方が耳を傾けてもらえるのでは、と私は思ったりもする。もちろんフロイトって名前は聞いたことあるけど精神分析ってなに、という人の方が多いし、そういう場合は先入観のない関心を持って聞いてもらえるので自分がやっていることをそのまま話せばいいだけなんだけどね。たまに精神分析に向けられる批判に「またか」と思ってどうすりゃいいんだろうねと頭を悩ますことがあるのだ。

今日は出かけるまで洗濯物を外に出しておこう。この日差しなら短時間でも効果ありでしょう。昨日みたいに突然の雨に降られたら嫌だから忘れずにいれていきましょうね>自分。

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精神分析って

朝から晩まで面接とSVと時々保育園巡回やコンサルテーションと自分の分析とSVとでバタバタしていて少しずつ進めたい勉強などもあるが疲れてしまってなにもできない。それも本当だけどいろんなことに心揺さぶられやすいのか気になることがあるとあっという間に1時間とか固執してしまってあーあとなることもしばしば。

ブラインド越しの光はまだ朝の色だけどすでにとても暑そう。

フロイトを読むのは楽しい。面白い。この人なんでこんなこと考えちゃったんだろう、と思いながらその思考を辿っていくと「ああ」とその熱い思いを感じたり皮肉にウケたり、背景の出来事にしみじみしたりして理論としてだけでなく楽しい。

治療としての精神分析も苦しくも楽しい、楽しいというと語弊があるかもしれないが勉強だってなんだって知らないことに取り組むには結構な苦痛が伴うわけで、でも驚きや喜びも多いわけでそれと同じ。ただ取り組む対象が教科書や本ではなく自分なのでそれは一人では無理ということで鏡のようでもあり別の考えや感情の動きを持つ他人でもある特定の人との密な関係のなかで結構な時間をかけて変わっていくプロセスになるからやってみないとその意義はわからないだろう、になってしまう、説明するとしたら。でもよく考えてみて。いやよく考えなくても私たちって日々ものすごく曖昧ななか大切な人の気持ちを一生懸命考えたり悩んだりするよね。それって答えのない世界だし、なんでそんなことに囚われちゃってんの、と他人だったら思うようなことでも1時間、2時間、夜中中悶々としたりして、爆発したり我慢したりしながらなんとか自分のこころ(想定だよ)ができることをしようとがんばったり耐えきれなくて壊れそうになったり実際に壊れてしまったりしながら生きている。その状態を治療者と一緒にみていくといつも同じ反応しかできない思いがけない理由が見えてきたり、わからないものをわかろうとしなくなったり、それまでは自分では気づいていなかったけどいろんなことにがんじがらめだったなと変わりながら気づいてなんとなく楽になっていく。それって生きているプロセスで多かれ少なかれ誰もが何度も体験してきていることだと思うのだけどそういう自分を実感して自分の使う言葉が自己中ではなく誰かと言わなくても通じ合うためのものになるプロセスを作り出しているのが精神分析の設定。中身より形式といってもいいくらいこの設定と方法は大事。自分を変えたいと願ったときに宗教やスピリチュアルな何かに一時的に助けられることはあると思うけど、精神分析にはそういう万能的な部分ないので地道。でも部分的には即効性もある。でも速攻で傷ついたりもする。なんなんだ、と思うかもしれないけど人との出会いって希望もあるけど賭けでもあるし偶然性に委ねる部分がとても多いのは誰もが経験しているはず。精神分析は歴史ある理論とその理論を確立してきた強固な設定に基づく膨大な臨床体験の知の集積によって、その暴力性に自覚的でありながら目の前の相手の今ここが示すものに関心を向け続ける。

さっきまですぐそばで早いリズムで高い声で鳴いていた鳥がいなくなった。よくあんなに早く鳴けるな。上質ソプラノ。

関心を向ける仕方もこうやって書きながら鳥の声を聞いているような仕方もあるけど精神分析の場合「平等に漂う注意」というのがその方法。これには訓練が必要なので訓練をしているわけだ。

精神分析臨床はとても泥臭い。遅々として進まず、愛憎入り乱れたり、反対に全く他人に関心のない自分に気づいたり、ものすごい情緒の揺れや空虚を体験する。なので数行でかっこよく記述できるものではない。そんな特別なものでもない。設定と方法が独特なだけで生活の中で自然に生じていることをやっているだけだ。普段はほとんど意識しないことに網羅的に注意を向けていくことで自分を楽にしていく。

パソコンが急に落ちた。一部消えたけど仕方ない。にしても急に堕ちるの嫌だなあ。なんでだろ。まぁここは時間切れということで。熱中症に気をつけて過ごしましょうね。

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自由連想、要約、フロイトを読む

いつのまにかをいつの間にか。自由連想ってそういうことだと思う。だから毎朝、家事や準備をしながらさーっと書いている。さーじゃないか。さーっと風のように書ければよいのだけど実際はベタベタダラダラしたこんな感じの文章になる。タイプの音だけ聞いていると軽やかだけどね。

今朝は雨。結構な音がして目が覚めた。今日もバタバタと移動しながらの長丁場だ。雨止むといいな。

千葉雅也さんのnoteを購読した。以前も一度購読したのだけどその頃は千葉さんのに限らず文章自体を読むのが苦痛で解約した。昨日だったか千葉さんの短いツイートに「ああ、これはいいな」と感じた。今日流れてきたnote更新のツイートにその時の感触が重なった。こういうのは出会いだろう。なんとなく買った。買ってよかったと思いながら最近隙間時間にまた本を読めるようになったことに気づいた。千葉さんの文章は思ったより短かった。私が毎朝書く字数と同じくらいだった。ただの自由連想を誰にともなく書き綴っている私と料金以上のサービスを提供する千葉さんという比較をしてどうというわけでもない。違う人が書けば違うものが出てきてあとは読み手におまかせ。

自由連想はオープンテクストといえるだろうか。フロイトの『夢解釈』はウンベルト・エーコのいうオープンテクストで”baroque”style、その要約版としてフロイトが渋々書いた「夢について」はより”classical”styleで教訓的、と書いたのはReading Freudの著者J.M.キノドスだ。邦訳は『フロイトを読む 年代順に紐解くフロイト著作』(岩崎学術出版社)。この本はキノドス自身が読書会で試行錯誤してきた方法を元に書かれているのでフロイトを読むときには必携だ。まず読むべきものはここに書かれている。ちなみにキノドスは初学者には「夢について」を『夢解釈』より先に読むことを勧めている。『フロイト全集6』ドラ症例と同じ巻に入っているがよくあれをここまでまとめたな、というか、フロイトは超人的に要約がうまい。グラディーヴァの物語なんてフロイトの要約の方が原作より魅力的なのではないかと思わされる。ちなみに私がその要約力に非常に助けられているのは東浩紀さんと哲劇のお二人(山本貴光さんと吉川浩満さん)だろう。こういった助けがなかったら再び本を読む気力も出なかったかもしれない。

『フロイト全集9』に収められている「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」はラカンとは異なる意味での応用精神分析の始まりの論文である。題名から想像される通りこれも『夢解釈』から派生した論文で始まりはこうだ。

「夢の最も本質的な謎は著者の労作によって解かれてしまったのであり、それが確定したこととして適用している面々のあいだで、ある日好奇心が目覚めて、そもそも一度として実際には見られたことのない夢、つまり、詩人によって創作され、物語の脈絡の中で架空の登場人物たちにあてがわれる、あの夢の面倒も見てみようではないか、ということになった。」

「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」(1906)『フロイト全集9』所収

なんだか大きなお世話みたいな書き出しだが、フロイトは詩人は自分と同じ立場であり同士だという。そして彼らの作品に含まれるいくつかの夢が

「いわば親しげな面もちで自分のことをじっと見つめ、『夢解釈』の方法をわたしたちにお試しあれ、といざなっているかのようだった、と思い起こしたのである」

とその魅力に取り憑かれてしまったようなのだ。主人公の考古学者ハーノルトがレリーフのグラディーヴァに恋をしたように。そして、1903年に出版されたこの書物を読むのがいいけど一応要約しておくね、という感じで書かれた要約が面白いのだ。前にも書いたけど小此木先生も恋をしていたな、グラディーヴァに。グラディーヴァ論文は文学と精神分析の橋渡しをした重要な論文だし、色々な論考も出ているのでそれを参照するのも面白いかもしれない。

昨晩の私の夢にはユロおじさんみたいな人と犬が出てきた。ジャック・タチの「ぼくの叔父さん」大好きな映画だ。またなんだかんだ『夢解釈』にちなんだことを書いてしまった。しまった、ということでもないけどね。

まだ雨の音。今日はずっと降るのかしら。滑らないように、濡れたあと冷房で風邪ひかないようにどうぞお気をつけて。

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精神分析

「覚醒時の独特面の気質や感覚が、夢生活の中にも引き続き現れるものなのかどうか、現れるとしたらどの程度までか」

第四回Reading Freudで『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献」 (F)夢の中での倫理的感情の冒頭である。

これに対してもいろんな人がいろんなことを言っているのをフロイトは拾い上げている。夢の中では誰だってすごいことしちゃってるもんだというのは前提にあるようだけどそれを覚醒時の自分と統合する仕方についてはそれぞれの道徳観が顔を出す。

「カントの定言命令は、一蓮托生の相棒のようにわれわれに付きまとっているので、われわれは眠っている間もそれを手放すことはない。」とヒルデブラント。とてもよくわかっていそうなヒルデブラントさえこうだよ、とフロイトがいう場面である。

夢にまで責任もてと言われたらほんと大変だよ、と思うけどこのSNS時代、昔だったら特別な相手としかやりとりしなかった時間帯にも、仕事とプライベートの区別なく、年齢差も時差も関係なく記号や言葉が交わされる。そんな中で眠りの質も変化しているだろうから、「抑圧された表象が夢で浮上する」ということは変わらないとしても「夢を見られない」ことを症状として考える契機は失われているかもしれない。ちなみにイギリスの精神分析家であり小児科医でもあるウィニコットはそれを主訴として精神分析を求めた。

それにしても眠い。頭痛持ちだからいつもぼんやりと痛みを感じつつひどい時には文字通り頭を抱えるしかないのだが痛みを超えて眠りに落ちることができると夢の中では痛みはおさまっている。痛くて辛い夢を見るわけでもない。でもまた起きると痛い。これは痛みの象徴化とはいえないが痛みだけでできているわけではないので当たり前か。それに痛いのは頭だけではない。毎日、瞬間的に、持続的に体験する痛みに対して夢は仕事をしてくれていると思う。自分で自分を抱えるように膝を抱えて泣きまくって眠ってしまった日よりも翌日の痛みの方がまだまし、という経験は多くの人がしているだろう。

今日は月曜日。色々書きたいけど時間切れ。夢も覚醒してしまえばおしまい。また夜ね、と夢に対していえるくらいの生活リズムは保ちましょうか。今夜から。明日から。と先延ばしになりそうだけど睡眠大事。少しずつ。

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Reading Freud

第四回Reading Freudだった。引き続き『フロイト全集4(夢解釈1)』を読んでいる。ようやくあと一項目で第一章が終わる。第一章はそれまでに発表されていた夢に関する論文や本の検討から始まり、それが延々続いたわけだがだいぶフロイトがどういう方向に進みたいのかが見えてきた。今となればいい書き方だ。ただ多くの人はこの感触を得る手前で挫折するのではないだろうか。文献の量が半端ない。巻末の文献一覧を見ればわかる。ちょっとうんざりするような量でフロイトだってそれを概観するのは渋々だったというのだから私たちが渋々にならないはずはない。でも私たちはこんなコンパクトに羅列してくれたものを読んでいるのだからその労力はたいしたことないはず。はず!でもフロイトのような圧倒的知性を持つ人がいくらコンパクトにしてくれたところで元々の量がすごいのだから大変だったよ。フロイトの論の進め方に慣れてきたからその後の展開に希望を持って読めたけど今回は安心した。やっと光が見えたという感じ。毎回Twitterで進捗をメモしてきたがそれを探すのも面倒なのでここに貼っておく。フォローはしないがツイートをチェックするというのは私もやるが私の読書メモに関してそうしている人の話を何人か聞いた。メモより本文を一緒に読もうよ。

以下、メモツイートをメモ。

第一回Reading Freudは『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』、前回の緒言(1929年第八版まで)に続き、「第一章 夢問題の学問的文献」の「A 夢と覚醒生活の関係」「B夢素材ー夢における記憶」を音読しました。フロイトはその書き方に慣れ、体験を追うためにも読み続けることが肝心、と改めて思いました。

第二回Reading Freudは『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献ーC 夢刺激と夢源泉」を音読。四つの夢源泉のうち「一 外的な感覚刺激」「二 内的(主観的)感覚興奮」「三 器質的な内的身体刺激」まで。フロイトの書き方のせいか夢の特徴のせいかなんどか吹き出しつつ読みました。

全員心理職なので、さすがに抜かりなし、というような描写をされているヴントや入眠時幻覚の実験的観察者として登場するトランブル・ラッドのことはこちらの本を使ってご紹介。高いけど必携といいたいです。 サトウタツヤ『臨床心理学史』。

第三回Reading Freudは『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献」 (C)四 心的刺激源泉 (D)目が覚めるとどうして夢を忘れてしまうのか (E)夢の心理学的特性 を読みました。 ものすごい量の先行研究を吟味してもなお解明すべき点を夢はもっているという前提を共有するための章。

最初はこんなこと書いてた。追体験ね、全集の有名論文を一巡して(超有名論文は何度も読んでから)帰ってきてようやく部分的にできるようになってきたかな。

今回はフロイトがこの人はちょっと例外、という形で先に名前をあげていたカール・アルベルト・シェルナーが登場。『夢の生活』が有名なんだって。K.A.SCHERNER,DasLebendesTraumes,Berlin1861.

フロイトは118頁で「シェルナーの意見では、人間という有機体の全体を描き出すのに、夢空想には殊にお気に入りの呈示法があるという。この辺りで、フォルケルトその他の人々は、もう彼に付いて行けなくなってしまうのだが、シェルナーは、それは家だという」とちょっと面白い感じで書くことで私たちに「ついてこいよ」と言っている、多分。「え?家?何言っちゃってんの?」と関心を向け続けることが大切なのだ、多分。この辺りまでくるとそれまでの苦痛が嘘のように次への興味が湧いてくる。書き方としてはもうちょっとここまでの苦痛を減らすようにかいてほしかったけど精神分析は「持ちこたえること」に重きをおくのでその練習と思おう。

シェルナーについてはユング心理学の重要な古典、C.A.マイヤー『ユング心理学概説』全四巻のうちの第二巻『夢の意味』河合隼雄監修、河合俊雄訳(2019、創元社)で一章の一項目が割かれその問題点も指摘されている。なんにしても有名ってことだね。知らないことばかりだから誰がどうでとかこうやって少しずつ知るしかないのよね。

さてさてこの本では序文からフロイトの『夢解釈』は「疑いもなく「昔」に属するもの」としてやや批判的だが、ユング心理学における夢の重要性と精神分析におけるそれは似て非なるものである。

私は以前、学会の企画で自分のケースを精神分析、ユング心理学、短期療法の専門家からスーパーヴィジョンしてもらうという体験をした。一つの事例の見立てはそんなに変わらなかったが着目する点が全く異なり、ユング派分析家の先生は治療全体を夢のように捉え、その扱いも独特だった。「ユング派に治療を受けるならこの先生に受けたい」と思った。精神分析も転移状況である治療状況を夢として扱うが、その時に議論になってびっくりしたのはその先生が、ということかもしれないが、ユング派では「関係」などという言葉がいらないほどに「夢」の意味が広いということだった。マイヤーのこの本を読むと「なるほどねえ」と思う。ちなみにこの本の監修を務めた河合隼雄はマイヤーに分析を受けていた。もう一個ちなみに序文のエピグラフはゲーテ。

「病気になることなしに自分の内界に戻っていくことができるように人は生まれついているに違いない」。自分をむしばむことなく自分自身の内へ健康なまなざしを向けること、妄想や作り話でなく澄んだ目でもって探究されていない深みにあえて入っていくことができるのは、稀有な資質であるのみならず、そのような探究の結果は世界と学問にとってめったとない幸運である。

ーゲーテ、一八一九年

ゲーテが「 」で引用しているのはプルキンエという生理学者、病理学者。今回読んだ「G 種々の夢理論と、夢の機能」でも出てきたね。マイヤーはどうしてここを取り上げたのかなあ。日々病気の世界に触れ続けそこで共にいようとする仕事だからこそ、かな。

毎日、気持ちに負担がかかることがちょこちょこ起きるがもしそれが人間関係で生じるなら相手を変えることはできないということを前提に自分の発狂しそうな部分となんとかやっていこうとする部分の折り合いをどうにかこうにかつけていこう。とても辛くて苦しいけど誰かに協力してもらいながら。夢もそういう仕事をしてくれているはず。余裕がないと夢も見られなくなるから睡眠はしっかりとりましょう、と早朝に言うのも変か。この時間だと「動くの辛いけどカーテン開けて光入れるようにしよう」かな。今日が大変でも今夜の夢に期待しよう。とりあえず、とりあえず、で。良い日曜日でありますように。

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言葉

言葉の展望台』三木那由他(講談社)を読了。あっさり読めたが頭はぐるぐるした。だって著者がそうだから。そのぐるぐるをこの少ない分量で言語化できるのがすごい。時間がないから感想文は書かない。『群像』で続いている連載の12回分がとりあえずこの本になったようなので続編が期待できるということだろう。山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて』も連載が途中で一冊の本になって、そこから最終回までが二冊目の本になった。とっても好きな本なんだけど中身がいちいち濃すぎて読む大変さと楽しみと興奮がごっちゃになって「もっとゆっくり読む時間がほしい!」となることがあった。まあ、山本さんの文章はどれもものすごい情報量なので読み慣れるまでは結構大変だった気がする。比べるものでは全くないのだが連載を一冊にしないで分けてくれるということは私にとっては助かることなのだ、と言いたかった。

三木さんのこの本はその理由だけではなくとてもコンパクトで、著者が経験した日常の一場面や出来事を言語学、言語哲学の知見をさらっと紹介しながらそこでどんなコミュニケーションが起きていたのか、そのコミュニケーションは学術的にはこの理論で説明できるかもしれないけど実際起きていたことってなんだろう、こんなもやもやした気持ちをその理論は説明してくれない、だとしたらどう考えればいいんだろう、ということを一緒に考えさせてくれる。

言語学、言語哲学の専門家である著者はこの連載の途中でご自身がトランスジェンダーであることを打ち明けたという。本書の最終話「ブラックホールと扉」では「あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)の著者、松岡宗嗣さんとのトークイベントでされた対話のことも書いてある。どの話も読まれるべきと思うがひとつの言葉が生まれたときにそれを大切にせずその言葉が持つ意味をたやすく広げることはある意味暴力だという認識は大切だろうと思った。

なんかすごいスピードで書いたのでこれこそ雑でよくない気がするけどとりあえず置いておく。

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嫉妬とか

誰にでも優しい親とか恋人とか持つと大変なときがある。一番厄介な感情は嫉妬。「誰にでも優しい」というのはほとんど不可能で誰か特定の人に誠実で愛情深い方が結果的に誰にでも優しい気がするけど(人に不安を与えないあり方を知っている、つまり人の気持ちがわかるからでしょうね)それは置いておいて嫉妬ってすごく不快だけど興味深い。人殺したりする力がある一方で別の対象が見つかればたやすく薄まったりもする。私が嫉妬でしんどいなと思うのはその相手に囚われていると時間もエネルギーも浪費している気がするのにそこから抜け出せないこと。厄介だなと思うのは「外では」「誰にでも」「優しい」のに身内には全く違ったりすること。というわけで全部が括弧付きになってしまうわけだ。でも愛憎はそんな簡単に分けられないから「そんな人とはお付き合いするのはやめましょう」とはならないわけだ。親と縁を切る、もう離婚する、あんな奴とは別れる、と何度も何度も言っているけどなかなかなかなか、という場合もたくさん見ている。そういうものだと思う。簡単ではないのだ。浪費は必要。時間も必要。そういう体験は必要。「必要」といえるのは嫉妬だけではなくてその人を辛くさせる感情がどこからきてどうなってしまっているのかについて一緒に考える時間や労力を負担なく割ける人だろうけど。もちろん本人がそう思う場合に同意する形でのみだろうけど。必要かどうかなんて他人がいうことではないだろう。簡単じゃないんだよ、と何度も言いたいよ、自分にも。わかっていてもできないこともたくさんだから。私たちはかなり愚かだから。

三木那由他さんの『言葉の展望台』(講談社)という本を読み始めた。『群像』で連載中だが私はたまにしかチェックしていなかった。読んでよかった。今年3月にでた『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』(勁草書房)はちょっと難しいので放っておいてしまったけどこういうエッセイで言語やコミュニケーションの具体例とともにそれを当たり前にせず、そこでは何が起きているのか、それはどういう意味なのかについて考えるところから始めると読める気がしてくる。私の仕事と近いから。またトライしてみよう。

今朝はやることが多いのになんとなく書いてしまった。習慣ってすごい。こういうひとり遊びは誰とも約束しているわけではないからいつでもやめられて楽ね。

「コミュニケーションは、話すひとから聞くひとへの約束の持ちかけだ。しかし、コミュニケーションの外側での力関係によって、それがどのような約束であるかが、話している当人の望まないかたちで決められてしまったらどうだろう?」18頁

三木那由他『言葉の展望台』(講談社)

どうだろう。嫉妬などを考える場合にもこのような視点は重要だろう。何はともあれ今日もいろんな気持ちになりつつ無理せずがんばれたらいいなと思う。少しずつ先送りしつつ少しずつ考えていこう。

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インベカヲリ★写真展「たしか雨が降っていたから、」へいってきた。

明治神宮前にいったついでにインベカヲリ★写真展「たしか雨が降っていたから、」へいってきた。Gallery KTOというきれいな街並みになってから何年にもなる原宿の旧渋谷川遊歩道沿いの小さなギャラリー。こっち側もキャットストリートっていうのかな。原宿は小さなギャラリーが多いね。きれいだけど箱が並んでいるだけのような通りの古着屋は20歳の頃に行ったサンディエゴの古着屋みたいだった。ギャラリーはとても古いビルにあって「103」とあるのにそこにいくにはきれいな店と店の間の狭い階段をのぼる必要があった。何度かビルの前を行ったり来たりしたけど「このビルなのは確かなのだから」と登ってみたら右側に昔ながらの集合住宅のポストがあった。このビルではここが一階なのね。狭くて短い通路を数歩いくと開いているドアから話し声が聞こえた。ドアにポストカードみたいなのが貼ってあったらかここだな、と思って覗いてみるとギャラリーのオーナーなのか、男性が笑顔でパンフレットをくれた。オーナーらしきその人はドアのすぐ傍に置かれた小さなテーブルで若い女性と営業なのかな、なんだかこれからのことを楽しそうに話していた。部屋は真っ白な小部屋だった。正面に4枚、左の壁に4枚、右の壁に3枚、あと手間に残された小さなスペースに1枚。一枚を除いては全て女性ひとりの写真だった。インベさんの作品は雑誌や立ち読んだ本で見たことがあり、見たことがある作品もそこにあった。今年5月にでた『私の顔は誰も知らない』(人々舎)もオフィスの近くの本屋で素敵な装丁が目立っていたので何度か少しずつ立ち読んだ。ネットでも一部見られる。そしたらギャラリーで値引きでしかもおまけつきで売っていた。もちろん買った。写真を見たあとだからなおさら全部読みたくなった。この本には様々な女性が登場する。個人の歴史の断片にはすでになかなかの困難が伴っているがインベさんの聞き方がすごいせいか登場する女性たちはとても素直でこの本に載っている写真たちもとてもいい。人はひとりひとりとても面白くそれぞれにとてもユニークだというのは私も日々の仕事で知っている。この白い小部屋の写真の女性たちも独特で特にこちらに目線を向けている写真は対話的でいい。足を広げ性器をこちらへ向けている女性の眼差しはほとんど長い前髪に隠れているのに強い力を放っていた。人は笑わなくてもむしろ笑わない方がずっと魅力的だったりする。

力を入れても入れなくても怒ったり泣いたりしても自分に対して素直にいられる場がそれぞれにありますように。インベさんはそういう場作りの天才でもあるのだろう。ささっとだったけど小さなスペースなので仕事にも十分間に合った。小雨のなか傘をささずに地下鉄へ向かった。大雨の被害が出ている地域の皆さんもどうぞご安全に。

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パターン

うーん。親でもないのに言いたくないけど、ということはやっぱり言わない方がいいんだろうな、と思って。これまですごく悩んだ挙句伝えてきたけどすぐ「怒られた」みたいな感じで不機嫌になって「ならそうできる人と付き合えば」って突き放されるだけだったし。「そういう問題じゃないでしょ」と言っても「じゃあどういう問題?」とかいわれて、向こうのほうが賢いから口でもかなわないしもっとひどいこと言われると思うと怖くて何もいえなくなっちゃう。こんなに疲れて苦しいのにどうして別れられないんだろう。優しいときもあるからそれを信じるしかないのかな。私にとって嫌というよりその年齢でそんなことしてたらおかしいでしょ、と思って言ってるだけなのに。でも変わらない。だから見て見ぬ振りをしたほうが自分のこころ的にはまだマシと思って最近はそうしてるけど。本人がそれを問題と思って変わりたいと思わない限り誰にもどうすることもできないのだからそれを待つしかないのかな。

というのは本当によくある話だけど、口で言うほどそうは思えないから人は誰かを想うと苦しくなるわけだ。愛情ってなんでしょうね、とか悠長な話でもなくてこれを暴力と感じ実際にそう名付ける日だって遠くないかもしれない。それでも人は繰り返す。驚くほど同じようなやりとりを。

今朝は鳥の声が止まらない。どうしてだろう。彼らにも耐えがたい関係とかあるのだろうか。ないだろう。彼らは私たちよりずっと儚い分、しっかりと自然と対話するように生きている。葛藤などおこしている場合ではないだろう。

辛くて苦しくて眠れない。そんなわけでそんなパターンにいつも通りはまりこんでなんて愚かなのでしょう、自分は。わかっているのに涙が止まらない。

今この瞬間にもそうなっている人がたくさんいるだろう。人間って難しい。自分の欲望と同じくらい相手の欲望のことを思えたらたやすく反応できないことばかりなはずなのにいつもちょっと自分が優先されてしまうことばかり。

ケアというのはこのちょっとの部分で反転が起きているのかもしれない。自分にとって何が必要で何が大切か、それをたやすく見誤ってパターンに陥ることで自分の可能性を失ってしまうことのないように私はパターンに陥る側としてもケアする側としても考えていく。鳥の声に励まされながら。優しい人に見守ってもらいながら。

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回復のための時間

「ちょっとやそっとのことでくじけたりしない。」朝ドラの主人公みたい。「ちょっとやそっと」って言葉、面白い。「そっと」って「ちょっと」を強調してるんでしょ?控えめな強調が自信なさそうでちょっとくじけてそうで応援したくなる。ならないですか?私はなるなぁ。しかも(?)私はちょっとやそっとのことですぐくじける。暑いとか寒いとかでもすぐくじける。回復は早いかもしれない。「ちょっとやそっと」がどんなもんかわからないし回復の度合いも比較できるものでもないだろうけどずーんと重たい痛みに沈んだり「私ってほんとだめだな」ってなったりとか「もうほんとうるさいバカ」とくさくさと引きこもるような状態から、そんなこと何も知らない相手から送られてきた写真に思わず笑っちゃったり「あ、スズメだ!(スズメ好き)」と思えたり点滅する信号に向かって走りだしたりする自分に気づくと「あ、回復してる」と思う。そうなるまでの時間が結構短いのを回復が早いといってるかも。以前との比較でいうなら時間的に短くなったのはたしか。いいか悪いかの話でもないけど気持ちが軽い時のほうが外の人やものを受け入れやすいからいいんじゃないかな。

精神分析家の北山修先生(芸能人のきたやまおさむと同じ人物なんだけどみんな知ってるかな。私最初知らなかったんだけど)はイザナミ・イザナギとか「浦島太郎」とか「夕鶴」を素材に「見るなの禁止」を描写し続けている。その禁止が案外破られやすいところが面白いと思うのだけどこれもそれぞれの時間感覚で異なるかも。同じ体験でも「もうバレた」「まだ気づかない」とかその体験のされ方って違うよね、と思ってる。「見るなの禁止」はいわゆるタブーのことだけどタブーだってそうなるまでに時間がかかる。プロセスがある。歴史がある。タブーを破るというのはその逆をいくわけだから単純に考えれば同じくらいの時間がかかってもよさそうなものだ。私は精神分析的な治療をそれに重ねるので患者さんに対しても治療に時間がかかってしまうのはその悩みや苦しみが時間をかけて作られ維持されてきたものだからそう簡単にはどうにかならないのではないかなというような話をよくするし当事者である彼らも大抵の場合納得してくれる。でも時間をかけることでどうにかなるのかもしれない、と思えること、そう感じられるような作業を一緒にしていくことって本当に難しくて自分の少しの変化を「回復」と感じられるように自分に対する信頼を少しずつ取り戻していくプロセスを支えていくことなんだろうと思っている。そうするためには私自身がそうである必要があってだいぶそうなってきた自分を感じられることは患者さんにとってもいいことなんだと思いたい。いまだ訓練中ですけどね。

いわゆる北山理論に学ぶことが多く、今日もそれで色々考えようとしていたのだけどあまり進まなかったな。タブーを発達論的に考えると「躾」というワードがでてくるわけで、そこでは超自我的父性と養育的母性がまじりあう。どの言葉にも両義性とそれゆえの曖昧さを見出しその二重性を生きていくことが大切なんだ、ということだと思うのだけど私はそこから逃れようとする心性が作用しているのであろう通じにくい言葉について考えていて、もしそうやって守らねばならない領域があるとしたらそれは自分だけの言葉にはならないなにか、だけど言葉の生成に深くかかわるなにかをためておく必要があるからではと思っている。ウィニコットがいうコミュニケーションしない領域のことだけど。北山修著『新版 心の消化と排出 文字通りの体験が比喩になる過程』(作品社)は北山理論入門としておすすめかも。かも、といったのは北山理論はとても魅力的なのだけどお付き合いするにはちょっとエネルギーがいるよなぁ、という気持ちがよぎったからなのでした。まあ勉強ってそういうものですね。

ダラダラ書いていたらなにをしたかったのかわからなくなってしまった。いつものことだけど休日だからってことにしておこう。回復のための時間。Au revoir.

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別の目で

ソフトクリーム型アイスの上半分を守るフタを開けられず苦戦していた。それを買ってくれた人がパッと手にとって開けてくれた。こんなことまで。やってもらってばかりで。この不器用さ。ああ。と情けないような恥ずかしいような気持ちに一瞬なったけど私が粘ることでアイスが溶けちゃったら買ってくれたその人にも申し訳ないものね。ありがとう。

大学院生のとき、受付のバイトをしていた。その日の朝もその日に必要な書類を揃えていた。かなりの数を結構なスピードで次々と積み上げていく。どうしてもある人の書類が見つからない。いつもの場所を何度も探した。似たような番号、似たような名前、間違えそうな要因を頭に巡らしながら何度も探した。

「○○さんのがない」と呟いた。当時すでに高齢だったもう一人の受付の方が「別の目で見れば」と探してくれた。すぐに見つかって二人で笑った。バイトをしている間、このやりとりを何度もした。「別の目で」という言葉が好きだった。その人は特別な几帳面さを持っていた。いつもきれいに袋分けされた見たこともないお菓子をくれた。その人が「絶対にしない仕事」というのがあって(一人の時はしていらしたので「絶対」ではなかったけど)一緒に仕事をできる人は少なかった。私もお菓子を素直に受け取れるようになるまでに時間がかかったけれどすぐに仲良くなった。だいぶ年上なので仲良くというのも変かもしれないけど院を出て受付を辞めたあとも電話で話したり目黒不動尊に一緒に行ったり一人暮らしのご自宅で鰻をご馳走してもらったりした。姪っ子さんの写真を見せてくれたときのみたこともない笑顔を今思い出した。今も年賀状で近況報告をしているけれどこうして書いていたらなんだか心配になってきてしまった。暑中見舞いも出そうかな。もう一人の高齢の方と組む日もあってフラダンスのお話を伺うのがとても楽しかった。彼らの関係はなかなか難しかったようだけど下の世代はどちらにもお世話になった。その人が亡くなってからも随分経つ。

8月に牟田都子さんという校正のプロの方が『文にあたる』(亜紀書房)という本を出されるそうだ。私も編集者さんに校正をしていただく機会があったが私には「絶対にできない仕事」だ。行を追うのにも苦労する、すぐにウトウトする、そもそも正しい表現がわかっていない気がする。こんなにダメではなく注意力も正しい知識も持ち合わせている人であったとしてもやはり校正というお仕事はちょっと普通ではない特殊能力を必要とする気がする。それこそ「別の目」を持っている人のお仕事ではないか。多分この予想は当たっていてやっぱり私には「絶対できない」と思うと思うんだけどもっとずっと驚きのお仕事だと思うし「別の目で」見える世界を知りたいから読むんだ。

自分の目も耳も信じてはいるけど疑ってもいる。すごく長い間、思い違いをしていたことだってある。「別の目」にいつも助けられている。困らされることも惑わされることもあるけど私の仕事は正しさを求めているわけではないからぼんやりと複数の視点で焦点をずらしながらそのうち何か見えてきたら共有する。笑ったり泣いたり怒ったり反応はそれぞれだろうけど一緒にやる。

今日は祝日。お休みの人もそうじゃない人もとりあえず暑さに参ってしまいませんように。