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じっと。

今日も明るくなってきた。昨晩は昨日の朝にも登場してもらった3人の川柳作家、暮田真名さん、平岡直子さん、なかはられいこさんのトークを聞いた。司会進行はこの3人による3ヶ月連続川柳句集刊行の編集を担当された筒井菜央さん。とても穏やかで楽しい時間だった。強い情緒を簡単に投げ出さず自分におさめておいてそれを自分の作品に昇華できる人たちだからこその穏やかさという感じがした。彼らが無理なく自然に相手を思いやれるのは彼女たちが自分の生きづらさを消化する力によるんだろうなあ。すごく主張が強いのにそれを押し付ける感じはなくお互いの良さを言葉にするときもまったく気持ち悪さがない。お手軽な優しさやわかりやすい甘さがない。自分とも他人とも丁寧に関わっている感じはツイートや作品からもとても感じる。先日の大澤真幸さんと千葉雅也さんのイベントでも同じような感触をもった。彼らは、年齢や性別をその違いだけでなくそれらが持つ意味を意識することを当然としているし、断片ではなくお互いの話をよく聞いて、お互いがどういう時代を誰とどんなふうに出会って生きてきたかに関心を向け想像し丁寧に反応していく様子には優しさを感じる。そうではないことばかりでまいっていたりもするけれど「ばかり」でもないのだろう。こうして間接的に支えられながら思いやりのない世界を思いやれる力を持てるようになれたらいいな。孤独と生きていくこと。思いやりのなさに振り回されて辛くて苦しくて眠れなくてという日があるのはしかたないけどまずは自分の中にじっとおさめてみよう、とあらためて。無理のない範囲でやってみよう。やるべきことをやるために動き始めたらそんな気持ちも忘れてまた表面的なことに振り回されてしまいそうだけどとりあえずじっと自分の中におさめられますように、と自分に願う。

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あたりまえ

お願いをかたちにすればえのき茸

ーなかはられいこ『くちびるにウエハース』(左右社)

左右社川柳句集3冊連続刊行の3冊目がこれ。先陣を切ったのは8月14日、私たちのイベントにお招きする川柳作家、暮田真名さんの『ふりょの星』、そしてお会いしたことはないがその文章にどうしようもなく惹かれる平岡直子さん『Ladies and』、そしてこのなかはられいこさん。『はじめまして現代川柳』に掲載された川柳も大人のかわいらしさがとても魅力的でこの三冊でいえば最も身近に感じたのはなかはらさんのだった。暮田さんは『ふりょの星』出版前の講座で「私が露払いに」と何度かおっしゃっていた。先輩たちの句集を売るぞ、という強い意志を感じた。川柳はその作品の自由さだけでなく、若い世代が好きなものを好き、いいものは絶対売りたいととても素直にいえる世界なんだな、と新鮮な驚きを感じた。なかはられいこ『くちびるにウエハース』の解説でも荻原裕幸が「なかはらが川柳に強く求めている一つに、あたりまえのことを大きな声で言いたい、があるように感じる。」と書いている。たしかに。川柳にはじめましてをしたばかりの私ですらそれを感じる。それぞれ主張の仕方は全く異なるがこの三冊全部にそれを感じる。

お願いをかたちにすればえのき茸

NY在住の身内が法事で帰国した。一緒にお昼を食べながらえのきをありがたいといった。今NYでは日本円で600円くらいするそうだ。いけない、そんなのは。食用のえのきは野生のそれとはだいぶ違う。白くて細く柔らかくともしっかりと伸び小さな傘をたくさん広げて見かけほど儚くなく可愛く美味しい。私という一応の主体を切り取ったらすぐバラけてしまうようなお願いなのかな。似たり寄ったりの小さなお願いの花束のようなえのきなのだな。そうなのかな。あー。えのきとしめじのバター蒸し食べたい。

今日も眠い。あくびをしたら涙が出た。「え?それってあたりまえじゃないの?」「そんなのあたりまえじゃん」今日もいろんなあたりまえと出会う。あなたにとって、私にとって、それがそうならそうなんだ、まずはそういうところから。

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言葉、関係

「サラダ仕立て」ってなんだろ、って何となくわかりながら「うす塩仕立て」と見比べて後者を食べている。美味しい。うす塩だ。「サラダ仕立て」は袋から透けてみえる姿がサラダ煎餅と同じだったのでわかった気にもなったがなんでサラダなんやろと思い調べてみたらサラダ油を使うからと。うーん。それはそうやろうけど(言葉の使い方違う気がする)サラダ油自体が曖昧じゃん。サラダ油のことは数ヶ月前にオリーブオイル使用のツナ缶を食べながら話題にしたばかり。今って「サラダ油買ってきて」「サラダ油どこだろう」とか使うかな。私は使わないな。サラダ油は使うけど。

8月に東京公認心理師協会(やっぱりこの名称変更はおかしかったなと思う)の地域交流企画で大田区と世田谷区の心理士・師向けにイベントをすることになった。テーマは「言葉の可能性を探る」

皆さんは「サラダ油」という言葉を使いますか。

からはじめるか。いつどんな時にどんな用法で誰に向かってなど質問はいくらでも作れるし、その分答えも色々聞けるだろう。そこから思い浮かんだ小噺とかも聞きたい。「そんなこと聞いてどうするんだ」という反応が一番ほしいかも。

どんな少人数でも開催するから工夫のしがいもあって楽しみなんだけど、基本的には自分が使っている言葉に意識的になることをしてみたい。人の言葉には敏感なのに自分の言葉となると指摘されてはじめて気づくことばかりという場合もあるだろう。多くの場合、人は指摘されるのを嫌うから「そんなことありません」と否定するどころか「そんなこという人とはお付き合いできません」となる場合だってある。「えー、自分が相手にやる分には平気なのにー??」と思うこともしばしばだ。興味深いと思う。何かが触れてしまうのだろう、何に?どこに?こころに、といったところでこころって、というのがいつもの問いだけど心理士なのでそこは問わない。あると想定して理論を学び実践を繰り返して20年以上経ちそう呼ぶしかない何かがあることは疑いようがない。それでもその言葉を使うたびに「こころって?」と突っ込むことも忘れないだろうけど。

朝からどうでも良さそうなことを書いているけどこれ単なる朝のあそびでノルマでもなんでもないから自分まかせで何かを伝えることを想定していないのだ。もちろん読者がいることはわかっているので自分と誰かの区別をぼやかしたりそれこそ言葉の使い方には最低限気をつけているつもりだけど基本的には自由連想。「なんで?」とか「そんなことして意味あるの?」と聞かれても「わかんない」「意味ないと思う」と答えると思う。そして答えながら「理由とか意味とかいちいち必要ですかね」と思うと思う。そしてなんだかんだ考えちゃって「まあこういうことを考えることになんらかの意味があるのか」と落ち着くと思う。自分ひとりよりは何か言われたほうがあれこれ考えられるので悪いことばかりでもない。

言葉って本当に曖昧で複雑なものだと思う。なんでも正しそうなことを言えばいいってものではない。ひたすら正答を教えられても大抵はそれとは違う行動が選ばれることを大抵の人は体験している、ということを前提にすると「正しさ」を押しつけられと感じたときに「なんで私に?私のどこの何をどうしたくて名指しで?」と思うかもしれない。世界は自分仕様にできていない。事実だって正確に記述するのは非常に困難だ。何かを「正す」関係ではなく差異を当然のものとしてそれを分断、排除の種にしないためにできることは何か。何したっていろんなことが起きるけど「そんなこという人とはお付き合いでません」「そんなこというなら出ていきなさい」など関わらない方向へいくのでなく大切にしていきたい関係というのはあるわけで相手が深く傷ついてしまうことのないように、狂気に暴走しないようにできることを考えたらこんな言葉は使えないな、とか言葉って相手を大切に思えば思うほど饒舌さは失われてその貧困さや難しさと出会うようにできていて、でもそこからなんとか諦めずに言葉の使い方を考えようとするるのも相手のことを大切に思うからで、という循環があると思う。普段は全く意識せずにいっぱい失敗したとしてもいざというときに助け合えるように時間をかけてゆっくり育てていけたらいいな、言葉を、そう思える関係を。

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この道の長さいっぱいを

遠くで救急車の音がする。何もないといいけど人は突然死んだりすることも経験済み。驚くほどあっけなく。もちろんそうでない場合も。いろんな生き方があっていろんな死に様がある。どんな場合もそれは誰にもコントロールできない部分を残す。誰もがいずれ死ぬ以外のことは私たちはまるで無知。

文芸誌『群像』で山本貴光さんが「文学のエコロジー」という連載を持っている。2022年7月号では「文芸と意識に流れる時間」という題そのままに「時間とはなにか」という終わりのない問いを具体的な文芸作品を素材に検討している。普通こう書かれたら前号までの素材『ゴリオ爺さん』のような名作がくると思うではないか。しかしなんとここで山本さんが取り上げたのは

古池や蛙飛こむ水のをと

たしかに言わずと知れた松尾芭蕉の一句である。が、こんな最短のところから見ていくのか、と思った。

575の17音にいかに豊かな世界が展開しているかはいい俳句を読めばわかるとばかりにさまざまな俳人がさまざまな句集や解説書を出している。例えば私の師でもある堀本裕樹先生の『十七音の海』(株式会社カンゼン)は題名がすでにそれを示しているし、先生の恩師である宗教哲学者鎌田東二は「俳句は宇宙を詠めるんだ」と言ったそうだ。堀本先生のこの本はリニューアル版として2017年に『俳句の図書室』(角川文庫)という書名で文庫化された。『俳句の図書室』でもはじめに「はじめに」で登場するのは松尾芭蕉のこの一句である。常に源流を辿る山本貴光さんがここから始めるのも必然、当然なのだろう。とはいえ、山本さんがこの句を使ってここでしようとしているのは十七音に流れる時間、それを読む人の意識における時間などをシミュレーションによって検討することであるからまた新しい。俳人の作業をメタで分析されるとAI俳句もそんなに別物という感じがしなくなる。

古池やかはづとびこむ水の音

私は最近別の本でもこの表記でこの句を見かけている。真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)のなかでだ。

今年の4月に亡くなった超有名社会学者だが私はあまり読んだことがなかった。私はこの本の最初の方で自分が重度の自閉症の方々と関わってきた記憶のなかでずっともやもやと抱えていた部分に光を当ててもらったような気がしたのだがそれはまた別のお話。

真木はこの句を「時間の構造を空間の構造におきかえている」と延べ「水の音という図柄はじつは、このしずけさの空間を開示する捨て石なのだ」といった。イタリックは本文では傍点である。

「存在を非在非在として、有をとしてとらえる感覚の反転力をこの一句は前提としている」

真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)

ここで生じているのは単なる図と地の反転ではない。それを通して得られる「地を地として輝きにあふれたものとする感覚だ」。芭蕉は四十日余りも歩いて着いた松島では一句も残していないという。

「松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけだ。芭蕉の旅の意味は「目的地」に外在するのではなく、奥の細道そのものに内在していた。松島がもしうつくしくなかったとしても、あるいは松島にたどりつくまえに病にたおれたとしても、芭蕉は残念に思うだろうが、それまでの旅を空虚だったとは思わないだろう。旅はそれ自体として充実していたからだ。」

松島に到着することに価値があるのではない。「心のある道を歩く」とは「その道の長さいっぱいを」歩くこと、「その道のりのすべてを歩みつくすことだけがただひとつの価値のある証なのだ」「息もつがずに、目を見ひらいて」。

真木はドン・ファンがカスタネダとパブリートと別れの時に告げた言葉も引用する。「夜明けの光は世界と世界のあいだの裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」

また救急車の音だ。今度は近くを通り過ぎた。今日も無事に朝を迎えられたこと自体はたまたまかもしれない。たまたまな気がする。この生を、生活を、「今ここ」という時空に向かって回帰する自己の歩みを一歩一歩確かめるように、というのもなかなか難しい。でもそんなことを考えるこんな朝の短時間は悪くない。何のために?そんなことは考えずに今日も一日。

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何はともあれ

南側の大きな窓をそっと滑らせて開けた。雨の音。期待通りちょうどいい涼しさの風がスーッと入り込んできた。降り込んでくるほどではないから開けておこう。

昨日、新宿駅は雨漏りしたらしい。この前、雨でもないのに雨漏りしていたあのお店は大丈夫かしら。あ、雨でもないのにということは雨とは関係ない水漏れだったのかな。あ、鳥が鳴き出した。

毎日どこに向かうわけでもない言葉を聞いている。話してもいる。日々なにかの答えを求められる仕事をしていても「思い浮かんだことをそのまま話して」と言われれば曖昧な自分とばかり出会う。伝えたいことを伝わるように言葉にするなんて不可能だと私は思うので何度もやりとりが必要だし誤解したり喧嘩したり自己嫌悪に陥ったりちょっと嬉しくなったりいろんなことで時間がかかるのは当たり前だなあと思ってこういう仕事をしている。でもその曖昧さやわからなさを負担に感じる人にとってはこの作業にあまり価値はないのかもしれない。あ、私も負担ではあるけれど人間関係ではこういう負担は当たり前だなあ、なんで負担に思っちゃうんだろう、なんで私こんな負担なのに関係の取り方を変えようとしないんだろう、とか考えるので単なる負担ではないというか、いつの間にか負担ではなく考えるのが必要な習慣になっているというか。好きな人や大切な人に対してはなおさらどうしたらお互いを大切にできるのだろうとか、お互いを大切にするってどういうことだろうと思い悩んだり。こういうのすでにめんどくさいかな。私はこうでもないああでもない、今日はあんなこと言っちゃったけど本当はそんなことが言いたいんじゃなかったのに、と泣きたくなったり、泣いたり、現実的な制約と自分の欲望の折り合いのつかなさに落ち込んだりする。辛いし負担も大きいけど、だからこそひとりではやらない。できない。堂々巡りになってしまうだけだから。色々めんどうだけど悪いことばかりでもないだろうからだれかと色々考えていけたらいいのではないかな。

まあ、何はともあれどこへ行くかはともかく雨だけどがんばれたらいいですね(うとうとしてしまったら時間がなくなってしまった)。

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塀の中の希望

ようやく鳥の声が聞こえた。洗濯機を回す音や冷房が風を送る音に紛れてしまうこともなかろうに、と思ってなんとなく待っていた。いつもより1時間くらい遅い。私の耳のせいか。鳥たちに、自然に何かあったのか。

今朝は奥多摩駅内にあるという珈琲屋さんのコーヒーとそこで売っている山形県みはらしの丘のESCARGOTというお店のパウンドケーキを食べた。お土産でいただいた。みはらしの丘なんて素敵な名前。富士見ヶ丘という地名はたくさんあると聞いたことがある。以前はそのどこからも富士山が見えたそうだ。そりゃそうか。みはらしの丘はとてもみはらしが良さそう。そりゃそうか。

そういえば映画「ショーシャンクの空に」の序盤、一台の車を追うようにして要塞のような刑務所の入口へ観客の視線は導かれるのだがここのカメラワークはとても印象的だった。観客の視線は車と一緒に刑務所の門を潜ることはなく、飛行機が離陸するようにそのまま上空へと導かれ塀に囲まれた広い空間を俯瞰するようにゆっくり旋回させられる。鳥の視点だ。このシーンがあるからラストシーンがなおさら意味があるものになる。

原作にはこんな語りがある。

Some birds are not meant to be caged, that’s all. Their feathers are too bright, their songs too sweet and wild. So you let them go, or when you open the cage to feed them they somehow fly out past you. And the part of you that knows it was wrong to imprison them in the first place rejoices, but still, the place where you live is that much more drab and empty for their departure. That’s the story

ーKing, Stephen. Rita Hayworth and Shawshank Redemption

そう、そういう話でもある。

自由とはなにか、罪のあるなしに関わらず一度囚われたその場所から釈放されるためにどれほどの犠牲を払わされるのか、釈放の許可を与えるのは誰か。「更生rehabiritation」とは何か。人生の半分以上を刑務所で過ごしてきたレッドはいう。

Have I rehabilitated myself, you ask? I don’t even know what that word means, at least as far as prisons and corrections go. I think it’s a politician’s word. It may have some other meaning, and it may be that I will have a chance to find out, but that is the future… 

これは原作からの引用だが、映画でこれが語られるシーンでは静かに圧倒される。棒読みで目を泳がせながら媚びるように決まったセリフを繰り返す必要はいまやない。この囚われの立場を知らぬ者たちが使うその言葉はただのブルシットワードだ。この場面には映像やポスター以外で刑務所内ではじめて女性が登場する。時間はゆっくりと着実に変化をもたらす。自由の意味も変わる。ある者は死を選び、ある者は静かに夢見る。いずれ記憶のない暖かな場所で暮らすことを。

相手の話に耳を傾け、気持ちを想像できる人ばかりがメインの登場人物であるこの映画、暴力的なシーンもあるが相手を知ろうとする力と豊かな情緒を持つ人たちの関わりが観客にも希望を失わせない。希望hope、原作でもそれが最後の言葉だ。

それぞれに過酷さを生きる瞬間瞬間があるだろう。たやすく希望を持てと言えるはずはないがなくはないかもしれないそれに少しでも自分を委ねることができたら。いつも願ってばかりだけれど今日も。

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hope&force

いつもの森から一斉に鳥の声が聞こえてきた。誰かの一声が目覚まし時計みたいになってみんなびっくりしちゃってるとかあるのだろうか。ないか。

今朝も早速「プライバシーって」と思うことがあったがまぁプライバシーも切り売りするものと捉える人もいるだろうし、とりあえず人のことは人のことということで朝の一筆書きのように書く。

プライバシーは急に侵害される、というとき、すでにいくつかの例が思い浮かぶがこのソーシャルメディア時代、いくら削除依頼を要請したところでその扱われ方の軽さを思い知るだけかもしれない。

プライベートでパーソナルな部分に触れていくことはたとえその意図はなくても侵入、侵害として受け取られやすい。精神分析における非対称性、それ自体がトラウマとなる可能性が常に問題になるのは精神分析がプライベートな空間でパーソナルな部分に触れる作業だからであり、その繊細さ、脆弱さは常に治療者の想像を超えている。なぜそう知り得るか。精神分析は転移状況であり、反復されてきた患者の体験を分析家は患者の位置でまるでそのときそこでのように体験させられるからだ。精神分析において関係性は反転し、今や分析家のものである患者の繊細さ、脆弱さが患者がそうされてきたように侵入や侵害を受けるとき、その傷つきは患者だけのものではなくかつての自分のものでもあったことを分析家は訓練のプロセスで知っている。

厳然と存在する設定上の非対称は本来、患者のプライベートでパーソナルな部分を守るためであり、転移上、侵入や侵害をする、されるの場となっていくときこそその機能の重要性は明らかになるが、分析家の脆弱性や傷つきも強烈に賦活される転移状況において分析家が転移を扱い損ねたとき、それはたやすく破壊される危険も孕んでいる。訓練を経て分析家の資格を得ることはその危険から自由であることを意味しない。人間は人間と強く拘束しあいながらそれぞれの自由を模索するのであり、絶対に安全と言われるような関係こそ疑うべきだろう。では、私たちが強迫的に安全な関係を志向することなく、死と隣り合わせになる危険を恐れながらもその関係性から逃げ出さないのはなぜか。逃げられないから。少なくとも治療関係においてそれはない。一方、そう生きるよりほかないという極限的な状況は実際にある。そしてそういう心境もある。

Remember that hope is good thing,

スティーヴン・キング『刑務所のリタ・ヘイワース(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』からの引用だ。妻とその愛人殺しの罪に問われた主人公アンディが刑務所で過ごす中で信頼しあうようになったレッドに書いた手紙の一部である。

この小説は『ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)』という邦題で映画化、1994年に公開され遅れて話題になった。原作は英語であり私は持っているが理解が曖昧なので映画の方を素材にプライベートであること、パーソナルであること、そしてそれらがたやすく侵入、侵害され、軽く扱われることについて考えてみようと思った。

といっても朝の一筆書きでかけるはずもないので少しずつ考える。今日もMay the force be with you.これはスターウォーズだけど。人には絶対に触れられない領域がある。そこに希望を見出せる力があなたと共にあらんことを。

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まずはそこからとりあえず

昨晩は雨が降ったのか。向かいの家の屋根が濡れている。今も曇り空だけど洗濯物どうしましょうね。

昨晩、精神分析家のJoyce McDougallのThe Many Faces of Erosの一章を読んだ。同じ患者のことが素材になっているので一気に読んだ方が忘れないのだが優先すべき読み物はたくさんあるので忘れながら読んでいる。女性の精神分析家が書いた女性性にまつわる本を女性の分析家&候補生で読む小さな読書会。文字にすると偏りが顕著だが精神分析状況は転移状況であり治療者の性は患者に多様に体験されるため、とりあえず自分や対象を女性と位置付け、ゆるく固定された視座からあれこれ話し合ってみることには意義があると思う。マクドゥーガルは心的構造の基盤をmasculineとfeminineの要素の融合、つまりbisexualなものとみなしており、構造が異なる身体が様々な出会いと喪失を通じてどのような複数性を備え、genderに囚われ、生物としての限界をもち、人や外界と関わらないという選択肢のない状況でどのようなcreativityを作動させることで生き延びようとしているのかについて描き出した。

とりあえず自分や対象を女性として位置付けることはインポテンツや不妊、子供を産む体験をしないことという生殖にまつわる言葉の使用に対して他人事ではなく意識的になるために必要なことだと思う。またまずは同質性の高いグループで話し合うことで同質にみえる人たちに潜む差異を俎上にのせることも可能になるだろう。精神分析を体験している者同士で話し合うことのメリットもある。セクシュアリティとジェンダーの話はそこから逃れられる人がいないように個人的な体験と切り離すことは難しいため負荷も高い。しかし精神分析は非対称の関係、そこで生じやすい出来事、そのありがちな描写、そのようなものに何度も何度も内省をかけていくので攻撃性、衝動性の行動化は必然的に少なくなる。実際の出来事とは別の時間でそれを反復的に体験することは他者を断じたり裁いたりすることに迷いをもたらす。そうしようとしている自分、そうしたくなっている自分の欲するところはなにか、さらなる傷つきを繰り返さないためにまず表現すべきこと、表現すべき場所はどこかと考える時空が広がる。私たちはひとりひとり違う。だから結果ではなくプロセスを。情緒的でありつつシンプルな言葉を。マクドゥーガルの事例はたまたま芸術家だが、クリエイティブであることは私たちひとりひとりに課せられた課題であると同時に誰にでも備わっている力だ。今日も言葉を紡ぐ、誰かを思いながら。言葉にできないならまずは聞く、わからなくても。まずはそこからとりあえず、ということをやめない。とりあえず時間は過ぎるけど、終わるまでは続くのだから。

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知る知らない

ダッフィーは我が家にもいる。もう何年前になるのだろう。研究会仲間とTDLへ行ったときに買った。いまだにフワフワだしかわいい。私は喉が弱いので大声を出さずともその日たくさん喋っただけで翌日のスーパーヴィジョンで「TDLにいって声が出なくなってしまってすいません」と掠れた声で言わねばならなかった。

今朝はTDLのお土産にもらったラスクを食べた。プレーンとミルクティー風味の2種類だからダッフィーとシェリーメイの二種類かと思ったら「ダッフィー&フレンズ」というシリーズだそうだ。ダッフィー、シェリーメイ、ジェラトーニ、ステラ・ルーだって(調べた)。たしかに袋にみんな書いてあった。よく知らないとなんとなく知っている主役にばかり目がいってしまうものだなぁ。

秋にビオンとウィニコットが重なる領域について話す。知り得ないということについて。主役にばかり目がいくというのはパッケージでも映画でも舞台でもなんでも同じだと思う。「推し」を持つ人にとってはその人が主役なのだろうけど一番目立つようにデザインされているものをそのまま受け取れば大体の人はそれを主役と思うだろう。世界がどうデザインされているかとそこで生きる人たちが世界をどうデザインするかは相互作用だと思うから変更はありうるだろうけど、と生まれたばかりの乳児にとっての母親、母親にとっての乳児のことをおもった。

ローマの哲学者セネカは『道徳書簡集』(高価で買えないから「メランコリーの文化史」(講談社選書メチエ)から孫引き)で「人間はいつかは死なねばならないことを知らないほど、無知な者はありません」と言った。

生の短さについて 他二篇』(岩波文庫)ではこう述べた。

「人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。」

ビオンもウィニコットも母子関係のモデルで精神分析状況で生じる現象を描写したが、人生後半の仕事ではひたすら人間の本性を描き出そうとしていたように思う。ビオンであれば「O」という不可知の概念をめぐって、ウィニコットであれば「交流しない自己」という誰にも触れえない孤立した自己の部分について。

知り得ない、不可知の領域について考えるのであれば私たちが何をどうやって知り、なぜそれを「知った」と知るのかなども考える必要があるのだろう。母子関係をモデルとするのもそれが最初の認識の場所であり、生の時間もそこから複雑なものに変わっていくからではないか。

それにしても眠い。もう赤ちゃんではないから自分で起きて動かねば。今日も色々知るだろう。「知らなかった!」ともいうだろう。「知ればいいってもんじゃない」とかもいうかもしれない。「そんなことは神のみぞ知る」は言わないかも。知らないことばかりなのはたしか。

何を知らずともそれぞれ良い土曜日になりますように。

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ダメージモード

朝から攻撃的な「願い事」をみてため息。そうやって支えあっているのでしょうしどうしても外に見える形にしてしまうのも「親切」の形態の一つになるからややこしい。本当に親しい間柄で起きることはわざわざ見せなくてすむものばかりなのに。なんにしても排除の言葉に見える形で平気でノルのは怖い。スプリットしていることに気づけないのは仕方ない。スプリットしてるのだから。排除の形式も本当に色々あるけどやっぱりナルシシズムの問題なんじゃないかなあ。排除されないために誰かを排除する「親切」とかないでしょ、と思うけど、とこういうことを書き出すとキリがないので身近な人と話そう。

朝一番に大きな窓を開ける習慣。この時間くらいスーッと涼しい風に入ってきてほしいのだけど今日は無理でした。暑くなるのかな。昨日は涼しくて助かったけど。

フロイト読書会。急いで帰ってオンラインで参加。アドバイザーというやや偉そうな役割。今読んでいるのはフロイト全集一巡りしてから再びの「心理学草案」。神経学者フロイトが精神分析家になるまでの道のりで考えていることのややこしきことよ。数年前にはじめて読んだときは全くわからなかったけど今はその後のフロイトの考えも症例も知っているから何と何がどこでくっついたり分かれたり重なったりして次の点や線に向かっているのかをそのダイナミクスと共に理解することはなんとなくできる。症例はいつも興味深く、たとえフロイトが論文のために症例を利用したと言われていてもそれは言い方の問題でフロイトはそうすることの意義をものすごく詳しく書いていて、現在の私たちも症例論文というのを書くけどそれは患者を利用しているのとは違うと知っている。だけどこういうのも一度そう思いこんでしまった人にはなすすべなしだし、実践を伴う側と言葉だけでそれと関わる側でそれ自体の是非を問う話をしてもそれこそ「誤った前提」(昨日読んだ部分)からの話になるから私は実践を伴う側として患者との出来事を再び記号化したりしていくだけ。

彼らは自分からもなくしてしまいたい部分がたくさんあるし、他人からも奪いたかったりやめてほしいと思うことがたくさんある。最初に書いたみたいにそれなりに味方を作りながら吐き出すやり方はスキルでもあるからしたくてもできない場合も多いし、そう収められないほどに、でも外に撒き散らしたら大変なことになるモノとどうにかこうにか暮らしている彼らと日々少しずつ積み重ねていることを言葉にしていくことは本当に時間もかかるし知的能力に限界あるし大変。そのまま出せるようなことではないのだ、そもそも。彼らのことを理論化の素材として書かせてもらうときに、攻撃的な言葉をバンって最初に提示してそこから「でも実は」みたいな論法に巻き込むのも嫌だし。そこからスタートする必要ないのでは、と思ってしまう。そうそう、最近こういう疑問に地道に付き合ってくれそうな本と出会ったんだ。でももう時間切れ。朝からプチダメージを受けたせいかこのモードに辿り着くまでに時間がかかったな、と今になって思う。いつも目指しているわけではない「モード」なのに。昨晩は事後性の話でもありました。それぞれ自分のペースで今日を始められたらいいけどなかなか難しいでしょうか。とりあえず今日も体調に気をつけて過ごしましょう。

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七夕

7月7日。七夕。例年通り曇りか雨か。

東京に住み始めて最初の年の七夕、その夜も池袋西口公園にたむろしていた。坂本九「見上げてごらん夜の星を」が流れていた。みんな空を見ていた。

ウィニコットを読んでいた。好きな人が好きなものを好きな理由をつい聞いてしまうことを反省した。それは移行対象かもしれないから。それはあなたがたまたま見つけたのか、それともあなたが作り出したのかと問うことは野暮だ。といってもこれは赤ちゃんがお母さんと融合した状態から分離するときのお話だけど。知りたいという気持ちが理由を求めてしまう。大体のことは理由など後付けだったりするのだから好きな人が好きなものを大切にしている、ただそれだけでいいのに。

夜、東京に戻るとき、チャイルドシートで眠っていた小さな子供が泣き出した。外の暗さを奈落に感じるのだろうか。激しく激しく泣いていた。私はその子に覆いかぶさるようにしてしっかりと抱きしめた。世界が崩落する恐怖を自分がバラバラになる恐怖を精神病の人が感じるように、たまたままだ発症していない私も少なからずそう感じることがあるように、この子も感じているのかもしれない。全身で激しく泣き叫ぶその子との間に隙間を作らないようにしっかり抱えながら大丈夫、大丈夫と呟いた。少しずつその子がこっちの世界に戻ってくるのを感じた。腕を緩めるとぽやっと私の顔をみてまた顔をうずめて泣き少しずつ夜の世界に馴染もうとしているようだった。外に光があることに気づいたようだった。そうだよ、夜は暗いだけじゃない。その子は私をみて小さな両手のひらをキラキラと回した。「キラキラだね」私は一緒に外を見ながら彼女のキラキラに合わせて「キラキラ」と何回か繰り返した。バックミラー越しに注意深く私たちを見守っていた母親が微笑んだ。

七夕。私が住む街の小さな商店街にもいつの間にかキラキラの吹き流しが飾られていた。ある日の夜に気づいた。保育園でも子供たちが短冊に書いた願い事が(まだ大人には読めないけど)先生方が苦労して取り付けた笹に飾ってあった。

空を見上げる。災害も戦争もこの空の下で起きる。出会いも別れも誕生も死も。2018年、西日本豪雨から4年がたったという。もう4年か。今なお仮設住宅に暮らす方々がいると知った。どうにからならないのだろうか。その中でコロナ禍も過ごされていたと思うと言葉を失う。その年はたまたま広島を旅する予定でいた。被災地にいくことは常に迷う。いろんなところに問い合わせた。「ぜひいらして」といってくれたとしてもそこにあるであろうアンビバレントに注意を向けないわけにはいかない。結局行った。いろんな跡を目にした。大きな家を通り過ぎると大きな窓のカーテンが閉められた。まだ昼間だ。観光客である自分を恥ずかしく思った。宿の人にはいろんな話を聞いた。「ここはたまたま水も止まらなかった。でもあそこは」と道一本隔てるだけで変わる生活状況を知った。それを助け合って時間を過ごしてきたことも知った。彼らは普通のトーンでそれを話し「来てくれてありがとう」といってくれた。東日本大震災のときもそうだった。

七夕にはいろんな言い伝えがある。スクールカウンセラーをしているときは毎年お便りに七夕のことを書いた。隔てられた二人が出会う話であるならば今日がそうであってほしい。明日だってそうあってほしい。どんなお天気だとしても。時間的に、空間的に、どんなに離れていたとしても。

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詩人にはなれなくても

友人から「プロの詩人」という言葉を聞いて「おお、すごい!」と思った。この場合の「プロの」というのはそれで生活できているということになるのかな、と思ったけどその人は並行して稼げる仕事をしているからなんらかの社会的な評価をえているということかな。あるいはその人が詩作によって詩人になるという行為を続けていれば「プロの詩人」であるということかも。詩人っていつの時代も特別な立場。フロイトにとってもラカンにとっても詩人は特別だった。彼らは自分は詩人ではないと言った。キルケゴールは詩人を「例外」といった。

ここで自由連想のように綴っていると過去のことが思い出されたとしてもそれは過去のことではないような気がしてくる。常にそれは今となって私に立ち現れてくるもので精神分析が自由連想を方法とし、反復を扱い、精神分析を続けることが精神分析家になることだというのもシンプルに納得する。「意図せず」「そんなつもりなく」という日常生活の精神病理を発見し、自分で見るのに自分でもわからない夢の痕跡を辿り、あなたではないが私だけでもない間柄でお互いを侵食し合うことで知り、患者より少しだけ早くそれを言葉にする。精神分析家のしていることはそういうことだと思う。それは詩作とはほど遠いのかもしれないがウィニコットやオグデンは精神分析場面に現れる言葉を歌や詩として聞く。彼らの声もそういうものとして発せられる。ウィニコットだったら子どもと共にマザーグースを口ずさむように、オグデンだったらフロストのように押韻から意味を聞き取るだろう。確かに患者の言葉を聞くとき音の響きやリズムのずれはこちらに何かを知らせる。確かにそれらはいつの間にか解釈の言葉として練り上げられている気もする。言葉が生まれる、という実感は常にある。

空や鳥や花や月がそれぞれのリズム、それぞれのペースで消えたり現れたりするのを私たちはそんなに意識していないと思う。いつの間にか消えたそれが現れたら気づきまた忘れということを繰り返しているように思う。それらを「きれい」「不思議」「不気味」と思う気持ちもそんなに変わらないと思う。かつて愛した人のことはすっかり忘れたりするのに不思議だなと思う。先日取り上げた『どうにもとまらない歌謡曲 ─七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫)でも北山的美意識として書いてあったが「あのとき同じ花を見て」「あのときずっと夕焼けを追いかけて」も私たちの「心と心が今はもう通わない」ことは生じるのだ。そしてそれに伴って花が汚くなったり夕焼けもセピア色になってしまったりはしないのだ。心はたやすく投影同一化によってまるで別のものになったりするのに。(参照:「あの素晴しい愛をもう一度」加藤和彦作曲、北山修作詞)

私たちは自然と違って自分の足で目で耳で鼻で触覚(感触?)で直観で常に自分を戸惑わせている。すぐ戸惑ってしまう。不安になってしまう。症状を呈してしまう。だからつい自分探しをしたくなってしまうのかもしれない。「らしさ」なんてあるんだかないんだかわからないものを探すことで正解がある世界を錯覚していたいのかもしれない。見通しを持てること、ゴールがあることは安心感を与えてくれるから。それはそうだ。それを「弱い」とか「情けない」とか自分にも他人にもいう人もいるがそれこそ何基準?という感じがする。世界は私たち仕様にはできていないのだからいろんな気持ちになるのは当たり前だろう。反復の仕方は確かにその人らしさを際立たせたりするけどそれはその人だけのものであって正解とか間違いとかいいとか悪いとかそういう類のものではない。

曖昧で不確実でいろんなことがそんなつもりなくたまたま生じるような世界の秩序は自然が守ってくれているとして、私たちは今日もいろんな気持ちになって必要以上に自分を苦しめることなく過ごせたらいいような気がする。全くの停滞というのは人間には難しいのでなおさら辛いこともあるかもしれないけど諦めるとしても小さくため息をつく程度であったらいいような気がする。詩人にはなれなくても言葉を紡ぐ自由は誰にでもある。少しずつ少しずつ行きつ戻りつ。

地震も台風も常に身近だけど引き続きどうぞご安全に。

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再発見に向けて

今朝もカーテンの向こうがうっすらピンクでそっとのぞいたら思ったより水色混じりのピンクが東の空から広がってきていました。昨晩の三日月はもうとっくに西へ。火曜日の朝です。

昨日、隙間時間になんとなく田野大輔『愛と欲望のナチズム』(2012/講談社選書メチエ,Kindle版)を読み上げ機能で流していました。精神分析におけるセクシュアリティとジェンダーについて考えるとき、フロイトの理論においてそれらがどう捉えられ、他の分析家や患者との関係を通じてどんな変遷を見せたのかを知ることが重要なのは当然です。それはその時代のその社会が精神分析に対して為してきたことを知ろうとすることでもあり、だから私たちはフロイトを断片ではなく読み続けるわけです。

一方、精神分析をなんらかの形で体験しながらそれらを詳細に検討することと彼らとは異なる時代と社会で生きる私たちが自分の文脈の正当化のためにフロイトを断片的に使用することで生じる偏見の溝は埋めようがありません。もちろん体験のみで知る精神分析とも違いはあるでしょう。精神分析が技法として意義があるのはどのようなあり方も当然ありうるものとするからだと思うので何がどうというわけでもありません。ナチズムのように性の抑圧と解放という二重道徳を手に性生活に介入する権力的な精神療法によって「治療可能」であれば生かし、「治療不能な患者の存在は、民族の健康を守る精神療法の限界を露呈させる」として排除するような治療観は持ち合わせていません。

フロイトの性欲動は生の欲動であり、セクシュアリティは異性あるいは同性を対象とし、セックスを目標とした本能行動であるだけでは決してありません。精神分析におけるそれは、人間のこころの組織化の中心をなすものでそこに潜在する拘束力と破壊力は「常に別のものの再発見」とセットで語られるべきものと私は思います。

「常に別のものの再発見」という言葉はラプランシュが、非性的な機能的対象から性欲動の対象への移行について論じたとき、フロイトの「対象の発見とは、本来再発見である」(Freud,1925)というフレーズを用いて「発見とは、常に別のものの再発見である」と明確化したものを援用しました。

メラニー・クラインが鬱病を抱えていたり、不幸な結婚をして妊娠の可能性に悩んでいたことやアンナ・フロイトとドロシー・バーリンガムとのパートナーシップなど分析家の個人史に見られるセクシュアリティに関連する出来事を単にフロイトをめぐる精神分析史におくのではなく、当時の社会の側から見直したうえで現代を生きる私たちのフェミニズムの文脈に置き直してみることも大切だと感じます。精神分析が誰かのこころをコントロールしたり排除したりする文化に加担することのないようにその内側にいる私はああでもないこうでもないと考え続けることが大事そうです。

フロイト
「最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。分析家にとっての正しいふるまいとは、必要に応じてひとつの心的態度からもう一方の心的態度へと揺れ動き、分析中の症例については思弁や思案にふけることを避け、分析が終結した後にはじめて、得られた素材を統合的な思考過程にゆだねることにある。」

ー「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)『フロイト技法論集』に所収(藤山直樹編・監訳、2014)

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アンデスメロン/ルシア・ベルリン

小さなアンデスメロンを4分の1食べた。アンデスメロンはアンデスのメロンではなくて「安心ですメロン」なんだと聞いた。この年齢になればこれまでも同じことを聞いていそうだがまた(多分)驚いてしまった。だとしても(これもきっと前にも思ったのだろうけど)なんで「アンデス」?「アンシンメロン」とするよりははるかに魅力的ではあるが。にしてもなにが「安心」なのかしら。メロンと似てるけど安心して、きちんとメロンと同じ味だから、とか?

一番美味しそうなのは種のところ。ジュワッと泡立つように水分が集まって茶漉しに集めてスプーンでギュッと潰しながら濾してメロンジュースにしたいくらい。「こす」って漢字を二種類使ったのだけどわかりました?なんでこんなに似て非なる漢字を同じ意味に当てたのかしら。遊び?だとしたら楽しいな。もっとそういうの探したい。今日は朝からなんでなんでばかりだな。2歳児か。

職場の愚痴を話している大人に「なんでー」とタイミングよく入れたその人の娘の声を思い出した。あの時は笑った。私よりずっといい聞き手だ、あの子は。複雑そうだけど実は単純で大した理由もない大人の意地悪の話を理解できたわけではないだろう。それでもその「なんで」はそのタイミングによって核心をついていた。ほんとなんでこんなことするんだろうね、そして私たちはなんでこんなかわいいあなたを置いてこんな話をしてるんだろうね。私たちが顔を見合わせて笑うと彼女は「みてー」と今書いたばかりのぐるぐるがきをみせてくれた。一日に数えきれないほど言われる「みて」もこんなときは特別。母親である友人はさっきよりずっと明るい笑顔をみせてそれを受け取った。

今朝は『メンタルクリニックの社会学』を読みたいなと思いながらルシア・ベルリンの『すべての月、すべての年』(岸本佐和子訳、講談社)を手に取った。

「なんてこった」のルビは「ファック・ア・ダック」。メキシコからアメリカにきた若い母親である彼女がはじめて声に出した英語だ。

ルシア・ベルリンの『すべての月、すべての年』のなかの一編「ミヒート」を参照

ルシア・ベルリンの短編はぞんざいに積み上げられたような短文からなっていて積み上げられているのは主に暴力とケアだと感じる。メロンの種のところみたいに緻密で涙がいっぱい溜まっているような世界をじっと見つめつつも暴力的で不寛容な外界を当然の背景とし決して感傷に陥ることのない距離感のもと私たちのすぐ目の前に広げられる文字世界。そこは読者の衝動と抑圧のバランスも引き受けてくれるような安定感さえある。

『ミヒート』は診療所の看護師の視点が臨床家のリアリティと重なる短編だ。「ファック・ア・ダック」、字面では決して伝わらないあまりに悲しいこの言葉の響きを私も今日聞くのだろうか。

メンタルクリニックと診療所、ここで私の連想が繋がってこの本を先に手に取ったというわけか。無意識、委ねては気づくことの繰り返し。自分より先走ることなんて不可能なのだから今日も突然目の前を飛び始めた夏の蝶を追うようにのんびりいこう。にしてもなんで夏の蝶って案内人のように急に現れるのかな。また「なんで」といってしまった。答えも急がず慌てずそのうちわかればラッキーくらいな感じで行きましょうか。行ってらっしゃい。

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東京公認心理師協会地域活動とか暮田真名さんWSとか。

今年8月7日(日)10時〜12時、東京公認心理師協会に応募した企画が無事に通り、予定通り開催できることになりました。詳細はもう一つのサイトをご覧ください。

その一週間後、8月14日(日)午後は川柳界から暮田真名さんをお迎えしてワークショップを行います。

ふりょの星』(左右社)読まれましたか?私が20代の頃には(もちろん引き続く今も)とても持ち得なかったいろんなもの(主に才気)が詰まった明るいハテナにつままれる川柳句集です。その後に続いた平岡直子さん『Ladies and』(左右社)、なかはられいこさん『くちびるにウエハース』(左右社)、3冊とも全くタイプが異なりますがどうやったらこんな言葉の選択ができるのかしらとびっくりさせられてしまうところは一緒。いつもと少し違う景色を見たいなという方におすすめの川柳句集三冊です。

暮田さんをお迎えするイベントの詳細は7月に入ったら。え?つまり明日!?

6月、こんなでしたっけ。梅雨は苦手だけどもうちょっと居座ってくれてもよかったのですよ。居心地が悪い国になってしまったのかしら。東京が猛暑日でだるいだるいと呟いていた先週末、zoomミーティングで札幌の仲間も「29度」と。えー、札幌のみなさん、大丈夫ですか?となりますよね。普段涼しいイメージがあるだけに暑さ対策などどうされているのかしら、と。同じ気温でも地域によって感じ方ってだいぶ異なるから不思議です。

ということで冒頭でご紹介したのは地域活動イベントとなります。東京都、しかも大田区、世田谷区に登録されている方のみ、しかも臨床心理士、公認心理師のみを対象としたイベントです。狭くてごめんなさい。

移動には時間もお金もかかります。心身の事情であまり遠くにはいけないという方もおられるでしょう。そんな時、近くの「地域」は何ができるのか。しなくてはいけないのか。そして心理職はそこに対してどんな介入なりサポートができるのか。そういうことをじっくり考えるためにもまずは同じ地域で暮らしたり働いたりしている仲間と交流して横のつながりを作りましょう、という感じのイベントです。基本的なことではありますが基本こそ難しいということも共有していただけるかと思います。ぜひご検討いただけますと幸いです。

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『スープとイデオロギー』をみた。

外が暗いうちに目覚める。すぐに明るくなる頃に目覚める。鳥たちとともに。洗濯機をかけて麦茶をいれる。花火が描かれた薄いグラスが曇っていく。一昨日からまた麦茶を作り始めた。といっても沸騰したお湯にパックをポンと浸しておくだけだけど。今日も猛暑だそうだ。水分補給も気をつけねば。

『スープとイデオロギー』という映画を見た。ヤン ヨンヒさんがご自身の家族を撮った映画だ。彼女はこれまでも父親や姪のことを撮って多くの賞をとっているとのことだが私は全く知らなかった。彼女は在日コリアンで今回撮られたのは彼女のオモニ(母)である。オモニは18歳の時に済州4•3事件を現地で体験していた。

「来週見ようと思って」と見るより先に買ったパンフレットを見せてくれた。その人は部落の方々に話を聞くドキュメンタリー映画を見てきたとその話もしてくれた。生活史を聞く。社会学者の岸政彦さんの仕事が広く知られているだろうか。私の仕事の主要な部分でもある。彼らの生活史が広く知られることはないだろうけど。同じ場所で同じ出来事を体験したはずの人たちでも語りは異なる。おそらく聞き手によっても異なるだろう。その映画には若い女性の語り手はあまり出てこなかったと聞いた。

済州4•3事件、私は朴沙羅さんの『家の歴史を書く』(筑摩書房)で知った。以前ここでもこの本には触れたことがある。朴さんがご自身のおじさんおばさんの話をそのまま書き取り、聞き取るなかでの想いも吐露し、学者としての考察も加えた豊かな一冊だった。同じ場所で同じ出来事を体験したはずの人たちでも語りは異なる、と書いた。この本でもそうだった。歴史的な非常に残虐な事件が起きた場所でその日も生活していたからといってその事件について語られるとは限らないのである。

『スープとイデオロギー』の冒頭には、母親が病院のベッドで突然事件のことを語りはじめる場面、娘の結婚相手に言及する父に娘がツッコミを入れ母が笑う父在りし日の賑やかな食卓の場面が置かれていたと思う。大阪弁と韓国語が混じり合う家にはかつてこの映画の監督、オモニの娘であるヨンヒさんの兄3人も暮らしていた。写真でしか登場しない彼らのひとりはすでに亡くなり、2人の兄は平壌で暮らす。ヨンヒさんは映画が理由でそこにはいけない。父も墓で眠る平壌に。「人間プレゼント」という言葉も私は知らなかった。ヨンヒさんが結婚相手を連れてくる場面はこの映画の最も幸せな場面だろう。オモニの笑顔の美しさに涙が溢れっぱなしだった。そして昼過ぎにくる彼を迎えるために朝からオモニが作る鶏丸ごと一羽と大量の真っ白な青森ニンニクと高麗人参とナツメをコトコト煮込むだけのスープの美味しそうなこと!アボジ(父)が望まなかった日本人のパートナーを暖かく丁寧に笑顔いっぱいにもてなすオモニが済州島で大虐殺と焼き討ちを体験したのはまだ18歳のときだ。婚約者を失い、叔父を失い、幼い妹と弟と散歩を楽しむふりをして検閲を潜り抜け大阪へ密航を果たしたという出来事はこの映画ではクレイアニメで描かれた。余計な感傷を寄せ付けないクレイの若きオモニの目線はこうして娘たちを見守るオモニのなかに確かにあったものなのだ。でも私はそれを想像することすらできない。ヨンヒさんはアルツハイマーが進行しそこにはいない家族と同じ屋根の下で暮らしていると信じているオモニを済州島へ連れていく。もちろんパートナーの荒井さんも一緒に。ヨンヒさんがはじめて感情を抑えられなくなるのはそこでだ。母がした体験をそこで起きた出来事をどこまでも続きそうな犠牲者の名前の列を墓を彼らが幼い日を過ごしたかもしれない海を幼い妹をおぶって弟と手を繋いで30キロを歩いて大阪へ向かう船に向かったという道をヨンヒさんは車椅子の母と荒井さんと一緒に体験する。

”「語りえない」ことなど、おそらくそれほど多くはないのだ。”

朴沙羅さんは『家(チベ)の歴史を書く』で書いた。

”「ただ、調査者や聞き手が聞き取り得なかったことがあるだけだ”

ヨンヒさんは自分のカメラを通じてではなく母の体験の場所を共にすることで母の想いを知ってしまった。

ヨンヒさんの気持ちを考える。子供の頃から疑問だらけだっただろう。なぜ兄たちは、なぜ父は、なぜ母は、どうして自分だけ、と。映画のトーンはあくまで静かで暖かくユーモアがあり時折入り乱れる感情も日常に回収される。ただ、私にはオモニの症状が一気に進むきっかけとなったかどうかはわからないがその直前の聞き取りのシーンが本当にキツかった。ただ聞く、その難しさは日々実感している。ただ聞く、あくまで受動的に。そうすれば朴さんが書くように「語りえない」こどなどそんなに多くはないのだ、多分。

みてよかった。教えてもらってよかった。オモニは今年のはじめに亡くなったそうだ。問い合わせが多かったらしくヨンヒさんがTwitterで報告していたのをみた。ヨンヒさんの仕事の意味はとても大きい。難しく苦しい仕事でもあると想像する。歴史を共有してもらえてよかった。知らないことばかりの日常だけど少しずつ今日も少しずつ。

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incommunicado

鳥は今日も元気。だれかの朝を想う。穏やかにいつも通りの朝を迎えた人もいるだろう。激しい情緒に向かうべき先がわからなくなっている人もいるだろう。体験は人それぞれだ。「いつも通り」であればそれがなんであれ今日もとりあえずそれでいけるかもしれない。人に会えば普通に挨拶をし、空を仰いでは今年の梅雨はなんだったのかなど思うかもしれない。強い情緒を持て余すなら、抑えきれぬ苛立ちを身近な人たちにぶつけては強まるどうしようもなさに泣き崩れるかもしれない。もう行かねばと時計を気にしつつ狂気と正気がぐるぐるするなかを起き上がれずにいるかもしれない。時間は過ぎる、世界がどうであれ。気持ちは変わる、今がどうであれ。ただ受け身でいても必ず。

誰かを特別に想うってどういうことだろうとよく考える。特別だなんて思わなければこんな辛い思いをしなくてよいのではないか、自分にも相手にもうんざりしたり嫉妬に狂ったり嫌われないための無理をしないでもすむのではないか。ただそばにいたい、いろんな話を聞きたい、聞いてもらいたい、あなたを知りたい、知ってもらいたい。特別な相手に変わっていく人を想う喜びや幸せに満たされながらそこからこぼれ落ちる、あるいは生じてくるなにかはときに不安や疑惑の形をとる。重なり合う部分が増えるほど本当にひとつになることなどできないことを知る。知っていたはずのことをいかに知らなかったかを思い知らされながら時々互いに自分の攻撃性ゆえに被害的になる。ひどいことをいってしまうときもある。そしてまた語り合い抱き合いまた離れては出会い直す。セクシュアリティゆえに退行しジェンダーに縛られながら今この社会で偶然出会って惹かれあいそんなことを繰り返す。私は誰かを特別に想うってそういうことなのではないかと考えている。偶然性に身を委ねるというある種の賭けに自分の未来を投じたい、何かを産む産まないといった目的のためではなく正解もゴールもない場所で一緒にいたい、そういう欲望のことではないかと思う。

精神分析家のウィニコットはincommunicado selfということをいった。だれとも交わらない完全に孤立した状態とでもいえばいいのだろうか。それが守られることの重要性を指摘した。ウィニコットの言葉でいえばそれは以下のようなニードである。

The need to be an isolate intertwined with the need to be recognized continues throughout life as perhaps our most fundamental ontological set of needs. Without recognition by another person, we are adrift; we cannot know who we are when in a state of complete isolation (Winnicott, 1967, 1968). 

彼は「ひとりの赤ん坊というものはいない」「全体がひとつのユニットを形作っている」という言葉で関係性を記述した。私はそこに委ねるが交わらない、受け身でいること、想像的あるいは創造的でないことの重要性をみてとる。

カタツムリのツノが思い浮かんだ。いつきたのか曖昧なまま梅雨は明けたが彼らはどうしているだろう。

昨年ケアの文脈で「想像力」「創造性」という言葉もよく目にした気がする。人を特別に思うことはケアすることでもあると思うが果たしてそれらは必須だろうか。それがない人もいるという前提がそこにはあるように思うが、それがない場合にも人を想ったりケアすることは受け身的に生じていると私は思うので考えたい。関連して「思いやり」についても再考が必要と感じる。ウィニコットも「思いやりの段階」を重視しているがそれは一体何か、ということも問い直してみたい。もちろんこんなことを考えるのも共にいること(being)について考えているからだけど。

孤立、孤独であることを可能にするそれ。毎日そんなことを考えていることを書きながら確認した感じ。まあのんびりやりましょう。暑過ぎるから。

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見る見られるからの連想

危険危険、と呟きながら日陰を探しながら歩く。朝9時でこれ。この暑さはやばい。保育園の子たちは熱中症が心配。オンラインの仕事の人は絶対その方がいい。私はいつもなら歩く区間も電車に乗った。昨日の朝のこと。今日も暑そうだ。

今朝はここ数日と比べると風が穏やかだ。窓を開けたブラインドはたまにカタカタンとどこかにぶつかる音を立てるけど概ねじっとしている。いつもより大きく開けた窓から時折スーッと気持ちのいい風が入ってきてティッシュペーパーを揺らしている。いつもは早朝から窓が空いている隣のマンションの一室はしんとしている。あの窓があいたらこの窓は少し閉めねば。

子供の頃、隣の家の兄弟と一緒に幼稚園に通っていた。幼稚園までは一つ角を右に曲がってあとは真っ直ぐ。一つ小さな交差点を越せば右手が園舎だった。彼らの家に「おはようございます」と行くところまでは覚えているが園までの道のりはどうだったか。角にはとうもろこし畑があって斜めに突っ切ることができる季節もあったし、夏は自分より背の高いそこに犬と一緒にわざと迷い込んだ。彼らともこうして遊んだのだろうか。

彼らの家には繭倉庫があって独特の匂いのする薄暗いその場所で私たちは転げ回って遊んだ。私の家のひんやりした場所には蚕がいたし、小学生のとき、一緒に帰っていたEちゃんの家の隣は桑畑だった。当時の群馬はまだ地場産業を伝えていたんだな。

子供部屋は彼らの家側にあった。夜になるとお互いにカーテンを少しだけずらして「見つかった!」となれば戻して今度はさっきよりそっとほんとに少しだけずらしてまた「見つかった!」と閉めることを繰り返し騒ぎすぎて叱られた。隠れてもこんなによく見えてしまうことを私はその時に知った。

上京しはじめて一人暮らしをした小さくて壁の薄いアパートは大学からは近かったが駅からは遠かった。何かの畑の隣でこの季節は虫が多くて怯えた。田舎育ちだからといって虫に強いわけではないのだ。隣の部屋は何歳くらいだったのだろう、学生よりは年齢のいった若い男性が住んでいた。ある日、私が階段を降りてふと2階を見ると窓の隙間から目が見えた。ああいうとき、本当に声は出ない。身体も硬直したような気がしたけど私はまるで何事もなかったかのように大学へ向かった。振り返ることは決してできなかった。その視線から確実に外れたと思えた場所からは走ったのであっという間に大学には着いた。守衛の男性とはすでに顔見知りでその日も何か言葉を交わしたけどそのことは話せなかった。そうやって目だけ覗かせてもこちらからは見えているという体験を彼はしたことがないのだろうか。私は声が出ない体験、身体が硬直する感覚、強い動機と持続する恐怖、それでもいつもと同じように振る舞えてしまうことを知った。

暑い暑いと思ってここに座って隣のマンションのしんとした窓を眺めてなんとなく書いていたらこんなことを思い出してしまった。すっかり忘れていたのに。きっとここを離れたらまたすぐ忘れるのに。怖い想いをするとはそういうことなのだろう。トラウマと呼ばなくても私たちは日々その大きさにかかわらず不安や負担を積み重ねている。忘れたり思い出したり意味づけを変えたりしながら出来事自体は遠くなっていくかもしれない。でも強く打たれるような重くのしかかるような情緒はふとした瞬間にこうして戻ってくる。そういうものなのだろう。そうではない人がいるとしてもそういうこともあるということも知ってほしい。

中絶を権利として認めない判断を下した米最高裁は人間の身体を知るどころか人間の身体を持っているのだろうか。性別を超え戯れぶつかり合い仲直りしいつの間にか学び自分の体験を通じて相手の体験を想像し、自分は大丈夫でも相手はそうではないかもしれない可能性を、非対称の関係においてはなおさらそうである可能性を考慮したことはないのだろうか。ないのだろう。自分が生まれた場所である身体の権利さえ奪えるという前提が共有されたからこの判断になったのだろうから。

これは妊娠する女性だけの問題ではない。単に女性だけの問題でもない。人間の問題だ、と速やかに広げることが必要に思う。その判断に目的があるとしたら変化の芽を摘むことだろう。失望させ絶望させ硬直させ、法という視線で身動きを取れなくする。そこで守られるのは権利を奪った人間の頑なな信念だけではないだろうか。変わることを頑なに拒んで変えようとする相手の声を封じ込めるような暴力的な心性だけではないだろうか。それはこの世界において多数派なのだろうか。少なくとも私の周りは違う。速やかに性別を超えた人間の権利の問題にしていく必要性を感じる。女性だけの、ましてや妊娠の可能性のある女性だけの問題にすることは無力なマイノリティとして彼らを扱う素振りだと私は思う。もしそうだとしたらそれは私たち自身がこの判決の罠にはまり彼ら権力者と同じようになる危険性を孕んでいるのではないだろうか。特定の女性の権利を奪うという行為を巡って戦うつもりがそれがマイノリティであるというイメージを増大させ見えやすい形での暴力を引き起こしたりそれによって不安や恐怖が蔓延していくようなプロセスに加担することは避けたい。その可能性はいつでも潜んでいるのだ。私たちは彼らと同じ当然の権利を守る人間として共にあろうとしながらいつの間にか権力者と同じことをするかもしれない。コロナ禍でそのような人間の心性に私たちはすでに直面しているはずだ。自動的に正義の側に立つということはない。どちらでもあるという状況をどう生き延び、誰もが声を奪われ身体を硬直させつつある人間である可能性に思いを馳せる、まずはそこからなのだと私は思う。

同時にこの気候も生き延びねば。身体は基本だから。熱中症などにどうぞお気をつけて。良い日曜日でありますように。

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助走(愛とセクシュアリティに向けて)

昨日からずっと風が強い。夏至を過ぎたことを悲しく思うのは毎年のことでぐんぐん強くなっていく朝の光にそんなに急がなくてもいいのにと思ったりする。風がそれを煽っているようにも感じるのだろう。

いろんな現場でいろんな人と会ってきた。いろんな目に会ってきた。いろんな人との間でいろんな目に会ってきたいろんな人の話も聞いてきた。具体的なエピソードを積み重ねれば積み重ねるほど人にはそれぞれ事情があるという一見当たり前のことを実感するようになった。たしかにあのひどい人にも本当は事情があったのかもしれない。あんなことが起きたのにはこういうことも関わっていたのかもしれない。それぞれの事情を知れば知るほど出来事の見え方は変わってくる。もちろん体験の受け手に見方を変える力があればの話。ただもし何を見ても似たような風にしか見られない人がいたとしてもその人にもそうなった事情があるだろう。

「あいつさえいなければ」。強い憎しみに覆われながら身体を震わせてつぶやく。この人にこんな強い気持ちがあったとは、と驚きつつ、ものすごい圧力に少し後退りするような気持ちで私はじっと観察する。こんなときに「でもこういう可能性も」と言ったところでそんなの無意味だ。

あのときは「そういうもの」なんだと思った。大人がいうから「正しい」と思った。でも違った。大人になった私が今こんな状況でこんな想いをしているのはあのときにおまえが体験を奪ったからだろう。本当はあんなことしたくなかった。気持ちや考えなど聞いてくれたことがあっただろうか。おまえらの押し付けのせいでこうなってる。それを今更こっちの責任みたいにまたおしつけてくるのか。

繰り返されるやりとり。繰り返される痛み。体験を体験し直す場。精神分析の設定はそれを提供する。

「でも自分にも問題があったと思うんです」「だとしたらどんな?」「・・・・・」

何がなくてもそうなんだと思い込んできた。自分に目を向ける余裕などなく人の目、人の言葉ばかり気にしてきたのだから言葉でいうほど自分のことはわかっていない。だから問われても答えられない。なによりこんな風に問われたことなどなかった。

彼らは徐々に治療者との間でもこれまでのパターンを繰り返しはじめる。定期的に継続してあっていればそれがいつものパターンであることは二人の間で明確になってくる。「私は可能性を奪われた」という話もそんな中で何度も何度も繰り返される。治療者である私も彼らの時間やお金や可能性を奪う相手として体験される。彼らは繰り返す。まるでそう自分に思い込ませるように。そう、そこからやり直すためにそうするしかない場合もあるのだ。私は失敗しながらもなんとかそこにいようとする。ほとんど彼らの過去の体験の相手として、でもどうしたって残ってしまう自分として。

フロイトは能動性と受動性という心的な特徴を男性と女性それぞれに与えた。心的両性性の観点からいえば男性と女性の区別はそこにはないはずだった。しかし性器の違いにこだわったフロイトはどうしてもそこで異性愛を前提にしがちでそこから逃れようとするたびに「女性はわからない」となっていた印象がある。それこそフロイトの逃げではないかと思うが、性を性器から逃れたところで語ろうとしなければそれはたやすく生殖と結びつく。精神分析が神話から持ち込んだ父と息子、臨床で発見してきた母と娘といった重要ではあるがあくまで生殖の文脈から逃れられない物語に従属しがちなのもそのためではないかと思う(これはかなり雑な言い方なのだけど)。

能動性と受動性、する/されるの関係は常に反転する。転移状況はその反転を患者と治療者のペアにおいて実演するため、どこをみてもそのパターンか、というものが見えてきやすい。同時にそれまで一人で体験していたパターンを今ここでお互いが体験し、体験させられることでこれまでとは異なるパーステペクティブが生じる。「あいつのせいで」という憎しみにようやく別の角度から光があたりはじめる。

私は精神分析における愛とセクシュアリティに関心があり、これまでも助走的に書いたものもある。これ↓とかこれ↓とかだろうか。

精神分析というプレイ」「精神分析における愛とセクシュアリティ」

それは愛だと思い込むでもなく、憎しみに覆われるでもなく、愛と憎しみの両価性を生きるために私はそれー精神分析における愛とセクシュアリティーについて考える必要があると思う。それぞれのセクシュアルティがもたらす多様な関係を生殖やそこからはじまる家族の物語、あるいは異性愛と同性愛の区別で語るような用語(例えば「倒錯」)に閉じ込めるのではなく別の言葉で語ることはできないのだろうか。子供と大人の区別は重要だがそれで誤魔化されてきた部分に注意を向ける必要も患者たちが伝えてくれているのではないだろうか。

また助走みたいな文章になってきたのでここまでにしよう。いつまで助走なんだかと思うが特にゴールがあるわけでもないのだから今日もこんな感じで歩いたり走ったり立ち止まったりしようと思う。

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スイカ、呼び名、つながり

スイカ。冷たくて水分たっぷりでちょうど良い甘さで目覚めるにはピッタリ。スイカ大好きな友人がいろんな土地のを食べていてどれも美味しそうで羨ましいのだけどこの美味しいスイカは産地知らず。でもなんだって人の手が関わっているわけですよね。どこぞのどなたかどうもありがとうございます。東京の住宅街で朝5時頃いただきました。少し元気が出ました。

スイカの名産地っていう曲ありましたよね。あれは今思うと不思議な歌詞。どこの国の童謡なのだろう。とうもろこしの花婿と小麦の花嫁だからアメリカ?うーん。農地を思うとまた大変な労働環境のことを考えてしまう。花嫁と花婿、嫁と婿、ママ、パパ、「おい」「はい」など、パートナーの呼び方の議論もありますね。誰かに対してその人との関係を伝えるときにどういうか。嫁と旦那、妻と夫。あるいは友人カップルの片方しか知らない場合に知らない方をどう呼ぶか。私は相手の年齢によっても使い分けるけどどれも名前のように使うかな。相手が呼ぶ仕方で私も呼ぶ。この仕事だからかもしれないけど。本来正解とかもないだろうし、すでになんとなくある「正しさ」に塗れた呼び名なのだからまずはそれが薄まるように自分ではあまり使わない。そういうのはすごく意識しているわけではないのだけど「どれが適切か」「何が正解か」みたいな議論にのる前にそれがない場合を考えるのは癖だと思う。

少し前に読んだアリソン・アレクシー『離婚の文化人類学 現代日本における<親密な>別れ方』(みすず書房)はアメリカ人の文化人類学者が日本で日本人(東京の中流階層の人が多かったと思う)の離婚話を聞いて彼らがどのように親密な関係を生きようとし、離婚した後も含め、どのようなロマンス(といってしまうが)に基づいて親密さという「つながり」を維持しようとするのか、あるいはどのようにそれについての意識を変えていくのかについて、個人の意識(というものがあるとすればだけど)、家族観、ジェンダー規範、「甘え」(土居健郎を引用)や依存、自立、法制度、国家のイデオロギーといった幅広い視点を維持したまま考察を加えたユニークな本だったと思う。とても大雑把に私がよかったと思う観点からいうと、誰かが「離婚した」といったときに相手が「え!なんで?」となりがちなのは「離婚」に対する偏った意味づけがあるからで「離婚」をつながりも別れも、始まりも終わりも含んだある二人の関係性の変化を示す言葉としてニュートラルな行為の言葉にすれば私たちがこれまでその言葉に与えてきた「正しさ」的な何かによって当事者たちを苦しめることは減るかもしれないのでその言葉にまとわりつく様々な意識や規範をまず「それぞれ」のものに分解し、「つながり」の変容という観点からそれを位置付け直すような本だった、という感じだろうか。

パートナーをどう呼ぶか、という問題についてもこういう作業が必要なのかもしれない。この本は「その言葉を使わない場合」というところからはじめる癖のある私にはしっくりくる本だった。

また本紹介になってしまった。今日はバタバタ移動の多い日だ。ちょっと寄りたいところがあった気がするが眠ったら忘れてしまった。

深刻なんだか呑気だかわからない毎日だがいろんな気持ちになるのが人間らしさを維持するのだろうからとりあえずこのままというかそれ以外ないか。急に変われるわけでもないから。それぞれに良い一日を。

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無関心

まただ、と思う。こころを閉ざしていると言葉は届きにくくなる。興味深い内容を普通の声でたくさん話しているように思えても受け手を長い期間やってきたせいかそれは明らかに感じるようになった。

話している本人は私を特定の相手としてみていないこと、少なくとも私がそう感じていることに気づいていない。そんなとき、私はとても寂しくていろんなことを言いたくなるけどその状況でそれをいうことができない。閉ざしている相手に、私の気持ちより自分のことに気を取られている相手に何かいったところで被害的に受け取られるだけだろう。たくさん我慢してきたのに、と思うがそれも私が勝手にしている我慢だ、と片付けたくなる。私のことを考えてくれればすぐにわかるような我慢しかしていないつもりだけど、と恨めしく思っても、時折ため息をつきながら心閉ざしている様子は観察していると心配だし疲れさせたくもない。向こうだってそんなつもりはないのだ、多分。

一緒にいるのにもう離れているような、すでに忘れられているような、適当な社交辞令のような挨拶に何かをいうことも拒否されたような感触を持ち顔も見られぬまま別れ電車で涙ぐむ。でももう泣きはしない。繰り返されてきたことだから。関心を向けられないことの寂しさを相手に仕事を続けてきたのだから自分に対しても役割で対処できる。疲れたな、と思考停止しそうな自分を感じながらせめて眠れたらいいのに、と思う。なんでも夢まかせだけどこんな日は夢なんてみられない。瀕死だな、自分を笑う。気持ちも思考も動かない。こう書いていれば動き出し襲ってくる痛みには意識的にブレーキをかける。かかるはずもないけれど。訓練の成果はそこではない。むしろどんな痛みも感じない限り停滞だ。

しかたない、が口癖になってしまった。治療関係ではない間柄で親密な関係を築く。それはいつの間にかそうなっていく。自然に相手を思い、実際の関係を重ねながら自分を内省し、相手とコミュニケーションをとる積み重ね。自分を相手に委ねることで相手に対する関心が配慮の壁を突き破ってしまい喧嘩になることはあってもお互いに心揺さぶられながら相手を思いつつ自分を取り戻すことができればなんとかなる。でも無関心にはなすすべなしだ。しかたない、が口をつく。言わないけど自分の中で何度も繰り返す。

受け手を失い生きる気力を失った人たちの声を聞く仕事を続けている。彼らが受けてきた的外れな関心も無関心も同じものだと思う。どちらにしてもその関心はその人の個別性に向けられたものではなかった。寂しくて悲しくて腹立たしくて頭がおかしくなりそうなときも「大人の」言葉でなだめられそれと向き合ってもらえたことはなかった。理不尽はそのうち当たり前になって、無関心によって生じた絶望をナルシシズムによってどうにか持ち堪え生き延びてきた。ナルシシズムは自分にしか通じない言葉を話している自分に気づくことをさせてくれなかった。いつのまにか自然にコミュニケーションがとれなくなっていたことにも気づいていなかった。当然、治療は難航する。まず言葉を共有できるようになるまでにものすごく時間がかかる。共有したところでナルシシズムの傷つきと激しい怒りを体験することは避けられない。ここで治療者がもううんざりだと無関心に陥ればそれが反復になる。だから自分が無関心になりつつあることにも気づけるこころを育てていくことが必要だ。仕方ない、と頭痛を感じながら沈み続ける自分を投げ出さなければどんなに最悪の状態でも仕事では機能する。反対に、耐えがたい痛みを自分に対する無関心で乗り切ろうとすれば仕事に影響する。そういう仕事だ。辛いけど仕方ない。生きていくって大変だ。これは多分一番共有しやすい。生きていくって大変。ほんとだね。動けるだろうか。動けそうだ。今日が終わることには少しは楽になってればいいけど先のことはわからない。ほんとだね。これも共有できる。少しずつ回復しよう。自分にも相手にも関心を失うことのないように。絶え間なく流れる情報で自分の狭い興味関心に閉じこもることのないように。目の前の相手を見失うことのないように。

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精神分析

カーテンを開く音が聞こえる。一瞬の勢いある音は遠くまで届く。今朝はまだ曇。部屋は確かに明るくなったけど曇り空がはいりこんで空と部屋の境界をなくしただけみたいに思えた。電気をつけようか、何をするわけでもないからいらないか。ここが空だったらそれはそれで素敵だ。

冷蔵庫が閉まる音に赤ちゃんが小さな全身をビクンと震わせた。「どうして今開けちゃったの」と恨めしく思いつつ起きてしまわないか注意をはらう。大丈夫そう。「大丈夫よ」と少し歌うように小さく呟きながら抱える腕を注意深く調整する。再び深い眠りに落ちた我が子に愛おしさが増す時間。音にまみれている日中にはそんな余裕はなかった。緊張が緩み口元が微笑みの形になる。

鳥はいつも通り、と思ったけどいつもと違う声の持ち主がいるみたい。季節が過ぎて鳴き方を覚えたのかもしれない。春はまだ鳴き方が下手な鳥が多くて微笑ましかった。山に出かけるとその違いは顕著で「うわ、下手だなあ」と笑うこともある。これから少しずつ上手になってすぐに私には真似できないきれいな声を出し始めると知っている。また小川洋子『ことり』(朝日文庫)を思い出す。小父さんが一番好きなポーポー語は「おやすみ」だった。

他の本を数冊どければ取り出せる場所にまだあったその文庫をまた少し読んでしまった。仕事に行かねば。

この時期は鳥も親元を離れ自分から世界と関わっていかなければならない。それぞれの声を持つ時期なのかもしれない。とても素敵な声をもっているのにとても受身な鳥もいるだろう、身近で何人かそんな人を思い出して少しおかしかった。愛しさに頬が緩んだのがわかった。

「あの頃はいつでも小鳥の声を待ち望んでいたのに、その時小父さんはいつまでもメジロが歌わないでいてくれることを願っていた。その方がより長く彼女と二人でいられると思ったからだった。小鳥ではなく彼女に向って、小父さんは耳を済ませていた。」ー168頁、小川洋子『ことり』(朝日文庫)

音、声、二人を繋いだり離したりするそれに私は今日も耳を澄ます。なぜかそういう仕事についた。同じ母国語をもち同じことについて話しているはずなのにまるで鳥の声のように、外国語のようにわからなくなり通じなくなるそれに時折苛立ち不安になる。でもそれが元々なのかもしれない。言葉は少しずつ二人の間で意味を持ち共有できる記号へ変わっていく。「おやすみ」のことは数日前に書いた。私も好きな言葉だ。

でも今はおはよう。朝だよ、そろそろ動き始めようか。鳥たちはもう遠くの方で鳴いている。

「私のためになど、歌わなくていいんだよ」鳥籠に顔を寄せ、小父さんはささやいた。「明日の朝、籠を出よう。空へ戻るんだ」ー303頁、小川洋子『ことり』(朝日文庫)

私たちはどこへ戻るのだろう、生きている間。どんなに受身でもこの世界に居場所を見つけ、日々戻る場所を得る必要があるらしい、人間は。そこは日々変わるかもしれない。一つに定めることが難しいかもしれない。どこにいてもそこを居場所だと感じることはできないかもしれない。それでも今ここにいる自分の身体を、声を、言葉を、自分自身を宿らせる場所として一日をはじめられたらと願う。大丈夫。時々そう呟きながら。

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精神分析

見えないもの

わかってて言わないことなんてたくさんある。そんなの当たり前じゃないかと思うが、相手が言わないことに対して想像力を働かせることができない、あるいはしたくない人もいるのだ。相手が言ったことに対してさえそういう人もいるのだからそりゃそうだろう。

見えないものを見る見ない見ようとするしない問題はその人のこころがどれだけのキャパをもっているか、どれだけ揺れに耐えられるかと関係しているだろう。何かを見ることはとてもモヤモヤしたり不安になったりするものだから。

今日は楽しかった。久しぶりに好きな人と会えた。パートナーに「今から帰る」とメッセージを送りながら「今日はありがとう」とその人にもメッセージを送る。

多分気づかれていない、誰も見ていない、と周りをもう一度確認する。最初からここにあったといえばいいんだ。間違えてもってきてしまった他人のものをそこに置く。

よくある例だ。こころの揺れは行動に分裂をもたらす。それに葛藤を覚え誰かの傷つきを想い苦しみながら行動する人もいれば自分の行為の外側で誰かが自分のことを想っていることを忘れ、さらには一瞬訪れた「まずい」という感覚もSNSを開いた途端忘れいつも「いいね」をくれる人のTLを眺めては自動的に指を動かしはじめる人もいる。誰かを忘れても自分を忘れてほしくはない。後ろめたさに時間差で襲われることもある。

表面が全体を表すとしたら他者との間でこころの動きを使って変容に身を委ねる精神分析が向いているのは前者だろうし、精神分析を求めるのも前者だろう。どちらにしてもパターンだが「そういう風に悩む」ことができることは精神分析には必要だ。

相手の気持ちといった見えないものにあまり重きを置かない人は期限も「解決」もない精神分析には魅力も感じないというかむしろネガティブな気持ちさえ持つかもしれない。外側の他者と繋がりそこから得られるライフハックで自分の生活を豊かにしていくことと相手に対して想像力を働かせることは当然両立するが、自分が他者や異質なものをどのように感じるかに細やかに注意を払い続けるためには外との交流に閉ざされた孤立した部分を持つことが必要だ。精神分析は頻回(週4日以上)に定期的な時間と空間を提供することで誰とも関わらないでいるこころ、関わろうとしないこころの体験の場を共にする。

私にとってそのような場が必要だったのは分断や対立にうんざりしていたからだと思う。どうして好きな人を好きでいられないのだろうと思ったからだと思う。たとえ国籍が異なったとしても同じ国で同じ時代に生まれ大きな環境を共有しているのに少しの違いを大きな違いにすり替えていくものはなんなんだろう。いじめや差別、虐待、育児放棄、パワハラ、セクハラ、呼び方は色々だが人を排除するこころが小さな個人のこころを壊し、命さえ奪うことがある。そして排除するこころ、分断を持ち込むこころは自分の中にも蠢いているわけで、それとどうやって私は生きていくのだろう。人は人をコントロールできない、と私はこの仕事を通じて実感している。それでもそれが可能に見えるのはどうしてだろう。

さまざまなことを考える。毎日の寝不足を引き起こす小さな傷つきと心の揺れを通じて。いい悪いの話とは別のところで。なにかを裁く態度からはできるだけ離れたところで。

私は見えないものを見ることができない。見えているものの僅かさとそれ以外の広大さもすぐ忘れてしまう。でもせめて大切な人のこころから締め出されたと感じてもそう感じることを否認したくない。誰かと比べることはしないが世界はこんなもんじゃない、人のこころの世界も今誰かが生まれたり死んだりしている世界もこんなもんじゃないのだろう。自分の愚かさをすぐに忘れすぐに苛立ち寂しさに発狂しそうになり泣いては眠れない日々を繰り返したとしてもこうして回復したい。いくら取り乱しても少しは取り戻す、たとえ独りよがりでも壊れたり壊したりする方向へ向かわない自分でいられますように。毎日、小さいんだか大きいんだかわからない願い事で始める朝だ。

東京は雨らしい。雨の音がする。気温も上がらないみたい。暖かくして出かけよう。電車に傘を忘れないようにしよう。まずはそこから。

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精神分析

おやすみ

前に誰かがSNSで「寝る」だか「おやすみ」だかいってからしばらく起きている人のことをSNSあるあるとして書いていた。

「おやすみ」背後から声をかけられた。PCに向かったまま中途半端に首を回して「おやすみー」と応える。きちんと振り向いたときにはもう気配だけ。寝室のドアが閉まるのが聞こえた。

いつもの分かれ道にきた。「おやすみなさい、また明日ね」手を振ってわかれる。お互い振り返りはしないが(多分向こうも振り返っていないが)反対方向へ薄くなっていく気配を感じながら歩く。「ただいま」一人暮らしでも小さな声で。

オンラインでの「おやすみ」は「あなたとは今日はこの辺で」という区切りだと思うので一緒に住んでいない人と夜に別れるときに直接いう「おやすみ」とあまり変わらないはず。なのでその人がそのあと起きていようと何をしていようと構わないわけだけだが、SNSではそれがさっきまでと同じ画面で見えているからなんとなく違和感があるのかもしれない。この見えているけど切断されている時間というのを私は以前より余韻として感じる。共にいる三次元空間で相手の存在が遠のいていく感じは背後を感じさせ身体性を伴うが、二次元だと、どうなんだろう。そのうち考えてまた書くかもしれないけどマッチ売りの少女感覚かな、声は聞こえない、姿も見えないけどあちら側で生きている人を遠くから眺めるように視覚から描き出すイメージ。自分が手元を照らしている間は。マッチ売りの少女だと少し寂しすぎるかもしれないがそんな気持ちの人もいるかもしれない。

「おやすみ」を交わし、お互いを背後に感じながら離れていく二人。「おやすみ」のあとも画面を見たままもう今日は交流をしない相手が別の誰かと小さな交流をしたりしているのを眺めている一人。それもどちらかのさらなる切断によって見えなくなったり一瞬で消える。なんにしてもそれ自体が二人の関係をすぐに変えるわけではない。どんな二人であってもずっとそばにずっと一緒にいることはできない。誰もが体験する離れていく(離れている)時間は、それまでの生活で誰かと空間を共にするという体験をどのくらいどのようにしてきたかによって異なるだろう。

私は安心したい。せめて眠る前くらい。眠れない夜を過ごすのは嫌だ。悪夢を見たとしてもそれはそんな直前の出来事のせいとは思わないけど一つ一つの行為はそれまでと連続性がある以上不安は夢に侵入してくるだろう。

何時間経っても「ママ、ママ」と泣き続ける子ども、親が拍子抜けするくらいあっさり手を振って部屋の奥へ駆けていく子ども、保育園の仕事ではさまざまな分離を目にする。私はどんな体験をしてきたのだろう。そしてそれは今どのように反復されているのだろう(ある程度わかってきたように思うが)。できるだけこころの空間を広げていきたい。どんな情緒にも反射的に動かされるのではなくできるだけ時間をかければ回復できる程度に抱え、丁寧に言葉にしていきたい。相手を想う気持ちを形にしていきたい。そこが二次元であっても三次元であっても余韻をうむのはそんな想いなのだろう。

外をけたたましくサイレンを鳴らしながら消防車が通り過ぎた。こんな朝早くに。何もありませんように。無事に「おはよう」を交わせますように。また今夜「おやすみ」といえますように。

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精神分析

非対称の関係

マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か。#Me tooに加われない男たち』(集英社新書)で著者の杉田俊介は以下のようなことを書いている。

男性がquestioningな男性として自分を「反省する意識としての自分」と「反省される対象としての自分」に分裂させ、二重化するだけでは普遍的な「人間」にはなれない。なぜならその一つ高次化した視点もやはり何らかの男性性に汚染=侵食されているからだ。そこには「観察の観察」「観察者の観測」のジレンマ(無限のメタ化/無限後退のジレンマ)がつきまとう。そこでそうではなく、男性と女性の間の非対称性と敵対性からはじめること、それを思考や行為が立ち還るべき根源とすること、つまり異なる他者の眼差しに貫かれながら、男性が男性問題を問い直していくことが必要なのではないか、と。

「男らしさ」「本物の男になる」みたいな発想ではなく、ということだろう。そうだそうだ、と私は思う。「らしさ」とか「本物の」という言葉ほど疑うべきものはない。

この本は男性にとってのまっとうさについて考えるための本なので非対称性は女性との間にあるが、精神分析では分析家と被分析者の非対称性がまさにこれである。精神分析の場合、それは親と乳児の非対称性としても語られる。この本でいう「男性」=分析家、親として考えてみる。分析家になるには訓練分析を受ける必要がある。その目的を簡単にいうとしたら、訓練によって、他者(内なる自己とも重なる)とその歴史のいいところ悪いところの全てをこころの内外に住まわせながらもそれにのみこまれることなくともに生き、自分としても他人としても自分のことを考え、他人のことは他人のこととして考えられるようになるためだろう。それは常にbeではなくbecomeの問題である以上「らしさ」や「本物の」という言葉はここでも適用しにくい。

治療者が正解を持っているわけではない、大体正解なんてあるのかしら、いい悪いの問題ではない、それって誰が決めるのかな、「みんな」がそうなのはわかった、だからなに?あなたは?というのは私の口癖だが精神分析の口真似でもあるかもしれない。

他者の眼差しに貫かれ続け、問われ続ける関係の中にいつづけること、被害的になり攻撃的になり敵対しながら、逃げない手応えのある相手として約束通りの時間にいつもそこにいつづける分析家を十分に使いながら自分を問い直し、その欲望に複数の形で開かれていくこと。複数のというのは、正解や本物のない世界において常に揺らぎながらということ。苦しくて辛くて耐え難いこともたくさんある。むしろそんなことばかりだ。精神分析は「幸福」も想定していない。結果として想定するとしたら「今よりましな苦しみや不幸」だろう。自分をたやすく外に開かず、目の前の相手とともに考え続け言葉にしていくことは自分に対する配慮でもあり誰かを愛するための準備でもある、と私は思う。ダメさも愚かさもひっくるめて愛していくとはどういうことか、なかなかの苦闘だけれどともにいるってそういうことではないか、と私は思う。

杉田俊介はいう。

「かつてリブの田中美津は「わかってもらおうと思うは乞食の心」と言いました(もちろんこの言葉がはらむ「乞食」に対する歴史拘束的な差別性も書き換えられるべきでしょう)。ボクたちのつらさを女性たちにも理解してほしい、男だってつらいんだ、という期待は捨て去りましょう。それは「女性からの承認待ち」であり、卑しく惨めな心です。「強く」「男らしく」ある必要はありません。ただ、まっとうな人間であろう。被害者意識の泥沼に落ちることなく、加害や暴力に居直ることもなく、自分(たち)の自由を公的な言葉にしていこう。その限りで、女性の同意ではなくむしろ異論を。対話ではなく論争を。友愛ではなく敵対を待ち望みましょう。それらを待ち望みながら、当面は、男たちのことは男たちが考えていくしかないのです――いつの日か、対等な「人間」同士でさわやかに語り合い、愛し合える日が来るまでは。」

そうだそうだ、と私は思う。男女というより非対称の関係において。「いつの日か」がいつになるかわからないけど瞬間としてならそのプロセスで何度も訪れているであろう愛し合えている瞬間を信頼して考え続け、問われ続け、いつの日かを待ち続ける、今日も。

今日は日曜日。東京は曇のち晴れ(雨も?)の予報。小さな願いが叶わなくても寂しさに心押しつぶされそうでもそれだけで今日が終わってしまうことはないだろう。それぞれの1日をせめて無事に。

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精神分析

短い・長い

コーヒー。頭痛が少しはまし。身体が温まった。ストールをグルグル反対側に回してはずした。週末か。週末って金曜日からのことをいうの?土日は週末でしょ?一週間は7日しかないのによくわからないとは何事。というかわからなくても不便がないからこんな歳になっても曖昧なのです。曖昧でいいことっていっぱいある。正解なんてないことだらけだ。

とはいえ、と「私はあなたにとって都合のいいものとして扱われたくない、私にもこころがある。」ということを書きはじめたが「とはいえ」というのは違うか、と消した(が、結局残っている)。意識はしていないが好きな接続詞(あるいはそれ的なもの)というのがある。自分にとって使い勝手がいいとすぐ使ってしまう、と思ったが使い方を間違っていたら使い勝手もなにも、である。まぁ、こうやって毎朝家事やらなにやらの合間にダラダラとだが一気に書かれるこんな短文においては曖昧でも問題なし。

短文ってどのくらいのことをいうのだろう、と思って以前調べたような気がするがもう覚えていない。調べてさえいないかもしれない。私が毎朝書いているこの文章は短文だと思う。少なくとも長文ではない。短いと長いの間は?中短文、中長文、中間文とは言わないからスペクトラムか。スペクトラムなものは曖昧さによっていつの間にかそのどちらかになるのだろう。『へんしんトンネル』(あきやまただし作・絵)を思い浮かべた。この前保育園で子どもが「よんでー」という意味のなにかを言いながら持ってきて膝に座ったので読んであげたばかりだ。要求の言葉はまだでも絵本を十分に楽しめていた。そうだ、短文って?このブログの編集画面には文字数が出ないので他にコピペして調べてみた。いくつかの記事で見る限り大体1200字平均か。そうか、1200字程度の体感がこれか。無理なくなんとなく独りよがりに曖昧を許容しながら思いを巡らせるウォーミングアップ的文章量。

「私はあなたにとって都合のいいものとして扱われたくない、私にもこころがある。」

当たり前だな。書くまでもない。非対称の関係であっても、というより非対称の関係であればあるほど前提が異なるのだから相手を尊重し、私はこんな感じなんだけどあなたはどんな感じか教えてもらえるかしらという態度が必要だと思う。

昨年からTL上で話題になっていた男性性に関する本を読むようになった。男性が著者のそれらは私が男女という非対称な関係をどう感じているかを意識させてくれた。著者たちだってそれをずっと意識して生きてきたわけではないだろう。むしろ意識してこなかったからこそ逡巡の末に書きはじめたのだろう。どこか後ろめたさを残しつつ、自分の生きてきた歴史のみならず自分が生まれる前から組み込まれている歴史に対する態度を模索するようにさらなる「誤解」が生じることを警戒しながら異質なものと共にあることをあらかさまな目的とはしないような書き方が印象的だった。当たり前と感じるか配慮と感じるか当たり前の配慮と感じるかなど色々受け取り方はあると思う。私は個人的には多くの男性は自分が持つ力にあまりにも無自覚だと思うことが多いが、無自覚であることに対して女性である私も自分が組み込まれてきた短くも(個人史)長い(人類史)歴史のなかでどういう態度をとってきたか内省する必要があると感じている。

共にあること、それが自然になされているのは胎児のときだけかもしれない。そのときですら「そうせざるを得ない」という感覚は生じているかもしれない。誰かと一緒にいる以上、避けられない傷つきと痛みに対してどのような態度をとっていくか。時代と歴史という観点をどのくらい自分の中に維持することができるか。書いているうちにそんなことを考えた。

短い。長い。文章は歴史と違ってそこに区切りを入れることができる。こんなダラダラな文章も手を止めればあっさり終わる。私は「〜しつづける」ことにそんなに価値も置いていない。それはそうせざるを得ないものとして無意識には常にあると考えるから。

今日もふつうに心揺さぶられたりふと冷静になったり色々あるだろう。行きつ戻りつの毎日を。

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精神分析

これまでもこれからも

これまでもずっとそうだったじゃん、とふと思う。

変な時間に起きて変な格好でうとうとしていら左腕が圧迫されて手が動くなった。数年前に橈骨神経麻痺になった時みたいに。今回はしばらくしたらバキバキながら動くようになった。

以前から身体がこわばりやすく、こんなときにこうしてタイプするのはほとんどリハビリだ。

今日は曇りときどき晴れらしい、東京。少しずつ梅雨に向かっているのだろうか。

人なんて変わらない。これまで何度呟いてきたことか。精神分析を何年受けても誰かが思うようにはその人は変わらない。その人自身は確かに変わるけれどそれが誰かにとっても変化とは限らない。

どうして変わる、いや、変わってくれると思ったのだろう。「きちんとする」って言われたから?「きちんとって何を?」って聞いたらまるで想像したのと違う言葉が返ってきただろう。だって、これまでもそうだったじゃん。自分のしたいようにしたいんだよ。全然変わりたいなんて思ってないんだよ。隠したいとすら思っていないと思うよ。したいようにしたいっていうのはそれをみてて、認めてってことなんだから。わかってたはずじゃん。

本当にそうだ。私はよくわかっていたはずだ。

痛みをそのまま伝えられる距離にいられるのは特別な立場の人だけだ、とひたすら痛みに耐えているとまるで人体実験だなとちょっと可笑しくなる。自分の情緒に振り回されながら強い衝動に突然涙をこぼしたりしながらそれを観察している。体験は共有されず適当な言葉でつなぎとめられていることを知っているけどそれでいいんだ、仕方ないんだ、と思いこむ。すごく悲しくて辛いけどもはや怒りも出てこない。相手との関係を諦めているというより自分の愚かさに諦めている。交流していないのだから一人相撲だけど。強い気持ちに打ちのめされながらもそこに入りきれていない自分に可笑しくなる。私がこんな気持ちになる権利なんてないんだ、と自分を責めるような言葉が出てくる。すると、いや、権利はある、と戒める私が出てくる。言葉を正確に使え、と。大きなお世話だ、と思うがそうだなとも思う。いろんな現実をききすぎたせいかドラマ的に感情を展開することさえツッコミが入る。権利はあるが人を傷つけるリスクが高いということだよね、と私は応える。一人相撲だけど。もう冷静になっている。さっきのドラマチックな感情は一体どこへ、と思うがまたすぐに出会うだろう。現実は変わっていないのだから。何も交流していないのだから。

交流しないのは怖いからだ、と知っている。その結果を考えれば怖い。でも少し先のことを考えればトライする価値も必要もあるのかもしれない。

悶々とした朝だ。なのにコーヒーも入れてチョコも食べた。いつもの朝だ。過剰になるな、ぞんざいになるなとこれまでの自分に戒められる。

これまでもそうだったんだ。これからもそうかはわからない。全ては暫定的で流動的だ。

遅くまで週末の仕事のやりとりをしていた仲間たちも寝不足だろう。毎日いろんなことが起こる。これまでの積み重ねでもうどうにもならなそうなことでも誰かが声をあげている以上無視もできない。自分の声より他人の声に対しての方が遥かに真摯になれてしまっている気がするがごまかしだなと思う。人体実験のようにではなく、衝動のまま、自分に対する観察やツッコミなど入れないまま突っ走れたらその瞬間は生きている実感を持てそうだ。でももう子供ではない。さっきまでの痛みはもうない。過剰にならない。ぞんざいにもならない。大丈夫。いつも言い聞かせるように。

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精神分析

夢現

目覚ましをかけなくても起きられるようになってからもう何年も経つ。老化だと笑われてからももうだいぶ経つ。最近は考えごとの中身が具体的なので眠れない夜は振り回されている自分がちょっと可笑しい。

やたら具体的な夢の途中でパッと目が覚めた。若い頃、どうしてあんなに不機嫌な寝起きだったのか。起きてなんとかキッチンのイスにたどり着くなりテーブルに突っ伏し寝ていたなんてこともしばしばだ。現代の機械だってウォーミングアップが必要なのに今の私は最初から熱いお湯が出るシャワーみたいだ。といったところでなんのありがたみも自分に感じない。寝た方がいいに決まってる。夢で作業をした方がいいに決まってる。

朝4時くらいにはブラインドの外はもう白くなりはじめる。マットを敷いた床でゴロゴロしながら空を眺め起き始めた鳥たちの声を聞きバキバキになった身体を重たく感じながら空想にふける。今日も少し寒い。

昨日見た夢。あれはなんだったのだろう。正確には昨日の朝を迎える前に見た夢。精神分析において夢は転移状況であり、とてもパーソナルなものなのだ。誰にでも話すものではない。精神分析状況で密やかに大切に扱われるそれは話すことでようやくこころに棲みつくことができるのだろう。

そのおかげで夢から覚めてすぐに家事ができる私でも微睡んだ部分を維持できる。だから何かをしながら空想することができる。覚醒しているのに夢現の身体のまま、私は多分ずっと私以上のことを感じている。きっとそれが今夜の夢を構成し、過去の夢を再構成するのだろう。ひとりでみた夢もすでに誰かとの出来事だ。私はそこを生きた覚えがないが夢では普通にそこで生活していた。

昨日の夢のそこは古いアパートだった。見たことも住んだこともない部屋の中がドアの隙間から少しだけ見えるアパート。分析で話せば夢の中の誰かが私にとっての誰でそこでの出来事が私にとってなんであったのかに自然と注意が向く。共有するとはそういうことだ。最近の私の考えごとがいくら具体的でも夢はそんなこととは関係なく知らない出来事を平然とみせてくる。私、そこで何やってたんだろ、あれは誰だったんだろう、それは夢で実際に見えたもの(矛盾)とは違う、というのが考える前提となっているのも興味深い。恋人が父親のようだったり兄弟姉妹が我が子だったりする。夢には様々な置き換えがある。

と書きながらも昨日見て、昨日話した夢のことを思い浮かべている。書かないけど。パーソナルなものだから。

朝はコーヒーを飲みながらチョコばかり食べてる。甘さ控えめ、厳選素材とあってもチョコはチョコ。この美味しさも歯磨きで流してしまうのにどうして食べるのだろう、と思ったけど変な問いだなとすぐに自分で引き取る。書いては消す、見ては忘れる、出会っては別れる、生まれては死ぬ、そういうものなんだろう。ただ、食べている間は、こうして書いている間は、夢を見ている間は、あなたといる間は、今こうして生きている間は私の存在は比較的確かで、誰かを感じながら考えたり心揺らしたりできる自分がいることに少し安心できるのだ。

今日も少し現実よりに夢見がちな時間を過ごそう。ひそやかに夢をそこそこに現実を。

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仕事 精神分析

迷路

薄く窓を開けた。コーヒーも失敗せずに入れた。雨は静かに降ってるみたい。どこかに打ちつけるような音はしないけどまっすぐの通りを走り去る車の音が雨を引きずっている。

今日は新しい出会いがある。これまでいくつの保育園を回ってきたのだろう。何年もの間、一年に20園ほどを巡回してきた。主に0歳から2歳の子供たちをたくさんみてきた。今年は巡回の仕事を半分ほどにしたので担当する園を組み替えていただく必要があり、何年も一緒に仕事をしてきた保育園との別れもあったし、今日ははじめての保育園へいく。どこの園を担当するかは新年度にならないとわからないためお別れなどもできないが「来年も先生かはわからないんですよね」というのが毎年、年度内最後の巡回の日の決まり文句なので「そうなんですよ。また担当になったらよろしくお願いします」と互いを労って別れる。保育士にも異動がある。出会いと別れは当たり前なのでさっぱりしている。ただ、同じ区内で長く巡回を続けているとこっちの園でお別れした保育士と別の園でバッタリなんてこともあって偶然も楽しい。全て同じ区内の保育園なのでこれだけ何年も回っていれば土地勘も身につきそうなものだが、その駅自体は頻繁に利用していても知らない道の多いこと。こんなところにこんなものが、というのは昨日オフィスのそばを散歩したときもそうだった。

人もそうだよね、と急に思う。人なんて迷路みたいなもんだ、とかとりあえず思い浮かんだ言葉を書いてみるが、書いてみるとそんな気がしてくる。戸惑いながら「好きだ」という以外になんの確信ももてないまま一緒にいるようになった。だからいつでも時々迷子になる。見慣れた景色が見えて安心したかと思えば突然の事故で思考停止することもある。恋ほど理由なきものも先行きの見えぬものもない。精神分析バカの私はなんでも反復強迫だと思っているが、そんな言葉で説明する気にもならない色とりどりの情緒が、激しい衝動が、そこには溢れていることも臨床経験で実感している。

どうして、ばかり問う。自分にも相手にも、心の中で。こんなにくっついているのに、「なに?」と聞いてくれてるのに、言葉にすることができない。「なんで今?」「なんでわざわざ」「どうして私が嫌がると知ってるのに?」「どうしていつも」などなど。見て見ぬふりが増えていく。不安で眠れない夜を経験しても理由をいうことができない。恋は少なからず人を狂わせる。暴走したい気持ちに苦しむこともある。どうしてこんな苦しいのに。どうしてこんなに好きなのに。いや、好きだからだ。愛情は必ず憎しみとセットである、とフロイトだってウィニコットだっていってる。むしろ憎しみが生じない愛情関係をそれということができるだろうか、と思ったところで苦しいものは苦しい。不安や疑惑に苛まれるのも辛い。それを溶かすように、包み込むように安心させてくれる瞬間もたくさん知っているのに。

同じ傘の下でそっと指を触れ合わせながら「やまないね」と空を見上げる。このままやまなければいいのに、とさっきよりほんの少しだけそばに寄る。そばにいたい。あなたを知りたい。そんな気持ちがいずれなんらかの形で終わることもどこかで知っているが今だけでも、と願う。人なんて迷路みたい、というか人生が迷路ってことか。

東京は雨。さっきより屋根を打つ音が増えている。色も素材も形も全て異なる屋根を雨が打つ。鳥たちの鳴き声もいつもと違う。何を伝えているのだろう。好きな人の気持ちだってわからないのにあなたたちのことをわかるはずもないか。また、バカみたいだ、と苦笑する。恋は少なからず人をバカにする。抱えてくれる腕や胸や言葉を必要とする。どんな拙くても、どんなわかりにくくても自分の言葉でいってほしい。それがどんな言葉だとしても何かの真似っこのような言葉より目に見える物よりあなたがどんな感じでいるのかをいってほしい。

人を想うのは難しい。シンプルなことほど難しい。それでも今日もシンプルに考える。見えるもの、感じたことをたやすく複雑なものに変形しないように自分の限界がいくら近くてもそれを大切にする。先のことはわからない、なんていうことはどこの誰にとっても同じこと。あなたが大切だ。それでももっとも確からしいこの気持ちを胸に、今日も。

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精神分析

限りあること

また後出しジャンケンさんが上から目線でなにかいってる。夜中にも投影先を探し続けていたらしき方々のRTのせいで追ってもないのに目に入ってきた。当事者である彼らもまたこれをみるのだろうか。

特定の親子とか男女を「こういう人たちって大抵こう」みたいに語れるほどあなたはその関係を生きてきたのだろうかと言いたくなる。そこがどれだけ複雑で知れば知るほど外からは何もいうことができない世界か少なからず体験しておられると思うのだけど、と言いたくなる。体験していないとしても研究者としてはそういうことをとても弁えておられるようだからその知性と言語能力でかっこ付きでもいいから「想像力」を作り出してみては、ご自身の中に、と言いたくなる。安全な場所からの暴力については前にも書いた。

今も私たちと同じように大きな葛藤を抱えながら生きているペアにどんな課題があるとしても彼らも私たちも生きていかなければいけない。大勢の人に刃物をちらつかせるように言葉を使われては二人の間でなら考え直せたかもしれないものも別の何かにすり替わってしまうだろう。いつ代弁をお願いしたっけ。もちろん彼らにそんな「つもりはない」のだろう。「会えばいい人」なのだろう。

投影と行動化、自分で自分を抱えることができず素朴に素直に吐き出された言葉を「そのつもりなく」利用してしまうこと、私たちがよくやることだ。「あなたが言えないなら私が言ってあげる」と吐かれる言葉は大抵その人が言いたいことではないだろうか、と外からみれば思う。

あいつのせいでこうなった、と声を震わせ叫ぶように話す人と共にいる。これまでそれが当たり前だと思っていた。でもこう話してみればそうじゃなかった。子供の頃からあいつらのせいで自分は自分らしく生きることができなかった。なのにどうしてあいつらじゃなく自分がこんなところに時間とお金をかけなければいけないんだ、変わる必要があるのはあいつらだろう。

強い憤りに圧倒される。そうかもしれない。そうなのだろう。でもここにきたのはあなたでそう思ってしまう自分自身を変えたいといったのもあなたなんだ。いい悪いの話ではない。正解や間違いがあるわけでもない。確かに「あいつら」があなたにしてきたことはひどい、ひどすぎる。でも今、あなたがこれまでとは違う感じでそんなに怒っているのは「あいつら」を変えることはできないと実感したからではないか。それが何よりも辛いのではないか。悔しいだろう。苦しいだろう。だから今こうしてこれまでに感じたことのない憤りをあなたは感じていて私に対してもそれを向けている。

絶望と憤りを繰り返すうちに「もういい」という言葉が出てくる。順番でいけば彼らが先に死ぬだろう。私は死ぬまであいつらへのこの怒りに囚われていくのだろうか。そんなのはごめんだ。なんであいつらのために私がこんな辛い想いをして時間を割かなければいけないんだ。もういい。

そしてまた怒り出す。おさめようとしてはぶり返す暴力的なまでの衝動がかろうじて行動化しない形で私に向かって吐き出される。幼い頃からこれまでの体験がいくつもいくつもその時の実感を伴って私相手に繰り広げられる。二人でいるとき以外は決して体験できない激しい情緒に突き動かれその背後に広がる無力と空虚にものみこまれる。これはあなたの問題だ、ではない。これは今や私たちの問題だ。二人の問題だ。ようやく私たちは「あいつら」から自分たちを取り戻す。

これまで誰かと体験を共にしたことなんてなかった。暴力を振るわれずに言葉を吐き続けることなんてしたことがなかった。それが当たり前だと思っていた。だから私はこんな大人になってもまだどう話していいかわからない。私は子どもに戻ったような彼らの言葉を聞き続ける。あの饒舌はもうない。辿々しく曖昧にしか言葉を使えない、それでも以前よりはずっと安心した様子で話す彼らを観察しつづけ、ときどきなにかを伝える。

激しい痛みを体験している人を前にまずすべきは沈黙だ。彼らの言葉を聞き彼らをがんじがらめにしている糸の様子を調べるように論理的に言葉を使う。断ち切りたい関係ばかりではないだろう。断ち切れない関係ばかりでもあるだろう。関わることで生じる新たな傷に対しても注意を向ける。反復は常に生じる。そこで共にいる。それは外側から何かをいうことではない。自分も生身の人間として多くのものを引き受けていく。傷や痛みと関わるというのはそういうことだと私は思う。それができないのなら言葉ではなく物理的な援助やそれが有効に活用されるようにマネージメントを行うべきだろう。

それぞれに事情がある。状況はそれぞれだ。あなたのことを知りもしない人の言葉に振り回されずにいこう。時間と労力を割くべき対象ではない。あなたの時間も私の時間も限られている。共にいる時間はもっと限られている、物理的な意味では。共にいられるうちにできることをしていこう。「人から見たら」「みんなは」と言いたくなるだろうけど言ったところで、だ。

私もだいぶ白髪が増えた。苦労してるからだよ、と気遣ってくれる人もいるけど単にとしをとった。時間に限りがあることをだいぶはっきり認識できるようになった。今更だけど。だからこそなおさら地道に、と思う、今日も。

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精神分析

ずっと学級委員だった。ひどく荒れた小学校で。なんの役割も果たしたことはないと思う。隣のクラスの体育教師はいつでも私のクラスに駆け込む準備ができているようだった。彼がくると私たちは喜んだ。細身で優しくサングラスの似合う先生だった。なぜ教室で彫刻刀が飛び交うのか。私も怪我をしたことがある。そんなクラスだった。私はたまたま自分に当たったそれにブチ切れて投げた男子をボコボコにしたかどうかは忘れたが即座に立ち向かったのは覚えている。それが私たちの刺激ー行動パターンだった。ほとんど動物だった。なので、というわけではないが出来事の詳細は覚えていない。ただのパターンだった。4年生のときの担任はやめてしまった。私たちに耐えかねたらしいことはなんとなく聞いたように思う。数年後、大人たちから「あの先生にもね」と聞いたときは不思議な気持ちになった。理由など考えたことがあっただろうか。あったとしてもそれがなんだろう、と今もぼんやりするところがある。休み時間になれば校庭に出てサッカーをした。年に数回しか降らない雪の日の雪合戦では石を混ぜるヤツがいた。私たちは仲がよかった。暴力を受けている子を助けに向かったことも何度かある。暴力をふるっている子も友達だった。どうしてここにこんなというような短いカーブのような階段を登り短い言葉をいって彼らを連れ帰った。こう書きながら思うのは私はいまだにこれらに対してあまり考えることができないということだ。そしてそれをする気にもならないということだ。ドラマで見るようなことはどんなひどいことであっても意外と現実で起きている。近隣の高校はある学園ドラマのモデルになった。ひどく荒れていたからだ。今となれば幾人かの友人は相当暴力的な家庭にあったことも知っている。そんな日々は淡い恋心や親友との三角関係や大人の事情による突然の別れなどにも彩られていた。「夜逃げ」という言葉もあとから知った。今になっても私はそれらが事実以上のなにかだとは思わない。意味づけを拒否しているのだろうか。専門家としてだったら「ひどく暴力的な環境で育って」とか一言にするのだろうか。するだろう。まずはそう位置づけてそこからその出来事が今のその人にとってなんだったのかを考えていく。その繰り返しをするなかでその出来事が別の姿をみせてくる。それを今は知っている。私の仕事でならするだろう。絵画のようだ。同じ画面である景色は前景に、ある景色は背景として塗りつぶされたり上書きされる。そこは実は層になっている。精神分析は重層決定という考え方をするということはすでに書いた。でも仕事を離れた私は過去の出来事に対して何かをしようとは思わない。それはそれだった。今日だってそんな出来事の集積として昨日へと変わっていく。いろんなことがだからなにというわけではない。だからといって大切でないわけではない。むしろだからこそ大切だ。意味を与えるのは誰か。それを必要としているのは誰か。もしするならその人を断片化するのではない方向へ。

今日は土曜日。ようやくお休みという人もいるだろう。なんだか暑くなりそうだ。窓辺でこうしているとじわりと気温が上がるのを感じる。彼らはどんな1日をどこで誰と過ごすのだろう。まだ生きていてほしいし元気でいてほしい。

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精神分析

風も雨もあなたも。

強風にブラインドが揺れ、向こうの部屋のドアが軋んだ音を立てバタンとしまった。こんな早朝に。ギィという音がしたときにきちんと閉めればよかった。洗濯機は何事もなかったかのようにリズミカルに回っているらしい。水が回転する様子を思い浮かべられるのはこの音がそれと知っているから。もし知らなかったらこれをなんの音だと思うのだろう。

風の音はなにかと重なって聞こえてくる。ブラインドを持ち上げ、鳥の声と混じり、時折鋭く空気を切り、草木を揺らす。全て違うのに「風だ」と感じる。私の故郷は空っ風で有名だが(辛かった!)そういう季節の風というのもある。触れながら動きながら音をさせてはそちらを振り向かせそうしたときにはもういない。人を正気にもびくつかせも怪我させたりもする。もちろん彼ら(風)にそんなつもりはない。

また雨が降り出した。昨晩は随分激しく降り始めたなと思いながら布団に潜りこんだがこれは夏の雨だ。空から真っ直ぐ静かに大量の水が落ちてくる。音が強まっていく。窓を閉めようか。風はやんでいる。「風邪は病んでいる」と自動変換されたがそれはそうだろうと思う。

私が空を見上げると「鳥?」と聞かれた。私は頷く。一緒にいるときに急に空を見上げる理由なんてそんなにはない。たしかに音のする方へ素早く目を向けたつもりだったがもう去ったのか、私の目が見つけられなかったのかその姿を捉えることはできなかった。

「なに?」と聞かれて「ん?なにもいってないよ。」という。「何か聞こえた?」と笑うときもあれば「私、何かいった?」というときもある。自分のことがもっとも疑わしい、と昨日書いた。

無意識は私になにをさせるかわからない。精神分析を受けはじめて数年はそれと出会うたび愕然としたり悲しくなったり自分に失望したり失望させる相手に怒ったりした。今は大体のことは自分のコントロールの外にあるけど、大抵のことはなんとかなるように無意識が構造化されている、お互いの言葉の曖昧さによって、と考えるようになった。なのでこころにかなり負担を強いられていると感じても「これを私の無意識はどう扱うのだろう」と無意識的な好奇心と意識的な不安を感じつつじっとその場で持ち堪え、委ねるようになった。何かを変えようとするのではなく自分のこころの動きや考えが何かを組み立てようとしては壊しまた組み立てようとするのをじっと追うようになった。精神分析は無意識を想定し重層決定という考えを導入した。何かあってもいずれ回復する、不幸をありきたりの不幸に、というのを物足りなく思うかもしれないがそこそこにほどほどに曖昧さを残しておくことが異物や他者を受け入れる場所を作る。ナルシシズムをナルシシズムと気付かされるときの耐え難い痛みを回避して引きこもり、似たような相手と自分の世界を構築するのも悪くはないかもしれないが客観的にみれば苦労は多い。無意識に身を委ねるというのは他者との関係に身を委ねることでもある。他者にではなく、他者との関係に自分を開いておくことであって依存とは異なる。

それにしても外はいつの間にか土砂降りだ。今日は移動が多いので少しは弱まってほしいな。と思ったら雨の音が弱まって鳥の声がまた聞こえはじめた。このまま止んでほしいなあ。人はすぐに欲張りになる。

今日も誰もよんでないのに振り返ったり、なにもいっていないつもりだったのに誰かに問い返されたりするのだろうか。きっとするだろう。こころに場所がある限り風も雨もあなたの存在もそれぞれの仕方で私を通り抜けて何かを想起させ愛しさや切なさや独り言のような呟きを生むだろう。

おはよう、と空へ向かう。東京は雨だけどみんなの場所はどうだろう。それぞれに良い一日でありますように。

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精神分析

きつくしんどい毎日

大きな息を吐いて目の前の人が力を抜いた。こんなふうに感じるのは自分だけなのではないか、こんなこと考えるなんて頭がおかしいのではないか、私たちは日々自分自身を疑っている。

その人は胸を撫で下ろしまたいくつか大きな息を吐いたあとさっきより柔らかくゆったりした口調で話し始める。場の空気が変わる。キュッと目をつりあげて少し前のめりに力の入った姿勢で不貞腐れたような口元で一気に語るその人と私の間にあったはずの物理的な距離がまた見えてくる。後退りしたくなる圧力は今は感じない。この出来事の間、私の見た目はほとんど動いていなかっただろう。頭とこころとは裏腹に。

押しとどめたりなだめたり何か言いたくなるときは私がその人を異物として体験しているときだ。その人自身がほとんど発狂しそうになりながらなんとか引き剥がそうと断片的に投げ込んでくる自分のなかの異物を私はまず感覚で受け止めるしかない。すぐに形にできたらこんなふうにはならないのだから。意識的に思っていることと無意識が言わせることがぶつかり合って言い間違えたりつっかえたりしながら混乱気味に吐き出されつつある前言語的なそれは流血と感じられるときもあれば爆撃と感じられるときもある。なんだこれは、とただただ晒されているときがほとんどだが。

その人は私に十分にその異物感を感じさせている。こんなふうに感じているのか、と圧倒されつつも私はじっとしている。若い頃はただただ圧倒され何も考えられないまま身動きが取れなくなっていた。今はそうなっていることを感じることができる。どうにもならないまま時間がくることもある。人間の力ではどうにもできない部分を扱うとき時間はお互いを守ってくれる。ひとまずデタッチする。関係も長くなればこうもなるが時間がそれを区切ってくれることにも慣れている。

きつくしんどい毎日だ。と言い切ってみる。会いたい人に会いたい時に会えない。いつだって片思いのような寂しさを感じる。最初は小さな痛みかもしれない。ちょっと呟いていくつかいいねをもらえれば落ち着いたかもしれない。日々さまざまな刺激に晒されるうちに私たちのこころは時折暴走するようになる。世界が疑わしく、自分は最も疑わしい。こんなはずじゃなかった。どうして自分だけ。全て忘れたくて激しい運動を始めるかもしれない。一瞬だけ優しい人なら誰にでも身体を預けるかもしれない。空っぽさに耐えられずコンビニで手当たり次第買い込み食べ続け吐き続けるかもしれない。人は暴走する。自分が自分を最も信じられない。きつくしんどい毎日だ。

それでも、というのもいつものことだ。どこかで気づいているはずの狂気は暴走を始めたら自分ではどうにもできないだろう。私たちは自分ではどうにもできないものを内側に抱えながら生きている。だから安心して眠れる場所を話せる場所を何もせず一緒にいてくれる人を求める。解決を急がない。結果は何もしなくてもいずれ誰にでも等しくやってくる。それがいつになるかわからないから治療では有限性を持ち込む。日常でも「今日」という時間をなんとか生き延びるために「昨日」と「今日」を切断してくれる睡眠が大切だ。よく眠れただろうか。今日は今日の自分にとりあえず出会う。それがこれまでの積み重ねであったとしても私たちは次々アップデートされるわけでもないし、古くなったからといって交換できるわけでもない。こんな自分で今日もとりあえず。いいことも少しはありますように、なくても嘆かないでいられますように。

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精神分析

こだわり

明るい。ブラインドの向こう、水色と薄いオレンジがグラデーションのようになっている。きれい。

私はいろんなことにあまりこだわりがない。さすがに最近は言われないが見かけに関しては「もっときちんと」的なことはよくいわれていた。相手の見かけも周りが色々いえばそのようにも見えるという程度に目に入ってくるが特に何も思わない。きれい、かっこいいなどは思うが合コンで男子も女子も相手の見かけを値踏みするのには驚いた。でも付き合う相手はそれに基づいてもいなかったしあれはなんだったんだろう、でもあった。水準の異なるテーマだがルッキズムなどの差別や暴力について私は自分の体験からは語らない。自分の体験を名付けるためにではなく、それが私にとってなんであったのか、どんな感じであったのかを語ることは非常に重要であると考えるので精神分析を必要とした部分は大いにあると思うが。

音楽も演劇も絵画もいろんなイベントもなんでも好きだし行けば楽しむし、音楽と演劇に関してはかなりの量に触れて相当影響を受けたつもりだが今それを具体名を持って語ることができない。B’zならかろうじてできるか。友人や家族が自分だけの「ベスト10」をカセットテープに集めていたようなことを私はしたことがないし、熱い語りを楽しみはするが内容よりも語る相手が好きだから楽しいというほうが大きいように思う。演劇は人生においてかなりこだわりを持って相当の時間とお金を費やしてきた。生の舞台のインパクトは舞台ごとに異なるので同じ公演を何回かみにいくこともあった。演劇は私にとって好きな店に食べに行くようなものだ。お店の人と話すような身近さに舞台の人たちもいる。ただ数年前からみにいく時間がほとんど取れなくなってしまった。そうなると例のごとく具体名を持って語れなくなってしまう。まあいい。私は評論家でもなんでもない。あの世界にいけばあんな感じを得られる。それを知っているだけで十分だ。

私の周りにはいろんなことにこだわりの強い人がそれなりにいる。私は彼らが好きなので彼らの話を聞くのが好きだ。彼らはこだわりがあるからその世界のことも広く詳しく知っていて評価の基準をしっかり持っていて私の感覚的な好き嫌いとは全く違うと感じる。そしてこれもだから何というわけでもない。

「正しさ」というものがなんだとしても、私が色々忘れてしまって「大好き」と感じるものをぼんやりとしか伝えることができないとしても私は私と全く異なる人と愛しあえるだろうし、別れたとしてもそれらが異なるからではないだろう。「こだわり」が憎しみや差別に近づいていくとき、そこが関係に変化をもたらすきっかけにはなるかもしれない。一見それが「正しい」もので、たとえSNSでどんな支持を集めていたとしても自分がそれにどう関わるか、私の好きな人たちはそれにどう関わるかということに私は注意がむく。

知らない人や世界に対して自分の体験や知識や感触はそれ以上のものではない。それが相手を得たときにどう語られるか。その語り方には私はこだわる。これだけ時間をかけてこれだけの出来事をここで共にしていても常に驚きがある、精神分析はそういう世界で、そこで生じないはずがない憎しみをお互いがどう生きるかにその後の展開はかかっている。私はあまりいろんなことにこだわりはないが、それらの表現の仕方にはこだわっている、そういえば。

“Sentimentality is useless for parents, as it contains a denial of hate, and sentimentality in a mother is no good at all from the infant’s point of view.”

Through Paediatrics to Psycho-Analysis. Chapter XV. Hate in the Countertransference [1947]

D.W.Winnicott

否認と排除のセットを使わないではいられない人間関係に今日も苦しむ人がたくさんいる。私もそうだろう。愛するためにしているつもりの努力が憎しみに変わる場合だってあるだろう。名付けてしまえばそれはそれでしかないかもしれないが動きのある部分にはきっと希望もある。簡単にいえば「決めつけない」ということか。今日もとりあえず動きはじめよう。動ける範囲で動き続けてればいつの間にか別の景色に気づく。そんな感じで。

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精神分析

思う、願う、祈る

朝なにかを書くということは眠れない夜のことを書くということだ。

と思ってSNSをみたら「眠れない」という呟きがあった。すでに活動を始めている友人の呟きもあった。昼夜を問わずSNSで反応しあえる時代、私が信頼する言葉の紡ぎ手たちはほとんど呟かない、夜は特に。心落ち着かず彼らの言葉を探しにでても少し前の言葉をもう一度目にするだけだったりする。でもだから安心したりする。簡単に上書き、とはいわないか、軽い言葉が量だけの重みでその言葉を下へ下へと追いやっていく様子をみたくない朝もある。

鳥の声が鋭い。今日は特に。寺の森から起き出した彼らはしばらくこの辺りの空を数羽ずつで巡回してからどこかへいくのだ。時折カラスの大きな声も混ざる。鳥や動物たちと同じように自然と調和して眠ったり起きたりしていると思うと少しまともな気持ちになる。

相手との関係で「無理」」や「我慢」が生じると、と書きたくなるときは別の言葉を探せなくなっている可能性があるんだった、と数日前に自分が書いたことによって立ち止まる。書いておくもんだ。ありきたりの空想しかできないときは鬱々する前に眠ってしまったほうがいい。布団にくるまって目を閉じてひどい頭痛のなか「このまま死んだりして」「これ毎回思うけど意外と死なない」などぼんやり感じているうちに眠りに落ちた。浮腫みで足が痛むが今朝も無事に起きて椅子に座ってぼんやりしていた。そのうちまた少し眠気がきた。ウトウトしながら昨晩囚われていた空想にいまだ囚われつつもそこから少し離れた場所で何かをしている私たちをぼんやりみつめているのを感じた。夢でも現実でもなくこういうまどろみによってなんとなく生かされているんだな、とそこに身を委ねながら感じた。分裂するのではなく自分がいくつかの奥行きを同時に体験するような定位置にいる自分と浮遊する自分の両方を感じた。そのうちまた少し眠ってしまった。起きたときはまだ数分しか経っていなかった。

眠りは時間も空間も拡張する。夢はその証拠としてみられるのかもしれない。

相手との関係において行き詰まったときはとりあえずそこにとどまる。窮屈で身動きの取れない場所に身を委ねる。もともと出会いだって偶然だった。「あなたしかいない」「あなたがなによりも」といわれるような関係でも終わってしまえばそうではなかった、ということは経験済みだろう。あの時は死にたいほど辛かったのに今思い出すとすでにその理不尽さえちょっと可笑しい、ということも積み重ねてきたと思う。もう若くない。ある程度定位置を見出してもいる。苦痛を外に投げるのではなくじっと感じ続けているとこれまでとは別の形が自然と生じることも増えてきた。大切にする、慈しむというとき目の前のものや相手だけではなくその背景に広がっている景色に対してもそうしていきたいと思うようになった。そこにどんな矛盾があろうともみたくないものはみないという方法では大切にできないんだと知った。あえて目を凝らさなくても耳をすまさなくても鳥の声のように私に届くものたちをせめて。いつまで「無理」なくそう思えるのかは誰にもわからないことだけど囚われては気づくちょっとした新しさをあなたやあの出来事との出会いのおかげだと思えるとき、私たちはまだなんとかなるんだ、と私は思う。願う。祈る、今日も。

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精神分析

嘘とか隠し事とか

ジンジャーとハニー、と書きながら生姜と蜂蜜と書いた方がしっくりくる気がするなどと思いこうして書き直してみた。いい香り、最高の組み合わせ、今朝のお茶はこれなのだ。

昨晩もたやすく心乱されてしまった。昨日だったかもっと前だったか「優しい人だからといって嘘をつくのが許されるわけではない」というのをもっと個人的な感情に引きつけて書いたような文章を読んだ。(他の文章を読む限り)この知的で優しそうな人はとても優しいパートナーに嘘をつかれてしまったんだな、と思った。そのまんまだが。静かな言葉でもSNSに書かざるをえないくらい揺さぶられてしまったのかな、など勝手なことを思った。というか「許す」って書いてあったかな。許す許さないの話になってしまうとまた難しい。神視点という言葉が思い浮かんだ。

神でもなんでもない私は嘘をつかれたらとても悲しい。そんなもんバレないようについてほしい。というか嘘って本当にバレてしまう、親密な関係では。本当に不思議なことだと思う。嘘つく方はむしろバレたいから嘘ついているんだろうな、何か知らせたいんだろうな、と思ったりもする。私たちは親密になると嘘とまでいわなくても「あぁ言いたくないんだな」「なんか隠してるんだな」と感じる瞬間をたくさん経験する。「空気を読む」というのはよく言ったもんだが親密になるまでに積み上げてきた「いつも」との微かな違いに対する注意は場の空気が変わる瞬間に対するそれよりも能動的で情緒を伴う観察の積み重ねでできていると思う。なのでそれを受身的に気付かされるとき「やっぱり」とどこかで思いながらも軽くか深くか失望する。どうしてそんなことをする必要が?

果たして私がその出来事に対してどの程度ものがいえるだろうか、ということを考えながら「いえないな」と思って布団に入った。身体もこころも部分利用できない。それを扱う方はそうできているような気がしたとしてもされる方にとってはそれは全体的な体験でしかない。もしそれを部分的な体験に押し込めようとするならそれは大層無理な否認を必要とする。どちらにも誰にでもそれぞれの事情があり、それを全部知ることはどんな関係においても難しい。理解しようとしたところで自分にはあまりに的外れな推測のもと相手は行動しているのかもしれない。どっちにしたって苦しいのだ。私は否認している自分を意識しつつせめて行動化せず考える時間を引き伸ばす方を選んだ。夢がどうにかしてくれることを期待して。

以前『スパイの妻』という映画をみた。妻のこともいずれ暴きたい国家機密のことも守り抜きたい男に対して妻は自分にとって何が大切なのかをまっすぐに訴えていく。そばにいられることが嬉しい、一緒に何かを守れることが嬉しい、どんな危機においても不安よりもその喜びに笑顔が溢れてしまう蒼井優の演技がとてもよかった。もちろんそれは夫が十分にその想いに応えているからこそだが、隠し事が持つ力を存分に見せつける映画でもあったと思う。

今日は空が明るい。気温も上がるようだ。誰にもいえないことを胸にすでに多くの人が様々な朝を迎えていることだろう。昨晩はよく眠れただろうか。これから眠る人もいるのだろうか。今日は月曜日。多少はリセットのきっかけになるだろうか。今週もなんとか過ごそう、と打ったら「凄そう」とでた。「凄そう」だったら「なにかと凄そう」とかだな、などどうでもいいことを考えた。大丈夫。こんなことを考えられるのならば。大丈夫。ひとつひとつやっていこう。

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精神分析

最悪の状況とは

「最悪の状況を想定しておく。そうすればダメージが少ないから。」

という言葉をいろんな患者さんから聞いてきた。頭ではわかるが人の気持ちってそうやってコントロールできるものなのかな、とそのたびに思ってきたし、言ってきた。

想定通りにいかないから色々苦しいんじゃん、と。もちろん仕事で「じゃん」とは言わない。時々言ってるか。

ところが私は最近これについて考えることが増えた。

私も少しは世の中のことがわかってきたというか、精神分析を体験したことで人が(=自分が)いかに変わらないかということに対して抵抗しなくなってきた。「とりあえず」とか「ほどほどに」とか「どうにかこうにか」とか曖昧かつ暫定的な表現が多いのもそのせいだ。まあ、そんなもんだよ、と思うのだ。少なくとも意識的に変わろうと思って変われる部分は少なそうなのだ、私たちは。もちろんCBTのように見える部分に正確に緻密に関わってもらえれば行動面での変化はあるだろうし、それは意識の変化と連動しているだろう。それでもより引いたところから見ると人はそんなに変わらない。そしてそれは多くの場合「別にそのままでもいいんじゃないの?」ということでもある。精神分析は「別にそのままでもいいんじゃないの?」というところに対して「全然よくない。いつもいつも同じようなこと繰り返して同じような苦しみを味わうのはもう耐えられない!」という人が求めるものなのだろう。

私はといえばそんなことを意識できていたわけではないが(なんなんだ)若いときから自分には精神分析が必要なんだと思っていた。なぜだかよくわからない。よっぽど自分を持て余していたに違いない。フロイトを文庫で読んではいたが今となればその内容など何も理解していなかったし、当時からそんなことは知っていた。それでも社会人になって精神分析家に会うために一生懸命働いた。そのくらい切実だった。なにが、と言われてもわからない。ただこんな自分のまま生きるって大変だ、どうにかせねば、とそれまでの積み重ねで強く思うようになっていたのだと思う。

「最悪の状況を想定しておく。そうすればダメージが少ないから。」

彼らはこれをすることにほとんど失敗していた。だからこそ私は「それはコントロールできることではないからさ」などと思いもしていたわけである。彼らのいう「最悪の状況」は個別的で具体的でとても複雑だ。「死ぬよりマシ」とか「死」=「最悪の状況」でもない(「死」は誰にでも訪れる「結果」ではあるが)。彼らにとって「死」はとても身近で「死んだ方がマシ」と叫び暴れ出したい気持ちをなんとか抑えながらどうにかこうにか日々をやり過ごしているというのが実情だ。つまり「結果」へと急いでしまわないために彼らは工夫をしているのだ。でも長年かけて繰り返され変わらない方向へと結び目がガチガチになっているような状況に対して自分たちはあまりに無力なまま囚われている。そこに働きかけたところでこれからも変わることはないだろう。彼らはそれを意識的にはよくわかっている。なのにそれまでと同じようなダメージを受け続ける。人は変わらないのだ。変わらないのか?本当にそうだろうか。

私は彼らとの作業や精神分析体験から人が変わらない方向へ向かっていること、変化がとても痛みを伴うことを学んだ。人は変わらない。いや、そうではない。正確には相手を変えることはできないということだろう。だからときに人は暴力的になる。支配的になる。実際に暴力を振るわなくても相手を説き伏せようとしたり、自分の主張を受け入れてくれるまで追い縋ったりする。それでも相手を変えることはできない。意見に同意させることはできるだろうし、表面的に従わせることはできたとしても。

相手を変えることはできない。だったら「このままでいいんじゃないの?」どころか「このまましかありえないんじゃないの?」とも思うかもしれない。暴力的な状況の場合、暴力を受ける側はそういう無力感で身動きがとれなくなる。しかし、私たちは最初からこうだっただろうか。変わらない、なんてむしろありえただろうか。

ずっとこうだった、いつもこうだった、そういえばあのときは、何歳くらいまでは、誰々が何何をしてから、あのことがあってから、あぁ思い出した、あのとき私は、と自分と自分を取り巻く状況は変化しつづけ、そのプロセスにいまだあるというのが私たちの現状ではないだろうか。

私が想定する「最悪の状況」は自分がものを感じたり考えなくなったりする状況だ。彼らが失敗してしまうのは「最悪の状況」をこれまで通り彼らを絶望させる状況が再び起こることと想定するからだと私は思う。それを想定して「またか」「やっぱりか」と思えるという意味では「ダメージは少ない」かもしれない。でもそれは「これまでと同じように大きなダメージをまた受けた」といいかえることもできるのだ。その痛みは累積してこれまで以上に変化のチャンスとなりうるゆるい結び目を探すのが困難な状態に陥るかもしれない。彼らはもう少し自分のことを心配した方がいいと私は思う。そのために「あなたはどうしたいの」という問いを頻繁に発する。これ以上自分の持ち物を奪われる必要が?そんな理不尽を誰がなんの権利で?あるいはあなた自身がそうしているのはどうして?そう問い続ける場があってもいいはずだ。これ以上奪われるのならば、私自身がそっちの方へ進もうとするならば、私は自分を守るためにこの関係を終わりにする、これ以上のダメージは受けたくもないし、受ける理由などどこにもないはずだ、そう考える場があってもいいはずだ。そしてそれは一人ではできない。短時間であっても、すでに巻き込まれているその場から離れる必要がまずはある。

私たちは「人は変わらない」ではなく「相手を変えることはできない」ということを実感する場を持ちにくいのだろう。一人でそれを実感することはできないし、時間的にも余裕のない時代だ。一方、変わってほしい人に変わってくれることを期待してしまうのはどの時代でも人の常だろう。頭ではわかっていても相手に期待しつづける、その繰り返しがいつもある。もちろん相手が自分との関係において変わる必要性を感じる場合もあるだろう。それは悪くないことのように思える。ただその場合も別の苦しみは生じるだろう。「私がわがままをいっているだけではないのか。会わせてくれているだけではないのか」などなど。人は変わってほしいと願いつつ自分の影響がそこに及んでいる可能性に猛烈なアンビバレントを経験する生き物でもあるのだ。本当に難しくやっかいで自分のことを「めんどくさい」といいたくもなる。むしろそう思えることが大事だろう。そういうアンビバレントに葛藤しながら持ち堪えるキャパシティのないこころは自らの攻撃性と連動して行動化しやすいから。なかでもあまりに反射的に自分の体験したくない痛みを相手に体験させる行為を暴力というのだろう。

生きていくのは苦しい。だからこそ自分を心配しケアすることが大切になる。こんな身体で、刻々と進む限られた時間で、あなたはどうしたい?そう問い続けてくれる相手をまずは実在する他者に、いずれそれをこころに住まわせることができるように。自分が自分を失うこと、それを危機だと感じられますように。あなたも私も。

今日もどうにかこうにかかもしれないけど良い一日でありますように。

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精神分析

端正な気分

オグデンが引いた印象深い文章を私も引用しようかと思ったけどそんな端正な気分ではないのでやめた。端正な気分ってなんだろう。

コロナ以降、はじめて遠出したのは奈良、奈良は4,5回目だろうか。歴史に詳しいわけではないが行けば魅了されるばかり。母はとりわけ興福寺の五重塔に魅了され長時間佇み見上げていた。2010年に奈良の居酒屋で誕生の知らせを聞いたあの子はもう6年生だ。無事に生まれてくるかどうかわからないなか私は春鹿を出す店にいたわけだが何度も何度も確認していたガラケーにメッセージが届くなり号泣した。3歳まではとてもゆっくりした発達ぶりだったが、今や思春期の猛烈なエネルギーを携え、しかしそれを持て余す必要のない恵まれた環境で伸び伸びとやっているようにみえる。本人は全くそんなこと思っていないのかもしれないが・・・。奈良の大和西大寺のデパート、なんだっけ、近鉄百貨店だ(調べた)、最終日はとても寒くてもうそんないろいろ行かなくてもいいかということで近鉄で奈良の一刀彫やらなにやらをみたりのんびり過ごした。お昼はどこも混んでいた。時間は十分にあったので美味しい皿焼きそば(だったか?)を食べたいという母と中華料理屋に並んだ。相当なベテランらしき声のよく通る細身の店員さんの客さばきが軽妙で、ずっとみてても飽きないね、すごいね、と母と感嘆しながらみていた。全方位に明るい関心を向け豊かで簡潔な言葉で常連も観光客も十分にもてなしつつ素早く移動を促す熟練の技。これも奈良の技か。

前置きが長くなってしまった。そこの中華料理屋でテイクアウト用に売っていたほうじ茶を母が買ってくれてそれを飲んでいるということを書きたかっただけなのだが。今朝は寒くはなく家事をしている分には半袖で十分だが温かい飲み物はホッとする。美味しい。鳥たちも起き出して時々鋭い声が聞こえてくる。

そういえば東京の中華料理屋にも行ったばかりだ。もう10年以上前にその店のことは聞いていた。途中で「ああここがあの店か」と気づいた。当時イメージしていた空間とまるで異なるそこは魅力がつまった細い路地の一軒家で異国情緒とともにどれもこれも丁度良い味付けの料理を楽しんだ。店員さんはイメージ通りだったかもしれない。小さなポシェットを斜めがけして客の声になんの愛想もなく素早く応対していく様子も次々に開けられるビール瓶がガシャンガシャンとポリバケツに投げ込まれていく景色も新米らしき女性店員が何度も何度も真剣に伝票を確認しては困った表情を見せるのも完全に興奮を持て余し大声でしか話せなくなってしまった右側の若者たちと友人のセックスレス問題に対して静かに仮説を語りあう左側の若者たちとの対比も彼らと比べると随分年をとっている私たちの会話も全て色合いが違って楽しい時間だった。

今もまだコロナ禍といえると思うがあっという間に人波は戻ってきた。生き生きした世界の猥雑さが人を生かしてもいる。

端正な気分という変な言葉を最初に書いた。言葉を切り取ることをしなくてよかった。どんな猥雑な言葉も切り取れば単なる品も味気もない断片にみえたりもする。どんな含蓄のある言葉もそこを生きない限りただのかっこいい鎧だったりする。それらひっくるめて「端正」と感じているのだろう、私は。短く縮めれば縮めるほどすっきりとする世界は今朝の私のこころにはなかったらしい。

今日もこころ動くままに。無意識に委ね、今の風を感じ鳥や車や大切な人の声を聞き力を抜いてなんとなくはじめることにしようかな。なにかしらがんばれたらと思う。

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精神分析

記憶

音楽が聴こえてきてそっちの方を見上げた。古い集合住宅の多分あのオレンジの光の部屋あたりから知らないJ-POPが聞こえてきた。昔のアイドルっぽい歌い方だけど最近の曲かもしれない。今夜は窓を開けていると気持ちいいのだろう。外はだいぶ気温が下がってきたけれどいい夜だ。

ということを思った昨晩の帰り道。こう感じたことを今書き留めておきたい。私はきっと忘れてしまうから。

でも書き留めなかった。忘れるのは常。子供の頃からどんな好きな曲の歌詞もぼんやりとしか覚えることができなかった。合唱コンクールくらい練習を重ねればかろうじて覚えることができたけど本番では「地声が大きい」ときれいな声を出せていないことを指摘された。歌も下手だし、自分の声もどうにかならないかなと新宿御苑のビルにヴォイストレーニングに通ったこともある。宇多田ヒカルがデビューした頃だったのだろう。automaticを歌った。仲良しと通ったのでどうしても笑いが止まらなくなってしまう瞬間があり不真面目な私のちょっと変わった声に対する効果はなかったが先生がとても素敵で楽しい時間だった。

覚えているもんだ、こういう出来事は。結構繰り返し話したことのあるエピソードだからかもしれない。「推し」(今でいえば)とはじめて話したときもした気がする。声だけだったからなおさら。

私はあなたのこころにいるのだろうか。私はいつも心配になる。これだけ時を重ねても安心できないのはどうしてだろう。足りないのはなんだろう。時間だろうか。言葉だろうか。経験だろうか。わからない。精神分析のように毎日のように会っていても私たちはお互いにそんな気持ちを体験する。目の前の人が心ここにあらずであることがはっきりと感じられることもある。どうしてだろう。

少し前に「僕のマリ」というちょっと変わった名前の著者の『常識のない喫茶店』(柏書房)という本を読んだ。とても目をひくかわいらしいイラストと美しい彩色の本だ。この喫茶店では店員が特徴のある客にあだ名をつけている。なかにはなかなかひどいのもあるが高校時代、喫茶店バイトに明け暮れていた私は当時を思い出してたくさん笑った。彼らが客と体験した出来事と情緒がそのあだ名だけで想像できる。非対称の関係において理不尽さを感じたときそれをどうにか丸めておける言葉は必要だ。

私はあなたのこころにいるのだろうか。その人との関係における私にあだ名をつけてみた。悲しくなった。いくらでも悪く言えてしまう。苦笑いだ。なら関係にあだ名をつけるとしたら?

難しい。友達、恋人、兄弟、家族、客と店員、患者と治療者など個別性を欠いた表現になってしまう。精神分析家と被分析者という言い方は「精神分析」というものに対する関係を表しているからまた別物な気がする。そこでは「私」と「あなた」は普通の感じでは分かれていない。

私とあなた。私たちは一体何者なのだろう。同じ時間を同じ場所で過ごし互いの記憶を共有し笑いあう。意見が違って「もういい」と言われると悲しくなって「もういいって言わないで」と怒り謝られる。そんな他愛もないやりとりの積み重ねはお互いのこころに二人の場所を作るプロセスになっているのだろうか。共にいるときはそこが巣となり、離れればそこには何もなかったように、ということができてしまうのがこころだ。私は時々とても不安になる。あなたやあの人はどうかわからないが彼らだってそうだろう。

記憶力の悪さは不便だ。でもたとえ覚えていても、愛しさを抱え形にするこころを持てなくなったらそれは死んでいるのと変わらない気がする。覚えておく類の記憶ではなく身体に染み込んで生き続ける記憶。それらに支えられ苦しめられ毎日を過ごしている。

今日はどんな1日になるのだろう。見えるもの、感じるものに振り返ったりニコニコしたり不快になったり言葉にしたりいろんなことが起きていろんなことをするのだろう。

Remind yourself today that you matter!

PEANUTSのアカウントが言ってた。

大事。Remind yourself today that you matter!

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好きな本を読むように。

大人の身体をした人が学問的にはレベルが高いのであろう言葉を武器に正義の味方をやったり、正義の味方をやらないときは少し子どもがえりして別の似たような大人に甘えたりというのは夫婦関係を描くときにもおなじみの構図と思う。外ではこうで家ではこう、子どもの前ではこうで二人になるとこうとか。子どもがいると役割を使い分けてる余裕はないかもだけど。良いも悪いもきれいも汚いもごった混ぜの世界に生きている子ども(すごいと思う)を育てる大人の役割を降りられる時間は少ない。だから「子どもが眠ってから」となる。

SNSはそういう表裏も内外もないから全部見えてる。もちろん見えてる部分における全部ということ。当たり前すぎるけど。開けっぴろげなごっこ遊び。夜眠る必要のない人や眠ることができない人の夜の会話は見えない場所でされるそれとは随分違う感じ。実際の空間がなければいつでも演じらえる「ケア」して「ケア」される立場。それらを断片的に演じる必要は誰にでもあったほうがいいのかもしれない。ちょうどよくお互いを満たすものとして。「本当は違うんだ」というのはいつでもできるし。好きな役割を演じ、囚われている役割を降りられる場所として。

私はSNS上で密かに好きな人がいて、というかその人の言葉が好き。いつも追っているわけではないのだけど心穏やかじゃないときには探しにいく。私は反射的にも戦略的にもハートマークをたやすくポンっとしたりしない方だと思ってるけど、その人は反射的かもしれないたくさんのそれらからも繊細に何かを感じ取って、というか天気や食べ物やそばの人の会話や生活のすべてに静かに関わりながら感じたことを素朴に品よく言葉にしていて、「吐き出す」こととの違いを教えてくれる。私のような見知らぬ相手にも馴染む刺激的なのに消化できる言葉の数々。個人的には知らない人だからずっと理想化していられるわけだけど交際したり結婚したりするわけでもないから好きな本を読むように贅沢で大切なものとしてそっと胸にしまう。

毎日実際に身体を伴って私に向かって話される言葉はものすごく多様でこちらのこころをフルに動かそうとする(あるいは決して動かさないようにする)インパクトを持っていて言葉の使用について考える余裕はその場ではあまりないのだけど、好きなその人の言葉に感じるナルシシズムの傷つきをある程度ワークスルーしたあとの静けさは患者との間でもふわっと訪れることがある。そのときに彼らが使う言葉も素朴で中立的で胸をうつ。私たちが侵入しあう形ではなく触れあえた感覚を持つ貴重な一瞬。

きっと今日も辛いことがある。それでも素朴に自分が見ているものと丁寧に関わりたい。言葉にするならこうして文章にしよう。そうだ、メールも書かねば、、、ああ、こうして現実に引き戻されて1日を始めるのですね。今日もなんとかやっていきましょ。

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願うばかりの今日を。

もういない人のことを思って泣いた。私はその人のことをほとんど知らないのに。こんなに助けられていたんだということを泣きながら感じた。自分で選んだとはいえ、人が人を想うということが誰にでも当たり前にあるのならば私がこんな気持ちになることをあの人はどう感じるのだろう、いや、私はそう想うことで自分が暴走することを防いでいるだけかもしれない。誰にもいえない気持ちをどう抱えていけばいいかわからない。これだけ訓練を受けているのに。違う。精神分析こそがその理由だろう。以前とはまるで異なる揺れ幅で心が動く。どうにもできないんだと知っている。否認はできない。それでもどうにかやっていく。今日も生きたまま起きたのなら生きる。なにも感じない身体ならよかったのに、と思うなりそれが不可能であると知る。同時に部分的に様々な形で自分が死んでいること、死んでいくことも事実だと知る。

辛い。あの頃はこんなには感じなかった。感じたいわけじゃない。身体がそうなってしまった。生きるなら今はこの身体しかない。今なら、今あの人が生きていたらまずはメールをしたりするのだろうか。当時は電話とFAXだった。薄れていく文字を追いかけるようにコピーをとった。どうしても会いに行かねば。若かった私はその人に何を賭けたのか。

お会いしたいです。今なら相談したいことがたくさんあります。

あの日も困っていることを話したけれど。当時の私には切迫した事柄だったと思うけれど。今となってはそれがとてもつかみどころのないものだったように感じる。自分の愚かしさを知り、またよく知りもしない誰かに自分の一部を懸けてしまったことで苦しんでいる。私は変わっていないのかもしれない。

とても会いたいです。どうして気づいたときにはもう失っているのだろう。なんでいつもその繰り返しなんだろう。

その人を思って涙が溢れてきたときにすでに感じてた。大丈夫、と。とても辛い、こんな風に感じる身体なんかいらないと思いつつ。身動きが取れなくなり狭まる視界がつけっぱなしだった画面をぼんやり捉えた。その人の名前があった。もういないのに。知らない人がその人の言葉をSNSで引用していた。一気に涙が溢れてきた。口走るようにいろんな言葉が私の中を駆け巡った、その人へ向かって。そうしながら「ああ、大丈夫だ」とも感じた。誰かを想うことは苦しい。とてもとても耐え難く。でも心が動くと感じる身体があるから思い出せた、その人を。誰かを想うことが時間を超えてその人と再び出会わせてくれた。

罪深きこと、あまりに愚かなこと、事実は積み重なるばかりで忘れられても消えることはない。辛いのは私だけど私じゃない。申し訳なさにすべてを投げ出したくなったとしてもそれは償いでもなんでもない。とりあえず今日を。とりあえず。いつもそればかりだけど。とりあえず、願うばかりの今日を。

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我慢と無理2

(つづき)

なのでそういう状況で「無理しないで」「我慢は体に悪いよ」とかいえるはずがない。さっき書いたようにそういう状況になるまでに言葉の意味はとてもパターン化されたものに変わってしまっているかもしれない。ただただそれ以上の負担がその人にかからないように静かに注意をはらい続けること、できるのはそのくらいかもしれない。そもそも変わりたくもない相手にアドバイスめいたことをいうのも大きなお世話である可能性が高いように今まさに行動しようとしている相手になにかを言いたくなるとしたらそれは当事者の途轍もない不安を自分の不安のように感じてしまうからかもしれず、それを黙って抱えておくことの難しさは誰にとっても当然ではある。なので仕方ないともいえる。ただ、それをする生物にとって一大事である脱皮の邪魔をしないのと同じという気はする。ちょっと手伝ってあげることはあっても本人が自分でやったと思える範囲でしか手はださないものだろう。

私は無理や我慢を関係を変化させようとするときに不可避に生じてしまうものと捉える。そのときにお互いが「こういうときはそういうものだよね」とお互いの無理や我慢自体に無理や我慢がないかを思いやれたら素敵なことだと思う。

この言い方は変だと思わないだろうか。私が思うに終わりのない入れ子構造を作る言葉は日常語としてとても便利だがその分個別性、具体性に欠ける。「ご無理なさいませんように」というとき私たちは相手のどんな無理を想定しているのだろうか。臨床でこれらの言葉を使うときは相当の具体的エピソードを伴うので社交辞令的な意味は乏しい。親密な間柄の人に対してもそうかもしれない。

まただ。この人が無理をしているときは返事のタイミングがコンマ何秒遅れる。無理をさせないように考えて言ったつもりの言葉だったけどやっぱり同じことが起きるんだな。相当我慢を重ねたつもりだったけど。「無理なんかしてない」という言葉を信頼できない方が悪いのか。我慢とかいってこの人を思い通りにしたいだけなのか。もうダメかもしれない。こういうことを考え出すと決まって頭痛がひどくなる。きっとこの気持ちをそのまま伝えてもまたコンマ数秒遅れの返事がかくるだけだ。「いつもあなたはそうなんだよ」と伝えたとしてもその行動を抑制するだけでまた別の「いつもの」が始まるだけだ。こんなお互いに我慢と無理を重ねることになんの意味があるのだろう、と一方が思ったとする。そしてもう一方は、なんだかまた不機嫌になってるみたい。また何かしてしまったのだろうか。あの人がいう「無理」ってなんなんだろう。いつもひどく我慢させてしまっているみたいで申し訳ない。我慢と無理はお互い様だっていってたのにそれをしたらしたで悲しませたり怒らせたりしてしまうのはなんでだろう、と思ったかもしれない。

入れ子は入れ子。どこまでいっても似たような構図だけが生じてくる。ならどうしよう。この苦しい状態を抱えていてもいいことはない。自分も相手も辛くなるだけだ。離れるしかないのか。頭痛はひどくなるばかり。とりあえず眠ろう、とベッドに入っても布団をかぶってもぐるぐるぐるぐる同じことを考え続ける。

さて、本当にどうしようか。ふと冷静になる。そうか、別の言葉があるんだ。

毎日毎日同じ道を歩き続けていると「あれ?」と思うことがないだろうか。こんなところにこんなものあったっけと。精神分析でもそれは生じる。もう本当に無理だ、何も変わらない、これまでの苦しみはなんだったんだ、と追い詰められて追い詰められて何かが弾ける。「あれ?」もう無理だ、とこれまでも何度も思ってきた。今回こそ限界だ、そのはずだった。なのにどこか呑気ではないか。絶望している自分でいながらどっかそれを演技的に感じもする。そんなはずはない。私は本当に死にたいほど絶望している。なのにこれまでとは明らかに違う。そこは暗闇だけではない。

景色が変わったことに気づくのは必ずしもいいことばかりではない。これまでも散々見えていなかったという事実に驚愕してきた。どんなに泣いてどんなに苦しくても見えていなかったものが見えるならまだいいだろう。間に合ったのだから。見ようとしたときにはもうそれは存在しなかったということだってあった。

そうか、別の言葉がある。ぐるぐるが止まる。我慢と無理という言葉ではないんだ。今私たちはそれに囚われすぎてる。数えきれない言葉の世界を生きながらそんなのはおかしいだろう。まだ間に合う。少し時間をおこう。まずは別の言葉があることを思い出そう。いつのまにか頭痛が少しおさまっている。少し眠くなった。夢を見る。全く話せないはずの外国語で話している夢を。

多分私たちは「まだ間に合う」とどこかで思っている。それはかなりの程度「希望」とよんでもいいように思う。なのに同じことを繰り返しては我慢だ無理だなどの言葉で事態を説明しようとする。どうしてだろう。きっとそれは機会を作り出すためだ。入れ子の言葉に私たちが縛られながら生活している理由があるとしたらそれは言葉を常に互いのものにしておくことでその呪縛に気づくためではないだろうか。十分に浸され、体験しないとそこがどこでそれが何かはわからない。抜け出すために囚われるのだ。もちろん時間は刻々と過ぎ、あったものはなくなったり別の何かになっていく。それだって仕方ないのだ。誰にも止めることはできない。どうにかしたい。あなたが大切だ。立ち戻るのはひとりの想い。何度でもそこから始められたらいつかきっと間に合うはず。そう信じながら言葉を探す。

たとえいっときでも言葉を離れてよい夢を。

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我慢と無理1

我慢と無理について考えていてそれは全然努力すべきことではなくて単にすべきことではないとも思うけどどうしても生じてしまうものなんだと思う。たとえばこちらが我慢や無理をしていることに気づいてほしくて何かアクションを起こした(そのまま伝えるとかでも)としてもあちらがそれに応えるには我慢や無理がいるとなったりもする。コミュニケーションに我慢や無理は生じてしまうと考えておいた方がいいのだろう。

ただそれで体調を崩したり、辛い状況に囚われてしまう場合はどうしようか。話し合いとか対話でどうにかできる事柄もあるだろうけれど心身が参ってしまうような事柄になると話し合いや対話はすればするほど失望や絶望につながることも多い。二者関係や状況が綻びをみせていればそれは当然そうなのだ、そこで定点から客観的に物事を見ることを期待された第三者の存在が望まれ相談事業はそうやって成立していると思うのだけど、私はもっとミクロに自分で考えられる範囲のことをダラダラ考える。こういう仕事をしているからこそ。相談相手や場所がずっとそばにいるわけではない。私たちは基本的にひとりだ。

親密な関係における無理や我慢について考える。暴力のように明らかにやってはいけないことに対しては無理や我慢はしてはいけない。自分だけが相手に対して寛容でいられる、自分ならどうにかできると思ったとしてもだ。その思いが間違いとは思わない。でもそもそもそれを「寛容」とは言わない。ときに同じ構図の言葉を暴力をふるう側も口にする。変化に対する強い抵抗は言葉の意味もどんどん変えていき、第三者の言葉はすでに機能しないかもしれない。そんな状況を抜け出そうとするときにする「無理」や「我慢」は私が考えられる範囲で考えようとしている無理や我慢とスペクトラム上にはあるかもしれないが、むしろ様々な心の機能が破綻しかけたところでどうにか動き出そうとするときに襲ってくる強い痛みに対して持ち堪えるためのものであり、戦火を逃れるためにせざるをえないような切迫したものである。

(とりあえずここまで)

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『小鳥たち』を読んだ。

他愛もないやりとりのあと、読んだばかりの本をパラパラしながら突然涙ぐむ。泣きたい気持ちは突然始まったものではないとわかっているけれどこみあげてくるものを感じ両方の目に少し力を入れて抑えようとした。

7時か7時半に開くカフェで仕事をすることが多い。連休中、ここもそこもとても空いていて「今年はみんな東京から出たのか」と数日前の誰かの言葉を思い出した。

小川洋子『ことり』を読んで思ったことはすでに書いた。暮田真名『ふりょの星』を探しているときにきれいな表紙の本を見つけた。『小鳥たち』、スペインの作家の本らしい。

私は鳥が好きだ。好きだ好きだ、とあえていう必要などないくらい身近で、毎朝「おはよー」と声に出さずに最初に挨拶をするのは鳥たちだ。

『小鳥たち』、手にとってパラパラすると短篇集のようで(表紙にもそう書いてあったのにみていなかった)表題作を読んでみた。ああ、この感じ、懐かしい重み。子どもの頃は「親に叱られる」が真っ先にあるようで好奇心があっという間にそれを忘れさせた。そこに不安や恐怖があったとしても見ずにはいられないなにか、思わず出してしまう声、常にこころと仕草が近くて、ごちゃまぜの気持ちが身体をいろんな状態にして、自分でもその状態を掴めているのにコントロールはできなかった。それは今も同じか。突然涙ぐんでしまうのをどうにもできないように。

親や保育士が子どもたちに「落ち着いて!」と声をかけたくなるのもわからなくはない。子どもだけの体験で言えばどうしようもなくこころと身体が連動してしまうだけなのだけど。

表題作「小鳥たち」は子どもの目線で書かれた短篇で、他の短篇には子どもが出てこない大人だけの話もあるが、その世界はすでに子どもの心にあるもので、位置付けるとしたら児童文学であるように思った。

大人の薄汚さや性愛の世界は最初から子どもの世界をとり囲んでいる。子どもが大抵の場合セックスから生まれているという事実以前に精神分析には「原光景」という考えがあり、臨床をしているとそれを否定することはもはや難しい。もちろん大人の世界に晒されすぎないように守るのも大人の役割だが、子どもの好奇心はどうして今それを忘れたのか不思議なほど強力で直感的にさまざまなことを知ってしまう。

「子どもってのは目ざといねえ。」

ー表題作「小鳥たち」より

著者は子どもの観察眼を維持したまま豊かな言葉と淡々とした筆致で情景を描き、誰かと生活すれば出会わざるを得ない現実、その現実と出会うときの衝撃、それに伴い一気に湧き上がるさまざまな気持ちを描く。

短篇ならではの多彩な事情(登場人物が背負う「家」の事情など)と出来事に心があちこちに揺さぶられ読後感はやや重たいが、子どもの頃の感覚と気持ちと仕草の連動を思い出させる上質な一冊だった。

誰かを想う。そんなとき感情が溢れる場所を求めるのは当然のことだ。今日も人ゆえの小さな苦しみとともに。

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変わってない

ずっと囚われているわけではない。でもほぼずっと、何をしていてもずっと注意をそらせないことがある。それを囚われているというんだよ、と誰かが笑う。

再会は20年ぶりだという。なんらかの形で言葉を交わし続けてきたので驚いた。「全然変わってない」と言いつつも今の私を褒めてくれる優しい人たちをありがたく思う。

でも多分本当にずっと考えているわけではない。というか考える仕方が色々で自分でも持て余す。人と離れ音と離れぼんやりしだすと頭痛がひどくなる。一体私は何を考えているのか。これからどうしていくつもりなのか。これは身体化だと気づきながらも仕方ないとしていくか。正常と異常はスペクトラムだとしても、いい悪いの問題ではないとしても。

相手との関係を考える、という場合も色々だ。自分の不快さをどうにかすることを最優先にする人もいれば、私がこう感じることを伝えたらあの人はどう思うのだろう、と二者関係で考える場合もある。さらに私たちがこういうやりとりをするということが彼らにどう影響するだろうか、とさらに広く考えざるを得ないこともある。ともかくも相手あることは仮の答えを出すにもその相手がいないと難しい。物理的にではなく心理的に。心理的にいるということは物理的にもなんらかの形で「在」は示されているものだと思うが。私たちが会わない間も言葉を交わし続けたように。

もしひとりで考えなくてはいけないとしたらそこに相手はいないと思った方がいいかもしれない。無理して何かアイデアを生み出そうとするよりそこにいない相手との関係を再考すべきかもしれない。

コミュニケーションがいかに複雑で、それをしないことも含めてその意味を考えていくことが必要なのは仕事では当たり前というかそれせずにこの仕事はできない。なのにどうしてこんなに難しいのだろう。毎日そんなことしかしていないのに上達する類のものではないのはたしかみたい。たしかに私は「全然変わってない」のだ。

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架空のこと

「とりあえず眠ろう」と眠ったはいいがすぐに起きてしまった。

大切な人が雨の中立ち尽くしている。傘もささずに。探しに出た彼女はすぐに気づく。相手もそれを待っていたかのように彼女をみる。彼女はある種の衝動と「またか」という気持ちを抑えその人を手招きする。いつのまにか二人はエスカレーターに乗っている。前にいるその人の服がびっしょりで触れてどうにかしたい気がするがそれをしたときに流れ落ちる水の重さが気になって触れずにいる。

火葬場でカラカラの骨を拾う、子どもと。此岸から彼岸への橋渡しは二人でやるものだという。人間の身体のほとんどは水分だ。玄関脇の暗がり、もう弾まないバスケットボールのことを思い出した。

あれは暴力でした、と周りの人には話す。でも私にはそれだけではなかった。私に力があることを教えてくれた。甘く優しい時間もたくさん過ごした。役割をくれた。今でもちょうどよく満たされたい、自分を忘れてほしくない人たちが私を求めてメッセージを送ってくる。直接会ったこともない人たちが私を求めてくれる。だからあの人を絶対に悪くはいわない。あれは暴力でした、と話すけれど、周りには。

私も夢を見た。久しぶりにvividに。

これからも心身に大きな不具合が生じない限りたくさんの患者さんの夢や欲望と過ごす生活をしていくんだな。代わりに夢を見たり代わりに言葉にしたりして。もちろんその逆も。

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.

ーStopping by Woods on a Snowy Evening

BY ROBERT FROST

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とりあえず

さて、ここで何が起きているかだ。

と何かを描写しては考える。例えばこの前の記事では個別の臨床例については加工どころか触れることをしていない。理論的な説明を加えるならロナルド・ブリトン『信念と想像:精神分析のこころの探究』(松木邦裕監訳、古賀靖彦訳、金剛出版)のどうこうなどということはできるが、治療状況を思い出しつつも取り上げているのは治療状況外でありがちなことなのでそこからぼんやり考えていることを下書きのように書いては「ちょっと待てよ」と考え直すことを繰り返している。

「いい悪いの話はしていない」「正解かどうか、どうすべきかという話はしていない」。ほぼ私の口癖だ。そんなの誰が決めるのでしょう、と自分に対しても思う。

精神分析は他者の場所(物理的にも心理的にも心的にも)で自分のことをあれこれ思いついたままに話すのだが思いついたまま話せるようにはかなり時間がかかる。それは永遠に不可能かもしれない。が、それは実は達成すべき事柄ではない。ただ、それが困難であると実感するプロセスを繰り返しているうちにいつの間にかできるようになったりもする。なんなんだよ、と思うかもしれないが、無意識を信頼するには努力より大切なものがある。それは曖昧さをそのままにしておくことだ、と私は思う。

一方が謝った。他方はそれが文脈にそぐわないと瞬間的に察知した。なのですぐに介入した。「なんで」と。別にその人が相手と話しながら別の誰かや何かとの体験に基づいた反応をすることになんら問題はない。むしろ何かしら内省的になっているのは好ましいことではないか、それを目の前の相手がそれを無視されていると感じるとしたらそれはまだ二者関係におけるなんらかの問題をワークスルーできていないということではないか。

なんて中途半端な理論的理解を当てはめることは日常生活でだってしては行けない。シンプルに起きていることを追う。

「謝る」という行為について。これもまた文脈によって全く異なる意味を持ってしまう。「別に謝ってほしくていっているわけではない」と返したくなるとき、「謝る」という行為はあったことをなかったことにする、あるいは起きていることを誤って認識している、とその人には認識されているかもしれない。そして謝った本人はそういう反応をされて「え、なんで?」となるかもしれない。すぐに介入したのはそれ以上その行為に関する何かを続けてほしくないと反射的に思ったのかもしれない、なぜならいつもそうやって謝るから、など。もっと具体的な状況が分かればこの行為が持つ多様な意味を知ることができるだろう。確実なのは行為の言葉は文脈なしで理解することは不可能だということ。

第三者として受け取る時でも相手との関係性によってその意味は異なる。いつもの友人からの相談だったら大体文脈がわかるから起きていることは理解しやすいし、友人が私に何を求めているかも大体わかる。このときも必要なのは曖昧さだ。判断なんか求められていない。

精神分析を体験してから以前には考えられなかったような仕方で自分の気持ちを振り返るようになった。このプロセスこそ曖昧さに耐える訓練だった。持ち堪える、生き延びる、という表現も随分しっくりくるようになった。

「耐え難い」と感じる状況では何かを誰かのせいにすることは日常生活のライフハックかもしれない。私にとってそれはあまり楽になるものではないので自分の気持ちの変化にじっととどまる。親密な関係においてはなおさらそうだ。SNSを投影先にしたりもしない。平面ではなく三次元の場所で生じた出来事のみを信頼する。どんな親密な関係でも相手が何を考えているかはわからないし、相手だってそんなのは常に流動的で暫定的だろう。だからこそなおさらその場に共にいるときの感覚を貴重に思うし、そこで生じた気持ちに関心を向け、それがどう変化していくかを見守ることに価値を見出す。相手をなじったり、もう相手が謝るしかないというようなことを言い募りたいときもあるがことをさらに複雑にするようなことはせずにじっと感じ続ける。変数を増やすことは一時凌ぎにはなるだろうけど結局相手を変えて同じことを繰り返すだけだと理論的にだけでなく経験で実感している。よって判断を保留し、変数も増やさない。ただ身を浸し心と身体を馴染ませる。

睡眠をとるということも時間の引き延ばしという観点からとても重要だ。夢を見るかもしれないから。自分の感覚や感情にじっととどまろうとしても相当揺さぶられているとそれは単なる我慢になってしまうので無理になるようなことはせず眠る。無意識がどうにかしてくれるだろうと身体を投げ出す。とても残念な未来を描くこともあるけどそのときはそのとき。とりあえず眠ろう。

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言葉とセクシュアリティ

小川洋子『ことり』(朝日文庫)を読んだ、と昨日書いた。

図書館という設定の豊かさを改めて知った。桜庭一樹の小説で図書館最上階に住む女の子の話、なんだっけ、思い出そうとすることは全て思い出せないといういつもの現象。その子はすっごく頭が良くてというのは覚えている。あの設定も素晴らしいなと思ったしほかにも図書館が登場する小説は多い。檻でもなく鳥たちを窓の外に本の内に息づかせ、どんな人でも利用できるマージナルな場所。

この本ではここが主人公と外界の中間領域となる。彼だけがその言葉を理解する兄との場所ではなく、鳥たちとの交わりえない交流でもなく。もうこのあたりから私は切なくてどうしようもなくなった。多くの患者さんを重ねてしまったからだ。

言葉が通じると感じられる場所。「通じる」とはなにか。

「それはごくありふれた事務的な連絡事項にすぎないのだとよく分かっていながら、小父さんはなぜか、自分だけの大事なお守りを無遠慮な他人にべたべた触られたような気持に陥った。」—小川洋子『ことり』

想いは空想は生み言葉を暗号化する。セクシュアリティの機能だろう。身を隠すようにささやかな生活に「じっと」身を浸してきた彼はもはや本を閉じたら消えるような世界にはいない。著者は極めて耽美に鳥から人間の声に耳を澄まし始める主人公の様子を描き出すが、一瞬のセクシュアルな混乱や相手はこれを夢だと知っているという現実もさりげなく織り交ぜる。

「一粒だから、今でも夢のように美味しいと思えるんです。」–小川洋子『ことり』

言葉とセクシュアリティ、精神分析が取り組んできたもののすべてだろう。切なさも絶望もささやかな喜びも自由を求める衝動も私たちは患者との間で体験する。

セクシュアルな感覚は人を少なからず病的にする。言葉は暗号になったり精神安定剤になったりする。簡単に絶望しODしたりもする。確実な言葉などどこにもない。のみこんでも吐き出しても不安は尽きない。

時を重ね身体を合わせ言葉を交わし続けるなかで言葉の質がふと変わる時がある。この本の主人公は長く継続的な関係を築いたのは兄のみだった。彼のセクシュアリティは幻滅を体験するプロセスにはいるほど機能していなかったのかもしれない。継続的な関係ではお互いがお互いを想う限りにおいてセクシュアリティと言葉は錯覚と幻滅を繰り返しそのあり方を変えていく。それはふたりのプロセスでありもはや切り分けることはできない。

たとえば一方が急に謝った。するともう一方はそれに被せるスピードで「なんで」といった。今誰と対話してた?私はあなたのその部分だけを切り離して考えるなんてできない。それが「世間」からみてどうであったとしても。

分析家がスーパーヴァイザーや文献との対話を「今ここ」に持ち込むことを患者は嫌う(ことがある)。外側の第三者が私たちの何を知っているのか。私たちはそれぞれの関係を築いている。

一人の、あるいは第三者のモノマネのような言葉はセクシュアリティが引き起こす危機とは別の困難を生じさせる。それはこの本を読めばわかる。

言葉を紡ぎ二人が繋がり次へ繋がっていく。セクシュアリティのもつ豊かさと困難を毎日そうとは知らず生きている。そんなことを考えたので書いておく。

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馴染む

依存についてずっと考えているのはどの病理にもその問題があるから。依存に関しては一般的な意味で使っているけれど、ナルシシズムに関しては一般的な意味でいうそれと精神分析でいうナルシシズムは異なるので私はあくまで後者の意味で使う。

臨床家としては治療の文脈でそれについて考えるのは仕事だから当たり前で、患者さんがナルシシズムの傷つきと出会うことも必然なのでその段階での治療状況はとても苦しいものになる。

プライベートで付き合う人に専門的な視点を向けてしまうと辛いことが多いので苦しくなる仮説がたったとしても言語化はしない。実際に深刻な問題が生じそうだったり、大切なその人がひどく傷つきそうだったり、誰かを傷つけそうな場合に指摘すればいいことだから。もちろんプライベートで客観的に相手を見ることはできないし、仮説を確かめる過程を治療状況以外では踏まないのでただの勘違いの可能性もある。でも今はこちらがみたくなくてもいろんなことがみえやすくなってしまっているので「あーあやっぱり」とか「また自分から構われにいってる」と思ってしまうことも多い。こちらが確かめなくても行動がみえてしまえばそれだけ確からしさは増す。

特にナルシシズムの傷つきを安全な距離感での依存関係によって回避している関係性は外からは見えやすいのに当事者はそこに安らぎを感じているから外からどう思われるかは否認しやすい。たいして知らない人と気楽に公然とやりとりできる現在、その関係を「安全」とは私は思わないが、当人たちのナルシシズムの傷つきの回避ということだけを考えれば当人たちにとっては「安全」で手放しがたい環境だろう。

ナルシシズムの病理は、親密な関係において葛藤し言葉を探し相手の問題と自分の問題を区別できないまま傷つき傷つけそうするなかで少しずつわかりあえない部分をもつ二人であることを認識しもしお互いを思いあうプロセス、そしてそれが維持できないのであれば自分をそれ以上傷つけないほうを選択する、という時間もかかるし苦しみの多いプロセスを過ごすことを難しくする。自分は本当の意味では愚かではないということを証明してくれる自分のことをあまり知らない相手と都合のよい距離を保つ。それは相手を自分のために部分的に使用しているということなのでは、という疑いは否認する。

精神分析はさっき書いたプロセスに価値をおくが、現代はそうではない。ナルシシズムの時代だと思う。私はそのプロセスに価値を見出すのでその内側にいるが多くの人にとってそうではないのはそれを回避するシステムがこれだけ整えばそりゃそうだろうと思う。だから私は精神分析治療以外でそれを重要だと言い続けるよりも相手の在り方に馴染んでいくことが必要なのだろうと考えるようになった。諦めるのではなく。かつてはナルシシズムの病理とみなされたものもそれが病理として現れる場所は減り、むしろそのありかたがマジョリティになりつつあるというのは現実だろう。そして行き過ぎたものだけがあっというまにネット上で拡散されネット上で「いいね」を送りあったくらいの関係(といえるのかは不明だが)のペアや集団における分断のシステムにおいてあれこれするのだろう。個人的には恐ろしいなと思うので私はナルシシズムの病理としてそれらを考え続けるけれど治療の文脈以外ではそうは言わない。言わないけど、大切な人が傷ついたりお互いに傷つけあったりというのは嫌だ。私は実際に触れ合える親密な関係のなかであれこれ繰り返していくことを大切にしたい。辛いこともたくさんだけど喜びもあることはすでに知っている。もしもう無理だな、と思ってもひとりではない。誰かを部分的に利用して孤独を癒そうとせずきちんと悲しんでからまた立ち上がりたいと思う。

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安全な暴力

安全な場所から振るう暴力、について考えていた。らしい。今日も下書きの上書き。下書きを一気に消して、理論的なことも考えずに印象だけまた書いておく。下書きの上書きを繰り返して学会発表とかに備えて頭使っとこう。すぐぼんやりウトウトしてしまうから。特に最近の頭痛と眠気。全部お天気のせいかしら。

安全な場所から暴力を振るう人の典型として政治家がすぐに思い浮かぶかもしれない。私はSNSにおける言葉の暴力のことを考えていたような気がする。精神分析的心理療法のような生々しいコミュニケーションにおいて顕わになる攻撃性とは全く異質のものが蔓延するSNS空間。抜き差しならない緊張感のもとでは不可能であろう饒舌さと退行した言葉の使用を私は暴力的と感じたのだろう。投影先を広げればそれに対する反応も多様になると同時に単純な分断も招く。それぞれ見たいものを見て反射的に反応することが制限なくできてしまうのだから当たり前だ。

果たして最初に自分のなかで小さな声をあげたそれは本当にこんな形で公にされることを望んでいたのだろうか。知識や経験は武装のためにあるのだろうか。正しさの押しつけなど糞食らえだと思っていたのではなかったか。苦労して身につけてきた防衛手段は安心して徒党を組み相手を見下したり、相手に変化を促すためのものだったのだろうか。自分は自分の言葉を使っただけで周りが勝手についてきただけということもできるが、もしそうだとしたらひどく冷たい話だなと思う。「嫌なら♡をしなければいい」「そのときにそういってくれればよかった」というのも安全な場所からの暴力のひとつかもしれない。そこまで「正しい」ことを知っていて相手に賢くなることを公の場で求められるのに弱い立場の人が陥りがちな状況に対しては無知ですか、と反射的に言いたくなるが当然口をつぐむ。継続した話し合いの場が持てないところで投げるような言葉ではない。もちろん私もそれを暴力とした場合、加害者の位置にたつこともある。だから意識的でありたい。なので書いているのだろう、こうして。ただその場合もSNS状況と臨床状況は全く異質であるので同じ基準では全く考えない。そしてもし身近な男性との間で女性蔑視を感じたときに突然フロイトを責めたりもしない。その想いが、その言葉がどこで誰に対して生まれたものかを大切にしたい。それぞれの事情やそれぞれのあり方を平べったいスクリーンに羅列できるわけはない。言葉は本当にやっかいだ。SNSと臨床状況が大きく異なるのは言葉の使用であり、SNS上では想像力を駆使して相手の言葉を理解しようという契機がそもそも奪われている。投げられた言葉をカテゴリー化してゲームでまた敵がでてきたときみたいに自分もパターン化した言葉と態度で撃ち抜いたり殴ったりする。それではいつまでも「それはそのままあなた自身のことではありませんか」という応酬になりそうで不毛だ。お互い傷つけあうようなやりとりはしないほうがよくないか?「普通に」考えれば。

相手に対して言葉を選んでいく余地を持つこと、それは普通の思いやりだと思う。今日も現実の人と言葉を交わしたり黙ったりする。

穏やかな1日でありますように。