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精神分析

雨の朝、フランス語の本、國分さん河合隼雄学芸賞。

降り続く雨。もうすでに少し空が明るい気がする。朝のお菓子を食べるにしてもまだ早すぎる。このPCの向こうは西向きのそこそこ大きな窓がある。雨が降り込まないように少しだけ開けてみる。シャーっと車が雨の中を滑るように向こうへいく音が聞こえる。鳥たちの声も聞こえるがまだ寝ぐらである森の方だ。ピピピと、と書きたいが本当は私の耳にはp音は聞こえていない。鳥たちの囀りを表現することは難しい。そうそうこのPCの向こうというかこの大きな長方形の机のPCの後ろ、西向きの窓との間の隙間に積まれた本の一番上は「お風呂で読むフランス語 会話フレーズ」。もう何年も使っていない。お風呂で読んだことあったっけ。少し埃を被っているが開いてみよう。もう表紙のカバーはどこかへいってしまった。おお、開くなりかわいらしいカラーイラスト。パリジェンヌ式会話術か。だから女の子(子ではないが)ばかりなのか。20歳の時、ケンブリッジの語学学校に6週間通った。14歳のフランス人の女の子と仲良くなった、というか最初はいじられていた。ペーパーテストならそこそこできてしまう日本人のひとりだった私は会話クラスなのに一番上の段階の真ん中のクラスに入ってしまい、なんでこんな英語ペラペラの人たちに留学が必要なんだ・・・というような環境で伝わらないわりに明るいチグハグな日本人だった。同じくらいの背丈のインドネシアの女の子と仲良しでtwinsと呼ばれていた。あれ?sつく?sつけると双子の複数になる?まあ、夢まで英語で見るようになった頃に帰ってきてしまったうえにサボりにサボり30年近く経つのだから日本で身につけたものだってほとんど覚えていない。その後、國分功一郎、千葉雅也に現代思想の門前どころかフランス語入門のきっかけまでもらい、武蔵小山へ通った。その頃に買ったのだろう『お風呂で読むフランス語』。フランス語もすっかり忘れたが超初心者から初心者になったくらいのフランス語で彼女と会話したかった。今思えば彼女も思春期の不安定さがあったのかもしれない。異様なテンションで見えない教室からでも私の名前を呼んではゲラゲラ笑った。あ、西側の空も明るくなってきた。鳥たちも近くなってきた。雨は相変わらず屋根をたたきいろんな音を立てている。当時のクラスの様子が思い浮かんだが彼女は最年少で授業中は静かだった気がする。頭の良さは明らかですぐに一番上の上のクラスへ移動してしまった。クラスが変わったのに私が通りかかればあの大きな声で私の名前を呼び戻って顔を見せるとゲラゲラ笑った。毎晩のようにみんなで遊んでいたが彼女と夜に出かけたことはない。まだ若かったからホームステイだったのかもしれない。私は彼女がかわいかった。拙い英語でいじり返すと少し静かになった。細くて背が高く、挨拶だけはフランス語でほっぺをくっつけあった。私もまだ20歳だったが当時は今より頼り甲斐があったらしく若い(実は同じ年とか年上だったのかもしれないが)女子たちに懐かれた。彼女には懐かれたのかなんなのかよくわからないし私が帰国するときにはもう彼女はいなかったように思う。いつの間にか私を呼ぶ大きな声は聞こえなくなったから。本の一番後ろを見たら2011年6月初版発行。私のは2011年12月発行の第2刷。売れてたから買ったのね、きっと。まさに2011年。國分さんと千葉さんの講義を受け始めた年だ。昨日、國分功一郎さんが河合隼雄学芸賞をとったというツイートをしていた。たまたま画面を見ていたのもあって秒で反応したがすぐに消されてしまった。引用を忘れてしまったらしい。授賞作はもちろん『スピノザ ——読む人の肖像』(岩波書店)。國分さんのご苦労がこうして報われたことはとても喜ばしい。河合隼雄という名前がつくだけでさらに身近に感じるし。サントリー学芸賞の方はなんだか大変そうな話題も見かけたしいろんな賞にいろんなことがあるのだろうけど國分さんの受賞はいつも嬉しい。この本に関しては私もかなり苦労したのでこっちまで報われた。賞を取らなくても読んでよかったと思える一冊ではあったが。苦労ついでにこの文庫の元になった國分さんの博士論文を書籍化した2011年1月発行の『スピノザの方法』まで読めてしまったのだから一貫したものを持っている國分さんの力はすごい。読んだだけでわかっていないが以前よりは読めた感じがしたのだからすごい。うーん、まだお菓子を食べるには早いな。雑誌Penが谷川俊太郎特集を組んでいたので買った。子供の頃からずっと読んでいる詩人の言葉にまたも励まされた。あ、そうだ、資料作るの忘れてた。今日はまだ間に合う。昨晩は疲れ切っていつの間にか眠ってしまったがこうしてダラダラ書けるくらいには回復したらしい。すぐに眠くなりそうだけど。洗濯もしよう。あの子は今もフランスにいるのだろうか。出身がフランスなだけで当時から別の国にいた可能性だってなくはないだろうけどどこへいようと元気でいてくれますように。本当にかわいかった。ありがとね。伝われ〜。

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精神分析

大和市お菓子、言葉以前、文庫数冊

今朝も早速いろんな鳴き声がしていますよ。おはようございます。今朝のお菓子は南林間への散歩土産、老舗和菓子屋「喜泉」の「泉の森」。イラストもそのままで素敵。「泉」って単体として見るものではないから「〜の泉」とでも書いてない限り通り過ぎているけど意識してみよう。私の知っているイズミさん(苗字の人もなまえの人も)は元気かな。

昨日は同じ和菓子屋さんの「やまと太鼓」をいただきました。黄身あんと栗だっけな。しっとり美味しかった。今日の「泉の森」もしっとり。森は水分たっぷりだものねえ。梅雨だし。とっぷりと水に浸されるような気持ちになりますね。お、今改めてパッケージみたら「大和市の郊外に市民の水の源として知られております「泉の森」公園があります」ですって。そういえばこのお菓子をもらったとき「泉の森っていう公園があって」と聞いた気がする。忘れてました。パッケージといえばまたこの「泉の森」なんだけど硬めのアルミの型に入っていて同じ素材で作った蓋がかぶさってた。なんか「懐かしい!」ってなった。しっとりしたお菓子を守るための素朴な工夫なんだと思うけどふわってかぶせるだけの役目なのに作りは固くしっかりでなんだかいいなあと思いました。

まだ言葉を話す前の子どもたちとお散歩してるとバギーの中からいろんなものを指さす。「葉っぱだねえ」といえば「ぱ」とそれらしき音を出す。和菓子屋さんのショーケースを見つければきれいな色や形に見入ってはこちらを振り向く。「きれいね」「おいしそうね」というと「うんうん」と言わんばかりに首を縦にふってまたお菓子に見入るのを繰り返す。この愛しさ。北山先生が「共視」という言葉で表現した視線の交差。言葉以前と言葉の間。

言葉を喋るようになっても子供と大人の世界はだいぶ違う。村田沙耶香『丸の内魔法少女ミラクリーナ』がいつの間にか文庫になっていた。この表題作がまさにその世界の違いとそれらの世界を同時に、でもスプリットした形でしか生きられない少女大人の友情を描いていて展開には驚いたけどスカッとした。子供時代に何かを成し遂げて誰に褒められなくてもなんだか「やったぜ」と自分だけ鼻の穴がちょっと膨らんでしまうようなあの感じ。

あと読んでいるのはカーソン・マッカラーズの『マッカラーズ短篇集』(ちくま文庫)。『心は孤独な狩人』っていう小説が有名な作家なんだけどこれがもうね、すごいの。胸が締め付けられる。今回の短編は翻訳が私はあまり好きじゃないかも。まだ途中だけど。

椰月美智子『明日の食卓』も。「母親」が描かれるときそこには父親の不在や暴力も同時に描かれるわけだけどそれを維持する母親の「当たり前の狂気」みたいなものがここには描かれていると思う。

あと角田光代、穂村弘の『異性』(河出文庫)も。これはさらっと読める往復書簡的な本。いっそ対談本の方が面白かったのではとか思わなくもない。一時期、角田光代作品にはまっていたから新奇性をあまり感じないのかも。穂村弘も安定感あるし。安定感あるお二人の本という感じかな。

なんとなくお菓子紹介と本紹介になりましたね、今日は。明日は「ヤマトン緑茶ゴーフレット」をいただきましょう。お茶は好きなお茶ベスト3(ランキングしたことないけど)に入るであろうルピシアの「白桃烏龍 極品」。美味しい水分をとりつつ今日もなんとかやりましょう。夜は雨なの?嫌だなー。いってらっしゃい。いってきます。

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精神分析 読書

『言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 ❨中央公論新社❩を読んだ。

二度寝、三度寝。コーヒー飲んでくしゃみがふたつ。雨はまだまだ降っている。どうしましょう。被害が広がりませんように。きっとこのあと何事もなかったかのように晴れるのでしょう。残酷。

言語の本質』今井むつみ/秋田喜美 著❨中央公論新社❩を読んだ。精神分析における言葉の活用はいつも興味の中心なので言語学に関する本はそれなりに読んでいると思うが難しいのが多いから全然こなせていない。その点、この本は書き方も多分優れていて(私には優劣はわからない)引っかかりなく入ってきた。内容とは関係ないけど私はこの本を発達心理学の本だと思っていた。もちろん今井むつみさんはそれがご専門ということだし、言語は習得のプロセスと切り離せないわけだから発達心理学は常にその背景にあるわけだが、大学が発達心理学専攻で発達心理学の勉強が楽しくていまだに保育園でも仕事をしている私は「今は記号接地問題とかいう概念も扱うんだ。発達心理学もどんどん進化してるんだなあ」と思って嬉しく楽しく読んでいたのだ。なぜそんな発達心理学寄りの気持ちだったかといえば秋田喜美さんを秋田喜代美さんと間違っていたから。私は卒論で幼児に『赤ずきん』を読み聞かせてその感想を聞き取り分析するということをしたのだが参考文献のひとつが読書の心理学を研究されていた秋田喜代美さんの論文だった。今でもきちんと研究しておけばよかったなあと思うほど先行研究も現場(保育園)での調査も楽しかった。そんな誤解のもと『言語の本質』を読んでいて秋田さんはすっかり言語学の人になったのかと思いこみ、発達心理学の広がりに勝手にワクワクしていたわけだ。それはともかく毎日いろんな人の言葉を継続的に聞いているにも関わらず、というかその体験が増えれば増えるほどその人の言葉の習得や私が相手の言葉をキャッチする仕方などへの関心は深まるばかり。「そういう意味で使ってたのか」と聞き手だけでなく話し手自身が驚いてしまうような言葉の使い方使われ方も多いので話を聞く、聞いてもらう、というのは本を読むこととはまるで異なる体験ではある。生きている人を相手にするのだから当たり前だが。だからこそこういう専門的な本を読むことは大切。相手の言葉を大切にするためには忍耐と工夫と内省が必要。そのための支え。なんかすでにすごく売れているらしいのでみんなの基盤にもなってくれるかな。内容について全然書いてないけど「とりあえず読んでみて」というお勧めができてしまう本です。

はあ。雨やまないねえ。すでに被害がでている地域にこれ以上の被害が出ませんように。このあともたくさんのサポートを受け取れますように。どうぞお気をつけて。私たちも気をつけましょう。

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精神分析

更新、吟のカカオ、コミュニケート

もうひとつのブログ「精神分析という遊び」にオフィスのウェブサイトを更新したことをUPした。ややこしや、かな。ややこしやってご存知かしら。野村萬斎の「まちがいの狂言」。昔薪能のチケットに当選して行ったことがあるのだけど能より狂言に射抜かれてしまった。よくわからずとも面白がれるものなのかよくわからないから面白いのかわからないけど「にほんごであそぼ」で取り上げられるくらいだから前言語と言語の間の遊びであるよね、きっと。精神分析と同じね。

まだ降っていますね。今日は昼間だけでいいからやんでほしいな。ちょっと特別なことがあるから。

今朝もCafe du Jardin。今朝は福生の地酒使用「吟のカカオ」。大吟醸酒が使われてるって。大丈夫かしら。仕事になるかしら。すごくしっとり。すごく濃厚。すごく美味しい。めちゃめちゃ濃いブラウニーって感じ。袋から出す時にしっとりすぎて少し手についたけど全部引き出すしたら薄いフィルムでそっと保護されていた。このお店は「金のカカオ」というお菓子が有名ならしいからそれの日本酒バージョンなのね。それにしても名前で遊んでるわね。面白い。そういえば昨日のアメリカン・カステラの袋にきちんと「福生基地前通り」って書いてあった。基地に対しては思うところあるけどそこで暮らす人たちのこともそこそこ知っている。この仕事を長くしていると本当に色々な暮らしを知ることになるので自分の体験に基づくもの以外は言及を控えることになる。私がファシリテーターをしている初回面接を検討する小グループでも「誰にもいえないこと」「言いにくいこと」がどういう風に現れるか頻繁に話題になる。聞けば聞くほど聞けないことが出てきたりその場では言葉にできて安心した風になってもそこを出た途端「言わなければよかった」「言うべきではなかった」という声が湧き上がってきたりする場合だってある。精神分析的治療は抑圧、否認されていた意味の意識化のために言葉を使うのではない。臨床現場にいれば言葉がさらなる混乱を導く場面に圧倒される体験は必ず訪れる。なのでその暴力性を認識せざるをえない。ごく一般的な本の一言にいつまでも苦しめられたりする場合だってある。「場合だってある」というのが大切。精神分析は言葉そのものを手段とする治療であるために常にその力と使用については特に議論がなされている領域だろう。イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは晩年「交流しないこと」の価値を見出した。その論文が載っている彼の二冊目の論文集The Maturational Processes and the Facilitating Environment(1965)は昨年『成熟過程と促進的環境』という新訳かつ全訳がでた。この論文の題は「コミュニケートすることとコミュニケートしないこと:いくつかの対極の研究へ」(1963)と訳されている。以前の翻訳では「交流することと交流しないこと」と訳されていたが確かにこの言葉が持つ安易な方向性には注意が必要なのかもしれない。訳者の意図を知っているわけではないが。どこかに書いてあったかな。

日本精神分析協会候補生の会のニュースレターがようやく完成しそう。私は駄文量産はできるのだが細かいパソコン操作が苦手なのでここをいじるとこっちも崩れるみたいな事態にすぐにうんざりしてしまう。それでもなんとかなりそう。まだなってないけど。見通しが立っただけでも安心。今朝も早くから仕事だ。合間の予定を楽しみになんとかしよう。みんなにもこれがあるから少しがんばれるみたいなことがあるといいな。蝕まれながら取り戻す、毎日そんな感じだよね。そうでもないかな。とりあえずそれぞれの始め方で今日も一日。

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使う、間違う、ほどよくする

なんで築山殿までと言ったら妻だからと即答された。そうなのかな。女の使われ方って奥が深い。今も変わっていないのだろうけど。貸していた僕のマリさんの『常識のない喫茶店』(柏書房)が返ってきた。装丁のかわいさ以上に素敵な本だった。こういう本を書くのは大変だろう。静かに見守ってくれる人があってこそ。

今年度に入っていくつめの間違いだか今日もスケジュール管理を間違ってしまった。そういえばもう何年も使っていないアドレスの方にメールが届いていた。不思議だ。今のアドレスでやりとりしていたはずの人から。不思議だ。とか言っていないで返信しましょう。相当不思議だけどなくはないなという理由も思い浮かぶ。面白い。そのプロバイダの別のサービスを利用しているからサービス自体は残していたけど転送されてこなかった懐かしいメールとかもあるのかな。今回は転送されてきてよかった。

カーテンをシャッと開ける音が聞こえた。外ではずーっと雨の音。部屋の中が本当にちょうどいい気温で気持ちよく眠れた。ゴロゴロしながら雨の音をずっと聞いていたけど少し窓を開けた。少し寒くてすぐに閉めた。短い睡眠時間が日常になってしまったけど仕事が減るわけではない。食べる機会は増えるけど。今日は福生の洋菓子屋さん「カフェ・ドゥ・ジャルダン」のお菓子をいただきます。まずはアメリカンカステラから。なぜこのお店の名前で?福生には基地があるからかな。星条旗モチーフの透明なかわいい袋に収まったカステラ。おお。ふわふわ。ざらめが結構ざらめで甘味と食感のいいアクセントになっている。ポロポロさせながらオレンジアールグレイと一緒にいただきました。毎日お菓子天国。いろんな土地のお菓子をいただくのは楽しいですね。

人と一緒に本屋さんにいくのも楽しい。前に暮田真名さんと本屋さんで本を眺めながら読まされた本のことを聞いた。興味深かった。本にまつわる思い出って今はあまり本を読まないという人にもあると思うんだよね。学校があるから。私は学校にまともにいくようになったのは大人になってからだけどスクールカウンセラーとかで現場を知ると学校ってある程度の強制力がある場としては大事だなと思うようになった。ウィニコットのgood enoughと同じでなかなか難しいけど。年度始めに教科書が配られると国語と道徳の本だけはすぐに全部読んだ。今はこんな人のも載せちゃうんだとか余計な情報が邪魔するときもあるけど当時は著者名とか全く気にせずとにかく読んでいた。内容はほとんど覚えていないけどなんだったんだろう、あれは。

今日は新しい施設へ。時間とか間違ってないかすごく心配。何度も確認してメモとったのにそのメモが間違っていた、ほんと自分アテにならない、ということが覚えていられるすごく狭い範囲でも数回。まあ中身がんばりましょう。新しいところはまず知るところから。色々教えていただきながらやりましょう。その前に足元に気をつけましょう。また一週間、なんとかやっていきましょう。「しょう」が多くなるときはなんかちょっと疲れているときかも。とりあえず一歩一歩。

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gift、カフェ、林芙美子記念館

“gift for you”とシンプルに書かれた小さな紙袋にウキウキ。マカダミアナッツのクッキーとアーモンドあられが入っていましたー。もう少ししたらコーヒーか紅茶を淹れよう。我が家は今紅茶も豊富。コーヒーの味はよっぽど特徴がなければあまり違いがわからないのだけど紅茶は全然違うからあれこれ楽しい。もう何ヶ月前になるのか早朝から作業をしていたカフェが突然休みになりいつの間にか閉店した。最初はコロナが出ちゃったのかな、大変だなと思っていたのだけど結局理由はわからないまま何もなくなってしまった。そしてそこには何事もなかったかのようにチェーンのカフェが入った。老若男女が集うカフェだったけど今は若者ばかり。いろんなことが起きるカフェで迷惑だなと思うこともあったけどお店の人たちも自由だったしいかにも地域のカフェって感じだったのにな。飲み物も頼まず電源だけ使っている若者は誰にも何も言われずやりたいことをやっていたな。何ってドライヤー使って友達の髪をセットしてた。流石に不衛生だし非常識だろ、と離れた席から眺めた。あ、でもこれコロナ前。コロナで非常識はマスクを外すことみたいな感じになっちゃったしなんだかな。時が経つのは早い、というかなんだかな。

先日、サクッと林芙美子記念館へ行ってきた。オフィスは初台だから大江戸線中井駅は近い。まずお庭が素敵で感動した。芙美子は竹が好きだったそうで玄関へ続く道は竹がたくさんすっと空へ伸びてサワサワとザワザワの間くらいの音を立てていた。低く飛ぶようになった飛行機がうるさかったのが残念。芙美子が生きている頃はもっとたくさんの竹がお庭にあったんだって。ボランティアガイドさんが色々教えてくださった。四方竹というのも教えてもらった。これ断面が四角いの。外から触ってもちょっと違いがわかる。この竹は秋が旬なんだって。つまり秋に生えてくるってことだよね。とらないとすぐ大きくなって食べられなくなっちゃうものね。今はスーパーでも売ってるみたい。筍は毎年小動物みたいなままの採れたてをいただくしそんなに大量に食べるものでもないから食べ物としてはそんなに魅力を感じたことないけど植物としてはとても好き。竹林の間を通るときに感じる風に特別感。いい。ところで竹って木?「植物」というのは木も草も花もみんな含む上位の界?分類がわからないけど木と草の間みたいな植物だよね、竹は。

林芙美子が死ぬまでの十年間だっけな、早すぎる晩年を過ごしたこの家は本当におしゃれ。芙美子自身が建築を熱心に勉強して様々なこだわりを形にした実際に風通しがとてもいい(ここもこだわったみたい)作りで玄関と書斎が特に素敵だった。あと冷蔵庫が電気でびっくり。自分の生活しやすさに合わせた家を自らの手でデザインして合理的でおしゃれに仕上げた芙美子すごい。友達が中井に住んでいる頃にお泊まりしてその翌日に行ったことがあったけどその時もこんなに「うわあ、おしゃれ」って思ったっけ。宮大工に建ててもらったとのことで木の選び方も見せ方も工夫を感じたなあ。すごく素敵だった。当時も音がうるさいという理由で仕事部屋(書斎)は奥の静かな方にしたみたい(逆に客間が一番うるさいところっていってた気がする)だけど今こんな近い空を飛行機が飛んでいる中にいたらなんていうかな、芙美子さん。飛行機か・・・。女の従軍作家として戦争のあらゆる側面(主に金か)に巻き込まれたであろう芙美子にとっては飛行機の音はただうるさいだけではないかもしれない。『放浪記』が売れて印税ではじめてパリへ行ったときは飛行機ではなくシベリア鉄道だった。森まゆみが『女三人のシベリア鉄道』という本で芙美子のあとを追っている。森まゆみはこの前鴎外記念館で流されていた映像にも出てきてた、そういえば。ふみこつながりでいえば昨年、芙美子と同じ1903年生まれの金子文子「何が私をこうさせたか」を全文収録し、さらに調書、獄中歌集も収めた本を読んだ。「何が私をこうさせたか」に林芙美子が書評を寄せているそうだがそれも探せばどこかで読めるのかもしれない。1931年、読売新聞らしい。

お、そろそろNHK俳句の時間だ。見るだけテレビ体操の後。紅茶を淹れよう。芙美子が朝はここで冷酒を飲んだというお部屋も素敵だった。私も窓を開けたまま飲もう、紅茶を。みなさんも普通に水分補給してバテないようにお過ごしくださいね。

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搾取、嘘、みんな同じ空の下

さて搾取する人が嘘を吐き続ける場を与える社会で生きていく術を模索する一日が今日も始まりました。ずるいよね。そういう人がケアとか格差とか哲学とか内省モードちらつかせつつ上手に語る。言ってることとやってることまるで違うのに拡散されるのは表面だから大丈夫、バレない。軽薄に「サイコー」といってくれるオトモダチやパートナーはたくさんいる。そんな社会で今日も生きていく。格差なんて広がるばかり。ハラスメントも差別も終わるはずない。

家庭をかえりみなかった父親みたいになりたくない、と家庭をかえりみず嘘を吐き続ける。というか父親になっていないので嘘はついていない。いっておけばいい世界で生き残れるほどの知識を身につけてきた。人の心と体を弄び実際の傷をつけても責任を取らなくていい理由を説明してくれる知識だっていくらでも引き出せる。それらを惜しみなく披露することで家庭の外側に同質集団を作る努力も欠かさない。今やいつでも書いていい場も得た。自分と似たような人が集うプラットフォームでは「賢人」扱いしてもらえる。これまでしてきたこと?10年くらいしたら昔自分「も」こんなことをしてしまった、と誰かの黒歴史にのっかって吐露する材料になるんじゃないかな。そしたらいつもと同じ人がいいねをくれるでしょ。相手にとって時効なんてない?そんなことはどうでもいい。もう自分の世界にはいないのだから。わかってくれる人がわかってくれればいい。俺は俺を面白がってくれる人のために書く、喋る、そういう場を与えてくれる人がいなくなったとしてもTwitterのスペースだってyou tubeだって使いこなしている。しんどいしんどい言いながら一生懸命やってきたんだからある程度のことは仕方なくない?それに自分は嘘をついているつもりなどないし、傷つけた覚えもない。数年後に謝るかもしれないけどいまのところそんな覚えはない。自分だっていろんな人に場を与えてきたし寂しい女たちには家族よりも時間を割いて優しくしてきた。気に入ればついていくし二人になればすぐに触ったりもしたけど面倒なことにならなかった。面倒なことになるのは相手が悪いか運が悪いかやり方がまずいんだよ。馬鹿はちょっと圧かけて黙らせればいいし使えなくなっても最後に褒めとけばいいんだよ、女なんて。やってることなんて言ったり書いたりしなきゃいいんだから。

みたいな人いっぱいいる。生々しい情緒が動かされそうになれば知識で逃げる。あるいは素早く被害者になりすまし脅すように圧をかけ黙らせる。そういう人と同じ空の下で今日も生きていくのです。そういう人にならないようにしながら。不快さと痛みにどうしようもなくなりながら。苦しいですね。孤独ですね。辛いですね。これも現実だから仕方ない。でも別の現実もあるからそっちも忘れないようにしないと。なんでもかんでも連続したものとして考える必要なんかない。あったことはあったこと。なかったことはなかったこと。そういうシンプルな事実に常に立ち戻る。爆発するならほぼ絶対に変わらない相手に対してだけでなくそういう人に場を与えている社会にも。そっちも変わらない可能性高いけど人の数が多ければ誰かしら味方はいるかもしれないから。こんな負担負わなくても生きられる社会じゃないなんて嫌だけど見て見ぬ振りしてきれいごと振りまく人なるのも嫌じゃないですか。そんなにたくさん本を読んでそんなにたくさんの知識があるのにやってることはこれですか。なんのための読書?なんのための勉強?自分にとって不快な自分から遠く離れるためだけの?多分そうなんだと思う。

今日もいいお天気。昨日くらいがちょうどいいけど暑くなっていくのかなあ。体調崩さないでいきたいですね。私はユウカメロンをいただきます。

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メロン、フロイト、ティナ

ユウカメロンというのを送ってもらった。漢字だと優香みたい。柔らかくて包丁が気持ちよく入った。メロンはだいたいそうだっけ。久しぶりに食べたわん。メロンは晩夏の季語。

新婚のすべて未知数メロン切る  品川鈴子

本当ね。相手のことも自分のこともわからないのにましてやこれから起きることなんて。

昨晩はフロイト読書会だった。みんな疲れていた。私も帰宅するまでは疲れていたけどバタバタと家のことしたりしていたら回復したので元気に参加。でもアドバイザーとしてはいまいちだったな、自分。『ヒステリー研究』を読んでいるのだけど臨床での言葉の使用について考えてしまってそれこそ言葉の使用を間違った。修正したけどぼんやりしていたのかも。元気になったつもりだったんだけどな。

最近、フロイディアン・スリップなのか、間違いが多すぎる。昨日も「これであっていますか」と確認のメールがきた。あってない・・・。これまで一度も間違えたことのない慣れ親しんだ数字を8は9へ、2は3へ、とひとつずつずらしていた。やばいだろー、と思いつつエレベーターにのってオフィスへ向かった。部屋番号あってるよね、と確認して鍵を入れる。前にエレベーターには誰ものっていなかったのに下の階に止まってしまったことがあり何も考えずに降りた私はそのまま下の階の同じ位置にある部屋のドアの鍵穴に鍵を挿したのだ。あかない!すごく焦った。当たり前じゃ。まあ、これは最近というより開業して間もなくの話。今思えば自分でエレベーターの階のボタンを押し間違えていたのだろう。というか今までそう思っていなかった、というか何も考えていなかった。やばい。

昨晩ぼんやりしたのはフロイトの書いていることがみんなの質問などで『心理学草案』から繋がってきて「この人なんでこんなこと考えることができたの」ということに驚いて深く追うようにしてしまい「平等に漂う注意」を維持できなかった。興奮量の移動という観点から考えるとヒステリーと強迫神経症の分類はシンプル。その量から質的なものを生み出すいうかその量に関与する質的なものとは何か、フロイトは観察を続ける。その著作を読めばわかるようにフロイトの観察は「マジかよ」というくらい細かくこれはこれこれこうでそれはこれこれこうなのでこういうふうに違っているわけで、だったらこっちはどうかというと、とどこまでも違いを観察しながら自分の言っていることの正当性を高めていく。そこまで人間の目でみられたらあんなことも書けちゃうのかもしれないけどそれ普通の人間じゃないっすよ、教授、みたいな感じでついていかないとポカンとしてしまうこともある。なんかフロイトを「教授」っていうのって坂本龍一を呼んでいるような感覚になる。

ティナ・ターナーが死んだ。私にとっては坂本龍一が死んだ時よりずっとショックだった。高校の時からかな、ずっとその歌声に心地よく圧倒されてきた。沈むな、リズムにのれ、踊れと言われているような写真ばかり流れてきた。かっこいい人だった。今日もティナを聞きながら普通に過ごそう。みんな死んでいく。だからちゃんととかだからもっととかは不自然だと思う。みんな死んでいくのだから事実と現実に基づく。音やリズムに自然にノル。思い浮かんだら言葉にする。過去を捨てない。ロックってなかったことにしないための音楽でしょ。ごまかさないためのリズムでしょ。ということでそれぞれそれぞれ。

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自己開示、正当防衛、ライフハック

まだ暗い時間から長文を書いた。公にはしないものを。何歳になっても傷つきや後悔を公に自己開示する形でしか体験しようとしない人がいる。したほうがいいとかでは全くない。本当に悲しんだり、本当に後悔したり、「本当に〜」とつくものは公に語れないことの方がずっと多い。そういう部分に誰かを介入させたとたん嘘っぽくなる。逆にそうなってしまうくらいに言葉にできない体験をしてきたのかもしれないという仮説もたつ。SNSが自分の言いたいことだけを垂れ流し見せたい自分を上手に見せられる人たちの活躍の場になり何回でも人をうちのめすことができる場になった。「そんなつもりはなかった」「自分のこと言われてると思ったんですか」といくらでもごまかしの言葉を使う。そういうのも「正当防衛」というらしいが散々嘘をつきながら人の心と体を弄び実際の傷をつけておいて自分が責められそうになるとこっちが「正当防衛」のためにそんなこと言ってるだけだ、みたいなまるで嘘つき呼ばわり。その人を知っている人に話しても「クズだな。すげえな。」で終わり。そりゃそうだ。利害関係は大事だ。「見て、聞いて」を叶えてほしかった相手は大抵の場合もういない。その不在を体験できず承認を求める。なかったことにできるならなんだってする。誰を傷つけても構わない。まだまだ傷ついている子供なんだ。かわいそうだからとそばにいるうちにいつの間にか性愛が入りこみ都合よく大人になったり子供になったりする。私たちは愚かだ。自分の立場が弱くなると被害を主張し、事実を持ち出せば「後悔してます」と怒り含みの言葉で人を黙らせコミュニケーションを回避する。それでも驚くべき軽薄さを維持したまま自分の失敗は失敗のまま女や男や「仲間」を利用し続けることをやめられない。本当に厄介だなと思うのは軽薄で言葉巧みな人は表面的な人気を得やすいのであまり上手に言葉にできない人がいつも見下され黙らされてばかりなこと。それこそ「クズだな。すげえな。ひでえな。」と思ってしまう。自分の傷つきや症状は主張するくせにその人たちほど上手に立ち回れない傷や症状や「障害」といわれる状態を抱えている人たちに対してはものすごく差別的で排他的だったりするのでうんざりすることもある。そういう人の一部にライフハックという言葉をよく使う人がいた。なんの共感性もなく彼らを見下し私を見下すので「それもライフハックなのだろう」と言ったらプチ切れされた。人を怒らせること、それを自分に照らし返されることへの恐れも深刻だ。心理療法過程ではこんなような心の状態は必然的に現れる。実は誰にでもある心の状態だから。ただそれを行動にしてしまうのはとてもまずいことだろう。本来はこういうことは公に垂れ流すことで自分を含む誰かの傷を広げるものではない。なので秘密を守ってもらえる場所が必要になる。話し合いができる関係を築きつつ言葉にしていくこと。その関係を作るのも言葉だからその時点で痛みは避けられないし専門家だからといって無条件に信頼できるはずもない。普通よりは知識とスキルと経験がありその仕事に関する倫理規定に基づいて仕事をしているということを信頼してもらうほかない。世界はひどいことで溢れてる。戦争だって起きている。それでもなぜか生き残っている。不思議だよね。何がなくともそういうことになっているのであればなんとか今日も一日過ごせそうだろうか。今日もいいお天気みたい。私は昨日から池澤夏樹『また会う日まで』(朝日新聞出版)を読み始めた。親が送ってくれた。読んでいる途中から止まらないと言っていた。持ち歩くには分厚いがたしかに読み始めると気になってしまう。持っていこうかな。それぞれなんとかやっていけますように。またね。

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思春期、トレーニング、レイ・アナリスト問題

いいお天気。洗濯物をベランダへ。風ひとつない。全然揺れない。光がいっぱい。昨日の保育園の帰り道、区の先生と色々話す合間にいちいち「寒い寒い」といいあった。向かいの家の屋根はまだ濡れて光ってる。コーヒー飲むと暑い。と書いたのは何度目だろう。今朝も足柄の洋菓子屋さんのお菓子。フルーツパウンド。コーヒーにぴったり。足柄に住んでいた子と一緒に合格発表を見にいったなあ。若いときはそういう部分の親代わりみたいなこと結構していた。このときもそんなやりにくいことを私がやるのかと思ったけど結果が残念だったからこそ一緒にいられてよかった。長い付き合いの子だったけどあんなふうに感謝されたのははじめてだったな。今はオフィスやクリニックで思春期の子供たちが大きくなっていく時間を共にしている。大人になってから会う人とはまるで異なるインパクトを持つ彼らの言語や身ぶりに圧倒されたり笑いあったりこういう豊かさをみんな持っているはずなのだろう、本来は。ないものはないし見えていないものをあるはずと想定することは安易にはできないが密な作業を継続的にしていくことで出会う言葉や気持ちはそれまでと全く異なるものだったりする。「これこれこうするとこういうことが起きますよ」という意味ではこういうことが起きるのが精神分析的治療なのだけどこれは他人からみたわかりやすい「良さ」には繋がっていない場合も多いのでなかなか難しいところ。適応はよくなることがほとんどだけど適応は目的ではない。自分の不快さにとどまることを誰かと共にいながらその共にいてくれる誰かに侵襲されながらそれを反復に組み込んでその誰かをもそこに巻き込みながら共にそれを体験しその中で二人とも生き残る。結構な作業なのでトレーニングは必須だ。共倒れするわけにはいかない。そう、精神分析のトレーニングのことを調べていた。今回はラカンがSPP(パリ精神分析協会)の分裂によりラガーシュ一派としてSFP(フランス精神分析協会)の訓練分析家になりセミネールをはじめるまでのところをIPA(国際精神分析協会)の様子と関連させて調べていたが、精神分析のトレーニングはこうやって常に物議を醸すものなので結局いつも何度も調べ直すことになる。それは私自身のアイデンティティと関わるのだから必然的にそうなる。

1910年に設立されたIPAに所属する分析家が増えるにつれて制度化は求められ国際規格の訓練の義務化が動き出した。1925年バート=ホンブルクBad Homburgでのコングレスでのことだ。IPAの歴史はIPAのウェブサイト、HISTORY OF THE IPAで読める。現在はEitingon, French and Uruguayanの3つのmodelがIPAのトレーニングの基盤をなす。ちなみにこれは地理的な区分ではない。この前史、つまり1925年バート=ホンブルク以前のトレーニングを巡る状況とバート=ホンブルグ以降、Eitingonが主導したトレーニング委員会(International Training Board (のちのITC)が成した仕事をレイ・アナリストの問題と絡めて論じたSchröter, M. (2002) Max Eitingon and the Struggle to Establish an International Standard for Psychoanalytic Training (1925-1929). が非常に参考になった(IPAジャーナル83:875-893)。こんな感じ↓で動き出したらしい。

A new chapter in the history of psychoanalytic training began in 1925 at the Homburg Congress with a ‘Preliminary discussion of the question of analytical training’, convened by Eitingon. This led to the Congress decision that all the branch societies should elect a training committee and that the committees should combine to form an ‘International Training Commission’, to act as the ‘central organ’ of the IPA for all questions relating to psychoanalytic instruction (Int. J. Psycho-Anal., 1926, p. 141).

ただこのこのPreliminary discussion予備討論やcentral organ中央機関の設立がいつ、誰によって構想されたかは明確ではないとのこと。草案から今に至るまでさまざまな経緯があるわけでラカンはフランスでその影響をうけたわけだ。

ちなみにレイ・アナリスト問題というのは常に重要で以前から何度か「素人分析の問題」が収められた『フロイト全集19』の月報で國分功一郎さんが書かれた文章を紹介してきた。今はブログでは読めなくなっているようだが昨年出版された十川幸司 、藤山直樹 編著『精神分析のゆくえ 臨床知と人文知の閾』(金剛出版)の第1章でより詳しく國分さんの考えを知ることができる。この本は精神分析家の藤山直樹先生と十川幸司先生が主宰する小寺記念精神分析研究財団の学際的ワークショップ「精神分析の知のリンクに向けて」を書籍化したもので第二回「『素人分析の問題』をめぐって」は第1章「素人分析の問題」で論じられているのでぜひ。

今日はイレギュラーな用事がある日。まだ少し風がひんやりだけど暑くなるかな。気温差に対応できないけど体調崩さないようにしたいですね。週の真ん中。なんとかなんとか一歩ずつ。

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雨、お菓子、ラカン

鳥ってまとまって鳴いたと思ったらすぐに遠くにいってしまう。南側の大きな窓から外をみたら向かいの家の屋根が濡れていた。窓を少し開けたら薄く濡れた屋根に水滴が跳ねているのが見えた。少しだけ降っているのね。この時期は雨は降るものと思っておいた方がいいね。梅雨がくる。

私は群馬育ちで伊香保温泉とかグリーン牧場とか(これは私の中ではセット。今だったらここに原美術館ARCが加わる)身近なんだけど温泉といえば温泉饅頭。伊香保だったら清芳亭の湯の花饅頭。うちはこれ一択でした。饅頭屋さんにも色々あって、と落語みたいな話をしたくなるのだけどとりあえず今は神奈川県足柄郡の温泉土産クッキーをいただいています。あと同じく足柄土産レーズンサンド。レーズンサンドというものがございます。これもいろんな土地のいろんな店がありまして、と落語的雑談がしたいのだけどあとで誰かとしませう。

週末は久しぶりにフランス精神分析に触れた。立木康介さんにいただいた『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(講談社選書メチエ)は最近読んだけど。あれもラカンの基本的な概念がわかりやすく取り上げられているのだけどフランスの精神分析家の論文を読むにはもっと基盤を勉強しないとダメだなと思ってちょっとずつまたラカンを読み始めた。私の持っている岩波書店のセミネール(これとか)はきれいなまま時を過ごしてきてるから途中のページでもパタンって開くくらいに読み込みたいですね、死ぬまでには。『精神分析の四基本概念』上・下は文庫で読めます。「四基本概念」って言い方、少し変だと思うのだけどそんなことない?

セミナーでも確認があったけどラカン派精神分析は診断カテゴリーを神経症、精神病、倒錯の3つに分けていて、神経症と精神病の違いは雑にいえば了解可能か不可能か、抑圧か排除か(本当になかったことにできてしまうのかどうか、対象がいるかいないか、備給の話、つまりナルシシズムとか転移の話)、空想か妄想か(外的現実の認識と象徴化の話)など。全部フロイトが基盤。ラカンの鏡像段階は有名だけどラカンは自我を鏡像的なもの、つまり想像的なものと捉えていてその起源を他者というかイメージにおいている。この時点で「現実」から引き離される。言葉が重要なのはその不在を埋めようとするから。言葉がいつも嘘っぽいのはそのせいというか現実に直接触れる言葉というものはないからなんだよね、みたいな理解でいいのだろうか。とにもかくにも同じ用語を使っていてもそれが意味するところ、しないところが異なるので勉強しないとなあと思った。でも以前よりもラカンを読むのはずっと楽でそれはフロイトをたくさん読んできたからだと思うんだな。とりあえずフロイトに戻らないことにはというのがラカンだもんね。今回はアンドレ・グリーンのウィニコットへのオマージュ論文だったからどうしてもウィニコットを読むということ自体も振り返らざるをえなかったな。フロイトを読むのとウィニコットを読むのはまるで違う。ウィニコットも「鏡」の役割を重視して有名な論文もあるけどラカンとは違うこと言ってるし大雑把に「にてるーおなじー」となりがちな私は気をつけないと色々見落とす。子供と遊ぶときはいいんだけどね。子供のざっくり把握能力ってすごいから。大人になるってなんだかね。でも言葉にばかり緻密で読み方とか書き方とか教えているにも関わらず全く幼児的な大人もいるから言葉だけの問題では全くないね。それにしても大雑把な把握は俳句とかに生かすべきだわ、と今思った。俳句は不在を言葉で埋めようとしない文芸だと思いませんか。精神分析も本来そうだと思うのだけど不在を実感するためにどうしても言葉が必要になってくるから難しいんだよね、きっと。俳句も難しいけど俳句でごはん食べてないからなあ。気楽だ。

今日は事務的な失敗で時間割かれないようにしないと。いつもやるべきことをやる前の準備段階で失敗や間違いをおかしてスタート地点に立つ頃には1日が終わってることが多いから。いつもこれでは本当に困るけど老眼も進んでるし明らかに認知能力が落ちてきているのを感じるからせめて丁寧にやりましょう。もう「そういうことあるよね」とかいうレベルではないもの。まあ色々大変だけど今日もなんとかとりあえず1日を。

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ホクホク、句会色々、孤心

今朝は新しいお菓子がやってきた。温泉のクッキーとかカステラとか。嬉しいな。

句会でホクホクして一日を終えようとしたらまた自分の間違いに気づいてしまいすぐにメール。はあ。本当にね。よくやってきてるな、こんなんで。どうにかなるといいのだけど。

こんなんでもなんとかなってきてるのは助けが多いから。いつも個人にも環境に助けられている。カラスが鳴いてる。どうしたのかな。どうもしなくても鳴くか。カメラオフのzoom句会でかわいい声が聞こえてマイクマークに赤い斜線が入る。「寝たはずの子が起きちゃって」「ちょっと子どもが」と小さい子どもがいると親は大変だ。最初からカメラオフにしておくのはいい設定だと思う。昨日は知っている子どもの声が聞こえた。もうすぐお誕生日だね。また遊ぼう。一緒に絵本も読もう。コロナ以前に私が立ち上げた句会は投句と選評だけ書き込みあう会。管理は持ち回りの当番制。その後「談話室」でやりとりすることもあるけど基本的には選評で対話している感じ。「夏雲システム」というオンライン句会のためのシステムを使わせていただいているがシステムのおかげで俳句を続けられている人も多いのではないだろうか。開発、運営を一人で担ってくださっている野良古さんには本当に感謝感謝である。私たちの小さな句会にも結社の枠をこえてひとり、またひとりと人が増えてきた。コロナ前は月1回対面で集まっていた句会はオンラインに切り替えて主宰不在のまま継続してきた。私は一度抜けさせてもらったけど再開。この句会はまだオンラインだけど吟行の企画が増えてきた。参加はできないけど吟行先と句会場所を聞くだけでも楽しい。私が出ている句会はやさしいというか普通に思いやりのある人ばかりで穏やかで言葉を大切にするホクホクした時間を過ごせるから新しい方もすぐになじめると思う。俳句は「座の文学」と呼ばれるけど大岡信が『うたげと孤心』(岩波文庫)で書いたように孤心を生きるものでもある。大岡信はこう書いた。

“それらの詩人たちとは、柿本人麻呂、菅原道真、紀貫之、藤原俊成・定家、松尾芭蕉、与謝蕪村、岡倉天心、正岡子規、夏目漱石、窪田空穂、高浜虚子、萩原朔太郎その他である。これらの詩人たちは、私の考えでは一人残らず「うたげ」の中で「孤心」を生き、 「孤心」の中で一人「うたげ」を主宰し演じることに長じていた詩人たちにほかならなかった。(中略)

 この人たちも皆、悩み多き自己分裂の生を生きたのだと思うことによって、私は少なからず励まされてきたと思っている。”

借り物の言葉ばかりで支持をあつめている人は孤心ではなく孤独だけどそれもずーっと続ければ虚構にはみえず無事に孤独を防衛できたりする。ある人が書いた言葉がそれを引用したある嘘つきな人の言葉として賞賛されているのをみたことがある。虚構のための搾取、と変に納得したけど悲しかった。「孤心」を生きるというのは自分の有限性を生きることでもある。精神分析は自分の言葉で話したい、と自分自身と向き合おうとする。それを自分自身に求める人は多くないが誰かの言葉や身体を食い物にしないための一つの方法ではある。

さあ、お菓子。食べるならこっち。もうだいぶ明るい。新しい一週間をどうにかこうにか始めましょう。

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テレビ、マクドゥーガル、軽薄さ

朝早くからテレビをつけてみた。大体の人が寝ているような時間に静かにであっても会話をしている姿をみてるとなんか奇妙な感じがする。みんなが寝ている時間ならひとりになれるから、と眠らない人たちもいるわけだから本来コミュニケーションの時間ではないのでしょうね。早朝だと普段は聞こえない電車の音も聞こえる。私はオンラインのセミナーも苦手でコロナ禍ではそういう勉強サボりまくりだったわけだけど関係があるんだと思う。自然を感じながら何かすることが子供の頃からずっと当たり前なんだと思う。授業中もずーっと外を見てたし。夜遅い読書会でみんながすごく疲れているのをみると自然でいいなあと思う。もう長い付き合いだからそういうのを取り繕う人もいないし変に興奮しないためにはフロイトを読むくらいがちょうどいいね、夜は。興奮そのものについて論理的に考えられる学問だしね。昨晩はこれもずっとやってるフェミニズムやセクシュアリティに関する本を読む会でジョイス・マクドゥーガルのTHE MANY FACES OF EROSを少人数で読んだ。関西の人と始めた会でこれはコロナ前からオンライン。今回はセクシュアリティに関する主訴を持つ患者をたくさんみてきたマクドゥーガルが珍しく事例を出さずにneosexualityという考えを提案する短めの章だった。この精神分析家が何を考えてこの本を書いていたのかがだいぶわかってきたかもしれない。臨床現場で出会うセクシュアリティの多様なあり方と現れ方を精神分析が得意とする「倒錯」という言葉を再考しながら記述する仕方はそんなに論理的ではなかったけどあまりの多様さに圧倒されながら臨床をしていたらこういう風にしか書けないかもしれない。色々話し合ったあとはそれぞれのみものをとってきてあれこれおしゃべりした。いろんな内緒話もできるし議論に載せる前の本音も色々話し合える大切な時間。みんな忙しいから2ヶ月に1回とかだけど。家では家での時間も大切だしね。リビングからつけぱなっしのテレビの音が聞こえる。NHK短歌かな。このあとテレビ体操があってそのあとNHK俳句。いつも見るのを忘れがちだけど今日は大丈夫そう。朝のうちにひとつ資料作っておかねば。こちらはなかなか気が重いけどはじめたものはやらねばな。軽薄さって責任をとる気がない、あるいはとれないことの表現だと思っているけどそういうのをひとつのエンタメのように楽しめる立場の人は気楽でいいなと思ってしまう。そのせいで蔑ろにされる性や生活があることなんて想像しなくていいんだもの。軽薄さがナルシシズムに基づく敵意の防衛でその空虚さはこちらが感じることになっているような関係性の場合、なかったことにされる、いなかったことにされる体験をたくさんすることになるのでこっちもおかしくなってきていつの間にかこっち「が」おかしいみたいになるから痛みに持ち堪えながらできるだけ正確に観察できたらいいね。マクドゥーガルを見習お。テレビ体操がはじまった。いつもみているうちに終わってしまうやつ。姿勢と呼吸がしっかり意識されているきれいな動きに見とれながらピアノの音にのってると終わっちゃうのよね。そんなこんなでも健康に気をつけて過ごしましょうね。どうぞよい日曜日を。

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テレビ、セルジュ・ティスロン『家族の秘密』

鳥たち元気。少しずつ明るくなってきた。さっき間近で高い声で鳥が鳴いて去っていった。

昨晩、ごはんを食べながらNHKの「スイッチインタビュー」と「超多様性トークショーなれそめ」を見た。二週連続みた。テレビは地震が起きたらつけるし日曜朝のNHK俳句をたまにみたりはするがほとんどみなくなった。近所の居酒屋がコロナ禍ではじめたテイクアウトを美味しくいただきつつ画面の中の会話を聞いていた。会話によって引き出されるゲストの体験や想いに笑ったり涙ぐんだりした。エンターテイメントだな、テレビ。人に歴史あり。カップルに、家族に歴史あり。

昨日から隙間時間はセルジュ・ティスロン『家族の秘密』(白水社)を読んでいる。訳者は精神科医の阿部又一郎さん。カミーユ・エマニュエル著『跳ね返りとトラウマーーそばにいるあなたも無傷ではない』(吉田良子訳)の校正に関わり柏書房のnoteで書評も書いていたのを読んだばかりだ。この『家族の秘密』もトラウマに関する本と言っていいだろう。精神科医であり精神分析家でもあるティスロンが家族の秘密を主にフランス精神分析にけるトラウマ理論とごく基本的な精神分析概念をシンプルに用いながら一般向けの概説書として仕上げた一冊らしく読みやすい。日本語版序文もティスロンによるもので2016年の日本・フランス合作の深田晃司監督の映画『淵に立つ』を取り上げ「秘密という牢獄」を家族という単位で描写した場合の一例を書いているがこれだけで重たい。精神分析は父、母、子供という三角関係を根源的な形とした秘密と傷に関わる学問であり治療法だ。秘密と思っていたのは実は身内だけですでに周知であり拡散されているような現代において秘密を「真理」ではなく「コミュニケーション」と対立するものとしてそのメカニズムを再考することはたしかに今まさに求められていることなのかもしれず「トラウマ」という言葉を安易に用いないことにも繋がるかもしれない、などとと思いながら読んでいる。

今日も色々大変だ。隙間時間に読むべき本はこれではないが届いたから読んでしまった。まずはやるべきことを、と毎日思いながら思うだけで日々が過ぎる。大変だなあ。自分のせいだけど。

今朝はなんだか寒い。気温がそんなに低いわけではなさそうだけど極度に寒がりな私は暑い日以外はほとんど寒さを感じているような気がする。この前も友達の中で一番厚着だったし。本当に三者三様の服装で体感温度の個人差が面白かった。ああ、窓の向こうのグレーの空をみながら梅雨も近いということに気づいてしまった。憂鬱。まあ、とりあえず今日を。みなさんもどうぞご無事で。お身体にお気をつけて。

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アナログ、グリーン、ウィニコット

なにがなにやらはらへりへりはら。いやお腹空いてないけど。AIとかなんとかいう前にPCだってこうやってひたすらフォーマットに書き込むくらいしかできないのにこれからやってけるのかな。直接人と関わる仕事ばかりしてきたのもそれしかできないからだね。はあ。調子良く原稿を集めたまでは良かったけど編集作業で切り貼りするだけで肩が凝りました。

昨日書いたAndré Greenの論文、ざっと読んだ。私の英語力のせいで全く別の意味にとったりしていないとしたらとても良い論文だった。まあ多少間違って理解していたとしても全体的にいい論文だった。私が日々格闘しているわからなさにとどまるためのヒントを与えてくれた。

論文はこれ。“The Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D. W. Winnicott”

やっぱりウィニコットが絡んでいると安心するのかな。基盤って大事だな。

アナログ人間の私には本当にそうだな!と思う文章もあった。まぁ、アナログの意味違うけどやはりフロイトのこの辺も追わねば。

“However, Freud had the courage to write, ‘Without metapsychological speculation and theorizing—I had almost said “phantasying”—we shall not get another step forward’ (1937a, p. 225). We cannot accept that our theories are fantasies. The best solution would be to accept that they are not the expression of scientific truth but an approximation to it, its analogue. Then there is no harm in constructing a myth of origins, provided we know that it can only be a myth.”

精神分析の世界では多分世界を離散的なものと捉えている分析家と連続性ありきで捉えている分析家の両方がいると思う。私は離散的なものとして捉えているしフロイト、ウィニコット、グリーンもそうなんじゃないかと思っている。時間についてどのような認識を持つかで治療者のありようは変わってくると思うのでその辺の議論ができたらいいな。

精神分析の目的は結局はこれ、とグリーンが書いているわけではないけどウィニコットを引用してこう書いている。

“Perhaps analysis only aims at the patient’s capacity to be alone (in the presence of the analyst), but in a solitude peopled by play (Winnicott, 1958).”

The capacity to be alone (WINNICOTT, D. W. 1958,1965)の引用ですね。邦訳は『完訳 成熟過程と促進的環境 情緒発達理論の研究』(岩崎学術出版社)の「第一部 発達に関する論文」の「2.一人でいられる能力」。

そういえば週末までにもう一本読まないとなのでは。がーん。もう週末じゃないか。どうしよう。とりあえず今日の分をやらねば。もー。

お寺の鐘がボーンってなった。

持っておきたいウィニコットの本
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精神分析の論文を読んでいる。

週末に向けてせっせと英語の論文を読まないとなのに読み始めると寝てしまう。面白くないわけではなくて英語だから。最近、老眼が進んで楽に読めないのに加えて英語を読むスピードはものすごく遅くなった。サボッテタカラナ。あー、珈琲飲むと暑いー。

読んでいるのはフランスの精神分析家アンドレ・グリーン。エピグラフはW.ブレイクとボルヘスの虎。これら本当にたくさん引用されるんだねえ。昨年はアメリカの精神分析家オグデンが詩を読むこと、あるいは詩のように読むことをどうしてそんなに大切にするのかに興味があったからアメリカ詩、イギリス詩を結構読んだけどブレイクのTigerはどの本にも出てきてた。朗読も結構きいた。イギリスの精神分析家ブリトンは『信念と想像:精神分析のこころの探究』でブレイクを引用しつつ結構紙面を割いていたと思うからそれも再読したいね。新装版も出たしね、と思って今調べたら2016年だった。あったあった。2章割いてる。

13 ミルトンの破壊的自己愛者,あるいはブレイクの本当の自己?
14 ウィリアム・ブレイクと知的自己愛

というかグリーンに戻らねば。読んでいるのは精神分析状況での患者の変化よりも分析家の変化の方に着目した論文。

the way that the patient enacts it and makes the analyst experience it. For, all things considered, there is change only to the extent that the analyst is able to understand such change and to report it.

これ大事。

あ、読み耽ってしまった。このペースで読まねば。

今朝はバターシュガーじゃない、「シュガーバターの木」のたっぷりショコラサンド「横綱」。このパサパサ感はコーヒーとよくあうけどなぜに「横綱」って名前にしたのかね。私さっき「紙面を割く」って書くのも「ページを割く」の方がいいかと思いながらもそのまま書いちゃったけどそんな感じ?

今日はすごく鳥の声が澄んでて響く。空がスッキリきれいだから?今日もすごい光。暑くなりそう。毎日「マジでふざけんな」と思うことに囚われつつどう行動していくかを模索しているのは相変わらずだけどやることはやっていかないとね。もうすぐ家賃の請求もくるし。なぜか引き落としじゃないから毎月毎月無事に払えることに感謝できるのは良いこと。がんばって論文読もう。精神分析実践ありきという態度を私は維持したいし。あるものはある、起きたことは起きた、ないものはない、なかったことにすんな(マジでふざけんな案件はこうしてちょこちょこ入り込んでくる)、「不在」という表現には期待が込められているといったのはグリーンだったと思う。グリーンはネガティブという表現を使う。そういえば十川先生の『思想』での連載はどうなったんだっけ。あれこそネガティブの話でグリーンとも関連づいてるわけだよね、と今思い出した。とりあえず取りかかりましょう。今日も暑さにバテない工夫してえっちらおっちらやりますかね。はあ、すでにバテている感じね、これだと。みなさんもどうぞお大事に。

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ムクドリ、にせもの、来し方

南側の大きな窓をスーッと開けたら涼しい風がスーッと入ってきた。よく滑る窓なので早朝は少し気をつけて開ける。今日はすごくすごく暑くなると聞いたからその前の風を感じておきたかった。コーヒーを飲むと暑くなるのはどの季節も同じだけど窓を開けっぱなしにできるのはいいね。

この前駅へ向かってたら大きな犬のいる家の植木から黒い鳥が飛び出してきた。オレンジ色の足と嘴。ムクドリ。鶴川から帰るときによくみるやつ。まずその声に驚きそっちを見上げたときの数に驚きそれらが飛び立つときの真っ黒ぶりに驚くやつ。駅前の大きな木をねぐらにしている彼らは夕方になるとその辺りにどんどんどんどん集まってきて何かいっている。多分みんな毎日のようにこの光景を見ているのだけどつい見上げちゃうくらいのインパクトがある。自然に対しては気づかないことはあっても飽きることはない。朝、小さな木から飛び出してきたムクドリのオレンジの部分は目をひいた。だからムクドリだとわかった。でも夕方駅前に集結する彼らのことは真っ黒っていってしまう。そうにしか見えてなかった。

昨日、鶴見俊輔を読んでいると書いたが『不定形の思想』もいいけどと『旅と移動 鶴見俊輔コレクション3』(河出文庫)に途中で変えた。島崎藤村を読んでいたはずなのに。この中に「キラーニーの湖──アイルランド」という題の文章があってそれが好き。トマス・ムーア(Thomas Moore 1779-1852)作詞の庭の千草」(原題はThe Last Rose of Summer)の思い出とこの曲のまがいもの性について。時間がないから引用だけしておく。日本国内旅するだけでもいろんなまがいものやにせものと出会うが鶴見俊輔が「忘れたくない」という想いはよくわかる気がする。

「トマス・ムーア原作、明治日本人翻案の「庭の千草」もそのひとつである。それらは、今は洗いだされたアイルランド文化の古型から見て、にせものだろう。

にせものをこえて、別のアイルランドへの道を見出せるのは、いつの日か。だが私は、にせものによってそだてられたものを忘れたくない。」

自らの来し方を振り返り、と書いて「来し方」って言い方はなんか膨らみがあっていいなと思った。ライルが『心の概念』の最初の方で「外的」「内的」という対比は比喩であるといっていたと思う。あの本は心の病理を描写することの難しさを教えてくれる。古田徹也さんのウィトゲンシュタインの本や日常言語学に関する本はここ数年、読みやすいものがたくさん出てるからそれらと一緒にライルを読むのもいいかもしれない。あの本は分厚いから挫折している人も多いみたいだし英語で読んだ方がわかりやすいという人もいたけどそれは英語で正確に読める人のお話。

さてまだ今朝やっておくべきことが終わってないのだった。がんばろー。暑さに気をつけて過ごしましょうね。

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藤村のいろはがるた、鶴見俊輔

まだ暗いうちから島崎藤村を読んでいた。つもりだったがいつのまにか鶴見俊輔を読んでいた。いつのまにか川の名前が変わっていたみたいな感じで無意識に流されるままに本を読んでいることがあるが私にとってこの二人は「かるた」つながりだからそこで自然とそうなったのだろう。

このブログはwordpressで書いている、といっても仕組みがよくわからないまま書き込んでいるが、もっと早い時間にこうして書こうとPCに入っているwordpressのアプリ(PCでもアプリっていうのか)を立ち上げたら立ち上がらない。Expired nonce.って出てきてしまう。なのでしばらく放っておいた。なんで今こうして書けるようになったのだっけ。なんか適当になにかしたらnew postという選択肢が出てきたからそれを選んだらこの画面が立ち上がった。また同じことが起きたときに困るが困るのは自分だからまあいいかとなる。雑文ブログは雑談みたいなものなので残しておく必要も特にない。

というわけで島崎藤村、鶴見俊輔を読みながら感じていたことをもう思い出せない。すぐにどこかへ流されていってしまう。

島崎藤村が『夜明け前』の冒頭で描いた木曽福島の関所の隣の高瀬家(こちらは『家』の舞台)で藤村のあれこれについてご親族の方から教えていただいたことはすでに書いた。そこで藤村のいろはがるたを知ったのだ。この内容が力が抜けていてとても面白かった。藤村記念館で販売していたから買えばよかったのだが案内してくださった高瀬家の方の特に強い思いいれがあるわけでもないよく知らないのだけどこんなのもあったみたいみたいな語りがいい感じでまあいいかと思わせたのかもしれない。買おうと思えばどこかで手に入るだろうというのもあったかもしれない。

なんだか眠くなってきてしまった。外はすっかり明るい。今日は晴れなの?なんだか暑くなりそうな光。

藤村のいろはがるたは馬籠のところどころで小さな街灯にデザインされていた。絵は岡本一平。岡本太郎のお父さん。鶴見俊輔はこのかるたを高く評価した。鶴見俊輔は「かるた」という論考で「概念」という言葉をきらい、その底にある「折り重なっている絵札」としてそれを描き出した。昨年、鶴見俊輔生誕100年ということでいろんな本が出たので興味のある方は「かるた」のはいっている本を読んでみてね。私が数時間前に再読していたのは『不定形の思想』(河出文庫)。奈良美智の装画が目を惹く文庫です。2022年は島崎藤村生誕150年でもあったね。

頭がぼんやり。眠気がきたり去ったりしてる。今日もなんとかやりましょー。

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誰かといながらひとりでいること

よく降りますね。ちょうど小降りになったときやちょうどの止み間に外にいられることもあってそんなに傘使っている感じがないのだけど今日はきちんとさすことになるのかな。保育園の子どもたちもお散歩行けないね。私が巡回する園は園庭がないところが多いからお散歩行けないと結構狭い場所にずっといることになって大変。雨に限らずコロナ禍も本当に大変だった。

長友夫妻に4人目のお子さんが誕生されたのですね。すごい。子供がいる人といない人のリアリティというのはまるで違う。どっちがどうとか、どっちだからどう、ということではなく子供がいるとかいないか、誰かと一緒に暮らしているかどうかはその人を理解するときの変数として大切。時間の使い方ひとつとってもそう。家に誰がいたとしても自分のしたいようにしているようにみえる人もいるけどそれだってその誰かがいるかいないかで気持ちのありようは全く異なる。妻に平然と嘘ついている人でも家にいてもほとんどオンラインの世界にいる人でも「家には妻がいるから」とかいう場合もあるでしょ。そういうときに「え、全然関わってないじゃん。堂々と嘘ついてんじゃん」「そんな負担なら離婚すればいいじゃん」と思うかもしれない。でもそんな単純なものではない、誰かと実際に一緒にいるということは。物理的に離れることでの負担軽減は本当に大事だけど。他人の生活には平気で侵入してひどいことしたりする人でも自分の時間を脅かされることには耐えがたくて、でもナルシシズムを満たしてくれる対象は常に必要だからせっせと社交していつもしんどいしんどいいっている人もいるでしょう。「嫌われたくない」と言いながら疲れ切ってしまう場合もある。スプリットという防衛機制できれいに葛藤をなかったことにする場合もあるけどその負担は相手が負うことになる。その人が楽なら、とみるか、「あなたは楽だろけどそれでまいっている人がいる」とみるか、これも関係によって同じ事態に対してであっても言うことは変わる。人間は一人では生きていけないので現実の人間との間には色々起きてしまう。そういうのが現実。痛み分けとかいっても痛みにも色々あるし。ウィニコットの「ふたりでいながらひとりでいること」の困難。誰かといることで生じる圧に対してどういう態度をとっているかを考えだすとまた「人間って」「私って」となるけど考えざるをえない。辛いことですね。

そしてついに木曽路のお菓子が尽きてしまいました。辛いことです。でもまたお菓子をいただきました。嬉しい。毎日「やっちまった」が多くて自分に嫌気がさすけど助けられる。色々めげつつもめげすぎない程度にチャージしつつがんばれたらいいですね。それでは足元やお身体にお気をつけたてお過ごしください。

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地震、漫画、お菓子

早朝の地震、大丈夫でしたか。千葉での地震、続きますね。早朝だと無理やり起こされたみたいになるしお疲れの人もおられるかもしれないですね。どうかお大事になさってください。

最近、SNSで同じ漫画が何度も流れてくるのだけど、最近ではないのかもしれないけど、出てくる部分だけ見るにストーリーの枠組みは三角関係とか浮気とか単純で普遍的なのだけどそれぞれの登場人物の視点ごとのバージョンがあるのね。あの漫画を提供している会社の縛りなのかな、そういう形式をとるって。想像力とかむしろいらないみたいな世界?人が二人以上いたらそりゃそれぞれは色々思うわけだけどその思いってお互いに影響されてぐちゃっとしてすぐにありがちなストーリーから外れるよね、実際は。ストーリーに閉じ込めるためには先に文字情報を与えてしまった方がいいのかもしれないけどどうやって読まれてほしいのかなあといつも思ってたんだ。

人が二人以上いたらぐちゃっとするのよ、どうしても。だから精神分析は転移逆転移を重要視するの。何かをこうすれば理解できるなんて方法はない。人はそんな簡単じゃない。でも想像力の欠如によって愛と憎しみが全く混同して捉えられてしまうとしたら「普通」と言われるものについて何かで学べるといいかもしれない。良質な文学を読むのもいいかもしれない。高橋ユキさんの本とかノンフィクションもとてもいいがあのぐちゃっとした行き場のない想いに囚われる現実と触れるのは困難もあるかもしれない。普通に思いやりのある人がそばにいつづけてくれる人が一番いいかもしれないけど「普通って何」ということばかりにこだわってしまったらそこからも学べない。難しいね、人間は。

さて、今朝のお菓子は中津川の老舗「すや」の「木曽路」。しっかりした生地に硬めの餡がぎっしり。桧笠モチーフなのね。妻籠宿や馬籠宿でも売ってたし被っている人もいた。私たちもその場しのぎの帽子を買ったけど桧笠を被ってもよかったかもしれない。

GW明けにどこかいくといろんなところのお菓子が集結してて楽しい。昨日は忙しくてとりあえず一番上に置いてあった箱のものをいただいたのだけどうさぎ!これ大好き。鳥取県米子市の定番土産「因幡の白うさぎ」。とっても美味しいし可愛いし好き。前にも書いたけど、ちょっとうさぎの耳が微妙よね。でもこれだけ白餡?黄身餡?をしっかりつめるにはふわっとしたうさぎじゃない方がいいもんね。しっかりした個包装に守られているし今回も美味しゅうございました。ありがとう。私も今度お茶会するから美味しいお菓子集めておこう。

またお菓子のこと書いちゃったよ。毎日色々あるけどせめて自然災害が起きませんように。みんなが無事でありますように。本当に願うしかないことばかりだけどやれることやろう。他人に巻き込まれながら自分を立ち上げていく、その中でやれることを見出していく、という作業を一緒に、私の場合は。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「実験」

時折強い風の音がする。嫌だな。雨がひどくならなければいいけど。

これが全部実験だったら嫌だな。実際そうだったのかもしれない。人体実験。向こうはこちらを使い、こちらはそれにのった。契約書のない契約。新しい環境に適応するためにがんばっているのを支えられたらと思った。居場所を失っているように見えた。使ってもらえる時間を作るために着々と仕事をした。自分の疲れは会えば自然とひっこんだ。「がんばれがんばれ」と大きな背中を小さくポンポンとした夏のことも覚えている。どうなってしまうんだろう、と感じながら、それまで経験したことのない不安と喜びと不気味さを感じながら。結局、実験にはならなかった。人をコントロールなどできないのだから当たり前だ。実験だと思えば少しは楽になるのかなと思っただけ。なるはずなかった。責任をとる必要のない肉体関係が想定されているらしいことを気づいていたけどまさか本当にそんな、というのはきれいごとで、そのまさかのこの人に人のこころなんてあるのだろうかと疑い、いつも不安を打ち消しながら過ごした。これは実験なんだから。最初から契約なんてないのだから。言葉なんて通じないのだから。自分を人間だと思うから苦しい。犬みたいに扱われたので「犬みたい」というと「似たようなもんだ」と言われた。上手に飼い主を愛せないとすぐ次のペットがほしくなっちゃう飼い主と一緒にいるためにはどうしたらいいのか。目的がすでに不毛すぎるが狂い始めたこころはそれに気づけない。言葉で主張したら悪意にとられる。理解が遅くても意地悪と思われる。怖い。ご機嫌でいてもらうために無理を重ねた。でも無理だった。もっとお手軽に利用できる幼くて依存的な相手ができたことにはすぐに気づいた。「○○パートナーです!」の「!」の軽薄さ。うんざりしつつも愛したが何も指摘されたくなかったその人はこちらをコントロールするために言葉を使い始めた。嘘をつかずに隠し事を続けているのだから後ろめたかったのだろう。言葉で言いくるめるのは得意技だ。地道にかけられてきた圧力の正体を見た気がした。やはりハラスメントやDVの構図を持っている人だった。それでも、それでも、と思ってしまう。ここで追い縋ってはならない。とりあえず逃げないと。相当なダメージに機能しにくくなっているこころを感じながらこれまでの言動と出来事を記録した。その人の親兄弟、今の家族に対する態度の幼稚さも裏付けとなった。それでも人間は愚かだ。傷が深くなって回復が遅れるだけなのにそんな人のことを考え続けることで時間を無駄にしてしまう。「実験」とかいって。愚かだ。

ああ、湧き上がる猛烈な怒りをこの風みたいに一気に振りかざせる形にできたらいいのに。怒りを言葉に置き換えられてもそれは鬱の始まり。深まるばかりの悲しみに動けなくなる。いつまでこんな地獄が続くのだろう。

などということをブコウスキーや川井俊夫さんみたいな荒々しさで書けたらいいのに。

雨はやまないらしい。窓を打つ音が聞こえる。風がないと雨音は静かだ鳥が一気に近づいてきて離れた。鋭い鳴き声。

GWは國分功一郎weekと書いたがひとまず今日でひと段落。インスタに何冊か読んだ本をあげた。読むべき本が溜まっている。私が國分さんを知りその運動と思考を追うきっかけとなった東京都小平市の都道328号線建設計画の是非を問う住民投票。あれから10年となるのに合わせ、今日の午後、小平では玉川上水周辺の環境保全を考えるシンポジウム「小平の玉川上水の自然が危ない」が行われるという。市民団体「みどりのつながり市民会議」共同代表で市議でもある水口和恵さんが「住民投票十周年に改めて328号線計画を考える」、麻布大いのちの博物館名誉学芸員の高槻成紀さんが「小平の自然の豊かさと道路による分断の影響」と題して講演すると東京新聞に書いてあった。ここに名前は上がっていないが國分さんも少しお話をされるという。後日配信もされるらしいのでそちらもチェックしたい。

いつも通り眠れないまま朝を迎えてしまった人もいるかもしれない。起き上がれないなら起きたままでという人もいるかもしれない。それでも、それでも、とやっていくのかな、今日も。とりあえず委ねてみようか、というか疲れ切ってそれしかできないかもしれない。どうか今日もご無事で。先のことはわからない。ただそれだけを忘れずに。

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精神分析

出会い、仕事

たまたま入った店でなんとなくの会話がはじまる。私はどこへ行っても話しかけられやすい。小さいからだろうと思う。おかげで思いもよらなかった話を聞かせてもらえたりする。ある程度まで受身的に聞くが興味の程度によっては取材態勢に入ることもある。旅に出れば不思議なこと、意外なことがたくさんある。聞かされるまま聞くのも面白いし自分からきいていくのも面白い。

「老舗でね、手広くやってきたわけではないけど地元の人はみんな知ってる。でも先代が病気になって休まなくてはいけなくなってしまって」とお話を聞いたのは酒造会社の人。長く酒造りに関わってきた人のリクルートに成功し店は残ることになったという。たまたま通りがかった小さな倉庫で試飲させてもらった開けたてのお酒はラベルもかっこよくまだ発泡酒のような味わいもあり海外にも日本酒の良さを知ってもらいたいという願いがあるそうだ。様々な緑に囲まれ柔らかな湧き水に恵まれたこの土地のこのおいしさ。説得力があった。移住してまでそこを継ぐ決心をするにはそれなりの勝算が必要だろう。東京でもいずれと話して倉庫を出ると車から夫婦らしき人が降りてきた。背中で聞いたやりとりはそこがすでにその土地に根付いてることを感じさせた。

それにしても話を聞かせてくれたその人は誰だったのだろう。土地の説明がとても魅力的だった。先代の若い親族だろうか。話を聞きながら関係性を掴めることも多いがそのときはわからなかった。

昼に入った蕎麦屋の人とは掛け合いが楽しかった。早めの時間だったがすでに蕎麦が足りないから20分ほどかかるという。全く問題ないので入ってキョロキョロしていたがその人の仕切りのうまさに感動した。そして絶妙に押しが強い。つい相方みたいな反応をしてしまった。みんなで笑った。地元のご老人の居場所にもなっているらしく一度出て行ったのにすぐ戻ってきて話し出す常連っぽい方に「今日はお客さん多いから今度聞く」という。が、通じない、というよりその方には伝えたいことがあるらしい。その場だけ聞いてるとなんのことか全くわからなかったが「わかった、〇〇さんに伝えておけばいいのね」といいその方はニコニコウンウンと頷いてでていった。

駅で荷物を預ってもらったがそこの人も蕎麦屋の人とよく似ていた。押しが強い。そして教示が的確。

直接的に人を相手にする仕事は瞬間の手続きの連続だ。頭で考える時間などないことの方が多い。彼らはそれぞれ達人だった。

その土地で仕事を得たり続けたりしていくことがどれだけ大変かはわからないが決して気楽ではないだろう。選択肢も多くはなさそうだ。でも少なくとも彼らは相手を個人としてきちんとみていた。障害のある人への関わりを見てもそう思った。

今日はどんな人と出会うのだろう。出会っても出会わなくてもいい一日になったらいい。みんなも。

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散歩 精神分析

富士山

富士山が見える駅には「晴れているとこちらから富士山がみえます」とか書かれていることが多い。こちらは晴れていてもあちらがという場合もあるしお空事情は色々だから見えない時もあるし「こんな隙間からこんなきれいに!」と意外な場所から意外な富士山を発見することもある。「富士見」と名付けられた場所にも「昔はここからきれいに富士山が見えました」と書いてあったりする。もちろん今でもきれいにみえる富士見ヶ丘とか富士見台とか富士見町ととかもある。かろうじて富士山が見えるポイントに人々がたまっていることもある。富士山すごい。

春を巻き戻したような土地で桜やハナミズキや藤と出会い直した。毎年季節が進むのが早くなっているように感じる。

今朝は早朝から散歩へ。行ってきます。

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精神分析

GW

鳥の声がじゅわって聞こえる。重なって鳴いてる。今日もあったかそう?昨日は朝寒い!となったけど「暑くないの?」と言われた。十分あったかい格好してた。なんかパソコンの調子が悪いなあ。候補生の会のニュースレターの基盤はできたけどここからなのに。でも原稿もたくさん集まって読み応えあるものができそう。投句の締切は今日か。あー。集める方はできても出す方はダメね。あー。こうして書いていくとやらねばならないのにやっていないことに気づいてしまう。提出期限過ぎてたりして。あとで確認しましょう。これはすぐ書き終わるからね。

1日の終わりにみる動画があるのだけど毎日それがUPされるかどうかはわからないの。それはそれで楽しみだけどUPされてないとやっぱり残念。でもまた明日、と思う。

お笑いのライブに行った。これは私にとってすごく非日常。句友たちはお笑いにすっごく詳しくて私のお笑い情報はほぼ彼らのツイートから成り立っている。芸人さんってただでさえ変わった名前つけてたりするじゃない?それを略されたりするといよいよそれは物?人?というところからになっちゃうけど一度ライブにいくと一気に身近になるね。コロナ前にみたもう顔の筋肉が崩壊するような笑いはなかったけどほんわかしつつすごいリズムのいいショートコントですごい!と思った。また行きたいなー。お笑いは夜遅くまでやってたりするよね、たしか。寄席も行きたい。

今日から連休ですね。みんなはどうやって過ごしますか。はじめての何かをする人もいるかもしれないかな。はじめての場所にいく人は多いかもしれないですね。それが近場でも遠方でも良い出会いや発見があったら嬉しいかもね。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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精神分析

GW,國分功一郎week

GWは國分功一郎weeeek。隙間時間は全部國分さんの本を読むぞ、久しぶりに、と思ったけど『スピノザ 読む人の肖像』(岩波文庫、2022)に苦戦したばかりだった。全部は見られていないけど「國分功一郎の哲学研究室」も購読しているのだった。毎回動画とテキストの二本立て。映像と言葉、見ると読む体験の両方。見て、読んだ範囲では全て面白かったし心動かされた。國分さんの話は巻き戻して(ネット上では巻き戻してとは言わないか)何度も聴きたくなる。早送りも倍速もできない話し方。すごく音や映像にもこだわってその道のプロから教えてもらったり本を読んだりしたとおっしゃっていた。そんなに仕事してるのにこっちもなんてそりゃ体調も崩すよ、という徹底ぶり。たしかに最初に見たとき「おー」と思った。これは新しいなと。You tubeではないのがとてもいいと思った。國分さんはずっと同じテーマを具体的な問題とともに追い続けながらいつも新しい哲学の表現を模索している。こういう実践がまた理論に影響を及ぼすのだろうね。

國分さんの新刊はコロナ禍で行われた東大での2つの講義を収めた本。『目的への抵抗ーシリーズ哲学講和』(新潮社、2023)。すぐに忘れる、すぐになかったことにする、すぐに経験を知的なものへと変換してしまう私たちだから今すぐに読んでおきたい。経験が近いうちにあれこれあった日々を何度も体験し直しそこから考えていく必要がある。

今ちょと眠ってしまった。友達とイベントへいく夢を短時間ながらみていた。夢の中でも「ここで食べられるお菓子」みたいなお菓子のことをスタッフの方に教えてもらい隣にいた人たちにも聞いたばかりのことをもらった地図付きで教えている夢だった。横浜の方のイメージだったな。いつもの自分じゃん。しかし不思議な階段だったな。

そういえば國分さんはデカルトのことがものすごく好きなんだね。『スピノザ 読む人の肖像』とその元になってる博士論文『スピノザの方法』を読みながら思った。國分さんの講義を受けているときはドゥルーズ、スピノザのことは頭に残ったけどデカルトは残っていなかった。國分さんはその時点での考えに至るまでの思考の流れを丁寧に話してくれるから絶対出てきているはずなのに。

國分さんは実践を大切にしてくれる(精神分析実践のことも)哲学者でご自身も本当に大きな実践をされてきた。私が國分さんのことを知った道路問題についてはこちらの本にまとめられている。『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎、2013)。私が理事をしていたNPOで國分さんをお呼びしてお話聞いたとき、私ははじめてその地域(千葉県松戸市)も似たような問題を抱えていたことを知った。それまでずっと一緒に活動してきた地域のことなのに聞いたことがなかった。こうして許可なく自分たちの私有財産が侵害される怒りややるせなさについて語る機会があってよかった。民主主義的な決定とは何か。そこに本当にプロセスなんてあっただろうかなど『近代政治哲学 ー自然・主権・行政』(筑摩書房、2015)と合わせて読むのがおすすめです。

ということで久々にお会いしたい國分さんのご著書からまずは、ということでなんとなく書いてみました。もう西の窓も明るい。大きな窓の方はどうかな。チョコは部屋に置きっぱなし。まだ溶ける季節ではない。塩山の和菓子と洋菓子風和菓子の2種類を半分ずついただくことにしましょう。明日からまた連休ですね。まとめてお休みをお取りの方もそうでない方もどうぞ良い一日をお過ごしください。

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消費、礼、花すること

紅茶美味しい。とってもいい香り。東の窓は明るくなってきたけど西の前はまだね。鳥は明るい方から鳴き始めるのね。暗くなったら寝て明るくなったら起きる。ここが明るすぎない街でよかった。

中島隆博先生がマルクス・ガブリエルと対談した本のなかで、なんていう本だっけ。そう『全体主義の克服』。調べました。集英社新書から2020年夏にでた本。すでにパンデミックについても語られていました。この期間、コロナとは関係なく亡くなった知人が数人いるけど「関係なく」なんて簡単にいえないのかもしれない。そうだ、中島隆博先生がその本の中で「花」について語っているところがあるの。どこだろう。あった。思ったより後半194ページ。全251ページの本なの。中島先生がそこで「中国語の「花」は動詞でもあり、何かを消費するという意味があります。中国語の「花時間」は時間を消費するという意味になります。」と書いているの。下北沢にVoleur de Fleur「花泥棒」という喫茶店があるのだけど時間泥棒という意味でもとれるね。私が下北沢に通っていた頃からずーっとあるんじゃないかな、あの喫茶店。素敵な名前で全然悪い意味とは思わないけどこの「花」に含まれる「消費」はその言葉のイメージ通り基本的には悪い意味なんだって。でもアリストテレス哲学が提示する「エネルゲイア」(現実活動態、「キーネーシス(運動)」と対比されるもの)というのは種子から開花へのプロセスで「エネルゲイアの状態になる花は、結果的に実を結ぶことがあるにせよ、定められた目的のために咲いているわけではありません」。理由も根拠も目的もなし。でも咲く。そして朽ちる。消費ってなんだろう。倫理的な消費ってありうるかしら。中島先生は倫理と弱い規範である「礼」を結びつける。「人間的に花すること(human flowering)」ってどんなだろう。状況依存的なもの、つまり偶然的な出来事を受け入れていくプロセスと理解しているけど。常にあるのは結果ではなくプロセスだとも。國分功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』の中で「消費」と「浪費」を区別したよね。GWは國分功一郎×柄谷行人読書週間として色々読んでる。柄谷行人の新著『力と交換様式』(岩波書店)をしばらく前にもらったからそれを読もうと思っていたのだけど見当たらなくて。どこへ置いたのかな。まあいいかと國分さんが取り上げていた柄谷の昔の本を読んだりしていた。それでパンデミックのこととか気候変動のこととか空とか花とか法則性とか複数性についてバラバラと思い浮かんでとりあえず思い浮かんで残っているものがホワホワとつながって中島先生の言葉を思い出したのね、多分。

チューリップで有名な公園へ行った。すでに花は咲き終え切り取られていたけどとてもたくさんの茎と葉が残っていて色はわからないけどそこにあったであろう景色を想像させてくれた。チューリップのあとにはたくさんのポピー、ネモフィラ、シロツメクサ、それらを取り囲むいろんな緑の木々、春から夏へ少しずつ季節は動いてる。春とか夏とか名付けること自体も大事だったんだよね、きっと。どうするのかな、私たち。どうなるのかな、私たち。國分さんや中島先生の本を読むと無自覚でいないことで体験される切迫感も感じるけどそれを否認せずそこにいつづける仕方も教わっているような気分になるんだ。今日は月曜日。5月になっちゃった。どうぞご無事で。お元気で。

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精神分析

雨、卓球、防砂林

やっぱり雨やまないよね。あーあ。鳥は鳴いてる。雨でもいつも通り。人間は雨で予定を変えたりするのだけど鳥たちはどんなですか?

久しぶりに卓球をした。ほめられた。スタミナがあるという褒め言葉が嬉しかったことが新鮮だった。そんなもんとっくになくしてたかと思ってた。結構上手だったので習いたい。すぐこうなる。バドミントン部のとき、コーチにまともなフォームを教えてもらってからしばらく全く打てなかったのでやるなら最初から正しいフォームでやりたい。精神分析も結局同じなんだろうな。私はオーソドックスな形をまずは身につけることを大事だと思っているのだろう。

以前、多分青森のホテルに泊まったとき、卓球ルームがあり、というか当時は卓球台を求めて宿を探していた時期かもしれない。そこはすごかった。選手みたいな格好をした娘が父にコーチされてたりやたら上手い人が多くて卓球リーグ上位校の部活に紛れ込んでしまったみたいだった。楽しかったなあ。

今、お家みたいな宿の卓球台を思い出したのだけどあれはどこだったのだろう。萩かな。あれはどこだったのだろうと何度も思い出す宿で聞けば「ああそうだった」となるのにこうして毎回忘れる。また「ああそうだ」となろう。そのうち聞いても「そうだっけ?」とかなるのだろうから。

海に近い道路には防砂林らしき高過ぎない木が立ち並んでいた。あれはなんだったんだろう。地面の方は野趣溢れるムラサキツメクサたち、あの白い花はオオデマリ?オオデマリは低木だと思うのだけどあの高さまで行かない?低木って何メールまでを「低」とするの?これもあとで聞くか調べるかしましょう。そのときは一緒にいる人もわからなくてただただそれらの野性味に驚いていた。花や木をみていると「これってあのときのあの子?」みたいな驚きがたくさんある。人間と違って逆順もあるしね。逆というか生まれ変わり。循環。人間も私が死んでもどこかで次が生まれてると考えれば循環。少子化は深刻な問題よね。

今朝は再びお菓子天国の我が家。再び塩山の和菓子屋さんのお菓子。嬉しいな。外の風の音が安定しないなあ。風の音が安定するなんてことないか。常に強弱あるものね。雨でもいいけど風は嫌だなあ。まあ美味しい緑茶をいれてのんびりお菓子食べることからはじめましょうかね。みなさんもどうぞお気をつけてお過ごしください。

あとこちらは雑文ブログですが、オフィスのウェブサイトも更新しました。よろしくお願いいたします。

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精神分析

習慣とか

カラスが鳴いて小さな鳥たちが鳴きはじめる、という順番に思えるのだけど違うのかな。なんかいつもと違う感じの鳴き声が聞こえるけどどなたかしら。

以前その地域で間借りして面接をしていた頃、隙間時間によく行っていたビルへ久しぶりにいった。かわいいものがたくさんでウキウキした。オフィスのある初台になんの不足も感じないけどインスタで目にするようなものたちが実際に並んでいるとどれもこれも目新しくはじめて東京に出てきたような・・・と思わず書いたけどはじめてはどうだったかな。当時、群馬から東京入りするというのはまずは上野駅に到着するということであり、そこからお茶の水へというのが私のはじめての東京。家族でなら毎年後楽園に野球にきてたから水道橋だけど。3月に千代田区のギャラリーへ行ったついでによく泊まったホテルのあたりを歩いた。当時私が少しドキドキしながらした寄り道の距離の短いこと!知らない道を延々と走っても見晴らしがよく、少しのランドマークで戻ってこられた田舎とは違う景色に警戒していたのだろう。立ち並ぶ高めの建物に挟まれた道路、つまりは普通の住宅街の道だが、とまで書いて携帯をいじったらそのまま『ゴリラ裁判の日』を読んでしまっていた。著者は須藤古都離、ことりさんって読むのかな。講談社から。はじめての東京がいつのまにか最も長く住んでいる場所に変わったがいまだにキョロキョロして過ごしている。群馬と比べると視界が狭いのだ、やはり。視線が「その先」を見ることができない。老眼も進んでいて本を読むのも苦痛だがこうしてなんとなく読み始め気づいたら読み耽っているのは習慣だからだろう。東京は変化が大きく習慣は個人のものな気がするが田舎はまず自然に規定されるものとしてあるような気がする。久しぶりに寄ったビルは上の方の階にはあまり人はいない。ギャラリーも無料なのに誰もいなかった。フラッとよると受付の人にわりと遠くから挨拶をされたのでお辞儀をかえした。眺めながらそこに置いてあるものたちの関連性を考えていたらしく、いまやすぐそばにいる受付の人の視線を受けて尋ねてみた。この距離でそんなふうにみられたら言葉で距離をとるかそそくさと出ていくかしかないが私は言葉で。これとそれには関係がなかった。びっくりと納得と。なぜそうなっているかといえば、という説明を聞いてはじめて知ったのはギャラリーの運営をする会社のこと。そうか、どの建物にも管理者がいるもんね、など展示の中身よりも箱に関するお話を色々伺って「もっとゆっくり手に取って」と言われたが時間調整で少し寄っただけだったのでお礼を言って次の場所へ向かった。本の話はやはり盛り上がるな。

今日は何を食べようかな。耐え難い苦痛や行動化への衝動から身を守ってくれるものがあるとしたらその一つはやはり「習慣」だろう。外に光が増えてきた。今日は一日お天気なのかな。みんなはおやすみ?おやすみの人もそうでない人もどうぞよい一日をお過ごしください。

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塞ぐことなどできないし。

真っ暗。というのは外のこと。外に出たらでたで真っ暗ではないのだろうけど。コロナに振り回される生活を送ってきた人もコロナ禍であろうと以降であろうと変わらず人の心と体をもてあそんでいた人も同じように自由や倫理や生活について語ってお金をもらえるのが世の中。戦争を教えない教育になるわけだ。この人はこんなこと言ってるけど本当はそんな生活していないどころか他人の身体傷つけて他人の生活脅かすような人だけどね、ということを日々の生活から学んでいる子供も大人も多いから救いがないけどなんでも明るくポジティブに語ることが大事だもんね、「前を向こう」だっけ?私は全然そう思わないけどそうでもしないと辛すぎるのもまた事実でしょう。起きたこともそれに伴う気持ちもただそのまま言い伝え続けることをしようとしても辛すぎてできないものね。平然と棚上げし忘れることができる人の実際を伴わない自分語りが耳障りいいのは当たり前。当事者にならないですむから。もちろんそういう人がいる一方で当事者はいるわけだけれど。マスクをしてもサングラスをしてもノイズキャンセリングのイヤホンをしてもオイディプスみたいに目を突き刺しても目も耳も心も塞ぐことなどできないなかなんとか生きてきた人たちと毎日毎日会って話を聞いている。怒りや悲しみに耐え難い雰囲気になることもある。一緒に笑うこともある。沈黙のままなこともある。口を開いたら何が起きるかわかってる、反復を恐れる。実際似たようなことは起きる。それでも時間がくればお金の受け渡しをして別れる。そしてまた会う。それでも人を喰い物にしてと言われることもある。実際喰い物にされた経験があるひとは特にそう思うだろう。人って平気で嘘をつくし、喰い物にしといて喰われたお前が悪いこんなまずいとわかっていれば喰ってなどいなかったお前なんか喰ったと思うと後悔しかない、とか言える人がいる生活を生きざるをえない場合もあるのだから。単に快不快で生きてるだけではと言いたくなってもだとしたらどうしてそうなったということを考える。因果関係を探すというより事実の描写を積み重ねていく。今ここを反復を共にする場として立ち上げていく。外側からわかったようなことをいうことが必要な局面もあれど大抵はそんなお気楽さは求められていない。現場にいるってそういうこと。葛藤なき快不快原理で生きる「賢い」消費者にならないように、戦争だってそのまま語り継いでいけるようにと願うけどどうしてもそうなってしまったりする毎日。自分のことがもっとも疑わしいからこそ目の前の人間関係にとどまる。感じたり考える力を奪われる出来事に本当に死んでしまうことのないように切実さに開かれる誠実さを。それを支えてくれる環境を、と願う。

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チョコ、同一化、四月は三十日まで。

夜中にチョコ。いつも遅くまで仕事してるから夜ごはんも遅い。なのでおなかが空いているわけではない。でもね、甘いものは別。うちでの作業には常に必要、ということで暗いキッチンで冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中はいつも明るい。閉めると再び暗くなるのでしょう?どーもどーも。ありがとう。起こしてごめんね。おやすみなさい。今日は朝食べたいお菓子がないことを知っている。さっき目を覚ましてぬくぬくしながら最初に思ったのはそのこと。また夢を忘れてしまった。おみやげのお菓子も尽きてしまった。いや、ある。もったいなくて開けていないドライフルーツが。ドライフルーツって苦手だったんだけど紅茶屋さんとかのをもらうと美味しい!ってなる。その紅茶屋さんのをもらった。でももったいない。あと1,2時間後、果たして私はそれを開ける決心をするのでしょうか。

何もないなあ、とか思いながらも冷蔵庫を開けるのはそこにいつもチョコがあるから。特にGODIVA。1年に2、3回海外から帰ってくる親戚がいつも定番GODIVA+何かをくれたり、友人がカルディで珍しいものがあったからとくれたり、チョコはちょこちょこもらうから結果的に常備。朝はチョコ♪チョコチョコ♪とはならないけどまだ暗いうちの一粒はいいかも、と上品な並びから一粒とる。それにしても「朝はパン!パン、パ、パン♪」みたいに[m] [n][ŋ]か、あるいは[ɔː]みたいな音がないとこのリズムとるの難しいのかな。チョコの「コ」は跳ねる感じも伸びる感じがないしね。朝のお菓子は半分に切ることが多いのだけど夜明け以前にいただくチョコをちょこっとかじってみる。あれ?切れない。キャラメルか。手を口元から離してみると断面が2層になっている。キャラメルとなんだ?ココア?色が違う。お菓子は断面をみて感動することが多い。チョコはあまり包丁で切らないけどキャラメルだと切りにくかっただろうな。口の中をしばらく甘くして楽しんだらノンカフェインのレモンティー。世の中には本当にいろんな飲み物があるね。

そうだ。先日個人での開業を考えている昔からの友人がオフィスに見学に来てくれたときも街の素敵なお菓子屋さんのチョコをくれた。色や形も繊細でかわいくてとっても上品な甘味だった!こちらももったいないので少しずつ少しずつ。Merci! 久しぶりにいろんな話をゆっくりできて嬉しかった。Chocolatierにもメルシー。美味しすぎるから大切にいただきますね。カフェもあるらしいので行ってみよう。

またお菓子のことばかり書いてしまった。昨日、ある食べ物ツイートをみてフロイトが記述したいくつかの同一化の型を思い出していた。唐揚げ大好きな小さい子が「大きくなったら唐揚げになる」と言ったりする段階があるけど、「あーこの人はこういうものを食べてその欲望のまま振る舞っているわけか。身体には不健康で欲望に忠実という意味では精神分析的には健康、いや行動化はどうだろう」とか。以前セミナーで同一化について話すときにまとめた資料をあげておこうとパソコンのなかを探したけどなかった。なぜー。そういうの多いのだけど整理が悪いのがいけないのよね。もっと工夫しないとなんだろうけどフォルダ作ってもそこに入れるのを忘れちゃったりするからだめね。

昨年の学会で指定討論したものを原稿にしないといけない。後期ビオンと後期ウィニコットから学んだことについて。私は主にウィニコットの側からan incommunicado/isolate self that is non-communicatingのことを。勉強しなおさないと。

あーまた四月中にやらねばならないことを忘れていた。今思い出した。四月って何日まで?三十日か。そりゃそうか。あー。なんとかなりますように。今ここにいる気がしないやる気ある自分が戻ってきてくれますように。そんなときがあったかどうか覚えていないけどきっといる。きっとくる。きてください。みんなはどうかな。今日は雨靴じゃなくても平気みたい。もう明るくなってきた。鳥たちもおはよー。もうすぐ立夏だ。気温も気圧も身体にくるけどお大事に過ごしてくださいね。

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精神分析

Reading Freud、初回面接検討グループ

ふー。身体がバキバキ。顔が腫れてる。昨晩は少し冷えましたね。もう24日。困りました、といいつつ隙間時間は散歩電車散歩の日々です。

私主宰のReading Freudは新規メンバーを2人お迎えして4人で始まりました。5人でやろうかと思ったけど私のオフィスのサイズ的にも進行的にも4人がちょうどいいみたい。ウィニコットやクラインは読んでいるけどフロイトは…という人はそれなりにいるみたいでたしかにあまり読んだことがない人がフロイトを読む様子をみているとフロイトの書き方も書いていることも難しいのかもしれないとも思うけど読み方のせいもあるかもしれない。フロイトは精神分析の創始者なので自分がしていることを科学として基礎づけるために多彩な先行研究を引用しつつ「こんなことは誰々も誰々も誰々も言っていて自分はこの人のを採用するけどそれでもそれだけだと十分じゃなくてと」と論破しつつ臨床体験を構成するものを探求していくことを自分の理論に対してもずーっとやり続けるから『夢解釈』なんて20年にもわたって加筆修正が続けられている。最初は何言っているかちんぷんかんぷんでもあまり構えずに学会発表を聞くくらいの感じで聞くように読めるといいかもしれない。学会だとどんな難しいこと言われてても本を閉じるように出ていっちゃったりしないでしょう。まずはその場でフロイトの言葉を体験し続けること。このグループは1パラグラフずつ順番に音読していくものなので他人の声で聞くという体験ができるわけだしね。がんばろ。

初回面接を検討するグループは3人グループ×2。昨年度と同じメンバーで。みなさん初心者ではないので基礎的な型は身についているわけだけどどうして自分がそれをしているのかに対してあまり意識を向けていなかったりする。なのでそこを検討しつつ型がなぜ型として成立しているかに立ち戻る。自分がやっていることをメタでみるって本当に難しいけどグループでやると自分では到底気づかなかったことに気づいて驚いたりその驚くということがどういう体験なのかも身をもって吟味できるし楽しいですよね。

さてさて身体も温まってきたことだし今朝は何をいただきましょうか。かわいいういろうのお土産がまだあった気がする。眠くて眠くて眠いけどなんとかしましょう。みなさんの色々もなんとかなりますように。

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精神分析

不器用、忘れっぽさ、優しい人

緑茶、友達がくれた紅茶、いつものコーヒー、特別なコーヒー、普通のリプトンはもうなくなってたんだ、そういえば。急に商品名を書いてしまった。個包装になっていない紅茶がいっぱい入ってるお得なパックみたいなあれ。最近紅茶をいただくことが続いていたから忘れていた、なくなっていたの。洗濯物をまず干さねばなるまい。その前にコーンスープ。今日はあまり飲みたいものがなくて粉末にお湯を注いで15秒だっけ、混ぜるだけのコーンスープ。粉の入ったパックとパックを切り離すとき点線を変な方向へ引っ張らないように注意せねば。不器用な人はほんと小さなことに意識向けなくてはなのですね、こうやって。私はいつも混ぜ方が適当なのだけどカップの底に残る小さくでろんとしたダマも好きだから敢えてってこともあるかもね。そんなに意識してやってるわけではないから個人的には怪我の功名。不器用さ、適当さにため息つかれたり呆れた顔されたり悪意と受け取られたりすると本当に悲しいけどそう受け取ってしまう人には人の事情や性質が、とも思う。でもやっぱりとっても悲しくなるし気をつけなくちゃって方に注意が向いちゃって余計に「失敗」しちゃったりまた冷たい視線向けられたりほんと一瞬一瞬負担が増えても曖昧に笑うしかできなかったりそういう雰囲気をどうにかしようとしてさらに空回りしたり悪循環ってちょっとしたことで始まって加速するから本当に難しいよね。小さい子が叱られているときに周りに注意が向いちゃって「こっちみて!」って怒られている場面に出くわしたりするとそれ以上注意がそれないようにこっちがそっちに注意を向けないようにするとかしちゃうもの。お互い辛いでしょう、怒る方ももう止まらなくなってしまうのだろうから。

涼しい風がスーって入ってくる。時折ギュンって風が渦巻くような音が聞こえる。今日のお天気はどうかしら。昨晩は帰り道少し雨に降られてしまった。朝、電車の電光掲示板っていうのかな。車内で天気予報が出るじゃないですか、あれで新宿は夜は雨のマークでもっとも雨に弱いスニーカーを履いてきてしまったよ、でも帰り道ならまあいいか、と思ったのだけど予報自体を忘れていた。オフィスに傘をとりに戻るのも面倒だから小走りで駅へ。電車に乗ってうちがある駅へ着く頃にはやんでいたのでした。何粒かあたった気はするけど。

昨日、日記を書いた。色々忘れてしまうので記録しておこうと思って書き出したら日記になった。ipad miniのカバーを買わねば。もう結構ボロボロ。日記を思い出したら買わねばならないものを思い出した。これもずっと頭にあるのに忘れてしまうのよね、何度も思い出すんだけどお店を通り過ぎるときには忘れてるの。変なの。私が?私か。日記にもこんなこと書いてある。

“電池単4を買うこと。このキーボードのために。電池のサイズが1と3以外よくわからない。4も結構使う、こうして書いてみると。今忘れないうちにと思って書いたがSlackに新しい方達を招待するのもこのブルートゥースキーボードに慣れるためにやっておくべきだろうか。このキーボードのための電池。もう一つのキーボードは電池式じゃないけど充電が完了すれば使えるようになるだろうか。どうしてこの二つを買ったんだっけ。多分ipad miniのためにネットでしらべてAmazonで買ったのだけどBluetoothって何という状態だったか今日ようやく使ってあげられたことになる。多分Wi-Fi環境が整っていなかったから使いづらかったのだろう。”

これは日記なのか?忘れ物をしないために色々書きつけているだけに見える。今載せちゃったっけど公開するものでもないからブルートゥースとかカタカタで書いてるね。二度目は自動変換に気づいたから変換したのだけど最初は気づく前に確定しちゃったの。でもキーボードが無駄にならなくてよかった。

今日は何を忘れるかな。もうね、こう言いたくなるくらい自分に諦めてる。昨日も打ち合わせのあとなくさないスキルとしてバッグインバッグを徹底してリュックに色々戻して立ち上がったあと「あれ?私バッグってひとつでした?」「ひとつひとつ、大丈夫。あるある、そういうの」と言ってもらえて世の中には優しい人だってそれなりにいるから大丈夫よ、と誰にともなく思ったりしたのでした。色々辛いし困ることも多いけどいいこともあるといいですね。今日もどうぞご無事でお過ごしください。

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精神分析

フルーツ、同窓会、フロイト読書会

寝不足。フルーツが胃にしみる、気がする。むしろ歯にしみる。歯医者さんが知覚過敏知覚過敏っていう。いやそうなんだろうけど。今日は朝の隙間時間にパッと打ち合わせに行かなくてはなのだ。指定場所はコメダ珈琲。少ししかいられないのがなんだかもったいないけどお仕事だからしかたない。そこで何かコーヒー的なものを飲むだろうから朝は飲まない。ここ数ヶ月カフェインとりすぎていた気がする。カフェインと頭痛は関係があるのでは、と聞いて、というかカフェインって本来あまりよくないわけだからほどほどにしないとですよね。

大学の学部卒業から25年ということで同窓会がお祝いをしてくれる、と幹事宛に手紙が来た。私は幹事。あー。死ななそうとか冗談で言われながら指名されたけど小中高のどれかも幹事だよ。何もしてないけど。大学のも何もしてこなかったけど友人とやりとりしながらこれを機に集まるかあ、みたいな感じでLINEのオープンチャットを立ち上げた。身近に佐久間一行ファンがいてお笑いライブをオープンチャットでみたりするというから「それって何?」と教えてもらったり、最近PTAでも使っているというから真似をしてみました。みんなすごく協力的であっという間に方々から懐かしいお名前が!嬉しい。大学に勤めている友人は当時の先生方にも声をかけてくれるとのこと。とてもお世話になった東洋先生はお亡くなりになったけど。海外の友人とも連絡がついた。ぼんやりはじめたわりにあっという間に話がまとまりそうで嬉しいしありがたいし楽しみ。

昨晩はアドバイザーとして招いていただいているフロイト読書会があった。遅い時間にみんなよくやる。フロイト全集2=ヒステリー研究。何度読んでも気づきが多い。自分主宰のReading Freudでは技法論集を読むけどそこに繋がる文章がたくさん。昨晩は病歴D エリザーベト・フォン・R嬢のところ。方法としての自由連想に対する確信が芽生え、「抵抗」と用語がはじめてつかわれた部分。あれから100年以上、精神分析を受ける人は日本では数えるくらいしかいないけれどまだ絶滅してませんよ、フロイト先生。不快極まりない自分を他者に見つけ、癒しなどとはほど遠い体験の中で得られるものを名付けることは難しいけど悪くないというかかなりタフな部分が作られていくプロセスにはなる。そういうタフさがみんなに必要かといえばそれはそうでもないかもしれないけれど。傷を生き延びるときには役に立つと思う。

今日のお天気は?くもり?お風呂入る時はまだ暖房使ってるけど部屋の中で半袖でいても大丈夫な季節。今日もなんとかやれたらと思います。みなさんもどうぞご無事で。

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俳句 精神分析

晩春、「ねば」、津山

今朝は昨日に引き続き「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」白餡のほう。包み紙にキラキラの文字で書いてある和歌は同じものでした。昨日はキラキラしてて読みにくかったけど一度読めてしまうと二度目はすんなり。なんでも触れてみるものですね。

ぼんやりしているうちに春も終わってしまいそう。春以前からもう何ヶ月もこんな感じでどうしましょう。すでに晩春ですよ。GW明け5月6日は立夏。立春、雨水、啓蟄、春分、晴明、穀雨、で立夏。

3月を切り抜けたのも嘘みたいだったけど4月はどうなるのかな。あと少ししかない。昨晩もメールの山に埋もれさせたまま忘れてて慌てて提出した書類があったしもうダメかも。こんなことばかり。でもこんなでもやるしかないですね。今月も家賃が払えることに感謝。精神分析がラカン理論のように形骸化してしまわないように実践を続ける場所を維持せねば。候補生の会のニュースレターも作らねば。大抵のことは「ねば」ではないのだけどこれらは「ねば」。

「これはマスト」という表現っていつ頃から使われ始めたの?学生時代は聞いたことなかった気がする。この20年くらい?でもこういう外国語からきたカタカナ用語って意外とすごく昔からあったりするんだよね。明治の文学とか読んでるとしょっちゅう出てくるし。正岡子規の幼名は升(のぼる)なんだけど帝大哲学科に入学する年の三月、同級生に宛てた手紙の署名が「野球」。なんて読ませたかわかりますか?もちろん「ノ・ボール」です。子規の野球愛。俳人の言葉遊び。にしても「ノ・ボール」ってどうなのさ、って突っ込んだかしら手紙をもらった大谷藤次郎(是空)は。是空は美作国西北條郡西苫田村大字山北、今の岡山県津山市の生まれ。津山には小さい頃から何度か行ったことがある。川でお魚とったりお城へ行ったり。何か買ってあげると言われても当時からあまりほしいものもなく赤べこを買ってもらった。赤べこといえば福島だと知ったのは大人になってからだけどいまだに私は赤べこをみると津山に思いがいく。かわいいよね、赤べこ。多分はじめて自分で選んで買った漫画は「キャプテン翼」だけどこれも津山の商店街の本屋さんに子供だけで行ったときに買った。当時「からだのしくみ」の図鑑にもはまっていたな、そういえば。と仕事が積まれていようと、回復できない気持ちを抱えていようと自由連想しながら生きている木曜日の朝です。

みなさんはどうでしょう。東京はいいお天気で暑くなるみたい。梅雨がくる前に傘をささないでお散歩できる時間を楽しみたいな。「ねば」だけはこなしながらなんとかやりましょうかね。どうぞご無事でできたら元気でいらしてくださいね。

ひたむきな薔薇というか下向きに咲く薔薇を下から撮った。

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言葉。現場。

人たらしという言葉を聞いて笑ってしまった。またかと。まるで褒め言葉のように使っているのも面白いなと思った。思いやりもなくコミュニケーションしたい人にだけ開かれている人、身体的な搾取をする人に対してもその言葉は使えるらしい。部分的で個人的な「よさ」を全体に広げてみたいものだけみたいときに起きる言葉のずれや歪み。そういうもんだ、ですまさないために言葉はあると思うが実際はすましていることの方が多い。立ち向かうエネルギーを奪われる言葉に立ち向かうなんて傷が増えるばかりだから。それを防ぐために言い聞かせる。そういうもんだ。そういうもんだ。

かっこ付き「ビジネスパートナーシップ」とホモソ依存が目立つ「ファミリー」のようなグループを抜けて高橋ユキさんのニュースレターのサポートメンバーになった。先日のジャニーズ性加害問題に関する記事のスピードも内容もすごかった。個人でこういう仕事ができる人はそういう依存ではない繋がりをもっているだろうけどお金儲けが上手なのは大抵前者だし実際に現場に出向く人が私は好きらしい。昨晩配信された「いにしえの傍聴記録」を読みながら「ファミリー」とは・・・となった。

かきながら寝ていた。出かけた場所で起きたことについて書こうと思っていたのだけど。眠い。がやることやらねば。今日も現場へ。良い一週間を。

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池袋、今井俊介「スカートと風景 Skirt and Scene」@東京オペラシティアートギャラリー

雨の音。久しぶりに夜の埼京線に乗った。新宿から一駅の我慢と思いながら。以前よく使っていた頃のことを考えたらこれくらいの混雑はたいしたことないはずだ。あの頃は自分で立とうとしなくても全方位から押されることで立っていた。身体が部分的に触れ合うくらいの混雑を自分の足で立ちながらあれはあれで変だったのかもと思った。駅の中もすごい人で待ち合わせにみんなが遅れた。私はここが拠点だった頃からパルコ、西武、東武の違いしかわかっていなかったが混雑とわかりにくさの予測はできていたので時間通りに着いた。すぐそばで久しぶりの再会を喜ぶ二人をみて私も楽しくなった。今すごく悲しくて嫌だったことを思い出してしまった。すごく忙しい中、とても貴重でとても大切にしてきた時間に不機嫌に現れるようになった人のこと。ある日はたくさん言葉を呑み込まれて無視されて怖かったしとても寂しかった。コミュニケーションを断ち切られた記憶に突然刺されるようなことはこれからも続くのだろう。それはともかく人が街に戻ってきた。海外からの人も増えている。活気がある。楽しかった。

昨日から東京オペラシティアートギャラリーで今井俊介「スカートと風景 Skirt and Scene」が始まった。ふらりと立ち寄ったらちょうどアーティストトークというのがあると聞いて参加してみた。今井俊介さんご本人が一緒に展示室を周りながら昨日の成り立ちや意図について説明してくれる時間だった。今回の展示の担当キュレーターの瀧上華さんと昨年この展覧会を開催した丸亀市猪熊弦一郎現代美術館のキュレーターの竹崎瑞季さんも案内役として丸亀と東京それぞれの箱の特徴を生かした工夫やそれに伴って今井さんが作った仕掛けなどのお話もしてくださってとても興味深かった。主にストライプで表現される色と形、部分と全体、平面と奥行きを行き来できる発見の多いとてもおしゃれで楽しい展覧会だった。こういうスカートが欲しいと作品をさらに部分的に切り取って写真をたくさん撮った。作品に囲まれさらにそこに飛び込むように楽しんだ。触って揺らしたり潜ったりできる布を境界としても通路としても透かし窓としても体験してみた。離れて置かれているのにその間を色が溢れ出すように埋めてくれるのを感じたりした。竹崎瑞季さんには個人的にも色々教えていただき発見や楽しみを一緒に作品をみながら共有していただけた。とっても特別な時間だった。丸亀でもみたかったな。両方の展示をみたという方もいらして羨ましかった。

さてさて準備準備。ぬかるみや水たまりに気をつけて過ごしましょう。気温は上がるみたいです。重ね着対応かしらね。ふー。ため息も出ちゃうけど動きますよ。またね。

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受け止めきれないものたち

「邪悪」という言葉を使いたがる人が本当に邪悪だなと思う出来事があるとポカンとする。わかっていることにポカンとしてしまうのはどう考えても理解不能だからだろうなあ。

TwitterのDMの問題について聞いた。何かに情報を書き込むって怖いことね、こうやって。SNSは公私混同とかバウンダリーに対する意識をうやむやにしやすいツールだし削除してしまえばもろもろなかったことにできる。とはいえ、たとえやりとりを消すことができなくても立場利用してDM悪用して安全そうな顔して近づいて利用や搾取を繰返している人の実態は分析されることはないだろうし立場の弱い人ばかり傷つくことが繰り返されるだろう。特に女を利用する男という構造はなんとでも言い換えできてしまうから。最近立て続けに読んだノンフィクション本でもそう思った。救いがない。

自分の身体の痛い箇所をどうやって説明したらいいのだろう、と一般向けの解剖図など見てみたがやはりよくわからない。痛みの移動もあるからなおさらよくわからない。痛むたびにマジックで印をつけておくとか、と思えるほどの余裕があるうちは大丈夫か。

いつも通る遊歩道のつつじが満開で、この前まで沈丁花が満開だったのになんだか不思議と思う。まるで沈丁花がつつじに置き換わったみたいに道全体がつつじの雰囲気。沈丁花も結構な面積をしめていると思うのだけど。

最近、明治の作家に触れていたので久しぶりに松浦寿輝『明治の表象空間』を読んでいた。鴎外、漱石の文体と対比される樋口一葉などの日本語への意識、大江健三郎作品への言及あたりを。

実体のなさ、あるいは隠蔽や抹消、空虚で軽薄な言葉たちに振り回される毎日を「そんなもんだ」という絶望とともに生きるのは身体にもよくなさそう。受け止めきれないものたちとどう過ごすかというか過ごさざるをえない。苦しいね。辛いね。悲しいね。普通に優しい言葉と出会って行けたらいいですね。

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チョコ、チューリップ、『子規、最後の八年』のこともちょっと。

宇多田ヒカルの「普段から〜♪」で何度目かの目覚め。その前から起きていたけどぬくぬくしてた。暖かくなってもお布団の中は気持ちいい。前はNo Lie-Sense(鈴木慶一+ KERA)Kimimoshussegadekiruだったけどジャーンってうるさく始まるからびっくりしてしまっていた。起きるにはいいけど眠りの世界と断絶なく起きるには宇多田ヒカルの方があっている。今はそのままU2が流れている。懐かしい。

カーテンの向こうが明るい。南側の大きな窓のカーテンを開けたときの光を想像しながら寝返りをうって起きた。

コーヒーを入れたはいいけど食べたいお菓子がない。お菓子はあるのだけどどれも好きなお菓子なのだけどそういう気分じゃない。チョコが多いんだな。うーん。ソフトサラダもあるけどこれは夜食べたい。うーん。チョコはチョコでもこの前もらったこれにしてみるか。GRAND Chocolate Snacks Bites RASPBERRY。細長いパッケージの4個入り。フリーズドライのラズベリーがパラパラとまぶされていてかわいい。いただいてみますね。あ、これ4個入りじゃないんだ。大きいチョコがドンドンドンドンって4個入ってるのかと思ったら「枚」で数えるが適当な薄さ。一つの枠に3枚ずつなのね。ドンって大きいチョコより好き。いいじゃんいいじゃん。チョコはちょっとなあとか思ってごめんなさい。おー。粉々のラズベリーがちょうどよくダークチョコの味と混じり合う。美味しい。もう一枚、もう一枚って食べたくなるけどゆっくりゆっくり。すぐ肌に出ちゃうから。細長い箱にスーッと戻しますよ。またあとでね。原産国オランダだって。オランダ、チューリップ?オランダのチューリップも今の季節かな。日本だと砺波チューリップ公園はいいですよ。富山県砺波市ね。昔GWにとなみリューリップフェアに行ったことがあるの。今年も無事に開催されるらしいです。300品種300万本か。先日のつつじもそんな数字じゃなかったかな。すごいね、お花の種類って。植物園とかいくたびに驚くものね。同じ名前で呼んでたけどこんなに種類あるの?って。

オランダは森鴎外が最初に言ったところだっけ。最初に習った語学か。この前森鴎外記念館で学んだはずがもう曖昧。あ、誤字。「言った」だったらオランダ語、「行った」のはどっち?オランダ?ドイツ?森鴎外記念館に行った日は電車で関川夏央『子規、最後の八年』(講談社)を読んでいたの。私が先日特別展で学んだのは「鴎外の食」についてなんだけどこの本でも鴎外が最初に出てくるのは食のこと。

「陸軍の兵食の現状維持を強く主張したのは鴎外森林太郎第二軍兵站軍医部長であった」

日清戦争の時のこと。

「その鴎外を、子規は金州で訪ね、帰国船へ乗るために柳樹屯に移動する明治二十八年五月十日までの一週間、毎日会って俳句について談じた」

って。戦時中の食と俳句。どんな言葉が交わされたのかな。この一週間後、子規は帰国の船中で喀血。五月十八日馬関(下関)に到着、と書いてある。子規は日清戦争には従軍記者として出向いていて金州には句碑もあるんじゃなかったかな。なんでも曖昧だな。あとで調べてみましょう。

この本、28歳(明治二十八年)の発病から35歳で亡くなるまでの子規のことを詳細に知れる本なんだけど序章の「ベースボールの歌」からとてもいいですよ。さあ、もう準備せんと。昨晩は少し雨が降ったみたいね、オフィスにいて気づかなかった。帰る頃には上がってたし。今日はどうかな。このままいいお天気だといいですね。それではみなさんも良い一日を。

追記:wikiから辿ったらここで句碑の写真とそれに至るエピソードも見られた。

金州博物館と正岡子規の句碑 阪急トラピックス大連・旅順・金州4日間の旅2

http://4travel.jp/travelogue/10610504

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つつじ、西参道、鴎外の食

昨晩からずっと風の音がすごい。春の嵐はいつまで?東京はもう桜よりもはなみずきよりもつつじの存在感。

根津神社の文京区つつじまつりへ行った。約100種3000株のつつじがあるというつつじ苑。見事だった。根津神社は谷根千散歩のときは寄っているけどこの時期に行ったことがなかったのだろう。こんな華やかな場所があるとは知らなかった。つつじはどうも野生のイメージが強い。私のオフィスから明治神宮や小田急線参宮橋駅に向かう西参道(首都高速4号線の高架下)の植込みは道路側が銀杏、内側がつつじだったのだがあまり整備もされないまま咲く姿が毎年ワイルドで整備すればいいのにと思う一方で好きにやればいいよねと励まされてもいた。昨年からかもっと前からか明治神宮の方からずっと工事が続いており少しずつ甲州街道の方まで整備がされてきてつつじの植込みは全て取り払われ夜も明るく凸凹のないきれいな道路に変わった。先日、ニュースになっていた藤本壮介デザインの真っ白な公共トイレもその一環で作られたのだろうか。街の景色はどんどん変わる。きれいで安全なのも悪くはないが神宮外苑の再開発の見直しのが方が先にすべきことではないだろうか。これについては柏書房のWebマガジンで連載中の西本千尋「まちは言葉でできている」のこちらの記事も参考になる。

つつじの野生味に注意が向くのは目にするのがさつきつつじが多いせいかもしれない。花びらが大きい。こうやって形を整えられたり小さかったりいろんな色だったりその種類の多さを目にするとワイルドさより華やかさが際立つ。つつじとつつじの間を潜りこむように見たのは初めてかもしれない。ふわふわの真っ赤なつつじが作る影まで少し赤い気がした。

根津神社からは先日時間がなくて寄れなかった和菓子屋さんで3種類の柏餅からよもぎもち+つぶあんのを選んで食べながらまた漱石旧居後の猫を愛で、森鴎外記念館へ向かった。今は特別展「鴎外の食」が開催されている。どこかでもらったハガキのおかげで団体料金480円で入れた。私は森茉莉はたくさん読んできたが鴎外はあまり読んでいない。今回は「食」ということで鴎外の子供たち、於菟、茉莉、杏奴、類みんなの文章が読めてよかった。不律も生きていたら父鴎外のことを書いただろうか。それにしても食の話題はどうしてこんなに楽しいのだろう。時代や歴史、国や地域や家によって異なる文化、生活が生き生きと見えてくるのがいいのかもしれない。若いときは夜ごはんをみんなで食べる時間があったから仕事帰りに同僚の家でみんなで飲みながらごはん作ったりそのまま泊まったりして楽しかった。今でも年に一回とかだけどおうちに行けば美味しいものを作ってくれる友達が数人いる。逗子に住んでいる友人のところへいくと山と海に囲まれた街に育った娘さんが色々と案内してくれる。いくたびに大きくなるが数年前、岩場をぴょんぴょんと飛び回りながらおしゃべりを繰り広げる彼女に野生味を感じた。海に落ちやしないかとヒヤヒヤしながらみんなで見守った。近隣の港から上がってきた新鮮な魚を海が見える小さな店で買う。友人の夫がさばいて美味しいものを作ってくれる。きみはいつからいる猫だっけ、など猫に話しかけたり台風のときに家の屋根を壊した大きな木のことを聞いたりする。自然と繋がっている世界だから楽しいのか、食は。生身の人たちと言葉で密に繋がる仕事をしているとその人その人の欲望を知ることになる。それはあまりにそれぞれだけど共にいるために失うもの共にいることでえるものいろんなことに持ち堪えつつやっていくのだろう。

東京は強風が吹き荒れております。せめて雨が降らないといいね。気をつけて過ごしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「意地悪」とか「ひどい」とか。

まだ薄暗いというか明け方が曇り空なのかこの時間にしては空が黒っぽく感じる。カラスの鳴き声をいつもより大きく感じたせいかもしれない。

坂上から坂下に向かっている途中、二人の間に白いものが落ちた。「鳩?」「カラス?意地悪されたのかな」「意地悪ではないでしょ。移動式トイレだと思われたのでは」どうでもいい話で笑いながら「あ、パン屋さんだ」「このお店いい感じ」と初めての坂道を下った。

トイレットブレストというクライン派の用語がある。精神分析プロセスの描写に使う言葉だ。移動式トイレの発想はその用語を思い起こさせた。

こんな話もある。

「ひどいことしてきたのはみんな女」って言ってた、と中年の男が心配そうに仕事で利害関係のある女に相談された話をした、不倫相手に対して。そういうことを家庭持ち彼氏に愚痴る中年女性に対して大抵の人なら感じそうなことを男も感じたようだったがその女にはそうしたくないようだった。無条件で「サイコー」と言ってくれる女はキープしたかった。男は他人の人生相談に公開でのることがあった。自分の相談は週一で手早く食事をして身体を弄れる相手にした。「誰でもいいわけではない」と言いながら「女にばかりひどいことをされる」という女が自分を心配してくれるLINEを嬉しそうにみせた。週一でその女の満足そうなコメントと共にSNSに映りこむうちに身体だけの女とは別れた。「生活に口出しされたのが嫌だった。意地悪をされているみたいだった」というのが別れた理由だった。

「意地悪」について考える。それぞれがそれぞれの場面でいろんな口調で「意地悪」とか「ひどい」とかいう言葉を使う。排出について。「あの本は誰々と誰々の子どもみたいなものだからね」「どうせ排泄物なんだから好きに言葉にすればいいんだよ」。いろんな水準の排出について。うーん。カラスは意地悪ではない、と思う。人間だって意地悪をしたくてしているのではない、と思いたい。うーん。排出と消化と取り入れ。誰かを都合よく利用するのではないあり方って案外難しいかも?自分だけはそんなことしない、なんてことはないだろうから。まあ、とりあえず今日もはじめましょう。何があってもなくてもとりあえず。

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文京区

東京はいいお天気。昨日は降ったり止んだりだったのですよ。久しぶりに都営三田線と南北線に乗った。新宿区のオフィス以外は主に文京区にいました。

春日駅前の文京シビックセンターの展望室で街を一望してから動きたかったけどワクチン接種会場になっていたのでした。高崎市役所だっけな、どこかの展望室に行ったときも展望レストランが会場になっていたので半分側からしかみられなかったことあったな。都庁の展望室も北側のはワクチン接種会場ですよね。まさか展望室をこういうふうに利用する日がくるとは誰も思っていなかっただろうけど。展望室は屋内だけど広場を開いておくというのは大切なことですよね。新宿ごはんプラス と 認定NPO法人もやいは共催で都庁前でお弁当の提供とか相談会とかしてたりするし。colaboの活動の場も奪われないといい。

文京区は樋口一葉ゆかりの地でもあって、本郷菊坂あたりには少女時代を過ごした法眞寺、旧居跡の井戸、貧しくなって頻繁に利用した旧伊勢谷質店とかがある。東大のそばの道を入っていく本郷菊坂へ向かう菊坂通りは菊富士ホテルというのがあったところで多くの文豪が利用したことで有名。歩きながら街灯の柱に書いてある文豪たちの紹介文を読むのも楽しい。この前調べていた石川啄木が亡くなったのも親友の金田一京助が住んでいたのもこの辺。根津・千駄木エリアにも色々ある。夏目漱石旧居跡は「猫の家」ということで猫が二匹いました。日本医科大学のそばです。森鴎外記念館や根津神社つつじまつりにいきたかったのだけど時間もなく雨にも降られまた今度ということに。行ってみたいお店もたくさん見つかったからまたいこう。大好きな小石川植物園もいつもは茗荷谷からいくのだけど今度は白山からいくのもいいなとか地理も少しわかった。よき散歩だった。

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樋口一葉の記念館へ行った

月曜日。朝イチで速達を出しにいくこと。ひとつ苦手な仕事を終えた。眠い。

台東区立一葉記念館へ行った。場所は『たけくらべ』の舞台となった龍泉寺町、現在の地名は台東区竜泉。日比谷線入谷駅から歩いたがウェブサイトにはお隣の三ノ輪駅の方が最寄りとある。日比谷、入谷は韻が同じなので何度か聞き返した。樋口一葉を取り巻く人々の中でも韻が同じ人がいてそれも何度か聞き返した。一葉には歌塾「萩の舎」で出会った伊藤夏子という友達がいた。一葉の本名は「奈津」だが和歌の筆名は「夏子」だったようで周りには「伊なっちゃん」「樋なっちゃん」と呼び分けられていたというエピソードもよかった。「萩の舎」に入った頃の二人はまだ15歳くらい。一葉は24歳でなくなったのでそれから10年ほどしか生きられなかったがその間に書かれた作品の多さにも驚くし、一葉が体験した苦労にも驚いた。これについては昨年、中央公論新社から伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』という面白い本がでた。装画は丹下京子さん。句友でもある京子さんのイラストはユーモラスでほのぼのしててとても好き。

今一葉記念館では企画展「樋口一葉と和歌 ―かなの美―」が開催されており「萩の舎」で一葉が交流した人たちの和歌も見ることができる。私には自力で読みとることができないくずし字だがとってもきれいな字でどの短冊も美しく文字も絵画と同じように楽しめるものだなあと思った。一葉の記念碑もある記念館の前の公園はソメイヨシノがチラチラと散っていてご老人が犬に盛んに話しかけているのを耳にしながら写真をとった。iphoneだからなのかもしれないが写真が光で白っぽくなることが増えた。季節が進んでいるなあと思った。素敵な時期に行けてよかった。

その後の小さな句会では司会をしてくださった方がなぜか突然告知タイムをもうけてくれたことでその方もびっくりのお知らせをふたつも聞くことができた。句友のみなさんは賞をとったりしてもあまり自分から発信されないけどこうしてみんなで驚いたり喜びあう機会があってよかった。

いろんなことがあるけれど素敵なこともありますように。新しい1週間もなんとかやっていきましょう。

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地獄、花曇

熱田の宮まんじゅうは何にでも合う。今日は大好きな白桃烏龍と。

なんでまた自分だけ子供になって散々嘘ついてる相手にいい子いい子してもらってるわけ、本当に毎回毎回よくそういうことできるよねといえばそういう人だからああいうことが起きたんでしょと嗜められる。

いろんなことは矛盾しているようで矛盾してないんだよ。こっちの矛盾はあっちでは矛盾ではない。投げやりな謝罪はいつのまにか「あんなに謝ったのにいつまでいってるの?自分だけが傷ついたと思ってんの?馬鹿じゃないの?」くらいに変わってるもんだよ。何が起きても「お互い様」ってやつ。人がたくさんいるってそういうことじゃん・・・。

そうなの?だから毎日「地獄だな」と思っちゃうのか。地獄知らないのにしっくりくるのはあれは人間の世界をかなり正確に切り取ってるからか。本当の裁きの場に持ち込む負担はものすごいから避けたいとしてもどうしても仮の裁きの場がほしくなるだろうしね。でも地獄ではなぜか裁かれるのはそこに出向いちゃった方だからずーっと煮たり焼いたりされながら死なずに生きることを求められて「でも大丈夫、神様がいるよ」みたいなノリに半笑いしながら疲れた心身を委ねることもありうるよね。自分の罪も抱えながらずっと絶望してればそうなるか・・・。半分死んでるような状態がこれからもずっと続くのか。本当に辛い。

ということを素直に言える相手がいるとしたらそれはやっぱり人がたくさんいるってそういうことなんだなと思えるかもしれない。でもいえない人はどうだろう。人を壊すのは孤立だという人は多い。人間誰しもひとりとはいえ「本当にひとりだ」と感じる出来事が起きない限りそれは日々の色々に紛れてそんな際立ってこない。じわじわと忍び寄るその感覚を自分でかき消し誰かの心身を傷つけてでも「そんなはずはない」と思い込もうとする機制も人は持ってる。自分で自分を欺く。本当に矛盾だ。そしてそれは矛盾ではない。地獄でケアを語ることだって可能だ。殺した相手のうめき声を聞きながら次なる相手の相談にのっていた事件もあった。「そんなことする人に見えなかった」と聞くとき「だったらどんな人だったら」と思う。戦争をしているのも同じ人間だ。なんだって自分とは無関係ではない。無関係だと思えるとしたらたまたまそう思える環境にいたということではないだろうか。そこには被害と加害という単純な言葉では捉えられない犠牲も献身も愛も憎しみもある。今日もぐちゃぐちゃの気持ちを抱えながら「日曜日なのに」と文句を言いながら(あるいは言われながら)自分ではどうにもならない「これ」をどうやり過ごそうか。自分ではどうにもならないのだから願うのみか。祈るのみか。

昨年、九品仏でみた紅葉が見事だった。総門を入ってすぐの閻魔堂にはそれなりに人がいた。あの辺は桜もきれいかもしれない。閻魔堂、地獄を安全に外在化させている場所といえるだろうか。あるかどうかわからないものを外在化というのは変だけどこころだってそういうものだろう。私はあの日門に近づくにつれ見えてきた紅葉に一瞬強い苦痛を忘れた。人がたくさんいる世界にはたくさんの人工物も自然もある。どうにかこうにかやっていこうとする人ができるだけ安全にそれらに守ってもらえたらいいなと思う。

今日は花曇。良い一日を。

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けん玉、布マスク、ポストコロナ?

紅茶の抽出時間中、ごちゃっとしたテーブルのオレンジの陶器の入れ物にさしてあったけん玉をなんとなくやってみた。一回で真ん中に入れるのに成功。私、これだけ得意。この真ん中にさすのって名前があるのかな、昔なんか言ってた気がすると思って検索したらありました、玉をけん先にさす技=とめけん。そういえばけん玉って剣を玉にさす遊びなんだよね。これが剣であることを忘れとった。お、そうか、最初からwikiを見ればよかったのか。日本けん玉協会のサイトが先に目にはいったからそっちをみたのだけど面白いよ、いろんな技がある。「とめけん」はこうやって膝曲げないと合格にならないのかな。私は小手先だから不合格かも?こんな朝に一発で入れたのに?もしそうだったらガーン。

さて、wikipediaの「けん玉」には

けん玉(けんだま)は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具。日本をはじめ、世界各国で遊ばれている。なお表記には剣玉、拳玉、剣球、拳球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的。

とあります。へえ(読んでる)。

けん玉、オフィスに置いておいて練習しようかなと思ったけど注意力ないくせにそれだけ集中しそうだからダメ、と思って元の場所ではなくごちゃっとしたテーブルの上に置いたら昔小さい子がビーズで作ってくれたヘアゴムがあった。布マスクはもういらないかな。短期間だけど大変お世話になりました。不織布不織布ってなってからはオンラインでも売り切れ続出だった布マスクの受容もあっという間になくなっちゃったね。誰もがはじめて体験する事態では何が正しいか間違っているかなんてわからないからいろんなことが起きた3年近くでしたね。布マスクをオンラインでみているうちにそれまで何度か利用していた着物のはぎれでスカートを作ってくれる個人のサイトが閉じていたのに気づきました。とても残念。どのスカートもいつも周りの人に褒めてもらっていました。ありがとうございました。お互いの住所と名前を知っている関係だけど一度もお会いしたことはないしこれからもお会いしないのでしょうね。不思議。私は旅好きだから旅先ですれ違ったりするでしょうか。そのスカートはいてたら気づくかな。いつもバックパッカー旅だからスカートはかないけどその土地へいく機会があったらはいてもいいかもしれません。

昨日も渋谷の混雑について話しながらこの3年近く、この街にいかに人が少なかったかを実感した。慌てて行かなくてはいけない場所にもスイスイいけた。今は歩くスピードも混雑に委ねるしかない。でもコロナ前だってそうだった。コロナで仕事も家も失った人たちにもお会いした、しばらくして会えなくなったりもした。突然の転校や転居を強いられた子どもたちもいるし、突然会えなくなった人たちもいた。今はみんなどうしているだろう。また会えるのだろうか。多分会えない。生きていれば?元の生活に戻っていれば?どうだろう。悲しいけどそれは本当には「元」ではないから難しいかもしれない。でもどこかですれ違うかもしれない。そう思うのはこれまでも偶然びっくりするような場所で友達や知り合いとすれ違うことがあったからかもしれない。地元に帰ると幼稚園のときからの友達に声をかけられたり、名前とか全然思い出せないけど知っている人に呼び止められたりもする。これは小さいときからそうか。田舎はそういうものか。新宿や渋谷も偶然見かけたりすれ違ったりすることが割と多い気がする。とても笑えない状況を作った人が楽しそうにしているのを渋谷で偶然見かけたことがある。向こうにしてみたら楽しく笑うためにいいっぱなしやりっぱなしにしたわけだろうけど人はあっという間にさっぱりしちゃうんだなともっと辛くなった。事実をなかったことにしないという想いを強くした。コロナ禍で見えたものも見えなくなったものもある。失ったものや得たものとどう関わるかはそれまでのプロセスと現実の状況が大きく影響するだろう。なかったことにして「前を向く」?そうする人もいるだろうけどそれはその人のひとつの選択であってそうすべきことかどうかそれがよきことかどうかは他人が決めることではない。どの気持ちも状態もその人がどう感じどう捉えているかでしかないし判断をするならそれはある特定の事柄に対してでありその人全体をジャッジすることなどできない。特定の出来事もある人は忘れ、ある人はとどまり続け分断も乖離も進むかもしれない。それでもせめてひとりにならないように。これまでのなにかが支えてくれますように。それでもなんとか、と日々繰り返し呟きながらなんとかやっていきましょうね、わたしたち。

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膝痛

またここで寝てしまった。寝ようと思って立ち上がる予定が座ったままそこで眠ってしまった。膝が痛い。大失敗だ。こんなに関節が痛くなることが自分に起きると思っていただろうか?ここまでとは思っていなかったと思う。加齢でも怪我でも病気でもなんでもありうるだろうけど専門家に聞くのが一番ということで病院にいこうと思う。が、時間がない。どうしましょう。作る以外にない。仕事をする時間が減るということはそのまま収入を得る時間が減るということであり、開業設定で臨床をするというのは本当は身体の予防もきちんとしないといけないわけですね。まぁでもこういうことの積み重ねが何度もないと学ばないのも自分ということで病院へいきましょう。旅に出られなくなるとか嫌だもの。この前、いくつかの県の物産館へ行ったら行きたい場所が増えちゃったし。

私がいく整形外科はとっても混むのだよなあ。とってもいい先生なんだけれども、というかいい先生だから混むのだろうけど。小さな町のお医者さんという感じなんだけど、もう何年前かわからないけどこのブログにも登場してもらったと思う。声が大きくて明るい先生で、診断の手順が細やかで質問が的確で触り方も丁寧。私には専門的なことはよくわからないけど診察を受けている間に自分の骨のこととか自然に理解できて仕組みを自然にみせてくれるお医者さんは信頼できるなあと私は思う。あれだけの数をみていればパターン的になる先生もいると思うが患者が症状を説明できるように質問をして訴えをよく聞いて除外診断のための画像診断とかあれこれとかもしっかり説明つきでしてくれて他機関へのリファーに関するあれこれも信頼できる。だからそこへ行きたい。が、ものすごく混む。待ち時間に外へ出ていることは可能なのでPCを忘れてはならない。ああ、でもできたら行かないですむのが一番。そのためにも行かねば。ああ。

どの世界でも数を見るというのは大事、と素朴に思う。本などで診断基準を学んでも実際をみないとそれがどういうものかは自分のイメージでしかない。それはまずい。思い込みの診断は当然してはいけないけどある程度数をみて全体を掴んでおかないと個別の違いもわからない。だからセカンドオピニオンがあったりするし、心理職の場合、スーパーヴィジョンやコンサルテーションの利用は当然だし、医者と仕事している場合も適切な連携が大切だろう。

私はこの仕事に関しては多様な領域で相当の数の人と経験を積んできているが臨床心理士だからどうこうみたいな厳しい意見を見かけたりすると100年後もそれは正しいのかなと考えたりする。もちろん自分の考えに対してもそう思っている。一方、一点だけ100年後とかではなくて今を常に見直すべきと思っているのは性的搾取に関わる事柄だ。女がなぜ今こうか、男がなぜ今こうか、これについてはたくさんの文献も体験も臨床経験も合わせて丁寧に書かねばならないことなのでこういうスピードでは書けないが「しかたない」「そういうものだ」と無意識的にこれまでのあり方を変化することを嫌う力には違和感を感じ続ける身体と心でありたいと思う。

それにしてもこの痛み困った困った。3月もあと3日?困った困った。今日もバタバタと過ぎていくのだろうけどとりあえず準備しましょうか。みなさんも自分の状態をモニタリングしつつ必要なケアを受けつつお過ごしになれますように。どうぞお大事に。

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月曜日

朝日で起きたつもりだったのにぼーっとしている間に部屋が暗くなってる。PC使う分には問題ないけど暗いなー(電気つければいいじゃん)。もうこんな時間。ぼーっとしているときが一番時間の流れが早い気がする。ぼーっとすることができない人たちともたくさん会ってきた。したことがないからその感覚がわからない。やってみようとしてできるものでもない。ぼーっとするってこんな感じ?とやってみても課題をこなしてるみたいで全然ぼーっとしていない。まあ、どれもこれも主観なので「ぼーっとしてた」と本人が感じればそれがそうってことかもね。

はあ。眠いし身体は痛いし何もしたくないけど月曜日がきましたよ。白桃烏龍のお茶をいれてようやくPCの前に座れた。もらったの。これ大好き。美味しい。昨日はとても寒かったですよね。結構な雨だったし。東京は地下道が多くて本当に助かるなあと思った一日でした。雨を避けて歩いていたらこんなところにこんな道が、こんなお店が、という出会いもあって楽しかったです。

夜は資料を突き合わせながらやっぱり何かを強く感じたときはそれを正確に残しておく努力をした方がいいなと感じました。残すといってもSNSに垂れ流すとかではなくて。権利や尊厳を損なうような行為に関しては特に。いろんなことがなかったことにされていくなかいつまでもそんなこといってる自分がおかしいのではないか、と思わされることがしばしばだったとしても残しておくとその時に生じた事実に立ち戻れるのであとから「残しておいてよかった」と思うと思います。それがなかったことにされるプロセスなんてあっさりしたもので「人って取っ替え引っ替えできるんだ」という絶望に落とし込まれることもありますし、その感覚がvividなうちに残そうとすることは辛くて苦しくて死にたくてしかたないかもしれないけれど。

今週もなんとかやっていきましょう。

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ペアいろいろ

昨年、下北沢の「日記祭」へ行った。書き手とおしゃべりしながら買えるスタイルなのだがペンネームとはいえ不倫相手とのことも綴られた日記を書いた人とお話しするのは不思議な気分だった。その人もそれを夫に読ませたい気持ちがなくはないようだったし不倫相手に妻なり恋人なりメインのパートナーがいるわけではなさそうだったのでそれがもし広まったとしてもその人的にはあまり問題ないのだろう。その後の経過もネットに公開されていたし編集者など別の視点を通さない売り方をあえて選ぶとしたらやはり読まれたい気持ちが強いのかもしれない。わからないけれど。また、編集者さんや校正者さんも自分の日記を手売りしていて、ある編集者さんの日記には私が好きな本がたくさんあがっておりその人が編集した本だと知った。それまで編集者と作家って密着しながら関係や利害をうやむやにしているというイメージがあったけど(そういう方が身近だったから)そうではない人もいると知って安心した。その人が担当するのは心理職が読むべき専門書以外の本が多く、今年に入ってからもすでに数冊出しておられる。4月以降も次々に出すらしい本たちも要チェック。

さて、ペアでやる仕事は非対称の二者に引きこもり第三者性を失うことも多い。搾取したり排除したりする自分をその敵意の対象ごとなかったことにする代わりに別の対象に「素敵です」「最高です」とかお互い言いあいながらする諸々を「なんでも仕事」としているペアもいる。彼らはお互いの依存でナルシシズムを維持し、互いのわかりやすくエモい自分語りに対する共感と賞賛を示し、自分が受け入れられないもの(まさにその人そのものにも関わらず)へは偉そうに傍観者的な態度で評価を平然と行う。恐ろしいなと思う。colaboに抗議するSNS上の人たちと何が違うのだろう、ということをnoteにも書いた。第三者性を失い、バウンダリーのないナルシシズム的二者(=私たちだけが正しいの世界)がいう「第三者としては」という態度の尊大なこと。とても嫌な気持ちになるが彼らの幼稚で尊大なあり方はcolaboに中止要請がなされるような世界では主流だと思われるので観察と記録は大切だろう。一方、主流ではなくても地道に、ごく自然な思いやりでお互いの仕事や立場を守りながら着実にいい作品を作り上げていくペアの仕事が大切にされる世界も一方ではあるのだからそれらが支えてくれるだろう。

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外は雨

友人からLINEがきた。前日には間接的にしか触れられなかったものが目の前にきた感じがした。大学時代の悲しい別れを思い出した。いろんなことがバラバラと思い浮かぶのを感じながらノロノロと動いた。電車で隅っこに立ってぼんやりしていると急に込み上げてくるものがあったがそのままにしておいた。

元気にしているだろうか。亡くなった人に対して思うことがある。お墓参りから帰ってきた家族と「お父さん(お母さん)、元気だった?」「うん」と言葉を交わすことがある。心の中に住み着いているその人たちは割といつも元気な気がする。

お花を買いにいきたい。でも外は雨。大量の写真を買ったばかりの外付けHDDにダウンロードしながらすでにこの春たくさん撮ったお花の写真を眺めた。お花を買いにいく代わりに何枚かをSNSにあげた。

外は雨。雨音に時々鳥の声がまじる。さまざまに耐えがたい気持ちをただじっと感じながら穏やかな想い出に助けられる瞬間もありますように、と願う。

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再読中

早朝から『ホロコースト最年少生存者たち 100人の物語からたどるその後の生活』(柏書房)を再読。冒頭の写真から重たい気持ちになるが本書は精神分析が陥りがちな問題について考えるにも必読の一冊だろう。なかでも心的外傷(トラウマ)の語りを聞くことにまつわる困難は本書で多く引用されるアンナ・フロイトやジュディス・ケステンバーグのエピソードから学ぶことができる。

先日、この本の書評を書かれた甲南大学の森茂起先生の最終講義があったそうだ。気づいたときには登録期限が終わっていた。タイトルは「フェレンツィとの出会い―臨床・科学・アートの狭間を歩む」。森先生とフェレンツィをつなぐのはトラウマ理論だと思うがどんなお話だったのだろう。聞きたかった。

フェレンツィは1873年ハンガリーに生まれた精神分析家でユング(1875年生)と同世代だ。二人ともフロイトとの人間関係から語られることが多いが、その臨床とそこから導かれた理論はオリジナリティに溢れておりフロイトの理論にも影響を与え(「とりいれ」という用語はフェレンツィから、など)どちらも精神分析の限界を考えるときに特別な視点を提示している。日本で精神分析を学ぶ人が一番読んでいるフェレンツィの論文は「大人と子どもの間の言葉の混乱──やさしさの言葉と情熱の言葉」(1933)だろうか。これは森先生たちが訳されたフェレンツィ『精神分析への最後の貢献ーフェレンツィ後期著作集』に収められている。この本はそれまで断片でしか紹介されてこなかったフェレンツィの後期の思索を追える一冊で、フェレンツィが死の前年まで書いていた『臨床日記【新装版】』と一緒に読まれるとよいかもしれない。こちらも森先生の翻訳だ。フェレンツィは当時の精神分析の世界では受け入れがたかった心的外傷についての理解を広めた。この頃の精神分析については『心の革命 精神分析の創造』(REVOLUTION IN MIND) ジョージ・マカーリ著、遠藤不比人訳(2020.みすず書房)も参考になる。

あ、時間がなくなってしまった。再読を続けよう。

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ひとりとみんな

いいお天気。朝からきちんと食べてしまった。おなかいっぱい。

10年以上仕事をともにしている人たちと集まった。仕事ではバタバタと準備をしながら必要な確認事項を交わすくらいの余裕しかないがこの関係になるとそのほんの数分の中のさらに短い時間でも普通にお茶しながら話すのと同じくらいの濃さがあるしこういう時間に支えられている。それでも実際にゆっくり会えるとなるとそれはまた全く別の楽しさがあって「嬉しい!!」と連発したくなる気持ちもみんな同じだ。

ひとりでオフィスを構えて仕事をしていると当たり前だがなんでもひとりでやるわけだがこうしてたまに会ういろんな人との繋がりが緩やかに豊かにあってくれることでひとりでやれているんだなと実感する。社会人になってはじめて勤めた職場の同僚もいまだに支えてくれる。

人のこころの恐ろしい部分、ずっと苦しめられ続けるであろうことは今後も変わらないだろうけどそこだけで生きているわけでもない。いろんなシビアな局面にも自分で対応しなくてはいけないがどんな行動にもこれまでの私のあり方が出るだけだからいろんなふうにやってみる。そして何かまずいことが起きたらまた助けてもらいながらやり直す。その繰り返しかな。ひとりでやることとみんなでやることの豊かな連動を、孤独になればなるほどそうではないと静かに支えてくれる力を今日も忘れないでいられますように。