以前、『ウィニコットとラカンに学ぶ 臨床的対話とその思想』の「第7章 ウィニコットとラカンの移行の空間」を書いたジャンヌ・ヴォルフ・ベルンシュタイン(Jeanne Wolff Bernstein)のことを少し書いた。ベルンシュタインが活動するウィーンには、複数の精神分析組織がある。Wiener Arbeitskreis für Psychoanalyse(WAP:ウィーン精神分析研究会)とWiener Psychoanalytische Vereinigung(WPV:ウィーン精神分析協会/Vienna Psychoanalytic Society)である。後者は、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)自身の「水曜心理学会」に起源をもつ組織である。一方、WAPは第二次世界大戦後の1947年に設立された組織を前身とする。ベルンシュタインは現在、WAPの副会長を務めており、WPVの会員でもある。
日本の精神分析組織にも、かつて仙台と東京の二つの支部があった。フロイトはそれをよしとせず、両者に協力を求めたが、結局、ひとつになることはなかった。戦時下でIPAとの連絡が困難になるなか、東京支部は次第に活動の実態が確認できなくなった。そして1951年、仙台支部が日本支部へと改称された。二つの組織が協力して合併したのではなく、戦争を挟んで、結果的にひとつの支部だけが残ったのである(西、2019)。
これらの組織の歴史には、第二次世界大戦が深く関わっている。
フロイトの水曜心理学会を起源とするWPVは、1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合を受け、ウィーンでの活動を終えることになった。当時ウィーンにいた38名の会員と約30名の候補生は、ナチスによる迫害を受け、国外への亡命を余儀なくされた。1946年、アウグスト・アイヒホルン(August Aichhorn)を中心にWPVは再建されたが、亡命した分析家たちの多くはウィーンには戻らなかった。
一方、WAPは1947年、イーゴリ・カルーゾ(Igor Caruso)によってウィーン深層心理学研究会(Wiener Arbeitskreis für Tiefenpsychologie)として設立された。こちらは戦後に新たに成立した組織である。しかし、創設者カルーゾ自身にもナチス時代の歴史が関わっている。WAPの公式サイトは、彼が1942年にナチスの児童「安楽死」政策に関係した施設で勤務していた事実を記し、その関与についての歴史研究を紹介している。
こうしてみると、戦後のウィーンで二つの精神分析組織がそれぞれの歴史を歩んできたことも、単に異なる学派や理論的立場の問題として捉えることはできない。戦争によって失われたものと、戦後に新しく始められたもの、そのどちらにも検討すべき歴史がある。
ウィーンのジークムント・フロイト博物館(Sigmund Freud Museum)の歴史解説においても、戦後オーストリアでナチスの過去に集団的に向き合うようになるまで、数十年を要したと書かれている。なお、この歴史解説は、2021年にウィーンのフロイト博物館で開催された特別展の資料であり、WPVとWAPの両組織が設立した精神分析史研究グループが制作に協力している。異なる歴史を歩んできた二つの組織が、戦争と精神分析の歴史を共同で検討していることも興味深い。
訳しておくとこんな感じ。
>戦後のウィーンは、全体主義的な体制が台頭する以前の都市とは大きく異なっており、人々の記憶に残るウィーンの姿ともかけ離れていた。飢えと困窮、損傷した建物や社会基盤、そして依然として目に見える形で存在し続ける反ユダヤ主義。戦争終結後の全般的な状況は、人々を落胆させるものだった。
民主的な制度は速やかに再建されたものの、ナチス時代の過去に集団として向き合い、それを再評価するようになるまでには、なお数十年を要した。さらに、複雑な申請手続きや長期化する財産返還手続きによって、多くの被害者が補償を求めることを思いとどまらされた。
1946年までに、かつてのウィーン精神分析協会(WPV)の会員および候補生のうち、帰還したのはロンドンからのWalter Hollitscher、ブダペストからの Otto Fleischmann、フランスからの Robert Hans Jokl のわずか3名だった。最後のJoklはウィーンで再び生活の基盤を築くことができず、1947年にアメリカ合衆国へ移住した。また、帰還を予定していたJosef Karl Friedjungは、1944年3月、ハイファで亡くなった。
1946年4月、WPVはAugust Aichhorn (president)アウグスト・アイヒホルンを会長、Alfred von Winterstein (vice-president)を副会長として、正式に再開された。両者ともナチ党(NSDAP)に所属したことはなかった。協会の再開は国際精神分析学会(IPA)によって承認された。亡命したWPVの会員たちは、遠く離れた地から(from afar)祝辞を送った。
「あの古く、名高いウィーンのグループを再び活気づけることは、崇高な仕事です。その成功を心から願っています。」
アーネスト・ジョーンズ(Ernest Jones)からアウグスト・アイヒホルンへの書簡、1946年7月26日。
この解説では、二つの歴史が明確に区別されている。一つは、1946年という早い段階で実現したWPVの組織的再建の歴史、もう一つは、オーストリア社会がナチス時代の過去と集団的に向き合うまでに、数十年を要したという歴史。後者はオーストリア社会全体についての記述であり、WPVが組織として過去の検証を数十年間行わなかったと述べているわけではない。
この資料は、この文章のあと、数少ない帰還者のひとりであるWalter Hollitscherに焦点をあてる。彼は、帰還後、1946年のWPV再建に関わり、しかも、その後まもなく精神分析から離れた人物である。
資料にはこう書いてある。
>Walter Hollitscher
Walter Hollitscherは、1911年5月16日、ウィーンの上流階級の家庭に生まれ、プロテスタントとして洗礼を受けた。両親の別居後、父親とともにプラハへ移った。すでに中等学校在学中から共産主義運動に参加していた。1929年にウィーンへ移り、オーストリア共産党(Kommunistische Partei Österreichs:KPÖ)の党員となった。
ウィーン大学では、当初医学を学び、その後、哲学に転じた。1934年にはモーリッツ・シュリックの指導のもと、量子物理学における因果律についての博士論文を執筆した。
WPVの訓練候補生として受け入れられるため、1936年、Walter Hollitscherはアンナ・フロイトに宛てた書簡のなかで、「分析訓練を受けている間は、法律で禁止された政治活動を一切行わない」と約束した。
すでに1935年には、WPV会員のEdith Buxbaum と候補生のMarie Langerが逮捕されたことを受け、訓練委員会は、候補生が訓練期間中に政治的抵抗運動へ積極的に参加することを禁止していた。
Hollitscherは、Grete Bibring-Lehner および Willi Hofferのもとで訓練分析を開始し、医学の勉強も再開した。
1938年3月18日には、すでにウィーンを離れてスイスへ逃れることができ、そこで英国への一時滞在査証を取得した。ロンドンでは医学の勉強を続けるとともに、英国精神分析協会(BPS)で精神分析の訓練を継続した。
確固たる共産主義者であったHollitscherは、ロンドンのオーストリア・センター(Austrian Centre London)の活動にも積極的に参加した。この組織は1939年に自助組織として設立され、その後、亡命中のユダヤ人や、その他の政治的迫害を受けたオーストリア人を支援する、政治的・社会的活動に取り組む組織へと発展した。
1946年、Hollitscherはウィーンへ戻った。英国精神分析協会の代表としてWPVの再開記念式典に参加し、再建後最初の運営会議にも加わったが、1948年にはWPVを退会した。
彼はすでに精神分析に対する関心を完全に失っていた。精神分析をブルジョワ・イデオロギーの表現であり、非科学的で、思弁的で、非歴史的なものだと批判していたのである。
その後の数十年間、Hollitscherはドイツ民主共和国(東ドイツ)とウィーンで生活し、活動した。1965年から1977年までは、オーストリア共産党中央委員会の委員を務めた。
科学者、著述家として多作であったHollitscherは、マルクス主義の立場から、科学、哲学、心理学に関する約30冊の著作を執筆した。
1986年7月6日、Walter Hollitscherはウィーンで亡くなった。
1939年9月23日のフロイトの死からわずか2日後、September 25, 1939にHollitscherがアンナ・フロイトに送った弔意の直筆の手紙がこれに続く。
>親愛なるMiss Freud!
お父様の死が私にもどれほど大きな衝撃を与えたか、あなたにお伝えしたいと思います。
お父様は、私にとって唯一の偉大な権威でした。お父様がこの世を去られてから、私にとって世界は大きく変わってしまいました。(引用ここまで)
Hollitscherはすでに共産主義運動に深く関わっていた。その人物がフロイトを「私にとって唯一の偉大な権威He was my only great authority」と呼んでいる。後に精神分析を厳しく批判することになる人物が、1939年にはフロイトに非常に深い敬意を抱いていたことがわかる。もちろん、これらは両立する。1939年9月は、ドイツ軍によるポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった月であり、Hollitscher自身もすでに亡命生活を送っていた。そのような状況で書かれた、since he ceased to be among the living, the world has changed a lot for me.という一文には、フロイトという人物の喪失だけでなく、かつて自分が属していたウィーンの精神分析に対する喪失の情も含まれていたのかもしれない。この手紙からだけではわからないが。
資料の中で考えさせられたのは、1935年のWPV訓練委員会による政治的抵抗活動の禁止についてだ。オーストリアがナチス・ドイツに併合される以前から、WPVは政治的抵抗活動と精神分析訓練の関係について、組織的な判断を迫っていたということになる。以前、Marie Langerのことを書いたときに触れた気もするが、今はその資料を探す時間がない。おそらくどこかに、この規約がどのような議論を経て決定されたのか、候補生の安全を守る意図がどの程度あったのかなどは書いてあるだろう。
引き続き、歴史を辿り、日本の精神分析家である自分が属する社会にも注意を向けていきたいと思う。
参考文献:
カーシュナー,L. A.(編著)/筒井亮太(訳)(2026)『ウィニコットとラカンに学ぶ――臨床的対話とその思想』日本評論社。
原著:Kirshner, L. A. (Ed.). (2011). Between Winnicott and Lacan: A Clinical Engagement. Routledge.
第7章:ジャンヌ・ヴォルフ・ベルンシュタイン「ウィニコットとラカンの移行の空間」
西見奈子(2019)『いかにして日本の精神分析は始まったか――草創期の5人の男と患者たち』みすず書房。
ウィーンのジークムント・フロイト博物館(Sigmund Freud Museum)公式サイト
“Re-Establishment of the WPV and Return to Vienna”

