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斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』を読んだ。

コロナ禍によって依頼ではなく自発的に書くようになったという斉藤環先生の文章を集めた単行本。斎藤環著『コロナ・アンビバレンスの憂鬱 ー健やかにひきこもるために』2021年、晶文社。これらは主にブログサービスnote、つまりウェブ上で発表されたものだという。という、というか私も読んでいた。いくつかかなり話題になった文章もあり流れてきたものは読んでいた。

著者がいうようにnoteはどんどん書けてしまう場所だった。私はやめてしまったけど。運営の問題とか見聞きしていたせい。詳細がわからないので積極的に何かを言うほどでもないが、共謀することになってしまうのは嫌だな、という消極的な姿勢から。コロナ禍における「自粛警察」のこともこの本に書いてあるけど、ああいうのも迎合と共謀という感じがする。自分からいつのまにかなにかにまきこまれにいってた、なんてことは嫌だな、私は。途中で引き返すにももう色々コントロールが効かなくなってたりするかもしれないし、言い訳してその場にい続けることしか考えられなくなってしまうかもしれないし、適切に振舞える自信がない。だから違和感を持ったならとりあえずその違和感のほうに合わせた行動をとったほうがこれまでの経験から失敗が少ないように思う。具体的には、地道に情報を集めたり、自分で納得できていないのにすぐに動いたりしないように気を付けるとか。事柄にもよるけど。

何はともあれ紙媒体はいいですね。気ままに指や目を止めることができる。抑制がきく。

普段は医師として「当事者」と協力する著者だってコロナ禍では当事者だった。誰もそこから逃れられた人なんていない。実感を伴う第三者的ではない文章は共感を呼ぶ。一方、そこから哲学的な思索や議論が発展しなかったことは著者には不満として残ったらしい。しかし、わけのわからない事態に対して一定の方向性を持った言葉を与え、思考を巡らせるのはあまり早急ではない方が、とも思う。ここでも私は消極的なのかもしれない。なんだこれは、わけがわからないぞ、という混乱の中で狂わないこと、とりあえずそこにとどまるために今までの言葉で思考すること、まずはそれが安全、肝要な気がする。もちろん著者も何か新しい発見や変化をこの状況に見出そうとしているわけではない。むしろ著者が注目したのは私たちが普段当たり前なものとして、考えるどころか問題として取りあげたこともない事柄だった。ずっとそこにあったはずなのに可視化されていなかった事柄。

わたしたちは混乱すると躁的になったり退行したりしてそれぞれ様々な仕方で変化に対応しようとする。不安なのだ、とにかく。著者は医師なので診療の形式など実践面で何をいかに変更するのかしないのか、ということも考えざるをえなかった。私もそうだが、お互いが当事者である状況でどのように治療を続けていくのかについて考えるために必要なのはまずは正確な情報だ。しかしこれが今回はいまだに難しい状況にある。新型であり変異もする。なんという無力。とはいえ、人間にとってはそのような対象の方がずっと多いわけで、私たちにできることはごくわずかであることもみんなどこかではわかっている。今回の事態は特にそれを強く認識させた。この本は実践もかかれており実用的(198頁からの「穏やかにひきこもるために」など)だ。

一方で私は、「生き延びようね」という言葉が冗談ではなく交わされ、それが力をもったことも忘れないでおきたいと思った。私たちは無力だが、でもできるなら、とお互いに対して願うこと、それはどんな状態でもできると知った。

この本の内容にもっと触れたいけれど、あまりに多岐にわたるテーマをせっかく寄せ集めてもらったこと自体が貴重。ということで「まあ、読んでみて」となる。まず目次

どんな本だって「読むべき」とは思わないが、「社会的ひきこもり」に対する世間の理解を大きく変えた著者の思考が助けにならないはずはない。私たちはこんな形で突然生じたできるだけひきこもってという要請に対してどうしたらいいかわからなかった。

また、コロナがそのあり方を変えつつも、私たちが当初より混乱せずに事態に対応できているように見えたとしてもこの本で取り上げられていることはアクチュアルな話題であり、こう可視化されたからにはコロナを抜きにしてもアクチュアルであり続けるだろう。きっと可視化を待っている問題はまだまだある。でもわたしたちは危機と出会うまでそれとも出会うことはできない。だからいまだに続く不安と不自由に慣れることなく、不安だ、不自由だ、と感じ続け、根源的な問いを対話において考え続けると同時に、実用的な方法を身につけていくことは、著者がいうように「未来予測」にはなり得なくとも、マニック、あるいは万能的に傷つけ合うのではなく、地道に支え合う手立てとなってくれるだろう。

著者は、一対一の対面でも、オンラインのイベントでも、不特定多数に向けたメディアでも、変わりゆく情報に対応しつつ、幅広い話題や出来事において、特に差別や偏見が生じる場所に素早く言及することで、私たちがそれを思考することを促す。引用されるエッセイ、文学、アニメ、ニュースなども多岐にわたり、興味のある領域からはいればいつのまにか別の領域へいっていたという学び方もできる。

私が一臨床家としてこれらのことを考え続け、実際に手立てを練るなかで感じていたのは、事態に対応するときはそれまで変化しなかったことで守られてきたもの、可視化されなかったものに対する目配せも欠かせないということである。想いや願いが相手との関係に置かれるとき、それは大小問わず変化への誘因となる。だからたとえ不可避であったとしても、それが孕む暴力性を意識したい。それは臨床家としての私のこの2年間の実感でもあったし、それまでの実感がさらに強まったものでもあったように思う。