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俳句 散歩

久弥とか芭蕉とか抹茶クーヘンとか。

旅によって、特に能登半島地震のあと、能登にいくようになり自然と芭蕉のあしあとをたどることになったと書いた。先日ここで少し言及した芭蕉が立ち寄った石川県加賀市大聖寺にある全昌寺には芭蕉と曾良の句碑のほかにも大聖寺の俳人二宮木圭による「はせを塚」という句碑、そして『日本百名山』の著者である深田久弥が芭蕉忌に読んだ句の碑もある。久弥も石川県大聖寺の出身であり、俳号は「九山」いった。芭蕉と比べたらだいぶ最近の話になるが、高浜虚子もどこにいっても登場する俳人だ。群馬県高崎市の村上鬼城(1865〜1938)の記念館(ここもいいところだった!)にいったときも「虚子がここにも」と思った。虚子は交流の幅がとっても広いというか、虚子に指導をうけたい俳人がとっても多かったということだろう。「深田久弥 山の文化館」には久弥が入隊する際に虚子から送られた「梅凛々し九山少尉応召す」が紹介されていた。石田波郷とのことも書いてあった気がするがなんであったか。久弥は山梨県韮崎市の茅ヶ岳に登っている最中に死んだ。3月21日だった。命日は「九山忌」と呼ばれている。「山の文化館」のギャラリーには仲間が遺体をかついで下山する写真などもみた。登山口には直筆の「百の頂に百の喜びあり」の碑もあるそうだ。標高1,704mというそれほど高くない山なので今度のぼってみようと話している。久弥にちなんだ俳句が作れるかな。戦争が終わり、大聖寺に戻った久弥も「はつしほ句会」を主催したが、普通よりたくさん移動する人たちが句座を囲み、その土地の俳人を結びつけ、同時に外に開いていく様子は興味深い。もちものがいらない俳句だからできることでもある。言葉は貴重だ。

加賀では昨年いきそびれた那谷寺にもいった。バスの本数がなく行きはタクシーを使った。車窓からの那谷寺への道は芭蕉がみた景色を想像できる気もした。那谷とかいて「なた」と読む。白山信仰の寺である。「奥の細道」には「山中の温泉に行ほど、白根が嶽後にみなしてあゆむ。」とある。白根が嶽が白山。それを背にして歩く。すると「左の山際に観音堂あり。」。とある。観音堂、あれのことかな、と思い浮かべる。

受付で境内の説明をしてもらって立派な山門をくぐると境内はバスの時間までに回ってこられるだろうかと心配になる雄大さだったが印象ほど広くはなかった。自然の静けさも迫力も美しさもぎゅっとつめこんだようなみごたえのある寺で、まさに自然智の道場。那谷寺には大きな石でできた芭蕉の句碑がどーんと豪快に建てられていた。芭蕉がみた奇岩のイメージなのだろう。あんな奇岩をみたらいくらでも俳句できちゃうよね、と思うが、私一句も作っていない。記憶が新鮮なうちに作っておこう。


石山の石より白し秋の風 芭蕉


芭蕉が那谷寺にいったのは7月27日(新暦だと9月10日)。紅葉はまだはじまっていなかっただろう。でも秋の風があそこを吹いていたのだ。白い秋の風が。私はあの岩々に白さを見出すことさえ難しかったが芭蕉すごすぎる。


お寺のいり口にはたくさん人がいたのに境内を歩いているうちにひとはまばらになりそのうち誰も見かけなくなった。多彩な景色に驚きながら歩いていると立ち入り禁止の道がいくつかあり行ってみたいなあと覗きこんだりした。駐車場に戻ると観光地のそれという感じで食事処があるおみやげやさんがあった。寺の周りは特になにもないのんびりした田舎道で、キャンバスというバスを待っている間も楽しかった。胡麻豆腐が那谷寺名物だったらしいのだがチェックしておらず買ってこられなかった。残念。

結局食べ物かよ、そうなのよ、ということで、今朝はまたおみやげシリーズ。群馬県沼田市中町の洋菓子工房樫の木さんの抹茶のバウムクーヘン。ここ知ってるぞ。沼田には親戚がいて小さい頃は毎年天狗祭りにいっていた。大人になっていろんなところへいくようになって沼田にもなにかの帰りに寄ったときにかわいいお店をみつけて寄ったのがここだった。私の記憶ではそのそばに小さなショッピングセンターがあってその3階かなにかで卓球をしつつ(昔は結構いろんなところに卓球台あったよね)、ベンチでそこのバウムクーヘンを食べた記憶があるのだが一緒に行った人は覚えていないのでまた私の記憶があっちゃこっちゃのと混ざっているのだろう。似たようなことをいろんな土地でしているからな。抹茶クーヘンはカルディの珈琲と一緒にいただいた。おいしかった。やっと珈琲も補充したし新しい週もがんばりましょう。このまま涼しいといいね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

多分オナガ。
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俳句

金子兜太とか芭蕉とか。

今朝はくもり。昨晩は少し寒く感じた時間もあった。今年の夏も40度近い暑さを覚悟していたが拍子抜けするほど涼しい日もあって大変ありがたい。

今月はオンライン句会と結社誌への投句が重なった。オンライン句会は毎月、結社誌は季刊なので年4回なので4回は一日に15句作ることになる、というのは嘘で、一日に15句作らなくても済むように毎日作っておけよという話である。私は複数のことを同時にすることが大変苦手なので臨床とそれにまつわる勉強を循環させる以外の事柄がタスクに入ってくると全体の稼働率がどーんと下がる。というのもまったくの言い訳で、一日に15句、わりと短時間で作ることを年4回はやってきたのだから一日一句くらい作っておけよ、やはりそういう話なのである。あーあ。今回も旅の景色のおかげでなんとかできたけどもっとリズムをつけていかないと好きなことを自信をもって好きといえなくなりそう。

とはいえ、なにかと思い出すのは俳句でもあり、昨日は金子兜太の俳句をあれこれ書き出していた。81年前、戦争が終わったとはいえ、その記憶にいまだ苦しめられ、さらに世代間で伝達されたそれの影響も深刻だ。

1919年に生まれた金子兜太は戦争を経験している。戦地トラック島でも句会を開いた話は有名だろう。

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太

餓死した人を思いながら作った俳句だという。言葉や文学がもつ記録と伝達の力が必ずしもよきものとされない現代、戦争によって人間性まで奪われそうになりながら言葉を失っては取り戻してきた俳人が残してくれたものを大事にしたい。

芭蕉も古人の思いを俳句によって再び息づかせた。江戸時代初期というのか(中期か?)、徳川家光の時代に生まれ、家綱時代に伊賀上野で着々と実力をつけ大江戸に向かい、大阪の西山宗因の連句に触れ、俳壇活動に乗り出し、門人を集め、綱吉の時代には自らも認められ元禄文化を代表する人物になった。こう書くと、やはり戦争のない時代はいい。芭蕉は『荘子』の哲学に支えられて俳諧、俳句を滑稽、通俗というイメージからひきあげて文学とした。もちろん時代が異なるとはいえ、昨年の大河ドラマ「べらぼう」で描かれたようにひとつの文化が残れるかどうかのプロセスもまた戦いだろう。

よく見れば薺花さく垣ねかな 芭蕉

君や蝶我や荘子が夢ごころ 芭蕉

芭蕉は51歳で死んだ。金子兜太は98歳まで生きた。

白い人影はるばる田をゆく消えぬために 金子兜太『少年』

力強い決意によって生きた先人たちに励まされつつ、言葉が大切にされる世界を念じつつ、今日もがんばろう。

散歩してたら立ってた。