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精神分析 精神分析、本

ケースメント、ラプランシュ、スカルフォン

昨晩?今日?の0時をまわった頃の地震、びっくりした。色々と家事を終え、少し勉強せねば、と思いつつぼんやりしていたらメールがきた。PEPからで、一番上に載っている論文を見て驚いた。ケースメント?まだ書いていたのか。

Casement, P. (2026). Hidden Infantile Trauma in Adult Anxiety—Where Spock Was Wrong. Attachment: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis, 20:1-4.

ケースメントが臨床から退いたことや病を患っていることはいくつかのインタビューなどから知っていた。Legacy Interview Seriesでは自宅のベッドでインタビューに応じている。映像のケースメントは、声にも張りがあり、明瞭に話す。

それにしても、この論文、スポックとはあのスポック博士ですよね。サマリーを読むと

「マテーブランコ(Matte Blanco)の「無限集合(infinite sets)」の概念(1975)を援用しながら、無意識において時間がどのように働くのかを例示する。」

とある。どういう思考なんだろう。とても気になる・・・となったところで「うん?揺れてる?」「あ、地震!」となった。

「無限集合としての無意識」(マテーブランコ)における時間論か。精神分析における時間論は、私もこだわっているが、にわかにレジェンドたちの思考が集まってきた感じがある。

そういえば、ケースメントは、この論文でA personal example also illustrates how infantile “body memory” works.とも書いている。

「患者から学ぶ」「あやまちから学ぶ」「人生から学ぶ」(岩崎学術出版社)ことを続けてきた人が、今度は自分自身の身体からも学ぼうとしているわけか。本当にすごい。

さて、私の中で精神分析における時間論のレジェンド•オブ•レジェンドといえば、フランスの精神分析家、ジャン・ラプランシュである。「ラカンとは別の「フロイトへの回帰」を提唱したジャン・ラプランシュ」(十川、2018)。日本では、ラプランシュ独自の欲動論、時間論の基盤となる以下の3冊がきちんと訳されているのが大変ありがたい。一冊は辞典だが、これも同時期の著作との関連で読まれる必要があるだろう。

Laplanche, J., & Pontalis, J.-B. (1964). “Fantasme originaire, fantasmes des origines, origine du fantasme.” Les Temps modernes, 215, 1833–1868.

英訳:Laplanche J, Pontalis J-B (1968[1964]). Fantasy and the origins of sexuality. Int J Psychoanal 49: 1-18.

邦訳:ジャン・ラプランシュ/J.-B.ポンタリス『幻想の起源』福本修訳、法政大学出版局、1996年

Laplanche, J., & Pontalis, J.-B. (1967). Vocabulaire de la psychanalyse. Paris: Presses Universitaires de France.

英訳:Laplanche J, Pontalis J-B (1973[1967]). The language of psychoanalysis,Nicholson-Smith D, translator. International Psycho-Analytical Library 94: 1-497. London: Hogarth and the Institute of Psychoanalysis.

邦訳:J.ラプランシュ/J.-B.ポンタリス『精神分析用語辞典』村上仁監訳、みすず書房、1977年

Laplanche, J. (1970). Vie et mort en psychanalyse. Paris: Flammarion.

邦訳:ジャン・ラプランシュ『精神分析における生と死』十川幸司・堀川聡司・佐藤朋子訳、金剛出版、2018年

それぞれの邦訳の解題も大変参考になるが、全体を見渡すには ドミニク・スカルフォンのScarfone, D. (2013) A Brief Introduction to the Work of Jean Laplanche. International Journal of Psychoanalysis 94:545-566がいい。

スカルフォン自身が展開する理論にも私は惹かれているが、彼がラプランシュの優れた研究者でもあることは覚えておきたい。

せっかくなので(?)スカルフォンが『精神分析における生と死』に関して書いた部分を試訳しておこうと思う。欲動論に関心のある人は少ないかもしれないが、欲動論なくして精神分析はないし、フランスの精神分析家たちの本を読むなら、フロイトへの回帰はどうしても必要だろう。

以下、試訳。どうぞよい一日をお過ごしください。

精神分析における生と死

(Scarfone, D. (2013) A Brief Introduction to the Work of Jean Laplanche. International Journal of Psychoanalysis 94:545-566より)


私が別のところで示唆したように(Scarfone, 1997)、ラプランシュの研究は、まずフロイトの理論を解き広げ、次にそれを凝縮して焦点を絞る、という一連の過程を通じて進むと言える。解き広げる過程は、分析家が平等に漂う注意をもって聴くことにも似ている。それに続く凝縮の過程で、ラプランシュは論点をいくらか明確にし、自分自身の結論を引き出す。たとえその結論をもう一度解き広げ、新たな研究の循環を始めることになるとしても、である。
『プロブレマティーク』シリーズ(Laplanche, 1980–92)には、パリ第七大学における長年の研究と教育の成果が収められ、それは重要な著作『精神分析の新しい基礎』(Laplanche, 1989[1987])へとつながった。それ以前にも、『精神分析用語辞典』の執筆を支えた、フロイトの著作全体をいわば開いていく長い研究過程があった。その成果は数年後、ラプランシュが単独で書いた重要な著作『精神分析における生と死』(Laplanche, 1976[1970])に、同じように凝縮された。これらの著作のいずれにおいても、ラプランシュが1968年の論文「フロイトを(用いて)解釈する」で提案した方法を用いていることが見て取れる。
『精神分析における生と死』では、フロイトの『性理論三篇』、『科学的心理学草稿』、『快原理の彼岸』などの主要なテクストが綿密に検討される。しかしラプランシュは、ただ読むだけではない。フロイトの考えを問いとして立て、その問題点を批判的に検討する。この本の各章は、生を維持する秩序と性の発生との関係から始まり、フロイトの著作全体の構造において死の欲動が果たす機能への問いへと至る、一つの軌跡を描いている。ラプランシュが問うのは次のことである。フロイトの精神分析が生物学と接する位置にあるのは明らかだとしても、それを生物学に還元できるのだろうか。できないとすれば、精神分析に固有の領域は、その境界に位置する生や死といった基本概念との関係で、どのように成り立つのだろうか。
ラプランシュによれば、フロイトの『性理論三篇』の第一篇「性的な逸脱」は、精神分析の思考が適応の心理学からいかに抜け出したかを示している。性欲動は、生殖本能とはほとんど、あるいはまったく関係がない。ラプランシュは、この篇には「失われた本能」という副題を付けてもよいだろうと述べた。しかしフロイトが性的な逸脱を論じたのは、本能が偶然失われた事態を記述するためではない。むしろ、ラプランシュが明らかにするように、フロイトが捉えようとしたのは、人間の性の全体が逸脱を含むということである。人間における性的なものの領域それ自体が、規則正しく働く生命維持の秩序から見れば「逸脱した」領域なのである。ここに人間に固有の例外性があり、その領域を適応の領域から区別することに精神分析の固有性がある。
『精神分析用語辞典』の準備中に見いだされた「依託」(ストレイチー訳では anaclisis)という概念は、一方の適応にかかわる生命維持の秩序と、他方の欲動にかかわる性的な秩序を画するために用いられる。依託について、しばしば誤解される点がある。この概念が区別するのは、心的なものと生物学的なものではない。心的な要素も生物学的な要素も、この概念が引く境界の両側で働いている。したがって、アタッチメント理論が今日ほど広まっていなかった時代にも、ラプランシュは、適応にかかわる側面に心理的な次元が含まれることを疑っていなかった。
肝心なのは、心理的な領域一般と、精神分析が扱う心的な領域を混同しないことである。心理学的現実は、突き詰めれば人間あるいは動物の脳の働きのうちに位置づけられるかもしれない。他方、精神分析でいう心的現実は、人間に固有の現実と結びついている。そこでは、これから論じるように、他者とその他者のメッセージが第一義的な位置を占める。そのメッセージは、明確な意味を伝える一方で、送り手自身も知らぬまま、決定的な重要性をもつ謎めいたシニフィアンを運んでいる。ラプランシュはこの心的現実を、最終的に「メッセージの現実」と呼ぶ。それは精神分析が関心を寄せる第三の現実の範疇であり、言葉を話す以前の乳児(infans)の心身に作用する現実である。
このように、依託は、心的なものを身体的なものから切り離すことを意味しない。そもそも心と身体の関係を扱う概念ではない。ラプランシュによれば、動物か人間かを問わず、動物行動学が扱うのは本能(Instinkt)である。それに対して依託は、欲動(Trieb)の出現を理論化するための第一歩となる。のちにラプランシュは依託の概念を批判し、誘惑こそがその真理だと主張する。それでも依託の検討は、ラプランシュの研究方法をよく示している。まずフロイトの著作のなかで際立たせ、その後に批判する必要があった結節点の一つなのである。ラプランシュ(1993)の言い方を借りれば、この概念をめぐっては容易に道を踏み外してしまう。
とはいえ依託は、フロイトの思想の重要な点、すなわち、精神分析的な意味での性的なものの領域を、生命維持にかかわる心理生物学的領域から区別することを理解する助けになる。しかし、領域を区別することと、その起源を説明することは同じではない。まさに起源の問題を出発点として、ラプランシュは依託の「生物学化する」側面を批判し、代わって一般誘惑理論を提唱することになる(後述)。
この依託批判は、『精神分析における生と死』で、フロイトの『性理論三篇』の最終部分を論じたときに、すでに始まっていた。その部分には「取り戻された本能」という副題を付けられるかもしれない。というのも、依託を自然的な機制として捉えると、かつて本能から区別されたはずの性的なものとその起源が、再び本能の領域に取り込まれかねないからである。ラプランシュは、依託では、生命維持の秩序から欲動にかかわる性的な領域がいかに生じるかを説明できない、と強調する。依託をそのまま受け取ると、まるで蕾から花が咲くように、自己保存から性が生じるかのような印象を与える。
ところが、人間の自己保存には著しい不十分さがあり、まさにそのために性的なものが前面に出てくる。依託が働くとしても、それは生命維持から性的なものへ、そして性的なものから生命維持へという、双方向の働きでしかない。性的なものはさまざまな形をとって、自己保存の不十分さを補うことになるからである。実際、自己保存が脆弱であるためには、他者、すなわち援助する他者の介入が必要となる。これはフロイトが『草稿』で言及した Nebenmensch、つまり「隣人」である。その介入によって、性的なものは必然的に重要な役割を担うことになる。
この他者は、根源的な寄る辺ない状態(Hilflösigkeit)にある乳児の必要に、可能なかぎり応じようとする。しかし同時に、その人は必然的に、抑圧された無意識をもつ存在でもある。その無意識が、大人と子どものあいだの相互適応の関係に、ある程度入り込む。こうして、抑圧された性的なものという「混入物」が、愛着関係を運ぶ波に密航者のように乗って伝わる。したがってラプランシュが示唆するように、依託が働くとしても、それは援助する他者の介入に伴って副次的に生じる機制としてでしかない。
適応の領域と欲動にかかわる領域、すなわち性的なものとの単純な境界線から、のちにラプランシュが「根本的な人間学的状況」と呼ぶものが現れてくる。それは、あらゆる人間が、謎めいたシニフィアンに満ちた世界に生まれるというだけで置かれる状況である。その世界には、大人という他者の抑圧された性的なものによって「巻き込まれた」メッセージが満ちている。人間においては、このように性的な秩序がつねにすでに生命維持の秩序に重なっている。この点には、あとで立ち戻ろう。(以上)

小雨降る新宿中央公園。誰もいなかった。