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精読の醍醐味

と、まあ、なんと時間のないことよ。とりあえず書くけど。

土居が『精神療法と精神分析』で述べたこと、特にここまで私が引用してきたことは、その16年後の1977年の『方法としての面接』にほとんど書いてある。「劇としての面接」という章立てもある。これはこれで土居が臨床経験を積み、精神療法を教える立場になり、大学紛争を経て、より広い意味での診断的考察や精神科臨床の基本に関する本を記す必要性のもと書かれた本であり、臨床家がまず読むとしたらこちらだろう。

しかし、精読の醍醐味である、著者の思考への同一化を味わいたいなら『精神療法と精神分析』のほうが断然面白い。ここにはまだ「方法」になりきっていない土居の思考の動きの痕跡がはっきり残っている。1990年代になると土居の文章は雰囲気はそのままだが、もっとすっきりしてしまう。

平井靖史は『はじめてのベルクソン』で以下のように述べる。

‟歴史にも同じ構造があります。「あの事件が時代の転換点だった」という語りは、その後の展開を知っている者だけが構成できる。明治維新も、後から見れば日本近代化の出発点として語られます。しかし渦中を生きていた当事者には、それが何の始まりなのかは見えていません。何が決定的で何がそうでないかの区別すら存在していなかった。歴史の筋書きは、つねに結末から遡って編まれます。出来事の「意味」がその後の展開に応じて変わり続けるということ自体が、時間の未完了性を示しているのです。”

土居はもう死んでいるのでこれ以上書くことはない。なので、最後の方の著作のほうがすっきり洗練されたことが書いてあるのは当然と言えば当然だが、実はこれはそんなに当然ではない。ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』でみせたような飛躍は土居にはなさそうだ。土居の思考の動きは臨床家ならではだろう。臨床は常に患者とともにある。だから「臨床」なのだが。患者をおいてひとりでどこかへいくことはできない。どこかへいったとしてもまたいつもの時間、いつもの場所に戻ってくる。精神療法は特にそうだ。そうやっていつまでもその基盤を確かめるような作業を繰り返す毎日だからこそ日常語が大事になる。

今日はすごく風が強い。昨日は名古屋の様子を映像でみてびっくりした。電車も大変なことになっていた。どの地域も安全に一日が過ぎるとよいが。どうかお気をつけて。今日もよろしくお願いします。

初台もお祭りかな。