昨日は久々に傘がいらない一日だった。連日の雨で木も花もぐったりしているが、これからはそこから水分が失われていく。新宿中央公園の木々のざわめきもカラカラという音が混じるようになってきた。
さて、昨日の朝は、精神分析的概念が実践によって吟味されつづけ、更新されつづけるという話をした。それは概念の定義が変わるということではなく、その概念が成立するまでのプロセスに含まれていたさまざまな要素に、実践を通してあらためて気づかされることなのだと、私は考えている。
昨日、紹介した27人の精神分析家が信条を語る一冊、Psychoanalytic Credos
Personal and Professional Journeys of Psychoanalysts(2022)の編者、Jill Salbergは、昨年、国際精神分析学会(IPA)のジャーナルに終結時のエナクトメントに関する論文を載せた。
Salberg, J. (2025) Crises and Enactments while Ending Treatment. International Journal of Psychoanalysis 106:661-679
サルバーグもまた、ある被分析者との経験を通して、概念の意味をあらためて問い直すことになった体験を書いている。
終結に関しては、フロイトの『終わりのある分析と終わりのない分析』におけるフェレンツィとの態度の違いが、ひとつの焦点となるだろう。サルバーグは、フェレンツィがトラウマと、それが患者の人生や発達にもたらす影響を重視したことこそが、彼の技法上の実験を推し進めた、と述べる。フェレンツィは、早期トラウマは必然的に、何らかのかたちで転移―逆転移経験のなかに再現されると考えていた。そしてサルバーグは、フェレンツィのいう re-livingのなかに、今日エナクトメントと呼ばれているものを構成するひとつの重要な要素を見出している。
フェレンツィは、フロイトがフェレンツィの分析を継続せず、陰性転移を十分に扱わなかったことに怒りを感じていた。ただし、だからフェレンツィが終結について独自の考えをもつようになった、ということではないだろう。フェレンツィ自身は、患者が必要とするかぎり分析にとどまることを許容し、分析家の一方的な決定によって分析を終結させるべきではないと考えていた。そうした考えをもつフェレンツィにとって、自分の分析家であるフロイトが同じようには考えてくれなかったことは、不満として残ったのだろう。
Ferencziはこう書いている。
「分析が適切に終わるのは、医師も患者もそれを終わらせるのではなく、分析が消耗し尽くして自然に死ぬときである。……真に治癒した患者は、ゆっくりと、しかし確実に分析から自らを解放していく。患者が分析に来ることを望んでいるかぎり、分析を続けるべきである」。
先述したように、フェレンツィは、フロイトへの不満があったから患者を長く留める技法を採用した、という読みかたはしない方がいいだろう。あまりに多くの文献が、個人の技法や思想を特定の誰かとの個人的葛藤に還元してはいないだろうか。もちろん、そういう側面はあるにせよ、もし精神分析を体験した精神分析家自身が、自分の技法や思想についてそのように考えるのであれば、それはまだ分析の初期のプロセスにおける理解ではないか、と私は思う。
フェレンツィの場合、それこそ「信条」の違いが、終結のプロセスで十分に扱われなかったことが問題だったのではないか、と私は考えている。サルバーグもいうように、完全な治癒をもたらす分析というのは、きわめて楽観的な信念である。分析の終結とは、それまでにすべてが十分に分析されたことを意味するわけではない。むしろ、終わることによって、それまで二人のあいだで見えなかったものが初めて姿を現すことさえある。
サルバーグは、終結のプロセスで生じた、それまで見えなかった危機を、Baranger and Baranger(2009)が砦bastionと呼んだものとして理解している。
「[分析の]場の内部には、分析過程を遅らせ、あるいは麻痺させる、動きを止めた構造が存在する……それは、暴かれてはならない愛着を守るため、二人の主人公の共謀によって、無意識のうちに、沈黙のなかから生じる」(Baranger and Baranger, 2009)
この「砦」は患者側のものではなく、二人で作った構造として理解される。終結は、被分析者と分析家が暗黙のうちに維持してきたon-going-nessを失わせる。砦はそこで初めて危機にさらされ、エナクトメントとして姿を現す。これは、既知の概念が、その概念にすでに含まれていた新たな要素とともに、実践の側から立ち現れてくる例といえよう。
「すでに含まれていた新たな要素」というのは、矛盾した言い方に聞こえるかもしれない。しかし、精神分析における時間を考えるなら、むしろこの矛盾が必要だと感じる。後になって新しい意味が付け加えられるというだけではなく、現在の経験によって、過去に何が含まれていたのかが新たに見えてくる。そうした経験と理解とのあいだの時間的な隔たりに意識的であることは、実践によって概念が更新されることを説明する場合にも必要なのではないか、と思う。
もうこんな時間だ。今日はどんな一日になりそうですか。良い週末になりますように。

