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散歩 精神分析

すずなり、無意識

先日、名古屋の知らない駅で降りて横断歩道を渡り終えたら後ろからおばあさんが呟いた。「すずなり」という言葉だけが聞きとれた。なんだろう、とキョロキョロ横を向いたり上を向いたりしていたら結構高いところに柿がすずなり!小さな丸いオレンジがたくさん。鈴なり、まさに。昨晩、いつもの遊歩道に小さな柿が落ちていた。こんなところに柿あったっけ、とまたキョロキョロ。あった。この狭い道だとその高さは見ないな、見えないな、という場所に柿がすずなり。あのおばあさんのことを思い出した。私に話しかけてくれたのかなあ。少し距離があったから柿を見つけてそのすずなりぶりにびっくりしてなんとなく後ろの方にいるおばあさんに会釈をしただけだった。教えてくださってありがとうございます。自分では見つけられない景色、毎日歩いてたってそうなんだからましてや知らない街でなんて。声を大事にしたい。

エレンベルガーの『無意識の発見』を少し読み直した。無意識を発見したと言われる第一人者のフロイトだが、それを発見させたのはブロイアーと一緒に治療した「アンナ・O」と言われた患者だ。後にアンナ・Oはベルタ・パッペンハイムという社会事業の先駆者であるとわかるのだが、エレンベルガーはこの治療の成果に関する嘘を指摘している。実は、患者もフロイトもこの治療は失敗だったと言っていた。ブロイアーはこれでフロイトと離れるわけだが、フロイトがブロイアーの非難をするのは『ヒステリー研究』の20年後だ。精神分析の設定はこの頃まだ使用されていない。ブロイアーは開業医であり、診察と入院によって彼女を治療していた。つまり無意識はカウチの上で発見されたのではない。もちろん無意識という言葉自体はずっと以前からあったわけで、しかし現代はそれはほとんど重要視されないわけで、それでも精神分析はそれについて考え続けているわけで・・・。うーん、いろんな気持ちになるが自分の立場を明確にしないことには前提の修正もできない。ふわふわと周りで何かいうことは簡単だが患者がいて自分がいてという状況が現実にあるのだから歴史の見直しと思考は続く。

今日もがんばろう。

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俳句 散歩 趣味

霜田あゆ美さんの個展。

朝焼け。昨日は夕暮れもきれいだった。オフィスにいると西の空は見えないのだけど高層マンションの窓に映る。紅葉もしてきた。きれいに色づいた大きな木から鳥たちがたくさん出てきて驚いたり、野良猫が急に横切ったり、いろんなところでいろんなことやものを目にしている。はずなのに俳句が作れない。

俳句日めくりカレンダーに載っていた秋の鳥の俳句。

鶺鴒や廊下の窓を拭く係 加藤かな文

海光に浮力のありて鳥渡る 今瀬剛一

うーん。なぜこういう言葉を思いつくのか。言われてみれば知らない言葉では全然ないのに俳句として成り立つ言葉選びができるのがすごい。先日名古屋で場所を変えぬ川鵜を3羽みた。その対岸や川中で白鷺がアクティブなのと対照的だった。どちらも季語としては夏だから今使うなら「冬の川鵜」とかにする必要があるのだろう。「月」は秋以外は「春」「夏」「冬」をつける。月といえば秋ってことで。私はどの季節も「鳥ー」「月ー」と毎日呟いているけど季節は全体として感じることが大切ね。

先日、句友のイラストレーター、霜田あゆ美さんの個展に行った。今年もあゆ美さんのカレンダーを入手できた。昨年はあゆ美さんが作るのが間に合わなかったとのことでたまたま出会えたあゆ美さんの師匠の安西水丸さんのカレンダーを飾っていた。毎回、とても素敵な作品ばかりで全部ほしい!と思うけどそれでは我が家やオフィスがギャラリーになってしまう。それ以前に買えない(労力を思えば安すぎる値段ではあると思う)。しかし、私のオフィスには一点だけあゆ美さんの作品があるのだ!なんとなんと。前回か前々回の個展ですっごく気に入って買わせてもらった。毎日見られる場所にお迎えできるなんてなんと幸せ。今回、これが素敵、これが好きと話していたらあみさんは変なのが好きと言われた。そうなのよ。あゆ美さんのイラストはとってもあたたかくてちょっと変なのが多いのよ。そこが大好き。今回は布を使った作品もあってそれもとってもよかった。生地であんな色が出せるのかあ、と思った。技術的には出せるのだろうけどあゆ美さんの使う色の組み合わせがすごいんだよね。とってもときめいた。表参道のそのギャラリーに行くのははじめてではなくて迷わずにいけたのだけど作品をみていい気持ちになっていたら帰りは迷ってしまった。あの辺は何もない方に出てしまったら逆へ行けば大抵どうにかなる、とわかってるけどこの方法は全然学びにはならない。なので私は毎回迷っている。行きは一生懸命地図とか見るけど帰りはいろんな素敵な作品で頭も心も満たされちゃってるからねえ。個展は今日まで。小さなギャラリーだけど見応え十分。幸せだったなあ。お時間あればぜひ。

さてさて今日もいきましょうかね。色々どうにかなりますように。

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お菓子 精神分析 音楽

紅茶、人それぞれ

朝焼けがきれい。鳥たちが賑やか。熱いハーブティーと友人の紅茶のパウンドケーキ。戦後消滅しかかった国産紅茶(丸子紅茶)を復活させた村松二六さんの淹れてくださったミルクティーから着想を得たとのこと。静岡県に丸子という地名があるのですね。「まりこ」と読むのか!ちびまる子ちゃんも静岡だしね、とか思っていたのに。東海道の宿場町のひとつですって。宿場町は楽しいですよね。行ってみたいな。丸子紅茶も買ってきたい。お茶って葉っぱとしては緑茶、紅茶、烏龍茶、みな同じ。最初に知った時は驚きました。静岡の親戚のお茶畑でお茶摘みをしたことがあるけどものすごく大変で地道な作業。お茶のおかげでほっこりできる毎日。ありがたいことです。何事も丁寧な作業は大切。私は毎回原稿も俳句も当日過ぎてよくない。日々繰り返す作業に変えていかないと。今日締め切りの俳句もまだ作ってない・・・。複数のことを同時にするのが苦手だということは十分わかっているのだけど苦手すぎて自分の理解を超えている。あっという間に注意が逸れたり忘れてしまう自分に驚く。学会の発表原稿も時間を間違えていて結局当日の朝に書くことになったし。友達には「いつものことだよね」と笑って応援してもらえたが。私もいい加減直さないといけないがこうやって受け入れてくれる存在がいるとその場その場で助けられる。ありがたいことです。duolingoのフランス語は38日間続いている。今も一回やったから39日間。こうやって思い出したときにやるようにしてるからなんとかなってる。5分もかからないからNHKの講座より注意が逸れない。人の話をじっくり聞くのはできるのに対面でない講座は聞けない。人にはそれぞれいろんな特徴があるものですね。あとは心身の状態で感じ方や行動は変わってきてしまうから無理せず行くのがやっぱり一番いいかな。精神分析とか受けると結構「無理かも」と思う瞬間は増える。最初は週4日通うのに疲れるけど身体の疲れはリズムができればなんとかなる。学校に毎日通っていたことを考えれば。私は通っていなかったけどなんとかなった。身体化はすると思う。どうしても自分ではどうにかできないものが出てきてしまうから。知的な作業では全く追いつかないスピードでこころって動くから。だから「もう無理」という瞬間が何度も訪れる。だから密で硬い構造が必要。生身では守れないけど構造で守れるとして構造に対する吟味は常に必要。単に頻度とかそういう話ではない。こういうことは延々考え続けている。今日の隙間時間は俳句のことだけ考えねば。

さて今朝はクリスマス・ジャズのプレイリストを流していた。Norah JonesのChristmas Callingはとてもいい。東京はいいお天気。どうぞよい1日を。

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お菓子 精神分析

とりあえず

少し遅くなってしまった。鳥たち元気、というかとりあえず鳴いている。でもやっぱり大きな声で鳴けているというのは元気ってことでしょうか。人間だと概ねそうで、かなり早めに出してあげないと死んでしまうかもという状態で生まれた赤ちゃんが大きな泣き声をあげたときにみんな「ああ、泣いた」とまずは健康な機能の存在を思って安心したりする。

週末は名古屋にいた。大学の医学研究室ってはじめて入ったかも。そこでこじんまりと精神分析と訓練について話させていただいた。みなさんのいろんな思いも聞けてよかった。ひとつひとつ具体的に考えようとしても知らない世界のことはかなり想像しにくい。これからのライフプランを具体的に考えたところですぐに思った通りにいかない事態が生じるのと同じ。それはどっっかでそういうものとわかっていたはずのことかもしれないけれど。何かを知るには良くも悪くもモデルが必要だし、まあとりあえず、ってやってみることも大事かもね。

今朝はチーズケーキの残りとハーブティ。週末はお菓子もたくさんもらって元々ある我が家のお菓子と合わさってすごく豊富。ぬいぐるみとならお菓子屋さん開ける。年末の蓄えができた感じだから安心して11月を満喫しないとね(なんのこっちゃ)。今週もがんばれたらいいね。起きたり寝たり食べたりとりあえず必要なことを。

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お菓子

白湯、お菓子

鳥の声が聞こえない。テレビをつけた。柳家わさびが落語やってる。とても久しぶりにみる、といっても流してるだけでこうしている。時折聞こえる笑いが心地いい。そして今朝も白湯。少しまだ熱い。俳句を作らねば。締切が近い。白湯は季語ではないと思うけどいいかも。ようやく温かい飲み物がおいしい季節がきたし。何と合わせたら類想にならないかな。

白湯一椀しみじみと冬来たり 草間時彦

草間時彦は食べ物の句が有名な俳人。1920年(明治30年)に東京生まれ、鎌倉育ち。この前鎌倉に行ったけどあまり句碑に出会わなかった。句碑って意外とどこにでもあるし長谷寺とかにはあるから私が歩いた場所になかっただけか、私が見逃しただけかもね。

秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦

週末はこういう人も多かったかもしれない。酒のつまみはなんでもいいけど言葉だけじゃもちろんダメ。私が最近食べた珍しいつまみは「あん肝の奈良漬け」。ほぼ奈良漬けなんだけどきちんとあん肝。こういう取り合わせって日常ではそうと知らずやっていたりすると思うけどお店で出そうと思った人ってどんな気持ちだったのかな。でもこうやって消費者の「あん肝の奈良漬け?なんじゃ?」という興味をそそるわけだから素晴らしい。珍しくて美味しい食べ物にたくさん出会いたいな。昨日は山形の方にはじめてみるお菓子をいただいてすごく嬉しかった。「梅チョコスティック」。なんとなんと。山形の名産品「のし梅」を使っているそう。おしゃれな箱。ブランデーとかウイスキーに合うとのこと。私はブランデーもウイスキーもほとんど飲んだことがないけどやってみたい気はする。土地が変われば食べ物も変わる。旅先でお土産を探すとその土地の名産がいかに多くのものにアレンジされているかわかる。干物とかほぼそのまんまみたいなお土産も豪華でいいしこんなものまでお菓子にしてしまうのかみたいなお土産もいい。今日はどんなものと出会えるかなあ。

四国、沖縄が雨で大変とのこと。断水や停電も。そういうときどうしたらいいのだろう。どうか被害が広がりませんように。

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未分類

早起き

いつもより早く起きてしまった。まだ世の中は暗い。世の中といったら朝昼関係なく暗い、と一瞬思ったが暗いばかりでもないかと思い直す。お湯が沸こうとしている音がする。最近はもっぱら白湯。昨日は自販機の水もお茶も売り切れていて何年振りかに缶コーヒーを買った。意外に美味しく、温かい飲み物というものを欲していたことがわかった。コーヒー自体、あまり飲む方ではなかったが3年くらい前によく飲むようになり、多分カフェインのせいで調子がさらに悪くなりあまり飲まないようにしたら少し改善した、気がする。カフェインの悪影響を色々知ったというのもそんな「気」に影響しているのだろう。まだ起きる必要がないのにぱっちりしているのがなんだか勿体無くて足癖悪く布団を適当に巻き付けたりしながら寝ようと試みたが眠れないのでこうしているが、多分こうしているといつのまにか寝ている。頭を少し使うとすぐに眠くなる。こういう時間に読むべき論文がたくさんあるのに。注意力のなさにも日々自分で驚く。友達が教えてくれたアプリでフランス語の勉強を始めたがアプリが何か言い終わる前に次をタップしてしまう。ああ!と思っても前には戻れない、そのアプリ。結局間違いとなるがそういう間違いにもきちんと立ち止まらないので学ばない。脳科学の発達は素晴らしいけど私個人にどう生かしたらいいのだ。こういうの治るのかな。というか治す必要ないよね、と思うから困ることはあれどモンダイはないのだ。困るのは問題ではないのか、といえば問題かもしれないが困りごとのない人生なんてないだろう。おおむねいつも通り動ければよしとしている。そのアプリでいえばそういう私のために、というわけではないが間違ったところを何度も何度も形を変えて繰り返し提示されるのでいいかげん覚える、という仕組み。時間が経てば忘れるのだろうが、というか実際私は以前通っていたとは思えないほどフランス語を忘れているわけだがうろ覚えのものがあるだけでもちょっと嬉しくなるからモチベーションは高いほうだと思う。この前、私がアプリの登場人物の口調も真似していたら「それも真似しないとなの?」と素朴に聞かれた。もちろんそんなことはない。でもつい真似してしまう。シャドーイングとかもこのノリでやればいいのかもしれない(何度も挫折している)。昨日はあまりお花に会えなかった。日々キョロキョロしてお花探しをしているのだが。でも紅葉には少し会えた。かわいい実も見かけた。木にかかっていた札を見て覚えておこうと思って何回も繰り返したのに忘れている。やっぱり。あ、モッコクだ。鳥たちもたくさん鳴いていてあの実を食べにきているのかな、と思ったけど鳴き声ばかりで姿があまり見えなかった。鳥って目を凝らすとすごい数の鳥が木に留まっているのに全然見えなかったりするから面白い。鳴き声のする方から数羽が飛び立ってそちらの方へ目を向けると「え?こんなにいたの!」となる。この前、それでカメラを向けたら一斉に鳥たちが飛び立ってその部分だけ空が黒くなって私は鳴き声と羽音にびくんとなって写真もとれなかった。そんなのも一瞬の出来事ですぐに何事もなかったかのように静かになり私は残った数羽をカメラに収めた。奄美大島でリュウキュウアカショウビンに会えたときは嬉しかったなあ。とってもきれいだった。上野の国立科学博物館の特別展は「鳥」。もう始まったのかな。絶対行きたい。同じく上野でやっている田中一村も鳥を愛した画家で鳥の絵は特に良かったな。また見たい。頭使わない文章だといつまでも書けるけど今こんなことをしている場合ではないのだ。あーあ。せっかく起きたのだからやろう。今朝もジュリアン・ラージを流してるけどあのライブは素晴らしかったな。貴重な体験を何度も思い出せるような一日でありますように。

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お菓子 散歩

鎌倉

雲が多い。天気予報は晴れだけどこれからどこかへ消えていくのかな、雲。鳥たちはまだそばにこない。もう飛び去ったあとかもしれない。遠くでカラスがしきりに鳴いている。洗濯機が水を回している。

先日、鎌倉へ行った。藤沢まで通っていた時期もあり身近ではあるが相変わらずどこへ行っても記憶が曖昧だ。北鎌倉と鎌倉の違いもよくわかっていなかった。鎌倉駅へ降り立つとずいぶん変わった印象を受けた。前にこの辺で、など思い出話をしながら大混雑の鶴岡八幡宮前の信号を渡り一条恵観山荘へ向かった。道なりにまっすぐまっすぐ歩く。「岐れ路」は右へ。左手に杉本寺が見えたので立ち寄る。お寺にまっすぐ向かう階段は登れず迂回。苔がすごいせいかな、と思ったらそこは「苔の階段」という名前がつけられていた。石畳の苔が抹茶チョコレートみたいで写真をとった。受付の高齢の女性はまるで眠っているような姿勢のままゆっくり手を動かしていたがこちらがお金を渡したことを忘れてしまいみんなで少し焦った。すぐに転がっている新しい千円札を「あったあった」と見つけたが。降りてきたときには受付にはもう誰もいなかった。またまっすぐ歩く。すぐに報国寺へ。私が以前きたと思っていた場所とはずいぶん違う場所だった。美しい竹林は健在。受付は行列。枯山水をのぞむ宅間谷という谷戸に出ると気持ちのいい風が一気に通り抜けていって驚いた。どうしてあそこだけ、谷間だとこんなに変わるものなのかとびっくりした。石庭を眺めるベンチがあるせいもあるがたくさんの人がそこでくつろいでいた。日中は半袖でいられるくらい暑い日だった。一条恵観山荘にははじめていった。少し足を伸ばせば着く場所なのにどうしてこれまで行っていなかったのだろう。江戸時代の初期の建物でお花が美しい素敵な建物。後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観によって営まれたと書いてあった。皇族の茶屋とのこと。野趣あふれる庭をあえて作れる優雅さ。とても素敵だった。来た道を戻る頃には行列ができていたパン屋さんはもう落ち着いており、外のベンチでのんびりカフェしている人たちがみえた。やっぱり鎌倉はいいな。仕事にくる感じで来られる距離なのも恵まれている。

今朝は「やまなし上野原 あんどうなつ」。菓子処植松さんの人気商品。すぐに売り切れてしまうそう。熱いお茶といただきましょう。空の雲が薄くなりつつある。今日も無事に過ごしましょう。

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お菓子

十勝、柳月のお菓子

とても早くに起きてしまった。夜がそのまま続いているみたい。まあ、続いているのだけど。まだ鳥たちは起きていない。朝焼けも始まらない。

北海道帯広市に本社がある「柳月」の「三方六の小割」をいただいた。嬉しい。イレギュラーなコンサルの仕事。いつも帰りに何かを持たせてくれる。三方六は柳月の看板商品。広瀬すず主演の朝ドラ「なつぞら」を見ていた人も見ていなかった人も「柳月」のことは知っているのではないか。お菓子をみれば「ああ、これ見たことあるかも」となるのではないか。「柳月」のある町は「なつぞら」に名前を変えたくらい朝ドラとコラボしていたらしい。「三方六」はバウムクーヘンなのだけど形が少し変わっていて一本だとちょっと長くて今の時代には合わないので小割にしたらしい。個包装なのでお土産にしやすい。まあるいバームクーヘンもまるでもらったら嬉しいは嬉しいけどやっぱり小分けの方がありがたいかな。十勝はコロナ前に最後に旅した場所だ。帯広には六花亭の本社もある。どちらも観光地として楽しめる工夫がされていてたくさんの人が訪れていた。二度目に柳月の前を通ったときは車がずーっと長い列を作っていてなんだなんだといってみたらお買い得商品を求めて並ぶ列だった。生産の都合でお買い得商品へとなるお菓子の種類も個数も当日までわからないという。どのくらいお買い得なのか。そんなに買って賞味期限は大丈夫なのか。三方六を一本サイズで買うのだって躊躇するのに。でもいいなあと思ったけどすでに家用のお土産も買っていたので我慢した。十勝でも本当によく遊んだ。中札内村は散歩しながらアートを楽しめるし、吉田美和の故郷、池田には「いけだワイン城」もある。駅からワイン城にいくまでにはドリカムの衣装が展示されている”DCTgarden IKEDA”がある。ここもとても素敵だった。ちょうど「勝毎花火大会」の日で宿泊先の近くのデパート藤丸の屋上から楽しんだ。その藤丸も閉店した。行けてよかったな。長いこと旅していろんなデパートの閉店のお知らせを聞いてきた。生活はどう変わるのだろう。そこの土地はどうするのだろう。なにがなくなっても人はなんとかやっていくものだろうけど寂しいは寂しいと思う。

鳥が鳴き始めた。朝焼けも始まった。お互い良い一日でありますように。

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読書 音楽

楳図かずおもクインシー・ジョーンズも。

楳図かずおが死んだ。1936年(昭和11年)生まれ。もう亡くなってもおかしくない年齢なのだろうけど死んでいてもいなくても死んでなさそうな人が本当に死んでしまった。私はボーダー柄に対してだけでなく「あ、楳図かずお」と思うことがなにかとあった。近所に建った家に対してもそう思った。どこにそういうものを感じるのか。得体の知れぬ恐怖を感じるわけでもないのに。一度見かけたこともあるような気がする。吉祥寺のご家庭にメンタルフレンドのような役割で通っていた頃に。あの頃の私は本当になにもわかっておらず今思うとゾッとするようなこともたくさんしていた気がする。楳図かずおなら楽しく怖い漫画にしそうだけどこちらは生身だから笑えない。運よく気づけたからいいけれど。楳図かずおは触れてはいけないと普通なら最初から直感的に近寄らない世界に入り込み自由に動き回れた人だったのだろう。漫画は本当に怖かった。今なら少しはエンタメとして楽しめるのだろうか。大人になって部分的に見る分にはとっても面白いのだけど。ずっと広く読まれてほしい。怖いよー。でも多分しばらくしたら「あれ?もう死んだんだっけ」とかなりそう。クインシー・ジョーンズに対しても同じこと思うかも。死んでるってどこかで絶対わかっているくせに。クインシー・ジョーンズに衝撃を受けたのは中学のLL教室の授業でWe Are The WorldのMVを見たとき。その後はもっぱらジャズの世界で追っていた。もっと知っているかと思ったら改めて業績をみてその多さにびっくり。何にも知らなかったじゃん。でもありがとう。音楽や漫画はネット上の情報よりずっと広く受け継がれていく世界だ。読み続け聴き続けていきたい。

最近、鳥たちの移動が多い気がする。渡り鳥もいるのかも知れないがこの時間にこんな場所にこんなたくさんたまっていることあったっけ、という感じで私の見える範囲の移動を感じる。それも今まで気づいていなかっただけかもしれないが。

最近、ものすごく忙しいわけでもないのにあっという間に時間が過ぎてしまう。どうしてだろう。イレギュラーな予定もあっという間に近づいてきて頭が混乱。なんとかするしかないのでなんとかするというかそれ以前に予定を忘れないことが大事。今日もちょっとイレギュラー。紅葉もそろそろかな。いつもと違う場所でいつもと違う景色と出会えたらいいな。良い一日になりますように。

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言葉 読書

青木玉の本、受け身の言葉

朝が来た。毎日来ているが今日も来た。窓を開けているかのように鳥の声が近い。鳥たちもえらいね、毎日規則正しくて。幸田文みたい。幸田文のこと考えながら「そういえば青木玉の本ってどこに置いたんだっけ」とぼんやり思っていたらすぐ見えるところにあった。表紙を見て「ああ」となった。これまでその装幀を美しいと思いつつあまり意識していなかった。『小石川の家』も『帰りたかった家』も幸田露伴が愛用したカバー入り用箋が重ねて描かれていた。装幀は安野光雅。さすがだ。青木玉もこの装幀は「夢のような御褒美」と書いている。余白に魚が描かれた便箋には当然まだ何も書かれていない。それ自体の余白に彼女のみてきた景色が透けて映る。しかしそれは露伴の目でもあり、文の目でもある。一人の子供の、一人の孫の生活史として非常に面白い本になっているのは玉の文才だがやはりこういうのも遺伝するものなのか。玉の娘の青木奈緒も才能豊かな作家だ。才能の遺伝もあるかもしれないがこの家族ならではの言葉が生き生きと書かれるのは玉自身の言葉が子供の頃から大切にされてきたからだろう。これらの本を読むと露伴も文も困った祖父であり母であるが娘であり孫である玉がそれを自由に書きつけているところがもう面白い。基本的に陽気で優しい家族だったんだろうな、と思わせる。私はその人の言葉がどんなであってもその人の言葉として非常に興味深いと思って人の話を聞いている。そこで感じるうんざりも驚きも相互作用だと思うからとても大切。そうだなあ、彼らの言葉には常に対話がある。外とも内とも。となると対話がない状態というのは、ということを考えるのが臨床家の仕事だが私たちは大抵まだ聞こえない言葉として言葉を受け取っている気がする。そういう対話が今として。

先日、生かされている、選ばれている、生きさせられている、など、れる、られるという受け身の言葉に敏感な自分に気づいた。我らおしなべて受動態といえばそれはそうかもしれないが「自分がある」、よって「自分がする・した」という想定をしないと自分の辛さってどうにもならないと思う。選ばれたからなに、生かされてるからなに、生きさせられてるとしたらなに、そう考えてなにか変わるならいいけどそういう表現をしたくなるのってなに、と思う。一方、確実に相手に責任を求めたい場合は受け身の言葉も確実に使うべきだとも思う。と読んだことのないSF作家さんのインタビューを見て思った。SFの水準でようやくそうとしかいえない受け身というのは確かにある。こっちの能動性が発揮できない状態だから。子どもというのはその点、結構苦しい立場にいるわけだが青木玉は無事に大人になってその辺を明るく表現している。遺伝と環境、そういう分類も簡単でいいがそれらもそれってなに、というより「だからなに」という感じかもしれない。いろんなことに「だからなに」と思いながら「だからなに」的な文章を書き連ねている自分は書かされているわけでもないのになにをやっているのか。自分に書かされている、とかなると物は言いようということになる。まあ、今日もあれこれがんばれたらがんばろう。

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散歩 読書

幸田文展など。

鳥が鋭い声で鳴いている。朝焼けがまだ残っている。今日は晴れるのかもしれない。朝焼けが曇り色になることなく空全体に光が行き渡りつつある。そういえばこの前、空の色々な色をどう表現したらいいかと書いたが、実はいろんな色の表現があった。確かに聞かされれば文学作品の中にそれらは出てきていた。普段づかいの言葉にしていないとすぐに遠いものになる。

週末はあまり寒くなかったので仕事を追えサクサクっと出かけた。まずは本八幡。オフィスから一本。都営新宿線の終点。JRも通っている。本八幡は江戸川区の精神科病院に勤めていたときや市川のNPOで色々やっていた頃に何度か行った。久しぶりに降りた。本八幡駅から市川コルトンプラザと往復するシャトルバスへ。コルトンプラザもNPOの何かの行事で車で連れていってもらったことしかなかったので新鮮だった。自分で行くとどこかどこだか全くわからず苦手なGoogleマップを怖々使いながら目的地へ。西新井の看護学校にはじめて行ったときに早めに行って入ったショッピングモールで迷ってしまい早く行った意味が全くなかったことを思い出す。目的地はコルトンプラザお隣の市川市文学ミュージアム。幸田文展を見に行った。母も幸田文や青木玉を敬愛しており私にも買ってくれた。私は倉橋由美子、米原万里、幸田文、水村美苗、森茉莉とかが好き。なんだかんだ女ばかりだな。夏目漱石とかも研究対象にしたいくらい好きだったけど病跡学は私には向いていないと今は思う。フロイトみたいにヒステリーや強迫神経症や恐怖症を明らかにしたい、という強い意志と目的があればいいけど。それに今の時代はあまりいい受け取り手が育たなそう。多様な受け手はいるのだろうけど精神病理学。話し合える相手が多いって大事。精神分析は少ないながらいるからよかった。さてさて幸田文。はっきりしている女たちの文章ははっきりしているそういう態度が作られるまでの紆余曲折を見せてくれる。骨太になるにはいろんな経験を通りぬけ、いろんな人と関わってこそ。幸田露伴は早くに妻を亡くし後妻、児玉八代をとったけど不仲だった。文はまだ5歳、弟もまだ小さかった。露伴は家事の一切を知っていたらしく幸田文は露伴から家事から何から何まで教わったと書いた。この部分、露伴の美意識が面白いのだけど忘れてしまった。私は今読み直すなら文が60代、70代になってからの作品か。私は日本全国を旅するようになってから旅と自然災害がセットになっていて、それほどまでに日本には災害が多いということなのだが『木』『崩れ』は今の私にはとても響くものがある。そこが被災地と呼ばれていなくても山に登れば痛々しい痕跡を目にすることもしばしばだ。公害に苦しみ続ける街もある。この冬は屋久杉に会いに行こうと思ったがまた今度にした。夏はまた能登へ行く。今度は被害の多かった地域へ。もう何かの被害が重なることがありませんように、と願う。ただでさえ日々を重ねる心は感じやすくなっていたりもするだろう。幸田文が自然の摂理に仕方なしと思いつつ人間に期待し力むしかない自分になんともいえない、とまで書いて思ったが文はなんともいえないなんて言わずに木や崩れ、そしてそこで生活する人々に会いに行き書き続けた。感じ続けるために知り続けるために。これぞ関わりという気がする。私は今回幸田文の展示を見ながら被災地にこうやって関わる必要があると感じた。というよりこうやって関わればいいのか、という学びを得た。旅先にしていた土地に水害や地震があったとき、私たちはそこに観光客として出向いていいものか躊躇する。ある程度の時間が経てば観光地でもある被災地は観光客に来てほしいと願う。でも観光地は観光だけで成り立っているわけではない。ただでさえ見知らぬ土地のようになってしまった場所でよそ者の顔なんて見たくもないだろうなどと想像する。家の中の人と目があって昼間なのにカーテンがひかれた場面を思い出す。それでも私たちは自然の状態を知る必要があるのだろう。能登にもまもなく冬が来る。もう一年が経つ。関わり方を考えていこうと思う。

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俳句

NHK俳句とか。

窓を開けた。朝焼けがきれいだった。鳥が鋭く鳴いた。寒くない。朝の準備をしてほうれん草の胡麻和えを作り置き。ほうれん草って美味しいけど水を絞るのが難しくないですか?胡麻がいい匂い。最近は野菜もとても高いので少し遠い八百屋さんで買い置きする。直売所もそのくらいの距離にあるといいのだけどちょっと回り道すぎる。うーん。

NHK俳句は堀田季何さんの回。名句を改悪したものから考えるの面白い。やっぱり名句ってすごいな、と思う。私の最初から悪い句も名句にしていただきたいな。今月は結社誌の締切か。今日は一仕事したら吟行しようかな。恐れていた通り急に寒くなってしまったから涼しくなったら行こうと思っていた場所に全然行けてない。というか私はどちらかというとこもって本読んだり音楽聴いたりしていたい。外に出ても公園でぼーっとしながらそういうことしたい。めんどくさがりなのね。

今日のNHK俳句はオノマトペ「独創的である」「説得力がある」の2点が大事とのこと。そうだなあ。こうやってPCを打つのはカタカタだとありきたりでしょう。のんびり打つと?と・と・とって感じ。乾いた変化のない音は難しいのかしら。ほうれん草を茹でる音はぽこぽこだと普通。どんなだったかなあ。ひたひた、しとしともありきたりだしねえ。うーん。難しい。あー、友人の句が取り上げられている!こういうの嬉しいだよね。ちっちゃい痛み、ちっちゃい欠落感かあ。季何さんの鑑賞もいいけど友人の俳句素晴らしい。いつも着眼点が全然違う。私はそういう才能はないからとりあえずもっと良く観察しよう。何年も言い続けて毎回参加することに意義がある、という言い訳で終えているけどまあ続けましょう。やめたい!と強く思う立場でも状況でもないし何かを見て何かの言葉にするというのは日常だからそのまんまやりましょ。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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お菓子

今朝はそれほど寒くない。チョコが溶けない季節。この長すぎた夏の間はチロルチョコを集めただけでそんなに食べなかった。サンマルクのチョコクロはようやくハロウィンを終えてホワイトチョコだって。温かい飲み物がおいしい季節になってきた。私は今朝も白湯をちびちび。

大変なことでもそうじゃないことでも面白いもんだなと思うことが多い。皮肉だなという意味で使うこともある。それにしても毎日慌ただしくてまとまってものを考えられない。書評もエッセイもどきもよく提出したなと思うけど過ぎてしまうと何も残っていない気がする。そんなことは全然ない、ということはそのときがくればわかるって、しかも結構すぐくるって知ってるのだけど日々流されるように過ごしている感覚にもなるから面白いもんだ。

ゼリー飲料をこれ以上薄っぺらくできないくらいまで長い時間吸っている人がいた。終わりを設定するの難しいよね、ああいう形状の飲み物?食べ物?って。いつまでも吸うことはできちゃうから。赤ちゃんのときから一番慣れてる動作かといえばそうでもないんだよね。吸う力がどうしても弱いとか吸うのがどうしてもうまくできないとか色々ある。それで困る場合とそうでもない場合があるのも面白い。あ、保育園の子供達のこと考えていたら巡回先の幼稚園に返信していないことに気づいた。今しよう。東京は雨っぽいけど無事に過ごしましょう。

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精神分析、本

中村哲さんの本とかメールとか。

南側の窓を滑らせて開けた。キッチンの窓も開けた。部屋の空気が一気に澄んだ感じになる。グチュッとしちゃうかもともらったキウイはグチュッとした部分はあったけど甘くて美味しかった。白湯。と少し前にもらった河口湖土産の富士山型のクッキー。チョコが練り込んである。今日は抹茶とホワイトチョコ。小さい富士山。美味しくてかわいい。毎晩家では作業をする余裕がないので隙間時間に色々するのだけどそれはそれで余裕がなくミスばかりの原稿を送ってしまった。英語だったから自動翻訳で確認しながらコピペ繰り返している間に文章が抜けたりしていることに後から気づいた。まあ仕方ない。締め切りまでに書いただけよしとしよう。訂正する機会はあるだろう、というかいただこう。隙間時間にちょっと読書してしまうのもこういうミスを増やしているのかも。読書は楽しいからなあ。時々パラパラとできるようにそばに置いている中村哲『思索と行動 「ペシャワール会報」現地活動報告集成 [下]20022019』を昨日もパラパラしていたらすごく泣いてしまった。実情が淡々と書かれる中に染み込んでいる中村さんの考えが真剣で温かくて泣いてしまう。こんなふうに絶望以前に淡々と日々の労働をこなすことが優先な人たちの「ふつうの」思いやりに学ぶ。中村さんのスケッチが好きだ。ここは干上がったような茶色い土地ではないの?という場所が緑いっぱいの場所になっている。中村さんたちと地元の人たちが地道に地道に達成した偉業だ。アフガニスタンは戦争では滅びないだろう、でも渇水で滅びるだろう、という言葉がずしんときた。ちょうどお世話になっている先生からメールが来た。意外で嬉しい共有だった。それを読みながら中村さんのこの言葉を思い出したので引用した。精神分析の世界を引っ張ってきてくれた先生方は色々ありながらもこうやって場所を維持してくれた。それだけでも本当に恵まれている私はその恵みを誰かの環境のために生かしていかなければならない。時折忘れてしまう感謝を胸に今日もがんばろう。