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テレビ、フランス精神分析家たち

今朝は空が少し濃い。少し目を凝らすとちぎれたり帯状になったりした雲がたくさんみえる。虫の声もだいぶ静かになった気がする。取り壊された家のあとにぐんぐん伸びた草むらではまだ声高く鳴いているけど。

今日は月曜か。あまり朝に見られないが朝ドラ「ばけばけ」もとても好きでみている。高石あかりが素晴らしくかわいい。華やかさもあれば妖怪味もあってなんでも演じられるとはいえおトキちゃん当たり役。怪談好きの怖がり仕草もすごくいい。せっかく怪談好きのお相手と出会えたのにこれからどうなってしまうのかしら。おトキちゃんに早く幸せになってほしい。早く、というのはこれからを知っているからで、今のおトキは幸せなんだから今を喜ぶべきだな。人生幸せだったり不幸だったりの集積でできているということか。高石あかりはNetflix「グラスハート」の歌姫役もすごく素敵だったけど明治の没落武士の娘の苦労を明るく演じてくれるおトキちゃんいいなあ。このあとも楽しみ。

Netflixといえば「ウンジュンとサンヨン」もみていたが思春期の彼らが愛しすぎてその後がどうもイマイチと思ってしまう。ストーリーは彼らのその後としてとても魅力的だし、韓国のいろんな事情も切なくて見続けてはぢまうけど長く思春期の子たちと会っているとその年代に特別な思い入れができちゃうのね、きっと。

Netflixはほかにも色々みてるけど大河ドラマ「べらぼう」は相変わらずすごい。蔦重が横浜流星でほんとによかった。過酷な事態にだいぶ嫌な感じになってきたけど愛されてきた蔦重は今でもみんなに叱ってもれえるしその場面もいい。厳しい取り締まりにめげずに面白いこと続けてくれよ。

昨日は小グループのセミナーでアンドレ・グリーンのThe Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)を読んだ。私はThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century Edited By Howard B. Levine (2023)に入っている英訳で読んだ。フランス語で読めたらいいのだけど道のりは遠い。

フランスは日本よりずっと精神分析が身近なので組織も乱立していて問題も多い。つい先日もジェラール・ミレールという77歳の有名な精神分析家が少女たちをレイプした罪で起訴された。精神分析家なのに催眠を使ってる時点でイカサマ感強い。人としてきちんと裁かれますように。ジェラール・ミレールはジャック・ラカンの娘婿でありラカン理論の継承、啓蒙をつとめてきたジャック=アラン・ミレールの弟。ジャック=アラン・ミレールについてはすでに入門書もでている。ジェラール・ミレールの場合、この問題が出るのは今回がはじめてではない。精神分析家として彼はいまだに組織に所属しているのか?本当に精神分析を悪用するな。というかそれは精神分析ではない。

アンドレ・グリーンの論文を読む楽しさについて書こうと思ったのにイラっとくる記事のことを書いてしまった。とりあえず今日も穏やかに過ごせますように。伊豆諸島が無事でありますように。良い一日を。

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テレパシーとか。

空が薄い。羽毛布団に変えたせいかよく眠れた。カバーをかけるのが面倒だなあ、といつも思うけどがんばった。夏の始まりと終わり(もう10月も半ばだけど)の年2回だけなのにめんどくさいものよね、と思っていたせいか、PCに「取り替え簡単!」という掛け布団カバーの宣伝が出てきた。最近、検索もしていないのに思い浮かべていることと近い商品が出てくるから言葉のテレパシー性を振り返るべきよね、と今思った。というか、精神分析実践をしていると言葉は話されたものだけではないのは自明で、カウチ上で「何も思い浮かびません」「ちょっとぼんやりしちゃって」と言って何も言わないと「抵抗」とか言われることもあるわけだけど、この「抵抗」も意識的な行為に与えられている言葉ではない。自由連想なんて全く不自由だけど、「全然関係ないんだけど」「話ずれるんだけど」と自分でも「なんで?」と思うような事柄が思い浮かぶとき、それが鍵になる。夢と近いのはそっちだから。「夢は無意識への王道である」とフロイトが言ったことは言葉の機能を考えると本当に重要で、思い浮かべたことが広告として出てきてもそんなにびっくりしないな、と思う私はその機能を使って仕事をしているからだろう。オカルトじゃないよ、というのはフロイトが「夢とテレパシー」(1922 )の最初で言っている。もしそうだと思ったら期待外れですよ、この話、みたいな感じで始まるんじゃなかったかな。結構そういう書き方の論文多い気がするから違うかもしれないけど。岩波の『フロイト全集17』に入っているけどあれはオフィスにあるから後で確認しましょう。そうだ、カウチ上で「あ、それ夢に出てきた」と思うとき、本当に夢に出てきたかどうかは重要ではないし、確かめようもないわけだけどそれを思い浮かべて言葉にすること自体がすごく重要。連想を自由にできるようになると自分でも「あー、だからか」となんとなく仮説が立つようになるけどそれはかなり分析が進んでからだと思うので、それまでは精神分析家の技法が問われるわけです。ということで今日もがんばりましょう。色々やばいやばいとなっているから。

ちなみに『フロイト全集17 1919-1922年』はフロイトの大事な時期の大事な論文がたくさん入っています。「女性同性愛の一事例の心的成因について」は症例を使った最後の論文ではなかったかな(要確認)。断片的なものはその後も登場するけれど。

あとは「不気味なもの」「快原理の彼岸」「集団心理学と自我分析」など再読必至の論文たちも所収。「夢とテレパシー」はフロイトの夢シリーズとして光文社古典新訳文庫の中山元訳でもいいかも。ではでは。良い日曜日を。

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ハンカチとか懐かしさとか。

早朝、まだ空が暗いことを確認して洗濯物を干す。昨晩取り込んだハンカチをたたむために広げる。薄いピンクのハンカチ。少し小さな穴が開いているのにはじめて気づいた。本当に若いときに誰かからもらったハンカチ。当時はとても高級なものに思えた。実際そうなのかもしれない。ハンカチっていろんな人にいただくけどどれが誰からでその誰はどこの誰だったか、というくらい昔のものが多い。結局、一番上に置いてあるのを使ってしまうからお決まりの数枚しか稼働していないけれどその一枚。私は自分でピンクを選ぶことはほぼないけれどこのハンカチは見るたびにレタリングがかわいいと思う。どこのだっけ、と思ってまじまじみてみたけど書いていなかった。なんとなくKENZOのだと思っていた。KENZOがすごく流行った頃のかもしれない。改めて見てみるとこれってマザーグースの数え歌だと気づく。多分知っていた。でも覚えていない。マザーグースは谷川俊太郎訳のをセットで持っていた。今もその辺にあるはず。イラストは堀内誠一。堀内誠一は今年はじめかな、立川のPLAY! MUSEUMでやっていた展覧館に行った。すごく懐かしくて楽しかった。あの懐かしさのひとつなんだろうなあ、このハンカチ。A was an apple-pieからはじまる数え歌。B bit it, C cut it,D dealt it,E eat it,F fought for it, G got it,とつづいてく。きれいにアイロンかけて壁に飾るようにしようかな。実用から思い出の品に意識的に変えていくのもいい年齢かも、50代。

今週も何も進まないまま土曜日になってしまった。昨日は本をもつ気力もなく頭の中にあった韓国の詩人、呉圭原の詩を思い浮かべていた。茨木のり子の『韓国現代詩選』にも入っているし、吉川凪訳の『私の頭の中まで入ってきた泥棒 呉圭原詩選集』もおすすめ。多分、昨晩はゴロゴロしながら頭の中で本を探しているうちに「私の頭の中」という文字と重なり合ってこの詩集がヒットしたんだろうな。

今度読むアンドレ・グリーンにトロイメライが出てくる。Schumann’s Reverieという形で。私にとってこれはオルゴールの音楽でやっぱり懐かしさのひとつ。もうだいぶ前かもだけど有村架純主演の『コーヒーが冷めないうちに』の主題歌がYUKIの「トロイメライ」だった。

♪雲の上で遊ぶトロイメライ 星に手が届きそう夢みたい 笑顔がよく似合うトロイメライ♪

この曲「トロイメライ」の言葉の乗っけ方がすごくいいんだよ。

最近、集中して音楽を聴くこともないけど久しぶりに聴いてみよう。良い1日になりますように。

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暮田真名川柳、フロイト「小箱選びのモティーフ」

十月十日、東京の日の出は5時43分。まだ空は暗い。

シャトルバス以外は荒野なのだから

暗室に十二種類の父がいる

本棚におさまるような歌手じゃない

短歌(off vocal)

暮田真名第二句集『ぺら』からの引用。2019年5月から2021年4月までに発表した400句余りのうち200句を収録したでかい紙ペラ。B1らしい。B1なんてあるんだねえ。ぺらというよりべらという感じだけど視力検査みたいな並びがかわいい。さっき書いたのは遠くからでもよく見える上段の川柳。一番ちっこいのも老眼鏡で。

子供から遠近感を取り上げる

きゃー、と面白いのが目に入った。取り上げないでー。

臨床心理士の地域交流イベントにお呼びしたのが2022年夏。先月9月12日には柏書房からエッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』を発売。重みと勢いをぎゅっと一気読みできる軽さに閉じ込めたかわいい本。暮田さんのおかげで川柳はポップな遊びになった。

さっきまで合格圏にいた虎だ

これも「ぺら」から。なんかよくわからない迫力と悲しみを感じるがよくわからないので本当には悲しくもないし面白い。確かな言葉を新しいコードに乗っけてくような作業を私は自分の領域でしていきたい。精神分析はそれにすごくふさわしいと思う。精神分析状況でないと発揮されないしそれを面白いと思うまでのもやもやや苛立ちもすごいけど。いずれいずれいずれと思いながら浮かんだ言葉を言ったり言わなかったりする日々を過ごすのが精神分析。そんなのに時間とお金をかけることは賭けかもしれないけど私はそれに賭けたおかげで今があるからそういう欲望に肯定的。

フロイトの書く文章は読み慣れてくるとたとえそれが悲観的な結びであっても結構ポップ。

1913年のエッセイ「小箱選びのモティーフ」なんて楽しそう。結びはこうだけど。

「ここに描かれているのは、男にとって不可避の、女に対する三つのかかわり方なのだ、とも言いうるのである。女とは産むものであり、伴侶であり、滅ぼす者である。あるいは、母の肖像が一生のうちに変化していく三形態、すなわち、母それ自身、ついで、男が母の似像に従って選択する愛人、最後に、男を再び受け入れる母なる大地である。年老いた男は、人生の初めに母から受け取った愛を、女から得ようと手を差し伸ばすが、むなしい。運命の女性のうちただ三番目の者だけが、口を閉ざす死の女神だけが、彼をその腕のなかに抱き取るだろう。」

フロイト全集12(岩波書店)かな、メモによると。男にとっての女三形態進化は面白くはあるし、重要でもあるのだけど、それはともかくこの結論に至るまでのシェークスピアとかギリシア神話とかグリム童話の引用が楽しい上質エッセイ。まだフロイトが症例に強いインパクトを受けていた頃。フロイトほど色々暴かれている人でもそれでもそんなのはほんと一部でフロイト理論の変遷はいまだにいろんな読み方ができる。誰がなんと言おうと誰かが話している誰かのことなんて本当に小さな一部でしかないから、というのが通じない世の中というか、自分のみたいようにみたいってことなのかもしれないけどそういうのは面白くないし、遊びとしてもつまらないと思うのでできるだけ逃れていきたい。がんばれるかなあ。鳥たちが鳴き始めた。柿をむこう。柿もだいぶ色づいてきた。このあとあの街のあの大きな大きな柿の木は濃いオレンジの小さな柿でいっぱいになって鳥たちがいっぱい訪れる。今年も出会えるといい。良い1日になるといい。

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強風、Dana Birksted-Breenの本、「クライン派用語事典」

西側の窓はまだ暗い。ブラインドが時折風でカタカタいう音が少し大きいので布で対処。少し風が強い。台風22号の影響か。伊豆諸島7町村に暴風・波浪の特別警報が出ているとのこと。建物が揺れるくらいの風だという。眠るのも大変だったかもしれない。被害が出ませんように。

学会前なので教える側として出版情報をチェックしているが、自分の勉強をしなくてはならないし(大体英語の論文を読む作業)ここ数年、翻訳情報にも非常に疎いので既に翻訳が出ているのかどうかもパッと出てこない。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの翻訳が出るのはいいことだと思う。女性の精神分析家たちで原著を読んでいるが翻訳があれば助かる。Dana Birksted-Breenは1946年生まれ、2024年1月に亡くなった。The International Journal of Psychoanalysisの編集長を2007年から2022年まで長く務めたDanaの論文のリストはこちら。国際色豊かな言葉の持ち主であることは明確で、今回翻訳された本を読めばそのワールドワイドな知識にも圧倒される。

精神分析の仕事 セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』 ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生監訳(金剛出版,2025)

Bulimia and anorexia nervosa in the transference以外の全訳である。この章のアブストラクトならこちらで読める。秀逸な臨床論文だと思う。私は、引用文献を探すためにDanaの仕事を参照する、ということをしている。 精神分析に向けられてきた批判を十分に意識した書き方も勉強になる。

批判といえばR.D.HinshelwoodのA Dictionary of Kleinian Thoughe(1991)は第二版で1989年の第一版への批判を受けて改訂された。2014年に衣笠隆幸総監訳で『クライン派用語事典』(誠信書房,2014)として全訳されている。第1版への批判は第二版へのまえがきに書いてある。その主なものの一つは「死の本能」と「羨望」のある側面について、もう一つは、ベティ・ジョセフに関連した最近の技法の発展について、ということでその内容が書いてある。

ヒンシェルウッドのこの第二版はクライン派の中心的な13の概念がエントリー。技法、無意識的幻想、攻撃性、サディズムおよび要素本能、エディプス・コンプレックス、内的対象、女性性段階、超自我、早期不安状況、原始的防衛機制、抑うつポジション、妄想分裂ポジション、羨望、投影性同一視。各見出しに定義と関係論文の年表がついている。この第二版では引用文献も1987年から1989年までのものに更新されている。

そしてこの事典のさらなるアップデート版がE.B.スピリウス版 The New Dictionary of Kleinian Thought(2011,Routledge).こちらは多分まだ翻訳されていないと思う。この第二版が翻訳された時点で既に出版されていたことは衣笠先生の総監訳者あとがきを読むとわかる。衣笠先生によるとこちらは「より整備された構成と記述からなっているが、やや教科書的で個性のないものに改訂されている」とのこと。原著で確認すると、こちらは無意識的幻想、子供の分析、内的対象、妄想分裂ポジション、抑うつポジション、エディプスコンプレックス、投影同一化、超自我、羨望、象徴形成Symbol-formation、病理的組織化Pathological organizations、で最後に技法というエントリー。クライン派関連文献はこちらも1989年まで。1989年だけみてもブリトン、フェルドマン、ヒンシェルウッド、スタイナー、ジョセフ、メルツァー、オーショーネシー、サンドラーなど重要文献がたくさん出版されている。

とまあ、事典、辞典、辞書は大事ですよね。ヒンシェルウッドが書いているようにクライン派の概念はフロイト派の思考の中から生じているからその枠組みを理解することが必要だし、そういうのを整理してくれることのありがたみをすごく感じる。ヒンシェルウッドがこの事典以上に説明が必要な人にはラプランシュとポンタリスの『精神分析用語辞典』とライクロフトの『精神分析学辞典』をお勧めすることしかできないと書いているけど、この二冊も必携と思う。私は若いときに古本で半額とかで入手したような気がする。学問としての精神分析を大切に思う人は信頼できる辞典に何度も立ち返りながら勉強を続けていってほしい。お互いがんばろう。

窓の外で時折、風がうねる音がする。都心はどうなるのだろう。どの地域にも早く平穏が訪れますように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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寒露、団栗、茨木のり子

今日は十月八日。寒露。暦の上では晩秋となる。熱いお茶でちもとまんじゅうをいただく。あと柿も少し。

帰るのはそこ晩秋の大きな木 坪内稔典

寒露か、と思い、オフィスのそばの大きなシイノキを思い出した。殻斗にシュッと乗っかったどんぐりがきれいでよく写真を撮っている。昨日のブログの写真に載せたかな。

団栗の俳句は転がるのが多いけど私がみている団栗はあまりコロコロしなさそう。というかまだ木の上にいるのをよくみている。

団栗を押し傾けてうごく蜷 岸本尚毅

季語が二つ入っていても実景なんだと思う。こう動かされてしまう団栗の俳句はいいな。すこーしだけうごく。岸本尚毅の時間感覚は多彩。

疲れているとろくな話をしないわけで、昨晩の私は「ごんぎつね」と「てぶくろをかいに」を混同しており、どちらの狐も殺されてしまった。よくよく思い出すに、ごんのお話は子供があるおじいさんから聞いたという設定。「てぶくろをかいに」はお母さん狐の心情が主。と考えるとこの二つを同じ作者が書いていることは大変面白い気がする。

「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」

永遠の謎な気がする。新美南吉記念館が愛知県だと知ったので今度行ってみたい。

昨日は、茨木のり子のことを考えていた。蠍座を思い出したから。彼女は動員で東京の薬品製造工場にいくのだが、そこへの夜行列車を待つ駅でぎらぎらした蠍座を見た。「はたちが敗戦」という有名なエッセイの一場面。茨木のり子の『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)は詩を書いていた思春期の頃の愛読書だった。茨城のり子の本がうちにあるのは知っているがどこにあるかがわからない。読みたいなあ。この前終わったNHK朝ドラ「あんぱん」の主人公のぶは茨城のり子みたいだと私は思うが、お父さんとの関係がだいぶ違う。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

も有名だが、これは自分への怒りだろう、と読んだ。

ハングルに惹かれて50代から言葉を学び、『韓国現代詩選〈新版〉』(亜紀書房)の編者も務めた茨木のり子。斎藤真理子の解説でこれらの訳業が省略などの手直しを含んだものであることを知って驚いた。さすがに自らも詩人であり、取り上げられた詩人たちの交流もあると言葉への意識が研ぎ澄まされている。昨日か一昨日も書いたように言葉は内容ではない。

空がオレンジ色を増してきた。良い一日になりますように。

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加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵「となりの史学」など。

空が薄い色になっていく。西側の窓を開けたら強めの冷たい風が一気に吹き込んできたけど一回だけだった。行き場をなくした風が溜まっていたのかもしれない。そしてヒヨドリの高くよく響く声。窓を開けると一気に音が増える。カラスと鳩も鳴いている。人間は朝は静かめ。小さな声で、できるだけ言葉少なめで、ということを保育園巡回の仕事で話すことが多い。言葉は内容ではない、というのを精神分析家の先生のスーパーヴィジョンで教わったことを私は精神分析以外の現場でも実感してきた。今はそれを私がいろんなところで伝えている。大事な教えだった。

昨日の夕方、郵便物をだそうと外へ出たらびっくりするくらい寒かった。部屋の中は蒸し暑い感じで冷房をつけていたのに。昼間は半袖でちょうどよかったはず。帰りは上着を忘れないように、と確認しながら温かい飲み物を買った。何年ぶりかの午後の紅茶ミルクティー。「冬の濃厚」という文字が身体にフィットしてしまった。温かいまま飲みたかったからサーモスのカップに移して飲んだ。

今朝は熱い緑茶。印度カリー子レシピでカリカリ豚こまを作っていたら冷めてしまった。「サラダ油を薄くひいたフライパンに入れ、中火で1〜2分揚げ焼き」とあるけど毎回中火で1〜2分では全然カリカリしなくて結構焼いている。カリカリでなくても美味しいのだけどヨーグルトの水分が多いのか、片栗粉が少ないのか。そもそも「サラダ油を薄くひく」のでは「揚げ」には足りないのではないか。でも豚肉から油が出るから揚げ物っぽい音は立てるのよね。印度カリー子さんにどこが問題かチェックしてもらいたい。クミンパウダーを使い切った。カリー子レシピで使うのは小さじ1/2とかなのに地道に減ってついになくなった。この年になってようやくスパイスを賞味期限内に使い切る人になれた。

冷めた緑茶といただくのは箱根の老舗和菓子屋ちもとの「湯もち」。久しぶり。ふわふわ。あっさり口の中でとけてしまいましたとさ。早かった。

昨日、イレギュラーな予定を確認してメールしないと、と思ってiphoneのカレンダーを見たら「しまった、ダブルブッキングしている!」となった。慌てて申し訳ないどうしましょうのメールを打ち始め、もう一度カレンダーを確認したら昨年の予定をみていた。そういえば昨年もダブルブッキングしそうになったから確実にあけられる時間に変えたのだった。昔はいろんな場所でいくつもの仕事ができていたけどやること定まってからは規則正しいのになれてしまって毎回ドキドキする。先方もわかっててリマインドのメールをくれたりするから助かるけど。

今、加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵の「となりの史学」(毎日新聞出版)を読んでいる。東京大学出版会のPR誌「UP」で2010年11月号〜2018年11月号まで連載されていたものに加筆・補正を加えたものとのこと。「UP」はたまにしか読んでいないから知らなかった。著者が書いているけどこれが連載されていたのがどういう時代かというのも大事。東京大学出版会が出した関連書物を読み込みながら書かれるこの本の第1章は井上陽水の「なぜか上海」で始まる。陽水の父親は衛生兵としてソロモン諸島で戦って俳句も作っていたとのこと。大変読みやすい。そしてモリナガ・ヨウさんのイラストがすごく味がある。この本の「おわりに」が書かれたのが2025年4月という。トランプ政権が二期目となり、世界がいよいよ歴史を放棄しはじめたような気がした頃だ。まだほんの半年前のこと。戦争は終わらず、生まれたばかりの子供も殺され、それに対するグレタさんのような人たちの戦い方もぶれない。戦後80年、私は井上陽水も身近だし、80年の前半30年は知らないけど50年は過ごしてきたわけで、今、昭和の出来事や景色を思い返すとなんだか違う色の世界を見ているような気持ちになる。実は私も世界も何も変わっていないのかもしれないけどいろんなことは相互作用だ。平和という言葉は今も重みがあると思う。戦争とは違って。若いお母さんが眠っている子供の隣でぼんやりしながら「へいわー」と言っていた。束の間でも平和を感じられる心を守るためにできることを考えながら仕事して勉強して生活をする。どれもこれもこういうことができるってまだかろうじて平和なんだ。

良い一日になりますように。

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不思議だったこと

空が薄暗い、と思ったら太陽が出てきた。今日はまた少し暑くなるらしい。鳥たちは元気そう。田園都市線が大変なことになっている。沿線上の学校はどうするのだろう。休校だろうか。政治は相変わらずうんざりが続いている。平和を願わない人は政治に関わらないでほしいが真逆の方へ向かっている様子。

週末に行った店で飲み物以外の品が出てくるまでに1時間近くかかった。ゆっくりしか動けないが耳も声もよく外国からの人には「ドリンク」だけは何度も聞く。頼まないという選択肢があるのかないのかもわからない。文章はほとんど話さない。調理は妻。妻はおばあさんという感じはせず、夫へのサポートは的確で優しい。飲み物に関しては何の問題もなく食べ終わった人にはお茶も入れて持っていくように夫に渡す。お盆から自分で取るように仕草で促すおじいさんに外国の人が戸惑いつつも受けとる。定食を待っていた外国からのカップルは店内のテレビでアニメが始まると写真をとったり楽しそうだったが一本目が終わり二本目が終わりに近づくと明らかに苛立っていた。お魚にたくさんお醤油をかけていた。注文通っているのかな、と心配になって聞いてみると「順番に出している」「ナスは時間がかかる」とか申し訳なさそうにいうが順番でもないし、ナスはそんなに大変じゃないと思ったので聞いてみたからなんとも不思議な気持ちになる。観察していても何が起きてこうなっているのか本当にわからない。意図を感じないことの不思議さ。一方、店内のいろんな人たちの行動にそれを感じるかといえばそうでもなく、なんなら私たちの「普通」が問われているのではないか、というような気がした。

最近、世界のニュースも含め、何をどう考えればいいかわからない状況が続いている。目の前で起きていることのわからなさ、不思議さは具体的に共有しやすい。反応も大事にできる。今日も小さなことに立ち返って楽しいことやきれいなことと出会えたらいいな。

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あたたかくつなぐ。

涼しい。昨日に引き続きお天気はイマイチか。昨晩の福島の地震、少し大きめだった。ちょうど能登の話、東北の話をしていたところだった。

今日は月曜日だと思ったら日曜日だった。イレギュラーな用事があるとすぐに曜日感覚がおかしくなる。昨日は長い一日だった、というより家に帰ったのはいつもより早かったけどこれまでの時間がぎゅっとつまった濃密な時間を過ごした。モーニングワークの大切さとワークスルーした人の柔らかさ。それに触れて流す涙とこの先の幸せを願う気持ち。悲しい出来事を共有した人たちみんなでその先の今を共有できるしみじみとした嬉しさ。日本の政治はあたたかみを大切にする意味を知らない人によって支配されつつがあるが、こういう細やかで長く続く関係が育んできたものは強いと信じたい。

50年近く続いてきた団体を引っ張ってきた世代はもう70を超えている。その下が私たちの年代。その下で中心になりつつある20代を支えていかないと歴史は途絶えるという危機感。簡単に歴史を変えたり捨てたりできるこの時代に自分たちの育ちに必要だった関わりや文化を残そうとしてくれる若者たちがいることはとてもありがたい。でもそれを支えていく私たちはいつも地味に忙しく、かつ、かつての体力はもうない。それでもできることは何か。それはかつてのつながりを生かすこと。誰かを失ったり、誰かが生まれたりするたびに回復してきたつながりを気楽に使っていくこと。若い頃は自分にも他人にも厳しかった自分たちを笑いながら最低限のことをしていく。そんな話をいろんな思い出話ついでにした。こういうのもついでにするくらいがちょうどいい。言葉だけのやりとりではなく行動を伴わせてきたのだから多くを言葉にしなくても大丈夫。心理療法の積み重ねだって同じこと。これらはもっと少ない言葉でゆったり語られるべきだと私は思ってきたのでこれも現代の人気者たちとは相容れないが育ててきてくれた環境に感謝しつつあたたかさをつなぎたい。

それにしても十月ももう五日。少しずつ困ったことになっているがどうにかなるといい。良い一日になりますように。

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貧しい時代に。

窓を開けていると寒いくらい。気持ちいいけど急激な気温の変化に身体がついていっていないみたい。元気なんだけどどこか疲れている感じ。ちょっとしたことで元気なくなってちょっとしたことで元気出たり。私の場合、すっごく小さなことでの小さな浮き沈みだけど。かわいいスニーカーにするだけで姿勢が戻るみたいな。

元気なくなる、といえば、この前、住民税の督促状がきた。しれっと引き落とされるのが嫌で口座振替にしていなくて納付書で分割で払うようにしているのだけど2度目。私が遅れたのが違反というのはわかるがこの督促状は本当に心身に悪い。延滞金加算のみならず、給与調査、自宅捜索、差押などの文字が並ぶ紙っぺらを送りつけられることの負担がすごい。長年、毎月きちんと家賃も税金も納めてきたのに払うのは当たり前、払わなければ生活の基盤失います、みたいな感じ出してこなくてもよくないか?心身ともに貧しい時代にこれは本当によくない。この前書いたけどしれっと森林環境税が入っているのも住民税だ。思い出した。今回、私は少し遅れてしまったけどすでに払ってあったので行き違いだった、行き違いだよね?私、払ったよね?と不安になった。不安になるだろ、こんな督促状がきたら。取締りばかり厳しくなる社会。人の個人情報を色々間違えて使用したり無くしたりしても何もしてくれないのにね。理不尽。

で、嬉しかったのは、昨日発表された第17回TAMA映画賞の最優秀新進女優賞に桜田ひより&中野有紗が選ばれたこと。先日また読み直していた、と書いたばかりの辻村深月原作の『この夏の星を見る』の劇場版で二人は茨城と五島列島で暮らす高校生を演じた。力強さと繊細さを対照的に演じていた二人の受賞にすごく納得。若い役者の名前と顔が一致しにくくなっているが、本当に達者な人が増えていると感じるので日本の映画界もいろんな困難を乗り越えていい作品を作り出していってほしい。こんな心身ともに貧しい時代(2度目)だからこそ。

さあ、今日はいつもと違う動きがあるけど大丈夫だろうか。余裕を持って動こう。無駄な寄り道しないようにしよう。寄り道はあと。雨降るんだよね、今ちょっと太陽が出てるのだけど。このままであってほしいなあ。良い一日にしましょう。

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オープンダイアローグとかひきこもりとか。

曇っている。これから晴れるのかな。光ってるグレー。もう10月3日になってしまった。オフィスのパソコン(Windows)を持ち帰ってよくわからなくなってしまったフォルダの整理をしようと思ったのにアダプターしか持っていなかった。帰宅してバッグを開けたらいつものMacBookが出てきてびっくり。君はオフィスのパソコンと交換こされて置いてこなかったっけ。私はこの子を一度出してそのまま戻すという作業をしたわけか。馬鹿だな。こういうことはよくあるので「ああまたか」と小さく失望してやや開き直って過ごすことになるわけだが夜遅くまで仕事して帰ってきてまだ仕事しようとしていたのがおかしい。どうせしないで持ち歩くだけになったりしていただろうに。自分に小さく期待してしまっているのだろう、そういうときは。大方裏切られるとわかっていても。自分に自分が。

10月13日(月)はそういえば祝日か。「スポーツの日」だって。10月10日は「体育の日」でお休み、というのをなかなか修正できない。月曜日にお休みを集められたのは助かるときと困るときがあるね。精神分析関係でいうと13日(月・祝)は藤山直樹&十川幸司主催の小寺財団の学際的ワークショップがあるらしい。四谷三丁目の小寺財団セミナールームで。今年のテーマはオープンダイアローグ。申込の締め切りは過ぎていても連絡してみるといいらしい。

オープンダイアローグ(OD)は今やオンラインでもたくさん紹介されている。主な紹介者は斎藤環、高木俊介か。ヴィゴツキー研究者の神谷栄司「オープンダイアローグの理論的基礎」という論文はセイックラが引用したバフチンやヤクビンスキーの対話論、ヴィゴツキーの側からOD理論の精緻化を試みている。学部生時代にヴィゴツキーのファンになったのでこういうの楽しい。今回の小寺財団学際的ワークショップのゲストはOD紹介の第一人者、斎藤環先生。社会的ひきこもりでも有名だけど、昨今のいろんな名付けによる症状理解を見るに「社会的ひきこもり」という用語はいいかげんに使えない感じがよかったような気がする。今回はひきこもり研究ラボなども立ち上げている精神分析家の加藤隆弘先生もゲスト。登壇者が男性医師ばかりだから参加者もそうなるのかもね。藤山先生と十川先生は医師というより精神分析家の仕事が主か。

今は斎藤先生が代表なのかな、わからないけど青少年健康センターとか、いのちの電話のデイケアで「ひきこもり」の状態にあるみなさんと週一回とか一緒に過ごしていたけどほとんど男性だった。自閉症の人たちの施設もそうだった。今はどうなのだろう。

保土ヶ谷の坂の多い街の古いアパートだったと思う。あの日々で私は横浜の坂の多さを知った。その後、横浜の看護学校で仕事をするようになったときも似たような地形を歩きながら当時を懐かしんだ。もう記憶もおぼろだが、私はあのアパートの居間しかいたことがない気がする。常勤スタッフの方がいつもウェルカムでいてくれて楽しかった。そこでその日のお出かけの計画を立てていろんなところに行った。カラオケとか室内スキーとかも行った。いろんな経験をさせてもらった。スタッフさんが車で連れていってくれるのだけど神奈川だったから私はつい「ダイナミック! ダイクマ 」を口ずさんでしまってそこから生まれた一瞬の交流は今でも思い出すとほっこりする。当時は今以上にいろんなことが口をついてでてきてしまっていたから気づいたら色々伝わっていて失敗も多かったけどそういう瞬間も多かった。あのCMソング、今はどのくらい通じるのだろう。

今日もがんばりましょう。良い一日を。

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精神分析 読書

辻村深月『この夏の星を見る』、エリクソン

やっぱり秋の空はスッキリきれい。今朝は房州銘菓元祖牛乳せんべい。館山市の加藤菓子舗という老舗のおせんべいだそう。予想より少し硬い。そして予想より少し甘い。でも牛乳せんべいってこういう感じだった、そういえば、と思う。美味しい。

クリーニング屋さんから特別ご優待のハガキが届いていた。今月はクリーニングに出すお洋服を着るからありがたい。嬉しい用事があるということ。この年にならなくても、本当に急で、本当に衝撃的な体験をしている人たちがたくさんいる。辛く悲しい日々を超えて新しい体験に向かうのは躊躇いや恐れも生むけれどそれでも、とがんばっている人たちがその人のペースで歩めるように応援したい。

辻村深月『この夏の星を見る』をまた読み始めた。映画も見たがこうやって文字に戻っても引っ張られることもない。この作家はそれぞれの子どもの心が人との間で見せるうつろいを描写するのが本当にうまい。子どもに関わる支援者の人(多分全ての支援者がそうだと思う。みんなかつてそうだった)は専門的な本を読むのもいいけどこういう本を読むのもいいと思う。個別に見ててもわからない世界がリアルに、ポジティヴに書かれている。特にこの本はコロナ禍の中高生のお話。程度はともかく誰もが無気力、思考停止、排他的な心との葛藤を体験した日々。そこで特に中高生がどんな体験をしていたのか。フィクションだからこそ目を背けずに知れることも多い。空を見上げて繋がりを思った日々の複雑な感情も。爆音に命の危険を感じながら空を見上げる子どもたちが今この瞬間もいる。どこを向いても安心できる場所がない彼らの身体も心も持ち物すべてが守られることを望む大人がマジョリティになりますように。

一昨日、急にテーマを変えて書いた発表原稿は募集要項をみたら全然大会のテーマと関係なかったというか大会のテーマに関係していることが査読のポイントになっていた。あーあ、と思ったけど国外の同業者を意識したらああなってしまったからしかたない。昨年のシドニーで国外の人たちとの交流で自分が日本人であることとか彼らとの歴史とかに関する意識と自覚がすごく強くなった。多くはたやすく言葉にできないことだけどプライベートな場では多くを話し合った。自分の国が持つ加害性を他人事にすることはできない。そこで育っていたらどこかしら何か引き継いでしまっている。それに対する恐れと自分は狂っているのではないか、あるいはこれから狂うのではないか、という恐れは似ているだろうか、そんな問いを症例を通じて考えてきた。とてもデリケートな問題なので少しずつ考えたくて、今回もそのことについて直接書くことはしなかったけどエリクソンを引用した自分には驚いた。大学の頃は発達心理学専攻だったから身近だったエリクソンだが精神分析家になったら精神分析家として身近になった。それが急に自分の前に重要性を持って現れた。何かヒントがあるのだろう。もっと読んでみようと思う。

東京は良いお天気。良い一日を。

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精神分析

日光ラスク、原稿

雨?向こうのお家は濡れているけど雨が見えない。まだ暗い。少しずつ冬に向かっていく。オフィスはまだ冷房つけてるけど。

昨日は珍しく隙間時間もせっせと作業してぎりぎりではあったけど来年ソウルで開催されるIPA The Asia Pacific Conference5th用に演題提出して仕事もいつも通りやってようやく帰るぞ!という時間に怖い目にあった。駅員さんが駅のどこまでを安全管理の領域としているかわからないが混雑した駅で危ない行為をしているのをみたら止めてほしいな。警察を呼んでくれてもいいし。故意にぶつかってくる人には何度か会っているが自分の行きたい方角にいる人は蹴散らしていい、くらいな勢いの人には久しぶりに会った。怖かった。もし私が大きな男の人だったらまるで目に入ってないかのように向かってきたりしないのかな。こういうときはいつも思う。もし私が大きな男だったらって。

ということで昨晩はストレスが多かったのか、夜遅くに日光のお土産の日昇堂さんの「日光ラスク」を食べてしまった。パッケージがとても可愛くてもったいないから開けてなかったんだけど個包装された高級そうな袋を開けてみたら小さくコロンとしたラスクがいっぱい。おいしくてぱくぱく食べちゃった。最近、甘いものも食べられなくなってきたな、とか思ってたけど毎日どの時間帯もなんらかのお菓子を食べているからむしろ気をつけなくてはいけないのかもしれない。でも可愛くおいしいものは元気をくれるから昨日みたいな日は食べて正解。

私は書き始めがいつもいつも直前すぎて本当にダメだと思うのだけど、今回は内容も突然変えてしまったし、形式からよくわからないし(英語だから)困った。締切ギリギリになってしまったからサマリーとアブストラクトもバーって書いて送った。アブストラクトは完全に下手だな、というかここそんなに言いたいとこではないけど、とにかく時間がないからしかたない、と修正しなかった。日本語を修正するとそれをまた英語にしないとで、ただでさえ英語にしたときにずれている可能性があるのに急いだらもっと変な英語使うことになるからね。内容はオグデンが分析的枠組みの変更に関して述べていることをヒントに、beingとbecomingに関することを書いたつもり。難しいテーマにしちゃったけど今後も考えていきたいな、と思うことのきっかけになりそうな部分だけ書いた。そういえば6月に討論を担当した精神分析的心理療法フォーラムの校正原稿が届いた。早い。きちんとしている。ウィニコットフォーラムと精神分析研究は書いてからもうどのくらい経つのだろう。当時とはもう考え方が変わっているかもしれないが、ああいうのも自分的きっかけになればいいけどそんな得意なわけでもないのに時間割いて書いたのにーとなる。ウィニコットフォーラムは会員ではないけど今度大会があるらしいので興味ある方はチェックしてみて。大会はきっと面白いよ。ウィニコットを読む人が増えるのは私にとってはとても楽しいこと。さてさて、今月書くのは分析協会用。こっちはスケジュールが最初から提示されていて、それに合わせてきちんと進行すると知っている。昨年出したから。先生方は協会の仕事も普段の仕事も忙しい中で査読とか編集とかしてくれるからきちっと進めていかないとご自身も大変になってしまうのだろうけどありがたい。

空が明るくなってきた、と言っても紺色。この時間もきれいねえ。今日も長いぞ。がんばりましょ。