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精神分析

挟間美帆「Fremes」、リウム美術館、月

いつも以上に早く起きてしまったので二度寝したがまだ早い。老眼鏡はなかったがiphoneが手元にあったのでSpotifyで適当にかけたらNubiyan Twistだった。これだとさらに目が覚めてしまいそうだと思いながら聞いていたらいつのまにか寝ていた。そのあとは挾間美帆のデンマークラジオ・ビッグバンド (DRBB) とのニュー・アルバム「Frames」を聞きながらゴロゴロした。これもこれで眠気を誘うには華やかだがきちんと聴きたくなって起きた。

「私は、このバンドの歴史と、その音楽的遺産を尊重しつつ、同時に新しい音楽を創造することを目指しました。その結果生まれた作品は、明快さ、自信、そして国際的な視点に裏打ちされた作品群となりました」

と挟間美帆はいう。ウェブサイトに書いてあった。聴けばそれが実現されていることがわかる。挟間美帆の作る音楽をきくと古典もたくさんききたくなる。この音自体はすごく新しい感じがするのに。新しさって本来そういうものなんだろうけど。

そういえば先日、リウム美術館でTraditional Korean Artをみた。これは常設展で無料だが一応予約して行った。時期によっては人数制限があるらしい。私たちがいったときはとても空いていて大変モダンな空間で5世紀から19世紀までのいくつかのジャンルの伝統美術をみられた。陶磁器が特によくて、飾り方のセンスも斬新でびっくりした。三国時代にも王朝時代にも詳しくないが時代の変化はたしかに作品からも感じたし、こんな昔のものがこの保存状態で残っていたのかとかそういうことにもびっくりした。このスペースは最初にエレベーターで4階まで1階へ降りてくる順路でそのらせん階段にもびっくり。中世ヨーロッパの窓を思わせる穴からのぞくと丸くくりぬかれたようなスペースで身体を使ったパフォーマンスをしている人たちがみえた。彼らはずっと指だけでつながりながら低く小さい音を出し続け、ゆっくりゆっくり動き続けていた。身体ひとつがなりうるもの、身体がひとつずつでつながりうるからできる形が面白かった。美術館はただの箱ではないことがよくわかった。職員さんたちの服装もゆったりしていて空間になじんでいた。時間があれば有料の現代美術のほうもみたかったがまずはこれだけでかなり満足した。おもしろかったなあ。

昨晩、ぼんやりした月をみつけた。昔は月の様子で次の日のお天気がわかったと思うのだけど今は月の満ち欠けも追えない。気づいたら3、4日前の月のことを昨日の話としてしていたりする。

この前の虹は本当に大きくてこれぞ虹という感じだった。これまでいろんな場面でみあげてきた虹のことを思い出した。正しさとかそういうのではなくて基本の形を知っていることは大切だなとなんとなく思った。あ、本当はそういう形してたの?と気づくのって本当にいろんな間違いや誤解を超えてだったりするけど、違和感を感じるところから、それを誤魔化さないところからはじまるのかもね。なにが?認識が。あぁ、となんとなくため息がでてしまう。子どものときのことでもいまだに思い出すと恥ずかしいやらひどいやらな自分がたくさんだし、これから今日のことで頭を抱えたりするかもしれないわけでなかなか難儀なことばかりだけど人を信頼してやっていけたらいいよね、結局は。どうみられてるんだろう、どう思われてるんだろう、というのは最小限は必要かもしれないけどそれに気をとられてばかりになる必要はまったくないわけで、こっちに足りないところがあると思うなら助けてくれよ、と私は思う。今って指摘だけしてほうっておくより悪くてあえて見つけ出す必要のないことを匿名でああだこうだいって自分は正しいという認識からおりないというなんだかひどいことが起きているでしょう。いろんなことはいろんな事情が複雑に絡み合って起きているので関係のない人が口出ししない、ってわりと常識だったと思うのだけど。みんなで補うあうことは本当に大事で補ってもらうことを恥だとか怖いと思ってしまうような関係は長い目でみなくても本当によくない。みんなどこか同じ程度に欠けてるものでしょう、と無理に自分の気持ちをおさめることはないけど事情を知ればなにもいえない、とうことはかなりあるのでまずは他人より自分。それぞれみんな大変なはずだもの。基本形は正しさとか完璧さとは全然違う。

月だって「今日は完璧な満月だぜ」とか絶対思わないわけで満ちたら欠けるし欠けたら満ちるしの繰り返しだし、人間だって老いていく身体を支える筋力をつけよう、とかアンチエイジングだって若さとか美しさとか言葉の意味づけを少しずつ変えながらやっていったほうがいいこともあるわけでしょう。え、本当はそういう意味だったの?ってことは結構あるわけで、なんでそんなことに囚われていたんだろう、って愕然とする体験は必要なことも多いけどそんな辛いことは最小限でいいと思うし、ましてや人に強制的に、迫害的にさせられることではないし、日々少しずつ認識を改めるゆるさをもつことで自分がまっすぐ立っているという状態がわかったりするんだと思う。少しずつ少しずつ。こわごわでもやってみたりやめてみたりいろんな自分を体験できる時間を自分にも相手にもあげられたらお互いにいいんじゃないかな。昔からいろんな先生がハンドルのあそびが大事といっていてそれはいちいち心に残ったし、その先生方の年を超えたであろう今はそれは実感になった。

世界中のニュースが痛ましいものばかりでなにもしていなくても気持ちが疲れる。そんななか毎日よく歩いているのも自分が無事に歩けていることを確かめたいだけなのかもしれない。不安なのかもしれない。それはそれで大事にしたい気持ちだけどなにも考えず呑気に過ごせる日々を保障してほしい。みんなでやっていくことのはずのことだけど中心となる人たちが大きな安心をみせてくれないとみんなは「みんな」になりにくい。

今日はどんな一日になることやら。一日で多様なことが起きるならそこそこ平和ってことかもしれない。みんなにいいことがありますように。