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精神分析

晩春

早くも晩春。蛙の目借り時という季語が好きだが最近それにぴったりの眠気があったかしら、と思うとない気がする。寂しい。昨日はイレギュラーな用事がありいつも迷う丸の内で知っている道だけ歩くように気をつけ、帰りはまさに春闌という景色の中を歩きながら戻ってきた。春日傘を使っている人もちらほら見かけた。私は晴雨兼用の傘を持っていたけど写真を撮るのに邪魔だからリュックに入れたままにした。平日の昼間は宴より小さなひとり、ふたりでソメイヨシノより遅く咲く桜の花の影でのんびりする人たちを見かけた。政治家はこの平和を守ってくれなそうだが私たちは守っていかないといけない。

子どもの頃は家のそばも通学路も田んぼや畑があったから季節の移り変わりはそこで感じていたけど日常的にお手伝いしていたとかではないから身体がそれを覚えているというほどでもない。GWに2回旅したのと鉄道七尾線の車窓に続く水田の風景はとってもきれいで、この時期になるとあの田んぼはどうしているかなと思い出したりはする。と同時に地震で隆起したり倒壊したりしたあの道やあの建物はどうしているだろうと思う。和倉温泉もだいぶ泊まれる場所が増えてきたとのこと。また伺いたい。

我が家の放っておかれがち花壇、いや放っておきがち花壇に昨年春菊の種を蒔いたが収穫が遅れ立派な茎に成長し花芽がついてきた。もう今年は花を咲かせてしまおうと思う。この時期に種を蒔くとしたら西瓜か?西瓜を植えたら案山子も立てるか。こんな小さな花壇だけどきっと鳥たちはやってくる。山椒の木だって植えたばかりの数年はアゲハの幼虫に食べられちゃってた。いまやいくらでもどうぞという感じの立派な木になったけど。昨日はヤマツツジにとまったアゲハを慌ててそばにきた外国の人と並んで写真におさめた。

先日、ケラリーノ・サンドロヴィッチと緒川たまきがやっているケムリ研究室の舞台を見に行った。サボテンの涙、と書こうとしたが正しくは「サボテンの微笑み」。でもこの芝居、たとえ「涙」と間違っても通じるとても悲しく切ない舞台だった。緒川たまきの無垢と愚かの境界線をなくす芝居はもう大好きすぎて今回も堪能したけど、嫌なやつを追い詰める不気味な芝居にもいいぞいいぞとなった。この作品のことは色々書けそうだけどもう色々話しちゃったからみんなの感想とかを読んで楽しんでいる。体験を話せるって本当にいいこと。でも体験の場が狭まったら話されることだって狭まるのだからほんと政府にはしっかりしてほしい。結局そこだが。資源を外国に頼らないとやっていけない国なのにどうして自分ならできるみたいな態度を取り続けているのか。どうして、って私たち国民を犠牲にすればいろんなことは不可能ではない(それでも可能ではないと思うけどね、全然)という前提を崩す気がないからだろうけど。現実にこんな大きな危機が訪れているというのに自分の生活だけは別、と思えているうちは突き進むのみか。本当にやめてほしい。もうっ!朝からなんだなんだだけど毎日なんなんだよというニュースばかりでしょう。そりゃ怒るよ。平和な朝を平和な昼を平和な夜を普通に過ごしたい。そのために色々考えることはそんなに難しいことなのかな。がんばりましょうね、私たち。とりあえず今日を。