‟精神療法においては、言葉の真の意味において「私は誰なのか」「私は何をしてきたのか」「私は何を感じているのか」「私は何をすることを欲するのか」という問いに、自ら答えることを学ぶのである。”
土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)「第3章治療の方針と目的」で述べた。
土居はここでも、精神療法の目的を「自己発見であり自己洞察であるといえるが、しかし単にそういってしまっただけでは、あまりに広範囲になってしまう恐れがあるだろう。もともと「己れを知れ」という命題は、すでにソクラテス以来の哲学の課題であるといわれているからである。」として簡単に名詞にはしない。
ここで比較の対象にするのは宗教・哲学その他である。土居はカトリック信者であり、そこでの自己発見・自己洞察と土居が精神分析によって得たそれとはおそらく異なるが、それはまた時代的にもあとのお話。今はまだ1961年。
土居は「ただここでいっておきたいことは、これらがたとい重複し平行するところがあるとしても、厳密にはそれぞれ区別されねばならぬということである。精神療法は哲学のように存在の意味を問らものではなく、宗教のように価値を教えるものではなく、またイデオロギー(思想体系)のようにすべてを説明しつくそうとするものでるない。」
という。
そしてまた「しかしこのことは、精神療法の中に存在の意味や価値や思想が全然入らないということではない。」という。土居のこの書き方にもみんななじんできたことだろう。
切断しては動かす。境界線は壁を作るためにひくのではない。
そして大事な一文が来る。「 むしろそれらは精神療法という劇の筋書きの中に暗黙のうちに含まれているのである。」
土居は「その劇的筋書きの枠組みの中で患者が自らの態度・感情・行動を理解するに至ること」が精神療法の目的であるという。土居は「この筋書きの中に含まれている思想なり価値なり断固として反対する者は、その精神療法によって利益を受けることはできない」というのだが、「しかしそれら思想や価値は表面には出ていないのであるし、またある思想や価値に断固として反対するという者は稀であるから、実際にある患者がある一つの精神療法によって何ら利益を受けないということは、少ないといってよいのである。」で述べる。
土居がせっかくあれやこれやと思考を巡らせながら自分の立場の表明に向かおうとしているのに、単純な言葉を使うのはどうかと思うが、実践に即していうならば、精神療法は「話しても意味がない」と本気で思っている人に対して役に立つことはできない、ということだろう。「話したくない」とか「なにを話していいかわからない」とかではなく、話すということ自体がなにかを動かすとは思わない、という強い信念があったりする場合は、である。
そういう人は最初からこないのでは?と思うかもしれないが、そんなことはない。それは、精神療法の筋書きの中の思想や価値が表面には出てこない、からではなく、私たちが言葉を使う以上、強い信念の表明もまた言葉によるものであり、その働きから自由ではないからである。私たちは「意味がない」とわざわざいいにいくこともする存在である。
舞台に上がる、土俵に上がる。まず、私たちは、そこには筋書きやルールがあることを前提とする必要がある。そこでの二人がこれから何をしようとしているのか、そこではなにが起こりうるのかわからないからこそ、土居は「治療場面の設定」に一章を割いた。精神分析的な心理療法の教科書のほどんどがそこをはじまりとするのではないだろうか。枠組みは大切である。
土居は、このあと自分自身の理論的立場を明らかにする。私たちはすでに知っているように、彼がとったのは精神分析の立場である。同時に、土居は、精神分析に対する懐疑もずっと持ち続けていた。宗教との深いつながりもあった。それらもまたずっとあとに語るべきことだろう。
8月も今日で終わり。またもやあっという間だったが、いろんな土地へいき、いろんな人の話をきくことができた。時折、ひきこもりたい気持ちにもなるし、時折ひきこもることは大切なことだと思うが、動けるところは動いておきましょう、ということで月曜日。今週もよろしくお願いいたします。

