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土居健郎『精神療法と精神分析』第4章「精神療法の受けとり方」

土居は「(1)初めの探りあい」で 、精神療法に導入する過程が既に精神療法であり、「治療者に関する限り、患者に会ったその瞬間から、精神療法は開始される」と述べた。そしてそれは、単に患者に病名をつける、という狭義の診断ではない調査を必要とする。患者の病気を正しく理解するためには、症状や問題に対して、いつ頃から、環境因子は、生活の上に何らかの変化が、などを問い、さらに、生い立った家庭環境、受けた教育、結婚ならびに職業における適応性、交際の範囲など「患者の全貌」を調査する必要があるとした。それは患者の健康な面を知るためでもあった。

土居は、ここでまたいつものずらしをする。

「これだけでは精神療法に移行することは不可能である。」

土居は、患者が治療や治療者との出会いをどう経験しているかにも着目する。自分から来たのか。誰かにすすめられたのか。無理に連れてこられたのか。患者自身は、自分の症状や問題をどう考えているのか、実際にどのくらい困っているのか、治療の成果はどのような形で期待しているのかなど。問われるのは患者だけではない。治療者は「果たして患者を助けることができるか、それにはどうすることが最善であるか」と自分自身に問わねばならない。

第3章「(1)劇としての精神療法」で、土居は「治療者といえども、相手が知らない筋書きを知らない以上、具体的にどのようなやりとりが両者の間に展開されるか、初めから完全にわかっているわけではない。かくして治療者も患者も、通常の劇における観客のごとき興奮を精神療法の中でもいくらか味わうことが可能になる」と述べた。

探るのは治療者のほうだけではない。患者の方でも目の前の知らない相手になんとなく探りをいれる。

「治療者は果たして真に自分を助けようとする誠意を持っているであろうか。また実際に助けるだけの能力を持っているであろうか。そして最後に、治療者は自分の問題を本当に理解したであろうか。そして一体どのようにして彼は私を助けようとするのであろうか。」

患者と治療者の関係は内実は反転可能なのだ。だから題も「探りあい」なのだ。もちろん、治療者は治療者で、患者は患者なので、形式的には反転もなにもない。土居は、役割の対称性を主張しているわけではない。土居は、どこまでも具体的だ。土居がいう診断は、問いと答えだけで成り立つものではない。今ここで起きているふたりの態度と感情の探りあいという動的なものである。「診断」という言葉に含まれる動詞を探れば「見る」「訊く」「問う」「答える」「探る」「探りあう」のほかにももっと見つかるかもしれない。このような態度も、おそらく、すでに、精神療法的だ。

そのような動きをしばらく続けた後、「治療者は、今ここに出来かかった治療者患者の関係を精神療法という形で続けるか、それとも別の治療方法を処方するか、決定しなければならない」。

とても土居らしい書き方だと思う。「今ここに出来かかった」関係を「精神療法という形で続ける」かどうか。

そしてそれを患者に告げなければならない。土居はここで、精神療法以外の治療との対比を持ち出す。

「精神療法以外の治療の場合は、患者が治療者の権威を信頼している限り、どのような治療を行なおうともそれほど問題とはならない。」

では、精神療法はなにが異なるのか。土居はいう。

「あなたには精神療法が適当である」と聞いただけで、患者の心の中に色々な思惑が生まれてくるである。したがって最初の探りあいの段階にひきつづいて、精神療法についての患者の思惑をとりあげることが必要となるのである。」p72

土居は、権威をもつ者としての自分に自覚的である。治療者には診断し、治療法を選択し、それを告げる権限と責任がある。形式的な非対称性によって維持される治療法はある。しかし、精神療法では、治療者の言葉を患者がどう受けとるかによって、そこに揺らぎが生じる。治療者に言われたことを患者がどう解釈するか。そして患者が、自らの解釈によって治療者を信じない場合にも、信じこんでしまう場合にも、治療関係は断絶の危機にさらされる。

この「(2)精神療法の受けとり方」で書かれる精神療法の実際は、臨床家、土居を知る醍醐味である。

各地の雨は大丈夫だろうか。東京は予想よりもいつも通りに動けるが、それでも警戒は必要だろう。またもや月曜日。安全に、健やかに過ごせますように。