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『性分化疾患(DSD)の子どもをもつご家庭へ』『「回復」という毒』『はじめてのベルクソン』

毎日雨。日差しがないと痒くならないからそれは嬉しい。肌がどんどん刺激に弱くなっていく。

これまでも、今も小さな子からかなり年上の方まで色々な人の色々の心と身体に出会ってきた。病名はどちらかだけのものであっても心と身体が切り離されることはない。離人感や解離があったとしてもである。

今週は性分化疾患(DSD)の当事者である公認心理師のみつばさんの「性分化疾患(DSD)の子どもをもつご家庭へ 診断から将来設計まで寄り添うためのガイド」を読んで、周りにもおすすめした。疾患について知るのは、その対応について知ることとセットだと思う。自分の身体、自分の子ども、パートナー、きょうだい、など身近な人の身体に対してどうしたらいいかわからない心をその時点でのもっとも正確な情報にもとづいて整理しつつ、共有することの大切さ。それがどれだけ難しいかも含めて。身体とこころをファンタジーではなく、現実として抱えていくために、わからなさとどう生きるかも含めて、診断を受ける側もする側もたくさんのことを考える必要がある。そしてこれもDSDに限らないが、現実的に時間をかける必要がある状況で影響をうける人たちにも心を寄せる必要がある。とくにきょうだいは、「きょうだいなんだから」という理由で我慢がふえることもあるかもしれない。疾患や障害に対してみんなのこととして考えるためにこういう本はとても助けになる。

最近、出たばかりの風間暁『「回復」という毒――支援に埋め込まれた構造的暴力』(日本評論社)も読んだ。これも当事者としての経験をもちながら現場に関わる人の本だ。

どちらも言葉がもつ影響力を重みをもって伝えてくれる本だった。大変勉強になったし、励まされた。

先週は平井靖史さんの『はじめてのベルクソン』にはまっていた気がするが、一週間があまりに早いので、過ぎたことはどんどんどこかへいってしまう。今回の平井さんの本は、かなり読みやすいが、かなり難しい。楽しくも読めるが、すごく腑に落ちたとか、これってこういうことだったんだ、という本ではなく、思考の場にどんとご招待、という感じで、大広間でキョロキョロするジブリの脇役になった気分でもある。ベルクソンが述べたことを平井さんはこれを書き、読ませることで実践しているし、実践させている。宿題が増えたな、と感じたが、多くの患者さんとの間で生まれた宿題に長い間、取り組み続けている私にとっては支えにもなる。それらは単に失敗の徴ではないし、失敗とかいう一者的な言葉を使うのも憚られる。結局、なにかし続けるには支えが必要ということだろう。肌も身体も心も記憶もなにかを受け取るための容器ではない。受け取れば変形し、変われば受け取り方も変わる。現在の経験によって過去の布置もまた変わる。

「一つひとつの出来事が、それを受け取る側のかたちそのものを変えてしまう。」ーー平井靖史『はじめてのベルクソン』

これは精神分析過程にもそのまま当てはまる。精神分析で重要なのは、現在を因果関係の線に乗せないことだ。

「感受性の地形そのものが、経験とともに刻々と変わり続けている」(平井)

精神分析は経験が生じる場である。

「感覚を受け取ってから行動に移るまでのあいだに、遅延が差し挟まれる。その遅延のなかで、生物はいわば記憶の中をまさぐり始めます。」(平井)

この場合の「遅延」はウィニコットが述べた再早期の乳児の時間間隔のように、ほぼ一瞬だと思う。それでもそこには「あいだ」が生じる。

「結果が保証されない探索が、完了した反復の流れに「未完了」の時間をこじ開けるのです。」(平井)

自由連想をする身体はその時間性に伴う。身体と心は切り離せない、と最初にも書いた。内と外という空間の意味にも意識的でありたい。

患者が「いま・ここ」の現実とぎりぎりの接点を保つために分析家は身体も心も使う。双方が「遅延」の豊かさに開かれること。

「生への注意 attention à la vie」という言葉もまた魅力的だ。この本もまた私の経験を広げようとしてくれている。すっかり目が悪くなって本を読むのが大変だけどこれもできる範囲と限定的なことをいいつつその可能性に目をむけるとする。

東京は結構強い雨。風がでないといいな。みなさんもどうぞお元気で。よい週末をお過ごしください。

新宿中央公園
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精読の醍醐味

と、まあ、なんと時間のないことよ。とりあえず書くけど。

土居が『精神療法と精神分析』で述べたこと、特にここまで私が引用してきたことは、その16年後の1977年の『方法としての面接』にほとんど書いてある。「劇としての面接」という章立てもある。これはこれで土居が臨床経験を積み、精神療法を教える立場になり、大学紛争を経て、より広い意味での診断的考察や精神科臨床の基本に関する本を記す必要性のもと書かれた本であり、臨床家がまず読むとしたらこちらだろう。

しかし、精読の醍醐味である、著者の思考への同一化を味わいたいなら『精神療法と精神分析』のほうが断然面白い。ここにはまだ「方法」になりきっていない土居の思考の動きの痕跡がはっきり残っている。1990年代になると土居の文章は雰囲気はそのままだが、もっとすっきりしてしまう。

平井靖史は『はじめてのベルクソン』で以下のように述べる。

‟歴史にも同じ構造があります。「あの事件が時代の転換点だった」という語りは、その後の展開を知っている者だけが構成できる。明治維新も、後から見れば日本近代化の出発点として語られます。しかし渦中を生きていた当事者には、それが何の始まりなのかは見えていません。何が決定的で何がそうでないかの区別すら存在していなかった。歴史の筋書きは、つねに結末から遡って編まれます。出来事の「意味」がその後の展開に応じて変わり続けるということ自体が、時間の未完了性を示しているのです。”

土居はもう死んでいるのでこれ以上書くことはない。なので、最後の方の著作のほうがすっきり洗練されたことが書いてあるのは当然と言えば当然だが、実はこれはそんなに当然ではない。ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』でみせたような飛躍は土居にはなさそうだ。土居の思考の動きは臨床家ならではだろう。臨床は常に患者とともにある。だから「臨床」なのだが。患者をおいてひとりでどこかへいくことはできない。どこかへいったとしてもまたいつもの時間、いつもの場所に戻ってくる。精神療法は特にそうだ。そうやっていつまでもその基盤を確かめるような作業を繰り返す毎日だからこそ日常語が大事になる。

今日はすごく風が強い。昨日は名古屋の様子を映像でみてびっくりした。電車も大変なことになっていた。どの地域も安全に一日が過ぎるとよいが。どうかお気をつけて。今日もよろしくお願いします。

初台もお祭りかな。
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土居健郎『精神療法と精神分析』続きとちょっとベルクソン

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)の最初から、精神療法を劇にたとえていた。治療の開始において「あなたには精神療法が適当である」と言われた患者は、舞台にあがることを誘われた観客ということになるだろうか。そのように言われた患者の心の中に生じる様々な思惑、それをとりあげるのが「探りあい」にひきつづく段階である。


土居は、ここで、いくつかの受けとり方を例示しながら、その対処について述べる。土居は、まず理論の記述をして、症例を素材として提示する、という方法はとらない。この本は、高度に専門家向けの内容ながら、多くの人が経験している、あるいは想像しうる精神療法の診察場面の実際が「こんな場合もあるし、こんなことだってあるし、と提示される。そしてそれが、次の理論的記述への種まきになっている。理論的記述といっても土居が使用するのはほとんどが日常語であり、専門的なことが誰にでも読める言葉で書かれている。


土居の頭の中ではつぎのような場面が次々に浮かんでくる。精神療法を受けるようにということは精神修養しないさいといわれることと同じこと、つまりこうなったのは修養が足りないからだ、と治療者にいわれたように受けとる患者、すなわち自分が責められいていると感ずる患者、土居は、そのように感じる患者は、以下の二つの態度のいずれかをとるであろうという。


現在の苦しみの原因について自分には責任がない、なにか身体の病気かもしれないし、周囲の出来事ないし他の人間の所作が原因である、と治療者のいうことを信じないという態度、もうひとつは、精神療法を精神修養と解する自らの解釈に甘んじ、よってこれは治療の問題でなく、自ら解決しなければならない問題であると信じ込む態度である。どちらも治療関係の断絶の危険をはらんでいる、と土居は述べる。

土居は、これらを精神療法の適応の話にはせず、信頼の話としている。それに私はとても共感する。精神分析は信頼し、協力できるこころを信頼して、協力するものと私は考えるからである。

土居は、精神療法の筋書きとして精神分析を採用したので、私が土居の考えに共鳴する部分が多いのは当然と言えば当然なのだろう。

土居は筋書きを「骨組み」「枠組み」としてとらえており、「その場その場の状況は治療者によって一方的に与えられるものではなく、むしろ患者自身がそれを作るのである。ただそれに対して治療者は、それぞれの治療の方針すなわち筋書きにしたがって解釈を施す。これは即興劇における相手方の台詞に相当するものである。」(p35)と述べた。

ここで少し、最近読んだ哲学の本で心に残った部分と重ねてみる。私はフロイトの「事後性」を考えるためにはベルクソンの時間論が必要なのではないか、と思い、何年か前からベルクソンを読んでいるが、平井靖史の本に出会ってから、少し解像度が上がった気がしている。そして先月、平井靖史『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』(2026、講談社現代新書)というさらにわかりやすい入門書がでた。平井も土居と同じく、専門用語は最小限にして、生活に落とし込んだ言葉で高度に専門的なことを書く。

たとえば、土居は、患者が、先ほど書いたような受けとり方をした場合、すかさず次のような手を打つことが必要であるという。

「たしかにあなたの病気は気のせいだといってもよい性質のものです。しかし気のせいといっても、あなたが自分勝手にそうしているということではありません。その証拠に、あなたが苦しむまいとしても止めることはできないでしょう。ですから気のせいといっても、それは自分の思うままにならない気です。」

これは「気」という日常語を使わないとできない表現だろう。彼らはわかりやすくするために日常語を使ってはいない。日常語だからこそ捉えられる運動があり、その言葉を動かすことで、高度に専門的な思考を続けている。

と、平井の本と重ねて考えたことを書こうと思ったが時間がない。今朝はここまで。

各地、奇妙なお天気が続いているようで気候変動の影響が本当に心配だし、怖いのだけど、みんなで無事に過ごせますように。今日もよろしくお願いします。

文章と関係ないが鳥好きには欠かせない展示だった。